選択の始まり-8
衝撃で思考に空白が生じたのはほんの数瞬だけで済んだ。光弘は動揺を隠しきれないまま、それでもテルスを詰問する。
「ど……どういうことだ!」
「あの施設内、ざっと精査して見たところ、人間や、重い精神子軌道を持つ存在が、二千近くは詰めていた。その中からただ一人を探すのは、いくら私でもめんど……難しい。だから、分けた」
「わ、ける?」
「ラストの障壁を広く形作り、表面にエンヴィーをコーティングする。これを上に向かって高速で打ち上げると、壁や床などはすり抜けるが、一定以上の精神子軌道を持つものを、ラストの障壁でひっかけることができる。この時、精神子軌道が膨大であればある程、障壁がたわんで上に向かう力が減衰される。これによって対象を分類した。細かい部分が違うが、お前らの用いる遠心分離やクロマトグラフィーとやっていることは変わらん。この場合、スピリティ・コラプスを行おうとしているような、いわば『重い』対象が最も低く、一般人のような『軽い』対象は高く打ち上げられることになる。また、ラストに触れた対象は、一定以上の軌道拡大を抑制されることになるから、まさに一石二鳥だな」
結合力を一時的にキャンセルするアバドン・エンヴィーと、障壁になるアバドン・ラストを組み合わせた手法の事細かな説明。
光弘には半分ぐらいしか理解できなかったが、テルスが、自分の行いに瑕疵など存在しえないと思っているのはよく解った。いや、むしろ言葉尻から微かな誇らしさをさえ聞き取った。
外に出てから何度も空を見上げた。それでも気付かないほど天高くへ急激に打ち上げられたということだ。二千人もの人間が。
射出時のGは? 上空の気温は? 気圧の変化は? それら種々のストレスを受けてなお、あれらの人々は――生きているのか?
光弘はにわかにぞっとする。それを手助けした、否、こうなると予想していなかったとしても、望んだのは彼なのだ。
「バカ野郎!」
「む? 私の体は現在雌のタイプであるはずだから、女郎というのが正しいのではないか?」
怒りをあらわにしても柳に風。テルスはただお決まりのように首を傾げる。
「そういう問題じゃない! おまえ……なんてことをしてくれたんだ!」
「何、と言われてもな。お前が望んだことじゃないか。世界とやらを敵に回してでも、そこの明日美を助けたいと」
「えっ?」
「ち、ちがっ……俺はっ」
明日美がその言葉を受けて目を見張る。自分の内面を見られたような気がして、光弘は思わず弁解の言葉を並べたてそうになった。しかし、すぐにそんな場合ではないと思い直し、努めて平静に告げる。
「……他の誰かを害してまで、そんなことを望んだ覚えはない」
「注文と違うのではないか? どんな手段でも良い、と言わなかったか?」
「ぐっ……」
言った。自分がどうなるかも、テルスがどんな力を持っているかも知らず、ただただ藁をも掴む思いで無思慮に願った。ならばこそ、結果など想像しているわけがなかったし、実際、何を犠牲にしても構わないと、あの時はそう本気で思っていた。少なくともその部分の責任だけは、確かに光弘に存在していた。
「みっちゃん……」
「それは……くそっ。わかった。認めよう、元をたどれば、俺が望んだことだ。それでいい。でも、だからこそ……あそこにいる人たちを助けろ!」
「別に構わんが。お前には『七大罪源回路』をもっと感覚的に把握してもらう必要がある。そのためにも力の行使は歓迎する」
存外あっさりとそう言い、テルスは集中するよう目を閉じる。
「とはいえ、出来るのはあれらの減速までだ。既に死んでいるものが居ても諦めろ」
「……それでいいから頼む」
内心苦いものを感じながらも、光弘はアバドンを回転させる準備をする。
『私は良くないかな』
「なっ!?」
「えっ」
そこに合成音声が割り込んだ。性別不明の飄げたような、人を馬鹿にしたような調子。
「お前!」
「シェイドさん!?」
『やあ、二人とも。再び生きて話せるとは思わなかった。まずはおめでとう』
突然二人が虚空へ叫んだので、テルスが訝しげに片目を開ける。
「? お前らいきなり何を……ああ、ハンチ、とかいうアレか。たしか、メイデンを使った……」
「……今更なんの用だ。なんで今の今まで黙ってた。盗み聞きが趣味なのか?」
「そんな言い方だめだよっ」
『ご挨拶だね。感動の再会に水を差してはいかん、と私なりに気を使ったのだが。まあ、君たちの前時代的なラブコメに、思わず目を細めて聞き入っていたのは事実だ』
「やっぱり盗み聞きをっ」
「やだ、シェイドさんっ!」
シェイドのからかいで、二人は爆発するように顔を赤らめる。その反応に驚いたように、
『おや。当てずっぽうだったのだが、本当に敵地でラブコメしていたのか。いやはや感服した。君たちはずいぶんと肝が太いんだね。本当のことを言うと、軌道拡大のノイズでハンチのパスはボロボロだったから、通信が回復したのはついさっきなんだ』
「っお前は……」
「もうっ」
『さて、そんな愉快な話もいいが、それより重大なことがなかったかな』
その言葉で光弘は我に返る。シェイドなどにかかずらって、コメディをしている場合ではないのだった。興味深そうに黙ってこちらを見つめるテルスへ勢いよく振り返る。
「そうだ、テルス、早くあの人たちを……」
『だから、私は反対だって』
そこでまた邪魔が入る。光弘は煩わしさに歯噛みする。
「うるさい! お前の戯言に付き合っていられるかっ!」
「理由を聞こうか」
すると、今度はテルスが口を挟んだ。
『……何だって?』
「先ほどから話しかけてきているお前だ。私はどちらでも構わんのだが、契約相手がこうも取り乱すと、力を行使するにあたり、精度が下がって少々困る。とりあえずは多少減速して、聞くだけの時間を作ってやるから、上空のアレを助けてはならない理由を言え」
『……』
きっぱりと告げるテルスに。完全に返答を用意したテルスに、珍しくシェイドが息を呑む。
「え、うそ!? テルスちゃん、聞こえるの?」
続いて明日美が目を剥いた。
当然だった。本来、メイデン無限曳線通信は、専用のパスを通じたもの、パスを通して許諾されたもの同士でしかやり取りできない。さらにシェイドがブラッシュアップした『カモフラージュ』謹製の最新型は、傍受が事実上不可能という触れ込みだったのだ。でなければ人一倍用心深いシェイドが、この作戦で用いるわけが無い。
「最初は流石に驚いたがな。精神子軌道表層の揺らぎを、パターン化して掴めれば、そうそう難しいものでもない。ありがたいことに二人もサンプルがいるしな」
『……は、はは。流石に自信がなくなるな。ポスト量子暗号の大発明だと自負していたんだが』
「造作も無い」
『参った。まずはこそこそと目の前で囀った非礼をお詫びしよう。私は、とある慈善団体の首領を張っているシェイドを言うものだ。よろしく女神殿』
「変な名前だな」
「慈善団体だと? ふざけるなよ」
顔をしかめて噛み付く光弘を無視して、シェイドは続ける。
『さて、理由だが。簡単だ。特に、明日美君はもうわかっているんじゃないか』
「明日美、そうなのか?」
「えっと……」
「あす姉?」
追求されて、明日美は気まずげに目を伏す。光弘は既に嫌な予感しかしていない。
『彼らに生きていられると、私たちは非常に困るんだ』
そんな様子にはまるで頓着せず、シェイドは場違いなまでに明るく告げた。
『明日美君が計画通り、消えてくれなかったからね』
淀みないシンプルな語調。何気ない日常の一こまであるかのような声音。
「今なんて言った?」
テルスにも先ほど言われた事だが、解っているのに思わず聞き返してしまっていた。相手の言っていることがあまりに馬鹿げていると、人は耳が聞こえなくなるのだと光弘は知った。
『当初の計画通り、明日美君が施設と一緒に消えてくれなかったから、我々が作戦で用いる装備のデータと、恐らくは明日美君個人の身元がグリーンアースに残ってしまっている。もちろん、それで即我々の面が割れるということもないが、リスクと費用対効果を考えると放ってはおけない。せめて、基地の人員ぐらい殺しておかなくては』
「よくもぬけぬけと……!」
『光弘君。何度も言わせないでもらえるかな。今回は元々こういう作戦だった。つまり、明日美君の死を前提として、我々は彼女の無茶に投資をしたんだ。それが焦げ付いたのならば、少しでも回収を求めるのが当然だろう』
「そういう問題じゃない! 人の命を何だと思ってる!」
『それを言うなら君は組織を何だと思っているんだい? 例えば、一人のエージェントを育てるのにどれだけの手間と資金とリスク計算が必要になるか知っているかな? 我々は、明日美君にそれらを惜しみなく与えたという自負がある。アバドンを持っているとはいえ、数年前まで半死半生の病人に過ぎなかった彼女を、一人前にしたという成果もある。はっきり言って向いているとは思えなかったが、彼女の想いを汲んだからこそ結果に繋がった。そうしてせっかく育てた人員を、あっさりドブに捨てるような作戦が立案され、他ならぬ彼女自身が望んでいる事と聴いて、しかし、それでも本人の意思を尊重するために、どれだけの努力が必要だったと思う? なおこの上、個人の自由意志を優先し、組織そのものを危険にさらしてしまうというのなら、残念ながらこれ以上の譲歩は、曲がりなりにも指導者である私にはとうてい許容できることではない』
断固たる口調でまくしたてるシェイド。人と言い争うことに慣れていない光弘は、口を挟むこともできない。
「……っだからってそれであの人たちを殺していいって事にはならないだろう! それは問題のすり替えじゃないか」
『その通り。これは問題のすり替えさ』
なんとか言い返したものの、意に反して、柳が風を受け流すように、シェイドはあっさり彼の言を認めた。
『なにせ、私の懸念を払拭するのに、もっと簡単な方法が他にある』
そして言外に含みを持たせて、柔らかな調子で続ける。
「簡単な、方法?」
『明日美君が『作戦通り』に基地を壊してくれればいい。装備のデータも、人員の証拠も、それでなくなる』
「そんなことできるわけが……っ!」
言いさして、その返答が相手の掌の上だと気づく。相手は答えを誘導している。
激昂しかかった自分を抑えて、毒づくようにつぶやく。
「……つまり、お前は」
『そう。私は、明日美君か、上空の人間か。どちらかを殺せ、と言っている』
シェイドの声は変わらず無機質な合成音声だった。だが、光弘は言葉と口調にこめられた悪意で眩暈がした。吐き気がした。遠く離れた見たこともない人間の、悪魔のように醜悪な笑顔が連想された。
そして結局、またしても思ってしまう。こいつは一体、何を言っているのだ? と。
「どちらも呑めるわけがない! 大体、お前の命令を聞く必要がどこにある! もういい。テルス、早く――」
「待って」
いつの間にか痛みを覚えるほど握り締めていた拳を、そっと明日美の手がとった。まだ体温が戻りきっていないのか、ひんやりとした、しかし柔らかな感触。
「あす姉、なんで」
「……シェイドさん、それは確定事項なの?」
『ああ。実は先ほどまでの不通期間で、副官以下に諮って方針を決めていたんだ。申し訳ないけど、ちょっとここは譲れないかな』
「そう……」
悲しげに呟いた明日美は、面を伏せて何かを考え始めた。その様子は光弘の心をさざめかせる。ついさっきの、死に行こうとした明日美がダブって見える。
「なんだよ、あす姉。そんな奴の言うこと、聞く必要ない」
「……」
「ねえ、どうしたのさ」
不安に駆られて覗き込もうとした瞬間、
『現実を見たほうがいい』
あざ笑うようにシェイドが告げた。
「何だと?」
『君は本当に子供だね。明日美君が何に迷っているのかも解らないのか?』
「……」
光弘は歯噛みするしかなかった。確かに、彼にとって今の明日美は不可解以外のなにものでもない。そして、しかし、シェイドにとっては、その沈黙こそがひどい茶番に思えたようだった。吹き出すように笑いながら、
『ははは……。 気が抜けすぎじゃないかい? いくらなんでもひどすぎる』
「どういう意味だ」
『結局、君らは私たちに頼らざるを得ない、という事実ぐらいは、流石に大前提としてわかってなきゃ駄目だってことだよ』
「なんで俺たちが――」
『口を開く前に、少しは考えるべきだ』
転じて、たしなめるような冷たい断定が言葉を遮る。
『今の君らはどんな人物かな? はたから見れば、浄化を拒んだラストステージのアバドン患者と、軍事基地に単身乗り込んで、第一級危険因子を強奪したテロリストじゃないか。反社会勢力に与することを除いて、ここを逃れた後、生活の基盤が保障される謂れがどこにあるのかご教授いただきたいな』
「ぐ……」
その一言で光弘は漸く己の愚を悟った。テルスとの出会いからこっち、非常識なことが起こりすぎて忘れていた。
本当は、彼は、世界から存在を許されなかった存在なのだ。
『加えて言うならば、だ。我々の精神子に関する技術は、明日美君の手際で解っていただけると思うが、グリーンアースのそれと遜色ない。彼らに匙を投げられてしまった末期患者は、はたしてどちらに与するのが得だと思うかね?』
「……」
『さっき、私達の言葉を容れる必要がないと言ったね。はは。最初から私が何を言っているのかわかっていなかったわけだ。ならば更に噛み砕いて、直接的に言おうか』
黙りこくった光弘へ、とどめとばかりシェイドが勧告する。
『”これから先“が欲しいのなら、明日美君か見知らぬ誰かか、どちらかの命を選べ』
それは理不尽な選択だった。生きる為だけに、人を殺さねばならない。どう進もうと、一生分の罪と後悔を背負う。普通ならば、全てを投げてしまいたくなる種類のそれだった。
『与えられるのは私たちだけだ』
「そんなの……」
だが、生まれた時から研究対象だった彼は、理不尽なことに慣れ過ぎていた。こうして理解が及んでしまったならば、すぐに思考の潮目は転じた。そういう風に強いられて生きてきたから、真面目にどちらかを選ぶしかないと考え始めてしまっていた。
「……くそ」
悪態をつきながら明日美を見ると、丁度彼女も顔を上げてこちらを見ていた。生来の眠そうな眸には、ひどくらしくない、哀しげな決意が宿っていた。
「みっちゃん、あのさ……。最初は、あの人たちを巻き込むはずだったし……今更いい人ぶっても遅いんだけど。でも。でもさ、やっぱ、私――」
「やめて」
何を言うのかは解っていたので、すぐにその言葉を遮った。握られていた手をそっと解き、逆に彼女の手の平を包む。
「それはだめだ。これは俺が決める。じゃないと何の意味もない」
「みっちゃん……」
泣きそうな、労しげな表情になった明日美を見つめて、尚更理不尽な選択だと光弘は思った。
どちらを選ぶのか。……そんなもの、決まりきっていたからだ。
『悩むのはいいのだけど、時間は限られているよ? それとも、答えが決まっているからこその沈黙だと見ていいのかな?』
わざとらしい態度が癪に障る。奥歯を噛んで怒りを堪える。
しかし光弘がどんなに腹を立てても、シェイドの言っていることは正しかった。
喉元にこみ上げる感情を抑えながら空を仰ぐ。先だっては砂粒より小さかったそれらが、既に人の形が判別できる大きさにまでなっていた。空を埋め尽くすような人、人、人……。その全てに彼にとっての明日美のような、かけがえのない大事な人が居て、彼とは比べるべくもない、祝福された過去があって、光に満ちた未来があるのだ。
「……っ」
いや、あるはずだった、のだ。
逸らしそうになった目を意思の力で固定する。眸を限界まで開いて、食い入るように目を凝らす。見届けなければならないと思っていた。なぜなら、
(俺が――)
そこで明日美が強く繋がれた手を握り返した。反射的に彼女を見た。哀しげな決意はそのまま、まっすぐ光弘を見て頷き、また空を見上げた。
(いや、俺たちが――)
泣きそうになりながら訂正して、再度天を見る。更に近づいた人の群れ。空を埋め尽くすあるべきでない人々。なす術のない被害者。
(――あの人たちを殺すのか)
決意して明日美の手を強く強く握る。罪を負うならば二人で、どこにも逃げずに。ずっと、『これから先』も。
それが彼らの答えだった。
『どうやら心を決めたようだね。無粋ながら問おうか。光弘君、結局君はどうするんだい?』
「……ぐっ」
眼もくらむような怒りを堪えて、血を吐くように声を出そうと努力する。それは決定的な言葉だった。未来を縛る呪いだった。明日を得る為に将来を悪魔に売ってしまう矛盾だった。
「俺は」
そうと解っていながら、光弘は破滅を紡いでいく。繋いだ右手をぎゅっと握りながら、明日美と二人で。
「俺たちは――」
彼らには大事なものを失くしても、たとえ利己的であってでも、手に入れたいものがあったのだ。