選択の始まり-7
「ああ、この女性だ!」
囂々とがなりたてる風の音に負けないように、光弘は声を張り上げた。
「ふむ」
短く頷いて、テルスは明日美の方を見る。
「……」
そのまま、無感動な視線を足元から頭の頂点まで滑らせて、何事かを納得したような調子で言った。
「なるほど。これがお前のつがいか」
「え?」
「つ、つが……?」
まずもって人間に言うような言葉でなかったため、光弘も明日美も意表を突かれた。思わず呆然とする。それ以前にこの状況下で、呟くようなテルスの声が聞こえること自体おかしいのだが、気づいていない。
「む。お前らの言葉で、媾合する相手のことを、つがいと言うのではなかったか?」
そんな彼らの心情を意にも介さず、テルスは小首を傾げる。風の中でなぜか下を向く長髪が、さらりと複雑な流れで白い肌に散った。目も綾なそのコントラストを眺めながら、光弘は言われたことを整理する。
媾合。次代へ遺伝子を継承する営みのこと。睦みあい、愛し合い、将来に自分と相手の分身を残すこと。有性生物の至上命題と位置づけられることも多く、『本能が壊れた生物』とまで言われる人間にあってさえ、文化や種々の価値観と絡み合い、生涯を規定することにもなりえる、重大な、神聖視されかつタブー視されている行為。
要するにセックスである。
誰が? 誰と?
「……」
「……」
そこで明日美と目が合ってしまった。立て続けに良くわからない事態が連続しているせいで、どうにも呆けた顔をしている。
ばさばさと波打つ髪に遮られ、一瞬、かちあっていた視線が切れた。光弘の目が、自然と顔の造作に流れる。
垂れ目がちで黒目がちの大きな瞳、それを縁取る長い睫毛、柳眉はしなやかに曲がり、顔の中心をまっすぐ進む鼻梁と黄金比を成す。小鼻は楚々として広がりすぎず、頂点も嫌味なまでには高くない。今は少し血に汚れているが、頬は張りがあって艶やか。その感触の奇跡の様な柔らかさも知っている。そして、超自然的な調和のなかで、唯一大きめの唇。
……ぽってりとして、瑞々しい、桃の花弁のごとく薄紅の――
「……っ」
そこで明日美がぼっと赤面したので、光弘も漸く我に返る。いつの間にか反芻していた、つい先ごろ得た彼女の感触を、あわてて記憶から振り払う。
「っちがう! 何言ってるんだ!」
「? なにが違うんだ? 現に、今しがたお前はその女に欲情していたようだが」
「よ、よくじょうって……」
何故か若干嬉しげに、明日美が頬に手を当てた。
「ばっおまっ何言って……!」
嫌な汗をかきながら振り仰いで、その相手も全裸であることに気付いた。そうと思うと、火照った頬がますます赤くなる。
「くそっ」
観念したように顔を俯けて、そして見た。
「あ」
地面はもうすぐそこにあった。彼は自分が落ちているのだと思いだした。事態は異常なまま、切迫したままだったのだ。桃の花弁のごとく薄紅の――とか茹だった事を言ってる場合ではないのだった。普通に死ぬか生きるかの瀬戸際なのだった。
「どうした?」
「どうした? ……じゃねえよ! もうすぐ地面が! ぶつかる!」
「そうだな?」
「いや、そうだなって……」
「え? あっ! ……み、みっちゃん、ど、どうするのこれ? というか、いま、どうなってるの私たち?」
光弘の言葉で、明日美もやっと現状を把握する。
「ええと、あの、こいつはテルスって言って、ついさっき出会ったばかりでよくわかんないんだけど、見ての通りこの状況をつくったすごいやつみたいで――ってそんなこと説明してる場合じゃない。おい、このままじゃ俺たち死んじまうぞ!」
まとまらない頭で無理にでもしようとした説明を途中で諦め、テルスに現状を伝える。
「……ああ、そうか。そう言えばそうだった。この程度に耐えきれないぐらい、この体は脆弱なのだったな」
それでようやく合点が言ったとばかり、やれやれ、とため息をついて、
「三人分の運動量制御……ラストとエンヴィーで……非効率だな」
ぶつぶつ何事かを呟きだす。
「この際だ、ついでに二人もろとも……」
「あのさ、いや、そろそろマジで――」
「よし」
なんだか不穏当な発言に不安になったところで、テルスが勢いよく頷き、
「お前たち先に行け」
簡潔にそう述べると、放り投げるように光弘から手を離した。
「は?」
「え?」
重みがかかる。今までの風圧とは比べ物にならないそれが襲い来る。地面が凄まじい速度で近づく。景色にブラー効果がかかる。
「おいいいいいいいいい」
「きゃあああああああ」
ただ落ちているだけでなく、明らかに何らかの力が加速度として働いている。二人は喉から漏れ出る悲鳴を止められない。ドップラー効果がかかって遠ざかるそれを聞いて、
「やかましいやつらだな」
対照的に空中に静止したままのテルスが、もう一度、今度はため息交じりに呟いた。
*
驚きはコンマ数秒。光弘はすぐさま我に返ると、悲鳴を噛み殺し、すばやく隣に目をやった。相対速度ゼロキロメートル。明日美はすぐそばにいた。地表までもう幾ばくも無い。事ここに至って、やれることはそうなかった。光弘は彼女へ手を伸ばし、胸にかき抱く。明日美は小さく、そして柔らかかった。こんな体で、あんな無茶をしていたのだ。ただ、光弘の為だけに。何としても守らなくてはならないと、そう思った。クッションになれるように一度抱えなおすと、びくりと彼女が反応した。光弘が何をしているのか気付いたのだろう、ばたばたと暴れだしたが、構わず強く抱きしめて、きっと地面を睨み、襲い来る運命に覚悟を決めて――
瞬間、二人の体は浮いた。
「はあ!?」
「わ」
あまりある力を持って光弘と明日美を殺しつくすはずだった運動量は一瞬で失せ、二人は地面に柔らかく横たわる。まるで、地球に抱きとめられたかのように。
ゆっくりと瞬きを重ねる。視線の先、沁みるように青い空が、平静を呼びこんでくれた。心を落ち着けた後、光弘は硬直している指をなんとかひきはがし、上体を起こした。辺りは静寂に包まれている。手を着いた地面の砂利が、埃っぽい風の匂いが、乾燥した空気が、平生とかわらずそこにある。呆けたまま目を遣ると、丁度明日美も起きあがったところだった。
「これは……」
「アバドン蒸発だ」
「うおわ!」
「きゃっ」
テルスがいつの間にか傍に立っていた。
「お、おまえ……」
「? 何を驚いているんだ。アバドン蒸発。珍しくないだろう?」
アバドン蒸発。精神子はエネルギー順位を上げられると、とみに不安定な存在になる。軌道内においてはその限りではないが、生成主から一定距離離れてしまうと、周辺のエネルギーと共に『消滅』する。内包するエネルギーと周辺のエネルギーがどこへ消えているのか。諸説あるが、未だ仮説の域を出ていないアバドン特有の性質である。
「いや、そういうことじゃなくて!」
「?」
声を荒げて抗議しようと立ちあがった光弘を、頭を傾けたテルスがじっと見つめる。大きい瞳で、まっすぐに。心から光弘の言動が不可思議なようで、眉根が少し寄っている。
「っ……」
それだけで光弘は気圧されてしまった。彼女の深く黒い虹彩が、そこにある無垢さが、不満を漏らそうとした口から、言葉を奪ったのだった。
芸術品の様な侵しがたい雰囲気。抗いがたい存在の説得力。地球の化身――そういえば彼女は、自分をそんな風に言っていた、と唐突に思い出す。
「なんだ? 何か言いかけていたようだが」
「あー……えっと、あのだな……」
「みっちゃん」
なんとか取り取り繕おうとしたところで、後ろから声がかかった。振り向けば、痛みに顔をゆがめながら、明日美が立ちあがるところだった。
「それで……その娘……なんなの?」
どうにも曖昧な問いだったが、光弘にその気持ちはよくわかった。連続した事態の中で、一つとして常識的なものがなかったのだ。その原因、とされる人間? を前にして、疑問が抽象的になるのはいたしかたない。
「えーと、なんていうか……」
問題は、答えが光弘にも解らないところである。
「地球だ」
「え?」
「地球。私はこの惑星だ。テルスと呼ばれることもある。好きに呼べ」
問いの答えは意外なところから返された。ひどく斬新な自己紹介に、明日美の目が点になる。
しかし、当然のようにテルスはそれ以上口を開かない。土埃の混じった、乾いた風が吹く。沈黙が落ちる。
「ち、ちきゅう?」
「どうした。疑問があるならば、答えてやってもいいぞ」
「え、えっと。えっと……」
「ふむ。お前らは難聴でも患っているのか? 先程から不明瞭な返答が多すぎるぞ」
答えに窮する明日美に、テルスは顔をしかめる。
「お前が常識の範疇外すぎて、何言ったらいいのか解らないんだよ……」
「常識。また理解しがたい概念を。いいか。私は覚醒してから実質的な稼働時間で言えば五年を超えていない。お前らの言葉で言うなら……そう、幼女。ロリータだ。そのつもりでいろ」
「どのつもりでいればいいんだよ。というか、語彙が偏り過ぎてるだろ。お前に言葉を教えた馬鹿は、どこのどいつだ」
「独学だ。旧時代のネットワークを参照して、使用頻度の高い言葉と、その類語を重点的に覚えた。相手を罵り激昂させる語彙とレトリックが最も豊富になったな」
「なんか嫌だなそれ……」
「じゃ、じゃあテルスちゃんって呼んでいいかな?」
軌道をそらし始めた二人の言葉に割り込むように、というか実際体を割り込ませながら、明日美が問う。
「ちょっ、なんだよあす姉、いきなり、痛っ」
「好きにしろ」
ぐいぐい押されて、光弘は抗議の声を上げる。それを不思議そうに眺めながら、テルスが答える。
「ありがとう。私は明日美。巽明日美。あすみんでもアスちゃんでも好きに呼んでね」
「わかった明日美」
「……ところで、テルスちゃん」
「なんだ?」
「服は?」
「あ」
言われて初めて、光弘は思い至る。テルスは生まれたままの姿なのだった。ほっそりと伸びた手足、輝くように白い肌、慎ましやかなふくらみ。童女のように伸びやかな肢体は、余さず空気にさらされていた。
「服……ふむ。私は体温調節など必要ないが。問題あるのか?」
自らの胸元にそのたおやかな指を滑らせ、テルスが言う。明日美は困ったように眉間を寄せて、
「うーん。テルスちゃんが良くても、周りにとってあんまりよくはないかなー。……ほら、ここにも不埒な人がいますしっ」
「あいたぁっ!」
呆とテルスの体を眺めていた光弘が、横面を張り飛ばされる。
「いつまで見てるの! えっち!」
「や、あの、そんなつもり全然なくて、ああ、そういえば裸だったなって思っただけで……」
「思ったなら服の一つでも貸してあげなさい。ほらほらほら!」
「おい、あすね……やめっ! 俺こそこれ脱いだら下着一枚だぞ!」
明日美が拘束衣を脱がせにかかる。光弘はなんとか抵抗をする。そこここにあるベルトをカチャカチャといわせながら、二人はもみ合う。
「観念なさい!」
「やだってば! てか、あす姉怪我してるだろ! 暴れんなって!」
「うふふ。なんだか楽しくなってきたわ。痛みも和らいできたし。これが脳内麻薬かしら。アドレナリンって最高ね」
「こんなところで何興奮してんだよ変態! やめ、やめろって!」
「あははははー」
じゃれあうようにせめぎ合う二人を、テルスは暫しだけ眺め、
「ところで明日美」
先程から変わらぬ、疑問ありげな表情で、
「えっ、あ、なに? なんだろ」
「私に服を与えてくれるのはいいが、お前はいいのか?」
ぽろっと言った。
「えっ……」
「へ……?」
言われて二人、動きを止め、同じように下方へ視線を滑らせる。
抱きつくような格好でくっつく明日美。年相応より少し大きく発育した乳房が、光弘の胸板と合わさって、弾けださんばかりにたわんでいる。
ところで。
明日美が先だって被弾したメイデン高音圧復元砲は、精神子の場に閉じ込められた音波が、爆発的に拡散することで対象を無力化するという兵器である。アバドン順位ゼロのメイデンにより、空気の逃げ場がない立体構造を形作り、その内部に圧縮した音波を閉じ込めてある。何らかの魂性軌道に触れたときのみメイデンの構造に綻びが生じるので、制圧対象に至るまで、物体を跳ね返りながら進むという、屋内戦において悪夢のような性能を持つ。この兵器から生ずる衝撃波は、俗に鈍性・鋭性と呼ばれる性質を併せ持っており――要するに、殴ったようなのと、ナイフで切りつけたような効果の双方がある。
翻って。明日美は電磁波を歪曲させるスーツを着ていた。というより、それしか着ていなかった。その状態で高音圧復元砲を受けた。
当然全身をぴったり覆っていたそれは破けた。高い張力を持っていた布地は、ほころびたことで、伝線したストッキングのような穴を方々に作り――ゆえに、明日美の体を、その存在を、やたらと扇情的に主張しているのだった。弾けださんばかりに、色々とまろびださんばかりに。
「きぃあああああああ」
「おわっ」
委細把握した明日美が、思いっきり光弘を突き飛ばす。
「あす姉、なにす……ぶわっ、ごほっがはっ」
「こっち見ちゃダメ!」
たたらを踏んだ光弘が抗議の声を上げようとした瞬間、砂の塊が飛んでくる。思いっきり口のなかで受け止めた光弘は、涙目になりながらせき込む。
「ぺっ、ぺっ。やめ、やめてよ。さっきまで俺のことひんむこうとしてた癖して、何を今更……」
「そういう問題じゃないの!」
「じゃあどういう問題なん……どわっ」
「だからこっち見ないでってば!」
ぎゃあぎゃあとわめく二人を見据えながら、テルスはしきりにうなずいて、感心したように言った。
「なるほど。これがお前らの言う……ラブコメ、というやつか」
『ちがう!』
明日美と光弘、綺麗に声が重なったその時。
「ところで二人とも、もう少しこちらへ寄れ」
「え?」
その忠告とほとんど同時、彼らのすぐそば、五メートルほど先で地面が爆ぜた。少なくとも光弘には、そうとしか知覚できなかった。
「うわあ!」
「きゃあ!」
一度だけでは終わらない。盛大に土くれを巻き上げながら、立て続けに衝撃が襲う。立っていられず、二人はうずくまる。三、四、と重ねてようやく、空からなにかが降ってきているのだと悟る。耳障りな金属音が爆発に重なる。細かな破片が致命的な勢いで周囲に飛び散って――
「ふん」
テルスが瞬時に展開したラストの防壁にうち払われる。騒音がさらに喧しく辺りを巡る。
「な、なんだ? 爆撃でも受けてるのか?」
「違う。すぐに終わる」
言ったきり興味もなさげに視線を空へやった。
「あれで最後だ。とりあえずは」
その言葉尻を待たずして、テルスの張った防壁すれすれ、手を伸ばせば届きそうな距離に大きな塊が降ってきた。光弘は、反射的に頭と隣の明日美を守ってうずくまる。ひときわ大きな轟音が響き、金属のこすれ合うような不快な音が盛大に鳴って、残響を残し、数秒で収まった。
「お、終わった……?」
もうもうと舞う砂埃が晴れていくにしたがって、漸く明日美と光弘の混乱も引いていく。
「なん、だよ今の」
「見てみろ」
光弘は立ちあがって、テルスが指さす方を覗きこむ。クレーター状になった地面に突き刺さっているのは、黒光りする機械だった。衝撃でばらばらになってなお、電子音を時折鳴らして、そのたび、特徴的な細長い機構がかすかに揺れ動いた。不規則に空を掻くその様は、いまわの際の痙攣を思わせる。
「ってこれ……!」
「自律兵器じゃない! なんで空から?」
その何か、はついさっき光弘達を追い詰めた警備ロボットだった。空に突き出している細長い機構があの節椀なら、周りで粉々に飛び散っているのは放熱フィンか。
「なんでもなにもあるか。私が打ち上げたからに決まっているだろう」
「は?」
疑問に首をひねる間もなく、テルスが即答する。できの悪い子供を叱るような口調だった。
「こいつを? お前が? ……なんで?」
「お前はさっきまでどこにいたかも忘れているのか? どうやってここに出てきたのかも」
「どこって……」
思わずあたりを見回す。白っぽい乾燥した砂が一面続く平地。ずいぶん遠くで低い丘がぐるりを包囲していて、目立つものはぽつぽつと立つ地下への入り口だけだ。衛星から活動が監視されないよう、主要施設はすべて地面の下にある。
「あ……」
そこまで考えて、ようやく気付く。そうなのだった。明日美も、光弘も。先ほどまで地階奥深くにいたはずなのだ。混乱と、再び二人会えたことに興奮して、どうやってここまで来たのかなど、全く思考の埒外だった。
テルスと会って、事情を話して、彼女が暫し考えて、簡単だと頷いた瞬間、胃が浮くような、肺がつぶれるような、あの独特の感覚があって――その後はもう空にいた。
「そういえば、お前、どうやって俺たちを……」
「み、みっちゃん」
問いただそうとしたところで、明日美が強く腕を引っ張る。思わずよろめく。
「えっ、な、なに?」
崩れたバランスを立て直しながら、光弘は明日美の方を向く。彼女はこちらを見ておらず、驚愕に目を見張ったまま、空を見上げている。そして、呆けたままゆっくり上を指さし、
「あ、あれ……」
「へ? あ? ……お……おい」
促されるまま光弘も視線を上げて、そして同様に固まった。先程まではまったく気付かなかった小さな影が、天上高くに複数ある。
「なんだよ、あれ」
彼は最初、飛行機だと思った。ここは元々空軍基地でもあったからだ。だがそれらの影は、飛行しているようには見えなかった。空中で静止しているようにも見えた。そしてなにより、数が多すぎた。コメ粒よりも小さい影は、十、二十、五十、百……いや、目を凝らして見て見れば、一目では解らないほど無数にある。
光弘は思わず視線を戻す。クレーター状に開いた穴の中心、天を向いて切なげに蠕動する機械。これは、もともとどこにいたものだったか。どうしてこうなっているのか。
「……テルス。あれはなんだ。お前がやったのか?」
「そうだ。お前の要望をかなえるにあたって、最も手っ取り早い方法をとった時に、一緒に巻き込まれたものたちだろう」
「巻き込まれたものたち……つまり」
「ああ、あれらは、ここにいた人間だ」
テルスがつま先で地面をとんとんとたたく。
光弘は、血の気が引いていくのを確かに感じた。