【02】少女の決意と脅威の発露
思うさま光弘の頭を撫でた後、彼の両腕の拘束を解いた明日美は、床に転がる二人の兵士に、それぞれ携帯式の指錠をかけ、言った。
「精神子技術にばっかり頼ってるから、こういう古典的な方法に弱いのよねー」
素人の光弘から見ても、やたらと鮮やかな手並みである。少なくとも、在りし日の彼女にはこんな知識はなかったはずだった。
彼女のどんくさいところをよく知っている光弘は、未だにこれが夢幻である可能性を頭のどこかで疑いながら、薬物のせいで絡まる舌を慎重に動かしつつ、つっかえつっかえ喋りかけるしかない。
「あす姉……。こんなことしたら、駄目だろ。こいつら、軍人、なんだぞ……?」
「ん? どうしたのよー? 貴方のおねえちゃんが助けに来てあげたというのに。うれしくないの?」
情報デバイスらしきものを付けた指先を中空で忙しく動かしながら――恐らくは内部からセキュリティに干渉しながら――にへへ、と変な笑い方をするこの女性を、光弘は良く知っている。
巽明日美。
『アバドン』に罹患した子供たちが集う施設の中で、唯一同じ人種・同じ民族だったせいか、嫌な顔一つも見せたりせず、まるで本当の肉親のような細やかさで、幼少のころよりずっと、光弘の面倒を見てくれていたのが彼女だ。
三年前に、彼女が準監視対象に格下げされて、晴れて社会復帰を許されるまでの間、光弘は毎日のように彼女と一緒にいて、それはもはや日常というべきものだった。
「いや、嬉しい、とか、嬉しくない、とか。そういう、問題じゃ。そもそも、なんで、ここに……どうやって……」
「私だって『アバドン患者』だよ? 七大罪源回路は、ファーストの『スロウス』までしか、生身じゃ順位上げられ無いけれど、こんな感覚質干渉装置ばっかりの場所なら、気づかれるわけ無いじゃんね?」
続けて「今朝方侵入してから、ずっとみっちゃんの後ろにいたよ」と事も無げに彼女は言う。
対象を尾行し、セキュリティを突破した瞬間に略取する――彼女が今しがた行ったことは、要するに押し入り強盗と同じ手法だ。
もちろん、ただのそれとは一線を画した部分があるが――。
ともあれ、その一言で、光弘は彼女が何をしたのかを理解した。
同時にひどい眩暈を覚える。彼女は、彼を助けるために、精神子の力を利用してまでここへ来たというのだ。
(視界がチラついたり、暗かったりしたのはそのせいか……なんで、どうしてそこまでして……)
精神子とは、人間の精神を構成する、便宜的素粒子の一種である。
物質は原子と言う粒子で構成され、原子は素粒子とエネルギーの構造体であり、素粒子は内部に多次元の構造と『真空』を閉じ込めている。
この真空にこそ精神子という、弱い力にも強い力にも重力にも電磁気力にも殆ど干渉しない粒子が存在する(そういう意味で、この世界に存する全ての真空は、厳密に言えば真空でないし、クオークをはじめとした素粒子は、厳密な意味で素粒子でない)。莫大な、宇宙の創造と膨張に関わるエネルギーを媒介する粒子である。
そしてそれらが複雑に絡み合い、肉体の化学反応とごく僅かな連関を行いながら、魂性軌道と呼ばれる流動的な構造物を形作る時、そこに精神や、命に類するものが生まれる。
『アバドン』とはこれの異常。本来己の体内以外、干渉するはずの無い精神子が、他の物体に力を及ぼす異常なのである。
例えば、アバドン粒子の一種である、スロウス――『怠惰』は、魂性軌道の最外殻に、単純に隈なく纏うと、外界への存在認識の伝播を疎外する。
つまりは、認識下に『存在しなくなる』。
魂性軌道の個人特定性で、確固たる本人確認を行っているこの基地の装置ではもちろん、スロウスを纏う限り、人の認識に残る事もできない。纏い方や構造の作り方次第ではさらに、認識に錯誤を生じさせ、姿かたちを偽ることさえもできる。
「じゃあ、ここまでの間、精神子エネルギーを消費しながら来たの……? なんて無茶を……」
「まあ、それだけじゃないけどねー。ほら、これ。電磁波の類を曲げるステルス素材。やっぱりいくら古臭くても、補助的にこっちのセンサはあちこちにあるから……」
「そんなことはッ!」
ズレた返答を返す彼女を遮って、もつれた舌で精一杯光弘は叫ぶ。
「そんなことは……どうでもいいんだ。……それより、大丈夫、なの?」
「あはは。……うん。ちょっとだけ、疲れたかな」
お気楽な様子の明日美に、光弘は少し硬い声で問う。
彼女は彼の剣幕に一瞬だけ目を丸くして、しかし、すぐに照れたようにふんわりと笑った。
その笑顔をみて殊更に、光弘の気分は沈んでいく。
当然の事ながら、エネルギーは無限に手に入るものではない。アバドンは『七大罪源回路』と呼ばれる反応で、正常な精神子『メイデン』のエネルギー順位を高める事でしか存在しえない。
しかも(当たり前だが)順位の高いエネルギーは、低いエネルギーに触れる事で発散する。彼女のように常時アバドンの恩恵を受けるには、多大な精神エネルギーを浪費しなくてはならない。大元が人間の構成粒子に存する以上、限界がある。
そして、限界を超えてしまうと――。
「くそ……なんで、俺なんかのために、来たんだよ……」
彼女の行為を全否定する発言だったが、言わざるをえなかった。優しげな笑みをたたえるその顔の血色が、深刻なレベルで良くない事に、気づいてしまったからだ。
思わず俯けば、先程明日美が気絶させた兵士が目に入った。
生命の所在を疑ってしまいそうなほど、ぴくりとも動かない。明らかに意識を手放している。そして、それを成してしまったのは彼女なのだ。
ここまでしてしまった以上、彼女はグリーンアースにとって排除対象になってしまうだろう。
そしてグリーンアースとは、いまや『世界』の事だと言っていい。
余命いくばくもないはずの自分を助けようとした所為で、大事な人が危険に晒されている。とうてい看過できる問題ではなかった。
「そんなの、約束したからに決まってるじゃない」
しかし、口を尖らせて明日美ははっきりと不満を口にするのだった。そのさまは、まるで拗ねた子供のようだ。
泥だらけで帰ってきたことを咎められたかのような軽くて無邪気な調子である。少なくとも現状の深刻さにはそぐわない。
光弘は、どちらが年上なんだと頭を抱えたくなった。
「約束……約束って……」
そういえばそんな事があったかもしれないと光弘は思う。
比較的に穏やかな性質のアバドン、怠惰までしか生成できない明日美は、光弘と違ってナノマシン治療のみで社会復帰が見込めた。だから数少ない『卒業生』として、施設の外へ出ることが許されたのだ。
「あの時だって、私のこと寂しー気な目して見てる癖して、こっちは大丈夫だからーとか言っちゃってさ。私が大丈夫じゃないっての! だから約束したじゃない! いつか、私だけじゃなくて、貴方も一緒に外に出て、思いっきり広い空の下で、一緒に幸せになろうねって!」
「……」
正直に言うのであれば、光弘はそんな台詞覚えていなかった。長ずるに従って自分の命のあきらめ方をばかり学んでいたから、幸せになるなんて真剣に考えたことすらなかった。
だが、彼女はその時に。
今生の別れとなるはずだったその瞬間に、必要とあれば、こんなめちゃくちゃな行動をも辞さない決意を固めてしまったのだろう。
「……ああ、ちくしょう」
久しぶりに、感情が波打っていた。
良くない、抑えろ。何度も首を振りながら、光弘は自らに言い聞かせる。
化け物の自分は、そんな風に感情を震わせてはいけない――。
『さて。話はまとまったかな? いい加減、そこに居続けると二人とも死ぬぞ』
タイミングを見計らったように、声が響いた。特徴のない、平板な合成音声。
男か女か、それすらも判然としない、ある種不気味なその響き。
「……誰?」
思わず誰何して、光弘は周りを見回す。しかしその場に居るのは明日美と、気絶した二人の兵士だけだった。
『青春は若者にとって大事だとは思うが、命もそれに勝るとも劣らないと私は愚考するわけだが。そして時間は、万人に平等である分、更に貴重だともね』
「あ、すみません。シェイドさん。一応めぼしいセキュリティは殺したんですが」
虚空に向かって謝るのは明日美だった。額の辺りを中指で押しながら、何も無い空間に目をやっている。
『いや、いいさ。手はず通り、光弘君にもちゃんとパスが通っているようだしね』
(ああ、これ……通信、か……?)
――精神子、エネルギー順位ゼロの『メイデン』による、無限曳線通信。
一度結合した精神子軌道は、遠隔地でも連動して、ごく微小に、全く同じ振舞い方をする。……という性質を増幅・利用した、傍受の難しい最先端技術である。
旧来の現象になぞり『虫の知らせ』などと呼ばれることもある。光弘の乏しい知識では、あくまで理論上可能だと言うだけで、実用化は随分先になるとの話だったが……。
「……あす姉、知り合いか?」
それよりも、そんな大それたものを行使している存在が、明日美と親しげに話している事の方が気になった。
「うん。私に力を貸してくれてる組織の人。『カムフラージュ』っていうレジスタンスの……」
「なっ」
そして、彼女の答えで光弘は絶句する。
軍事施設に潜入を敢行するぐらいだ。確かにサポートが存在するだろう事は、ある程度予想が付いていたが、その相手が有名に過ぎたのだ。
『どうも光弘君、初めまして。お噂はかねがね。私は、君の『お姉さん』の手助けをさせていただいている組織の、代表をやっている、シェイドというものだ。自分で言うのもなんだが、悪名はなかなか世に響いていると思うのだがね』
呆然とした光弘の姿を見ているかのように、含み笑いを声に混ぜて、男――? シェイドは自己紹介をした。
「ほら、みっちゃんもご挨拶してよ」
「……な、なん……」
「ナン? みっちゃんカレーでも食べたいの?」
言葉にならないでいると、明日美は首をかしげる。光弘は、そののほほんとした動作に、どうしようもなくあきれる。
「なんで、そんな……凶悪犯罪者達と一緒に居るんだ……」
『犯罪者、か……うん。君はなかなか辛らつだね』
「そんなことないよ。皆良い人なんだから」
馬鹿な、と光弘は思う。
グリーンアースの施設内で暮らし、外の世界というものを殆ど知らない彼ですら、その名前を知っているような相手なのだ。無論、とてつもなく悪い評判でだ。
アバドン関係のごたごたを収め、世界政府を樹立したグリーン・アースだが、当然ながらそれで全てが統一化されたわけではない。
そもそも組織の前身が環境保護団体だったグリーン・アースである。その潔癖なまでの統治体制は、多くの敵を作って当然ともいえた。
『カムフラージュ』はその中でも急先鋒。武力によるテロすらも辞さない超武装抗争派の組織である。
被害の規模も他とは一線を画していて、直近起こした事件でも――。
「グリーンアースの宇宙ソーラー発電の受信施設を、片っ端から叩き壊しているような奴らが良い人……? あれが原因で飢えた旧ユーロ圏や、旧中東圏の人たちの前でも、そんな事が言えるのか……?」
光弘は渋い顔になるのを止められなかった。
明日美はもしかして騙されているのではないか……そんな疑義が頭をよぎる。
「それにはワケが……っ」
『構わんよ明日美君』
「でも!」
『光弘君の言い分はもっともだし、少なくとも私自身は、利己的な理由から、平気で人を殺す外道なのだと言うことを、否定するつもりは毛頭ない。間接的にだが、数十万……いや、ことによると百万に届く人間を死に追いやってきた。これは厳然たる事実だよ。だからと言って、改める気なぞ全くないがね。正しい意味で確信犯というやつなのだろう、私は。自分と自分の信念に、恥じ入るところが一つも見いだせないのだから』
しかし、慌てて反駁しようとした明日美をさえぎって、シェイドは言った。
それは、何の気負いも衒いもない、自分の血液型についてでも話しているかのような態度だった。
殺人を肯定し、なおかつ後ろめたさなど微塵もないその様子に、光弘は名状しがたい嫌悪と反発を覚える。
「お前は……」
『しかし残念ながら、今は、そうして信念だとか価値観だとか、高尚な議題について討論する時間は無いな。そら……』
だが、思わず何かを言ってやろうとした光弘よりも早く、がらりと口調を変えて、やたらシニカルにシェイドは続けた。
『やっぱりバレた』
苦笑いが混ざったその通信と、全くの同時にそれは起きた。