ひとつ
陛下×側近
この執務室の窓からの景色ももう見納めとばかり書く手を止め、しばし見入った。
「さて、あとは……」
「陛下」
ふと後ろから声がかかる。一年自分の側近を勤めた男だった。出会ってからの年数を入れてもそう長くはない。それでも苦楽を共にした友、であった。
「ふ、なんて顔をしている。来るべき日が来ただけだ」
いつもは涼しげな顔つきで何もかもやってしまう敏腕側近は、今日という日はさすがに疲れているようだ。常に無表情で感情らしい感情も表に出さない男が実は人間ではないといったら部下たちは信じるだろうなと王は思う。
「報告は」
「全てご指示通りに」
もうこの城で終わりだった。一年前、王となったときはただただ崩れ落ちるばかりの国。いかに被害を少なく犠牲者を少なくするかが目下の仕事であった。それももうすぐ終わる。
「お前の忠誠はどこにある」
「陛下の御心にありますれば」
唐突な己の問いにも迷いのない答えが返る。
「最後の命だ。聞けるな」
打てば響くような会話がとても好きだった。部下でありながら己をひとりの人として見てくれていた数少ない人だった。
「今からお前の任を解く。城から出ろ」
「っ」
だからこそ、ここで死なせるわけにはいかなかった。
真正面から見据えれば、予想していたとも想像もつかなかったともとれる顔をしていた。
「お前には新たな戸籍を用意した。あぁ資料は全て抹消済みだ」
「仕事が早いですね」
「褒めるな、照れる」
まるで昨日までのような応酬。明日もこんな日が続くのではと錯覚しそうになる。
「お一人で」
「あちらさんには私で我慢してもらわねばな。これでも一年は国主を勤めたんだ、十分だろう」
王ひとりでこの城を明け渡す。誰かが引き継がなくてはならない、そしてそれが己以外の何者であっても譲るつもりはなかった。たとえその先に待つものが死であっても。
「画し通路の道のりはこの鳥が知っている。持っていけ、餞別だ」
心残りがあるとすれば――決して王などという身分ではなく、ひとりの人として女として願うささやかすぎる望み。そしてそれはもはや叶うことはない。とすればもうあとは一つだけだ。
――――生きて。
「ひとつ」
「なんだ」
「一つだけ持って行きたいものがあります」
「好きにしろ。たいした給金も払えん。宝石の類なぞは少しでも足しにはなるだろ」
出来ることなら健やかに、穏やかな暮らしをしてほしいと思う。
「私は湯浴みをする。出迎えの準備をせねばならんからな。その間に出て行ってなければたたっ斬るからな。早く行け」
もう顔を見ることは出来なかった。浴室に向かいながら意気地がない己を叱咤し最後の言葉を伝う。
「百年後また会おう」
「御意」
悔しいほどにいつも通りの返答に泣きたくなった。
この浴室の設計だけは王が手を入れた。そのため城内で一番落ち着く場所だった。そして自分が自分でいられる二番目の場所。一番は――ふ、と未練がましい己に自嘲する。
しばらく浸かっていると浴室の外から扉が開く音、荒っぽい足音が聞こえてくる。
「なに、もう来たのか」
報告ではあと半刻ばかりかかるはずであったが。
「せっかちな奴らだ」
最後くらいは着飾り出迎えてやろうかと考えていた。そして最期まで王として終わろうと。
「これもまぁ私の運命か」
何ひとつ身につけていない。素の自分で出迎えることになるとは、ふぅと嘆息しながらも受け入れた。
ぱたんと背後の扉が開いたのを察し立ち上がり振り返る。
「全くお前らは身仕度もまとも、に………」
そこに現れたのは良く知る、先ほど別れもう今生では会うことはないと思っていた男の姿であった。
「な!?」
「陛下」
「なななななななんだ」
相も変わらずの淡々とした物言いになぜか安堵しつつも動揺を隠せない。
「忘れ物を致しまして」
「もっと早くに言えっ!!!!」
なぜ今それをこのタイミングでこの場所で言うのか。
「一つだけ持って行って良いと仰せになりました」
「言った。確かに言った。さっさと持って出て行け」
なんでも好きに持って行けとやけっぱちになりながら言い放つ。浴室どんな忘れ物かは分からないが、早くここから逃がしたかった。
「言質取りましたからね」
「は」
まだいたのかと言わんばかりの王の前に近づく元側近。よく見れば冷静な側近の額には汗が浮かんでいた。息も荒く急いているようだった。
「失礼致します」
「な、なにをっ」
「確かに頂戴いたしました」
「!?」
近づいたや否や男は大ぶりのマントを王に巻き付け片腕に乗せるようにして抱き上げた。
「お許しくださいませ」
「なっ…ん」
暴れる王を一度下ろすと何かを含んだ側近はそのまま口移しで無理やりそれを飲ませる。
「おまえ、な、にを」
抗うことが出来ずにそれを嚥下するとそのまま意識が遠くなっていった。
庭のような場所に二人の男女の姿が見える。泣きそうなのを泣くまいと必死に我慢する女。それを何もいわずただ側にいる男。
――あぁこれは夢だ。まだ私が着任したばかりの…。
すると男はどこから取り出したのか一輪の花を女の耳の上に差し込んだ。そして呆気にとられる女を懐に抱き込むと頭をゆっくりと撫で始めた。
――あたたかった。ずっと側にいてくれていた。
やがて二人の姿は朧気になっていき闇に包まれる。そして暖かさだけが残る。訪れた闇に怯えながらもその温もりに縋った。
「…下」
だんだんと意識があがってくると暖かさが現実のものだと理解する。
「陛下、目が覚めましたか」
ゆっくりと目を開けばいるはずのない男がいた。のぞき込むような男の手は己の頭の上にあった。夢の中の温もりはこれだったらしい。
「……ここは何処だ」
「国境近くの私の別邸です」
人間驚きが過ぎれば逆に冷静になるものだと、おかしなところで知ることになる。
「なぜ私はここにいる」
「私がお連れ致しました。陛下がお一つ持って行って良いと」
確かに言ったがそんなつもりではなかった。誰がこんなことを想像すると思うのだと問えば、有能な元側近は特に指定はされませんでしたのでと、うそぶいた。
「私は物ではない」
「存じております」
「なぜ私だったんだ」
「あなたは馬鹿ですか阿呆なんですか」
淡々と進む問答に苛ついたのかだんだんと気色ばむ目の前の男。
「俺は待ってたんだ、あんたが一緒に逃げてくれというのを。だからどんな命令だって聞く気でいた、叶える気でいた。ただ一つを除いてはね」
初めて聞く荒い口調にも場違いながらも嬉しいと感じる自分はもはや末期であろうか。しかし続く言葉には平静ではいられなかった。
「死ぬのだけは許さない」
「!」
横たわる己を壊れ物のようにこわごわと抱きしめるその腕はわずかに震えていた。
怖かったのだろうか、この男も自分と同じように。
「一度捨てた命なら、俺がもらう」
目の前の存在を離すまいとするように抱く手に力がこもる。
「だから、頼むから生きてください」
何かに縋るようにまるで迷子のような男の姿に、ただ身を任せた。
「もう私は何も持っていない」
ぽつりとつぶやいた声に力はない。
「関係ない。欲しいのはあなた自身だ」
「っ!」
見透かされたのかと思った。ささやかなそれでも一番の願い。
嬉しかった。どんなにかそれを願ったことだろう。
「…もう私は王ではない。お前も私の側近ではない」
「はい」
「名を呼んでくれるか」
「アリソナ」
「話し方もさっきのが良い」
「わかった」
拗ねたような物言いのアリソナに薄く笑い了承する。
「共に生きてくれるだろうか
「俺がそれを望む。ソナがどっかにいっても付いてくからな」
「ありがとう」
「感謝は行動で」
「は」
アリソナを囲う手が離れると顔を近づけ口付けた。
「こんな風に、ね」
「〜〜〜〜っ」
「真っ赤だな」
「な、おま!!!」
「もう我慢しなくていいのかと思うとなんでもよくなる」
少々性格が変わり過ぎてやしないだろうか。
「よろしく」
「う、うむ」
色々と早まったかもしれないと頭を掠めた。
それでも後悔はない。きっとこれから先平穏とは程遠い生活が待っていたとしても、共に歩む人がいる。
「好きだ」
「っ」
「赤いな」
「反則だろ………」
―――共に生きる。
~ひとコマ劇場~
「…俺の名前読んでくれないのか」
「む」
「アリソナ」
「そ、そのうち」
「(ちっ夜にでも呼ばせるか)」
「?(寒気が…)」
「家具屋に行こうか」
「う、うむ」
「さ、行くぞ」
「???」