【07】第二の誕生
明日美と空で再会する五分ほど前。
光弘は、死にかけていた。
「ぐ……くそ……」
思わず膝をつく。気だるさが全身に回っている。
実験の時に投与された、ダウナー系の麻薬の効用を思い出した。
軽い酩酊感と、底なし沼に落ちていくような感覚。今の状態にとても良く似ていた。
(これが……精神子を奪われるって事なのか)
半ば感心しながら仰ぐと、光に包まれた少女と目が合った。
「おい」
少女は、眉間に皺を寄せていた。何らかの不満があるらしく、へんに不機嫌そうな声だ。
「おい、お前だお前」
二度目の声で、光弘は自分が話しかけられているのだと気づいた。
重い口を動かして、何とか答えることに成功する。
「……なんだ? ……俺?」
「もっとちゃんとしろ。最初は良かったのに、全然釣り合いが取れていないぞ。このへたくそが」
すると、少女はやけに尊大な調子で非難してくるのだった。
どうやら不機嫌の理由が、光弘にあるらしい。
「……意味が、わからない」
もちろん光弘に心当たりなどない。
そもそも、殺されかけているこの状況、怒りたいのは彼のほうである。
「お前のちっぽけな保有エネルギーなどいらん、と言っているのだ。お前は奪われるのでは無くて、ワタシから奪い、引き出せ」
しかし少女は、そんなことにはまるで頓着せず、苛立たしげにこちらを指さし、傲然と言い放つ。
「……話が全く噛み合ってないぞ。君が俺から、突然精神子を奪い出したんじゃないか。できれば、やめて、もらいたいんだけど」
半ば呆れながら光弘が懇願すると、少女は意外そうに眉をひそめた。
「何を言っているんだ? お前が私を起こしたんだ。私にしてもらいたい事があるのではないのか?」
「だから、意味が解らないと言っている。君は、なんだ?」
「ん? 一体どういう……」
そこで漸く、自分の置かれている状況に目が行ったようだった。
少女がきょろきょろと辺りを見回す。
「……そうか。前回の覚醒時とは景色が違う。時間が経過したのだな」
数回頭を振って出てきた声は、ため息交じりだった。
沈黙は暫し。少女は気を取り直すようにこちらを見て、
「おい、現在……お前らの言う『ゼロセカンド』から、私が太陽の周りを何回……いや、単位として確か……そう。年、だ。何年が経過している?」
不思議な問いの仕方だった。まるで言葉を使い始めて間もないような。
「ゼロ、セカンド? ……初めてアバドン病で都市が滅びた年の事か? ええと……今年で、四十年が経つ」
そんな場合ではないというのに、光弘は律儀に答えてしまっていた。
「四十……年」
少女の発言は確かに不自然ではあったが、それが気に掛かる以上に――それこそ不自然なほど――その声が真剣な響きだったから。
「つまり私が眠って約二十年……お前らにとっては、短からぬ歳月か」
どう見ても光弘より年下にしか見えない少女は、そう呟いて顎に手を当てた。
遠くを見るように細め、伏した目。引き結ばれた口元。
思案に暮れる少女の姿には、言い知れぬ時間の重みがあった。少なくとも光弘には感じられた。
この貫禄が、彼女の一体どこから沸いて出たものなのか、皆目見当もつかなかったが。
だから光弘は、思わずそれを訊ねようとして、
「君はなんで……」
しかし、言葉を紡ごうとした口の重さで、はたと思いなおした。
光弘は反射的に右手を見る。
血が巡らず、力が入らず、青白くなり始めている。
今は、些末ごとにかかずらっている場合ではないのだった。
「……いや、そんなことはどうでもいい。それで、君は一体なんなんだ」
「さっき言ったことが聞こえなかったのか? 私は、地球そのものだ」
判で押したように、先ほどと同じ返事。
もちろん、そんなことが聞きたかったのではない。
「それは聞いた。ただ、意味が解らない」
「それ以上、適当な言い方など無いのだが。説得、説明……そう言った手続きが必要か。ふむ。アイツは、どうやっていたかな……」
また少女は黙考する。数秒して、少し頼りなげに言った。
「そうだな、お前、精神子とはなんなのか知っているか? それがどのような性質を持って、何に宿るのか」
「? その質問になんの意味が……」
「お前の知識レベルによって、私の存在の理解度が変わる。それに合わせて説明してやる」
それはとても傲岸な物言いだった。
が、なぜかあまり反発は覚えなかった。
少女の雰囲気に呑まれている事に頭のどこかで気づきながら、光弘はぽつぽつと話していく。
「精神子、だろ? 俺が知ってる事って言えば――」
と言っても、光弘の知ることなど限られている。
すなわち、精神子とは便宜的に素粒子とみなされているということ、世界を構成する物理的な力――重力、電磁力、強い力、弱い力いずれとも干渉しあうことが稀で、しかし一定条件で集散流動しては、人をはじめ、生物の精神を形作っているということ。
「……ヒトの精神、か。ふん。では、お前らの言う『物質』と、ヒトという『生物』を分けるものはなんだ? 物質に精神子は宿らないのかどうか。そして、宿らないのだとしたら、それはなぜだ?」
「そんなの……知るか」
思いもよらぬ方向から質問を受けて、答えに窮した。
そんな光弘の様子を、解っていたとばかりに少女は鼻を鳴らす。
「無いんだよ。この世の物質の全てには、微量ながら精神子を集合させる力がある」
さらに、幾分か大儀そうに続ける。
「細かいことは……お前らの中で知恵多きもの……専門家? にでも訊けばいい。だが、実のところ単純なんだ。全ての物質には厳密に言えば精神子軌道がある。だから、地球という『物質』には地球としての精神がある。そして」
そこで一つ息を吸って、
「私はそれ、と繋がっている。つまりは、地球そのものということになる」
これ以上無く自信に満ちた顔で、そうのたまった。
「……拡大した精神軌道が、ありもしない妄想を生み出したのか?」
もちろん、光弘は信じられない。
いや、正確には、どうしてだか心の片隅で、少女の言葉が真実だと直覚していたのだが――。
「信じられんか。まあ別に構わんがな。私はお前がどう思っていようと、惑星レベルの精神子を保有している」
「そんなこと……ッ」
なお反駁しようとした時、視界がブレた。
減算処理を施されたように、視界の色調が反転し、戻る。意識を失いかけたのだ。
嫌な汗がどっとでた。突然だったが、生命にとって大事なものを手放すところだったと理解した。そしてきっと、一度手放したなら、二度と戻ってこられないだろうとも。
時間が、あまりないようだった。
「……わかった。もう、それでいい。じゃあ、君は結局、俺から精神子を奪って何をしたいんだ?」
「……そんなことも解らんのか? と言うより、まず、認識に重大な齟齬がある。私はお前から精神子を能動的に略奪しようなどとは思っていないし、先ほどから言っているとおり、そんなちっぽけなものは、そもそもいらん」
「じゃあ、なんで俺はこんなに……」
「精神子は逆エントロピーの法則に従う。軌道の大きさが途方も無いというだけで、他の精神子を引き寄せる。お前が精神子を奪われているのは、水が流れるのと同じうように、エネルギーが平衡に向かおうとしているからに過ぎん。私が何かをしているわけではない」
テルスはあくまでなんでもないことを述べるかのような口ぶりだったが、その内容は光弘にとってあまり歓迎できるものではなかった。
言葉の真偽はどうあれ、彼女はこの現象を制御できないと宣言しているようなものだったからだ。
「っ……それが事実だったとしたら、俺がここで、精神子を根こそぎ奪われて死ぬって言う以外に、何か選択肢があるとは思えないんだけど」
「はあ。本当にお前は何も知らないんだな……。お前は、なんで『アバドン』を持っているんだ?」
「は?」
光弘はまたしても虚をつかれた。
それは生まれて初めての問いだったからだ。
いや、より正確に言うのであれば、他人からされるのは初めての問いだった。
しかも、厳重に封印されている類のものだ。
――なぜ、なぜ、なぜ。
何度も、何度も己に問うたことがある。
なんで、どうして……自分だけが。
それこそ物心つくまえから、本能的に問いつくした問いだ。
だというのに答えがどこにも存在しておらず、生きるために、そう、まさに正しく、人として生きるために。強いて忘却したはずのものだったのだ。
「お前が持っているそれ、『アバドン』だろう? 私から力を引き出すために作られた、ちっぽけな有機生命体が、星と綱引きをできる唯一の存在」
「は……?」
だからテルスがぞんざいにその答えを告げたとき、彼はぽかん、と馬鹿のように口をあけるしかなかった。
(星と、綱引き? ……作られた?)
聞き捨てならない言葉がいくつもあった、しかし、彼女はそんな彼の思考を待ってはくれなかった。
「それを回せ。全力でだ。私は、先からそう言っているんだよ」
「まわ、す?」
「そうだ。回せ。速度を上げろ。処女から輪廻を組み上げて、七つの罪を踏破しろ。地球も宇宙も巻き込むような、途方もない力強さで」
それは演劇のような台詞だった。
同時に、天啓のような響きだった。
そして、
「もしお前が希求して、見合う力を持っているのなら、私は森羅万象さえお前にやろう」
悪魔のような誘惑でもあった。
彼女はにこりともせず、マクロに過ぎることを言い切る。
「……まあそこまでは行かなくてもだ。今の私を安定できたら、お前はこの地球上で、できない事が何も無くなる」
そして、断定的に締めくくった。
そこで、ああ、と光弘は得心した。
なぜ彼女の発言全てを、直感が信じたがっているのかを理解した。
彼女は大きかったのだ。
ナリではなく、発言や振る舞いが、普通とは一線を画しているのだった。
そこにあるだけで、ちっぽけな人の存在と、人生の悩みが吹き飛ばされてしまうような、雄大ななにか。星一つと言われて納得してしまうような、凄まじい存在感。
「なんでも……できるのか?」
「なんでもだ」
いつしか光弘は、戯言に過ぎないはずの彼女の言葉を、真剣に考え始めていた。
『みっちゃん』
「……」
なんでもと言われて、すぐさま思い至ったのは明日美の事だった。
なにせ、今更全てと言われたところで、彼にはもうそれぐらいしか残っていない。
「ぐっ……」
自嘲する暇もあればこそ、どんどんと彼の精神子は磨り減っていた。
再びブラックアウトし始めた視界の中で、光をまとった美少女がこちらを見ている。
彼女が告げた言葉は、全てが途方も無く不可解で、荒唐無稽で、しかし何故だか説得力がある。
どうせ先ほどの暴走で死んでいたはずの命だ。
藁をつかむような話でも、明日美を助けられるならばやってみるべきなのではないのか?
「迷っている時間は無いんじゃないのか? お前らは高々百年しか同一性を保持できないのだろう?」
周囲を舞う光球を指先ではじきながら、つまらなそうにテルスは言う。
「……本当に、なんでも、できるのか?」
「……しつこいな。ああ、請け負おう。私が私である限り」
「たとえそれが、世界中を敵に回すような行為であっても?」
逡巡に生唾を飲みながら、意を決して告げる。
そう、アバドンを自らの意思で回す――光弘が持つ力を、制限なく解放するということは、この世界を敵に回すことに他ならない。
しかし、そんな乾坤一擲の問いかけに対して、
「世界……? その単語の意味が解らんな。お前ら有機生命体を総体として呼称する事を指すのだと、なんとなく推察はできるが、そんな矮小な考えなど、私が慮る理由がどこにも無い上、多分、本質的には理解することさえできんよ」
テルスの返答は単純だった。そんなものは知らんし解らん、と。
「ならなぜ、俺に手を貸してくれるんだ?」
「それを今のお前が知る必要はない。ただ、これは完全なる……ええと、お前らで言うところの利害関係? だ。つまり、契約? だったか。そういう種類の協力形態になる」
「契約なのに、説明が不足していないか?」
「それも考慮して判断することだ。何度も言うが、私はどちらでもかまわない。決断は、お前に委ねよう」
「そんなこと、言われたって……」
結局、光弘は怖じているのだ。
厳重に縛られたこの力を、解放に至らしめた先ほどの怒りは、もう潰えてしまっていたから。
無気力で無感動。何年も何年も。そうあるように教育されてきた。
ついさっき自ら手放したとはいえ、くびきは常に彼と共にあった。
お前は規格外の化け物で、人類の敵で、生かしておいてもらう為には、ただただ抑圧し続けるしかない。そう言われてきたのだ。
一度冷静になってしまうと、もう光弘は簡単には動けなかった。
(どうすりゃいいんだ……)
だから光弘は、決断できない。
そのまま、迷ったまま、未練を抱いたまま、奪われて、失って、死んでいく。そういう風に、弄られたのだから。
「ぐっ……」
段々と体を支えるのがきつくなってきた。倒れ伏してしまえたら、どれだけいいかと頭の隅では考え始めてしまっていた。ゆっくりと重力に負けて、視線が下がっていく。同時にどんどんと視界が暗くなっていく。
そのときだ。
『彼女は、君のために、全てを、擲った』
噛んで含めるような、穏やかな声が、唐突に再生された。そして、
『ばいばい』
底抜けに透明な笑顔が脳裏をよぎった。
「……っ」
思い出す。そうなのだ。自分のために全てを擲った人物が居るのだった。
平穏や将来や夢、他にも眩しい何某かをだ。
光弘には今まで縁遠かったそれらを、少しでも与えてくれるために。
「どうす……? 私は、どちら……も……まわん」
「俺は……」
いつのまにか、耳さえ聞こえなくなっていた。どうやら彼女が何事かを言ったようだったが、うまく聞き取れなかった。
しかし、それ以上、光弘に言葉は必要なかった。
(何にも持ってない俺だけど、もらってばっかりは……絶対いやだ)
既にもう、答えは決していたのだから。
二度目の世界への裏切りは、衝動ではなかった。
光弘は自分の意思で考え、決意した。
悪魔に唆されただけだと言えるかもしれないそれは、しかし。
彼にとって、生まれて初めての『決断』だったのだ。