【01】暗所に来たる明日
ある周期で、旧アメリカ合衆国ネバダ州・元ネリス空軍基地に展開する、ここグリーンアース・ネバダは、ひどい緊張状態に置かれる事になる。
この地に配属された職員は、次に転属が決まったときには、八割方胃に穴が開きかけているのだと専らの噂だった。免れた残りの二割は、その代わりに精神を病むという。
これはあくまで笑い話なのだが、この基地内において、それで笑えるものはあまりいない。荒野の真っ只中に置かれた軍事施設は、静寂のまま、誰に気づかれることもなく、途方もない危険を内に孕んでいる。
「……朝からまァたくそまずいレーションだぜ。勘弁して欲しいよなあ?」
「『浄化』が行われる時は、だいたい準戦闘配備だからな。PX(基地内売店)は閉るし、前後三日間外出も禁止になるし……碌なことねえってのは確かだ」
門番よろしく、機密エリアへと続く超超硬靭高分子シャッターの前で佇む二人が、沈黙に耐え切れないかのように会話を始めた。
目の細いアジアンがぼやけば、筋肉質な黒人は真面目に返す。
その間も、二人はまるで新兵のように自らの立ち位置をなんども細かく調整し、前方の長い長い廊下を眺めているだけでは落ち着かないようで、時にはしきりに体を揺すったりなどしていた。
彼らはここにきて既に七年目。ベテランの域に達しているはずだのに。
「……家空けてる間に、奥さんが浮気しないか心配だしな。俺んちみたいに。経験者だから言うが、特に、今回みたいに突発的な配置換えがあるとやばいんだぜ? お前、本当は今日非番だったんだろ? ……奥さんもさぞかし寂しがってるだろうなあ。そうして持て余した寂しさを、女って奴は……」
「うるせえぞ。ドロシーをてめえのとこのビッチと一緒にすんじゃねえ」
「へへ。そう言うなよ。薬指、開いてみたらみたでいいもんだぜえ? なんつか、軽くなったっていうかよ?」
「『エクソスフィア』でコールガールと寝ても誰にも文句を言われないだけの権利が、うちのカミさんの料理より魅力的とは思えんね」
そして雑談の内容は、実にくだらないものなのだった。とうてい、最重要区画の手前で、立哨の最中に話すべきこととも思えない。
ただ、言葉の端々に、隠しきれない緊張が滲んでいるのだった。
目が笑っていないし、ひどく鋭い。まるで見えない敵に追い詰められているかのように。
そもそも、彼らは優秀な職業軍人である。完全志願制のグリーンアース治安維持軍において、錬度の追及は並大抵ではない。
だから。歩哨の任務中に雑談を始めてしまうなどという、普段では絶対に有り得ないこの状態こそ、むしろ最高に張り詰めた状態なのかもしれなかった。
今日は、セキュリティレベル・デルタから最高値のエコー区画へと、護送人員の引継ぎがある。
『浄化』のために、『アバドン』保有者が送られてくる。
「……しかしよ。なんだって、俺らばっかりこんな、地雷原でタップダンスするようなことしなきゃなんねえんだろうな? 東海岸で同じ事やったって話、聞いたことねえぞ。『アバドン』の『浄化』。……はっ。モグラみたいに地下にこもって、爆発させるだけじゃねえか」
「だから、だろ」
アジアンが漏らした不満に、さもあたり前だと言う体で黒人は答える。
「ああ?」
「爆発さ。この辺りはラスベガスまで殆ど何もねえし、その上グランマのママの時代から、核実験施設だったからな。ネバダ核実験場。知らないか?」
「……そうなのか?」
「ああ。この大陸が世界の警察だなんて吹かしてる……そう、『国』、だった時――つまりは、グリーンアースが世界政府を樹立する前から、お偉いさん達にとって、ここは世界中のどこよりぶっ飛ばしてかまわない場所だったってことだろう」
「なるほど。……まあ、軍事施設だから? もともとこの一帯、地図に載ってねえしな。ホワイトカラー様にとっては、吹っ飛んで、なんら問題ねえや」
「そう。消えちまってもせいぜい、ピザが配達されなくなって、うちの白豚所長が困るぐらいさ……っと、来たぜ」
そこで、黒人は急に真顔になった。
「え? ……ああ」
アジアンの方も困惑は一瞬だった。
すぐさまそれに気が付いて、にわかに顔を引き締める。
「……全く。まだガキじゃねえか」
最後にぼそりとそう呟いたきり黙り、二人は直立不動の姿勢に戻る。
突き当たりの階段から、東洋人のティーンエイジャーが姿を現す。特殊な白い拘束衣で、両手を前後に、腰の辺りで縛られている。
お付きの兵士は二人、彼を挟むように歩く。非光学探知型多目的バイザーと、携行レールガン、『精神子』汚染対策ボディアーマー……門番の彼らと同じ、第一級都市制圧仕様――客観的にこうしてみると、少年一人を護送するには、物々しすぎる装備だった。
この東洋人の少年が、今回『浄化』される『アバドン患者』であるのは間違いない。
話していた黒人とアジアンの二人は揃って、逃げるように多目的バイザーを下ろし、極力彼と目が合わないようにして、一度だけ素早く十字を切った。
*
なんだか辺りが暗いように、光弘は感じていた。
「……」
こつこつと硬質な音を鳴らすのは、真っ直ぐ続く廊下の床だ。地下に降りてからずいぶんと歩くが、意匠がまるで変わらない。
光弘と、彼を挟み込むように前後、武装した治安維持軍の兵士がいる。白く大仰な拘束衣によって、両手の自由が制限されている。
そして多分、このまま兵士たちに付いて行くなら、彼は死ぬだろう。
それを確定した未来として、彼は冷静に見据えていた。
(廊下が暗いとかさ……本当に、どうでもいいことが気になる。ってことは……よし、いいぞ。落ち着いてる……)
自らのつま先を眺めながら、少しだけ暗く笑う。
彼は、己が化け物であることを自覚している。自覚しているから、いずれ殺されるだろうとは思っていた。
(あとすこしで十六年……。いや……よく持ったほうだって)
だから、呆と考えながら、ただ光弘は前に付き従って歩く。カチ、カチと拘束衣のベルトが鳴らす音だけが、秒針のように響き続ける。
「……?」
ふと一瞬、照明がちらついた気がしたので、ついと目を上げた。その最小限の動きだけで、前後の兵士たちがびくりと反応する。
「あ、あはは……」
気の毒なほどに張り詰めた彼らを見て、思わず同情してしまった。
きっと彼らにとって、アバドン病のラストステージである光弘は、結晶化したニトログリセリンとさして扱いにくさが変わらないのだろう。
「……」
「……」
現に、とりなすように笑ってみても、彼らは声を出すことも無かった。バイザーの奥の表情は窺えないが、緊張だけは伝わってくる。
愛想笑いでさえ不気味でしかないだろうから、すぐに視線を落として、黙々と歩くことにした。
(最後までこれか。人づきあいで成功したことがない。そういえば、結局、俺は友達とか言うやつをほとんど作ることが出来なかったな……こんな悪魔を体に飼ってたら、仕方ないけどさ)
悪魔。
そう呼んで差し支えないのが、彼を蝕む『アバドン』である。
精神子スピン異常による魂性軌道拡大の暴走と、
七大罪源回路<The Seven Deadly Sins Cycle(S.D.S.C.)>の形成、それに伴う軌道内の精神子略取、そしてエネルギー発露。
彼はそういった症状を示す『アバドン病』に罹患している。
病と名が付くものであるが、その特徴はウイルスや細菌によるものとは一線を画す。もとより、厳密に言えば病気ではない。物理現象である。
煩瑣な理論の記述は控え、あえて端的に概要を言うのであれば、彼の症状が最悪の状態まで進行した場合、この近辺に大規模なクレーターが描かれることになる。半径が数十キロメートルではきかないほどの、それはそれは雄大な景色ができあがる。当然、彼の体もまた、そこで完全に消滅する。
それが、前世紀に生じた、いまや人類の最たる問題である『アバドン』という脅威なのだった。
一人の人間が、唐突に災害レベルの物理的事象を引き起こす。予防法も、対抗策も、前兆すらなく都市一つが丸ごと、簡単に消える。
世界同時多発的に発症した彼らの病は、緩やかに行き詰まりつつあった人間の『国家』という枠組みを完全に破壊した。
原因のわからない破壊現象に、人々は疑心暗鬼になり、争い、結束を失った。グリーンアースという新たな枠組みが出来なかったのならば、今でも世界は混乱と恐怖に染められていただろう。
(まあ、そんなことがあって、しかも原因がわかったなら……殺すよなあ)
他人事のように思う。
だからその病に罹患している光弘は、世界政府施設の教育で、自分がいずれ死ぬのだと教えられてきた。
お前はいずれ、旧核実験施設で無慈悲に『浄化』されると、そう教わってきた。
(申し訳ないなあ。俺は誰かに迷惑をかけてばかりだ。物心つくまえから、グリーンアースの施設で育ったけど……結局、誰にも、何かを与えることなんて出来なかったな)
先述したとおり、光弘に後悔というものはあまりない。そこにあって唯一といっていい心残りは、それだった。
(良くしてくれた人も居た。実験的に注入されたナノマシンのお陰で、ある程度は症状を抑えられると言っても、こんな化け物みたいな俺を、気にかけてくれる人も居た。でも結局何も出来なかった。例えば、あの、俺をまるで弟みたいに可愛がってくれた――)
そこまで考えたところで、前を歩く兵士が停止した。もう少し思索に集中していたら、思い切り背中に激突していただろう。
「収容ナンバー六五〇二二、レベルチャーリーよりデルタに移送。レベルエコーへの当該人物護送の引継ぎを要請します」
そうして彼がひそかにほっと息をついていると、ずっと押し黙っていたきりだった前の兵士が、バイザーの下でくぐもった声を上げた。
光弘が盗み見てみれば、背丈の倍ほどある堅牢そうなシャッターの前で、門番のように佇む二人の兵士と、彼を先導していた兵士が、丁度敬礼を交わしたところだった。
何の気なしにそれを眺めていたら、後ろの兵士に背中を押された。不意の事だったので、たたらを踏んでしまう。
「うわ……」
両手が使えない状態ではバランスをとることも難しい。
思わず、力ない声が出た。
『声紋及び骨格、スピリトン振動――一致。ナンバー六五〇ニニと3σの精度で確認。レベルエコーへの進行を許可します』
するとその瞬間、合成音声が響き、目の前のシャッターが開いた。開いた先は細長く狭い個室のようになっていて、突き当たりにもう一つ扉がある。
「チャーリーからエコーへ。引継ぎを完了します」
「引き継ぎ完了。確認しました」
今まで彼と歩いていた二人がそこでもう一度敬礼し、惚れ惚れするような周れ右をして、きびきびと元来た道を戻っていく。
それを送り出す二人も返礼をし、光弘に顎をしゃくって、先に進むよう促した。
「あ、え? ……一人で?」
戸惑う光弘に、しかし、両脇に立った二人はそれ以上何のリアクションもせず、ただただ直立不動である。
「えっと……」
取り付く島も無い。彫像のように佇立する二人へ、何度か視線を彷徨わせてみたが、彼らは何の言葉も発せず、しかし威圧感を丸出しにそこに居るだけだ。
仕方なくため息を一つ、光弘は通路を進む。
シャッターを越えたところで、また少し照明がちらついた。
「え……?」
思わず斜め上を向いたが、とりたてて変化は無い。
そもそもにして、ここの照明は最新式の感覚質投影型。『アバドン』の研究によって爆発的な発展を遂げた、『精神子』技術の賜物だ。
光子によらず直接認識に働きかける明るさは、電力のくびきを外れているから、旧時代のようにグロー放電やアーク放電に頼る必要性などどこにもない。そして勿論、ここが地下だと言っても、不安定な電力の供給によって、光量がブレることもない。……はずである。少なくとも、光弘の知識ではそうだ。
「ん……?」
疑問に思っている間に、背後で二重のシャッターが硬く閉ざされた。重い音が尾を引いて、下腹辺りをくすぐり消える。
そしてすぐさま、耳鳴りが聞こえそうなほど何の音もしなくなった。
「で……どうしろと、いうのだろう?」
光弘は途方にくれてしまう。
死ぬぞ死ぬぞと決意して、物々しい兵士たちにつき従ってみれば、最後の最後(なのかどうかもわからないが)で放置である。困惑も当然ではあった。
とりあえずで周りを見回してみれば、十メートルほどで行き当たる、ごく狭い白一色の……部屋?
「まあ、ここから進めって事なんだろうけど……」
正面にあった唯一の扉まで進んでみることにはする。見たところ手がかりはどこにもないが、さすがに両手が縛られている以上、人力では無いだろう。
一歩二歩と歩みを進め、すぐに端まで到達する。入り口の大きなシャッターと比べると、この扉は光弘が頭をぶつけてしまうのではないかと、少し懸念してしまうほどに低い。
『最終確認……高密度スピリトン内での運動輻射テスト……オールクリア。7σの精度で六五〇二二と判断。セキュリティエコー……『リインカーネーション』区画への進行を許可』
少しだけ首をすくめながら、意を決してドアの目の前に立つと、プシュッと間抜けな音を立ててそれは開いた。
その先も先程までと同じような通路だった。開いた扉の両脇で、顔面を覆うヘッドギアを付けた兵士がこちらを見ている。愛想は無用だとすでに学んでいたので、目礼だけをして光弘は扉をくぐり、
そして、事態が動きだした。
「え……って、わ……」
ぐん、と意に反して視界が加速する。
何かに備える暇も無かった。後ろから首筋を掴まれ、前方へと引きずられたのだと気付くこともできず、彼にできたのは目を閉じて身を硬くすることぐらい。
「……なっ!」
「……ぐあっ!」
そして続けて悲鳴が二つ。大げさな床に倒れこむ音。
成人二人ほどが、くずおれた響きだ。
「な、なに……?」
「……久しぶり」
余りに唐突な事態の変化に恐慌一歩手前の彼を、突然の感触が包みこむ。
やわらかく、穏やかで、懐かしい香り……。
何故だか、誰かに頭を抱きしめられている。それだけ、分かった。
光弘は目を白黒させて、自らの感覚を疑った。香りに、感触に、何よりその声に、確かに覚えがあったからだ。
「え、なん、え……?」
そんなはずは無い。ゆっくりと閉じていく後ろの扉と、足元に転がる二人の兵士を横目に見ながら、光弘は自分の頭がおかしくなったのかと疑った。
「んー。懐かしいなあ。やっぱり髪柔らかいよね。ふわっふわ。あはは。撫でてるだけで気持ちいいー」
開いた時に反して重い音を残し、今しがた通ってきた分厚い扉が硬く閉じる。
その残響が、今度は彼の動揺する心の奥をくすぐって、消えた。夢ではないのだという現実感が、にわかに首をもたげてくる。
ようやく頭が働いてきて、彼は上向きながら尋ねる。
「なんでここにいるのさ……あす……ねえ?」
悪戯っぽい、しかし優しげに垂れた大きな瞳と目が合った。
綺麗に通った鼻筋に、少し皺が寄る。くしゃっと顔を歪める、子供の様な笑み。パーマのかかった色素の薄いショートボブが僅か揺れて、やわらかな香りをまた感じる。
そこには懐かしい顔が、彼の幼年期を彩ってくれた唯一の存在が……過日のごとく、満面の笑顔でいるのだった。
「えへへ。約束通り、助けに来たよ……みっちゃん!」
黒一色のぴったりとしたスニーキングスーツに身を包んだ女性――巽明日美は、往年のまま明るくそう言った。
その顔を見た瞬間、不思議と光弘は、辺りがにわかに色めいて、明るくなった気がしたのだ。