8/煩い・来訪者
お母さんは僕を見付けて、側にやって来た。そこでハンナも発見して、「あら」と言った。
「まあ! あなた、ハンナとお友達になってくれたのね」
僕に服をくれたのは、ハンナのお母さんだった。という事はつまり、僕の着ているこの服は、亡くなったという弟のものだろう。
「ああ、なんて素敵なこと……運命だわ」
「違うわよ、母さん、運命なんかじゃない。ましてや、弟が仕組んだことでもないわ」
棘のある言い方に、ハンナのお母さんは悲しげに眉尻を下げた。居心地が悪かったけれど、僕が間に挟まった話だ。
「そうだね、素敵な偶然だ。でも、この服を僕が貰ってよかったのかな」
「構わないわよ」
そう即答したのはハンナの方だった。
「どうせ、死んじゃったら服なんか着られないんだし、大事に持ってたって荷物になるだけだから」
「どうしてそう酷い言い方しか出来ないのかしら、この子は! 服を着て貰うのは構わないわ、きっとあの子だってその方が喜ぶ。でも大事な形見なのよ?」
言いながら僕の、いやシャツの肩を撫でた。その手つきはとても優しくて、愛おしげだった。それだけに、肩から伝わってくるものはあまり気持ちよくなかった。
「母さんこそ、そればっかりじゃない。大事なのは、持っていた物じゃなくて、居たことでしょ。それに居なくなったこと。現実を見なよ」
うんざりという様子で、そっぽを向いて吐き捨てた。
「だから、思い出を残してるのよ。今だって、あの子は思い出の中に生きて――」
「生きてない、死んだの、フィリップは!」
ハンナはテーブルを叩いて立ち上がった。突然の大声と大音が食堂に響き渡って、そこに居合わせた人達が一斉に、何事かと振り向いた。
「……ごめん、ちょっと外の空気を吸ってくる」
苦しそうにそう告げて、席を離れていった。ついでに「付いて来ないでよ」と言い残して。
ハンナの叫び声は、ただのヒステリーとして周囲には見られた。すぐに元の食器の音や会話のざわつきに戻る。でもハンナのお母さんには深々と突き刺さったみたいで、本当に胸を押さえた。僕の胸にもだ。
追うなと言われても、黙って放っておくことは出来なかった。ここにお母さんと残されるのも居たたまれない。だから僕も席を立った。
出口へ向かう途中、ワッカと擦れ違う。
「どうしたの?」
「ごめん、後で話すよ」
「うん」
外へ出ると、仕事終わりや食後に休憩をする人集りがあった。その中でハンナを探すことは意味がない。きっと人目の付かないところに行っただろう。
食堂の裏手に回り、丁度誰も来ないし誰にも見られない陰に、ハンナは居た。壁に背を当てて屈み込み、両手で顔を覆っている。そっと声を掛けると、「来ないでって言ったでしょ!」と言われてしまった。
「どうして、前を向いちゃいけないの、ずっと過去に引き摺られないといけないの? そんなの、耐えられないよ。もう放って置いて。一人にして。みんな嫌い」
ハンナの声は震えていた。たぶん、泣いている。
そんな声で言われて、一人に出来る訳がない。僕はハンナの隣に腰を下ろした。嫌がられたって殴られたって構わないと思ったけれど、ハンナは何も言わなかった。
僕には何も言えない。ワッカに対してもそうだった。僕の無力さは僕自身がよく知っている。だから、人の言葉を借りることにした。
「僕がお世話になってた隊長が言うには、『思い出は敵』なんだって」
「思い出は敵だ。足を引っ張り、立ち塞がり、苛んでくる。失ったものは、胸の中に重たく残る。だから戦わなければならない。戦わなけりゃ、平和は訪れない。心の平和のために、どう戦うか」
「倒したっていいし、共存する道を探したっていい。でも敵だから、無視は出来ないし、無視しちゃいけないんだ、ってさ」
言ってから、虚しくなった。今となっては、隊長も大きな敵だからだ。隊長の思い出と戦いながら、思い付くまま言葉を足していった。
「お母さんはたぶん、戦ってる最中なんだ。どうやって折り合いを付けていこうか、迷ってるんだよ。長い時間が掛かるかも知れない。ハンナの言うことは間違ってないと思う。けど、思い出を無理矢理押し込めたって、辛いだけだよ。そう思うんだ、たぶん、きっと」
やっぱり、ダメだ。説得力なんてまるでないし、ハンナを責めている様に聞こえて、無闇に傷付けてしまったかも知れない。結局、僕はひとの言葉を語ることしか出来ないんだ。
「……ごめん、偉そうに言って」
視線がどんどん落ちていった。励ますつもりが、自分で勝手に落ち込んでいるんだから世話がない。
「ロコル」
ハンナの呼ぶ声がして、顔を上げた。すると、ハンナの瞳がすぐ目の前にあって――
柔らかくて、少し湿っていた。その感触が何で、どこで触れているのか、瞬間では解らなかった。目のピントは遠くでぼうぼうに繁る雑草に合って、その手前に、ハンナの上と下を合わせたフサフサのまつ毛がぼやけてる。カサカサした掌が僕の頬を包み込んでいた。唇に固いものが当たってようやく、今何が起きて、何をされているのか知った。
生まれて初めてだ。
抵抗出来ない。いや、する必要がない。なすがまま、なされるがまま、僕は目を閉じた。
ずっと顔が火照っていた。顔だけじゃなくて、指先から爪先から、全身が熱を帯びていた。昼食の時間が終わり、また託児所で仕事をし、ハンナと別れても、未だに麻酔薬でも嗅がされた様な呆然とした感覚の中、唇の感触だけがあった。
何度も思い返した。ハンナは、ヤケになっていただけだろう。絶対にそうだ。でなければ、出会って数時間の相手にあんな事しやしない。そうに決まっていると、頭では理解しているんだ。けれど、心臓は狂った様に暴れ続けている。
ハンナの言われた通りに寄宿舎へ向かっていた。ハンナが言うには、仕事を持った男女で別々の建物らしい。同じ部屋に何人かが一緒になってしまうが、それでも仕事が出来ない年寄りや怪我人や病人、それから子供が押し込められている集会場よりはマシだ、ということだ。
僕は間違いなく男子寮に向かっていたはずだった。けれど、その途中でワッカに出会した。ワッカの顔を見て、「ロコル」と名前を呼ばれた途端、胸が締め付けられた。
「ワッカ……どうしたの?」
「ロコルを探してたの。さっき、急に飛び出していったきりだから。具合悪いの?」
違った意味でなら、確かにそうだ。具合が悪い。今は会いたくなかった。なのに、ワッカは僕を心配してくれている。余計に胸が苦しくなった。
「別に、何でもないよ」
「なら、よかった」
そう言って、ワッカは微笑んだ……かも知れない。そういう風に目が錯覚したのかも知れなかった。けれど、本当に笑ったのだとしたら、初めて見る笑顔だ。
「……ごめん、もう疲れたから」
「うん、わかった。ごめんね」
「大丈夫」
それだけ言って、ワッカの脇を通りすがった。逃げたんだ。恥ずかしくて、後ろめたくて、怖かったんだ。
後ろから「また後で」と言う声を聞いても、振り返られなかった。また後で、夕食の時間になれば、ワッカに会う。
僕は夕食の時間を部屋で寝て過ごした。同室になった他の人達には不審がられたけれど、一人きりになっている時は気持ちが楽だった。
翌日、託児所で再会したハンナは、何事もなかったかの様に振る舞っていた。本当に、ただ親しくなった友人の様に僕を扱った。冗談を言って茶化したり、仕事の不手際をだらしないと笑ったり。僕の方は、ハンナを見る度に緊張してしまって、どうにもいけなかった。
昼食の頃、食堂のワッカは僕を見付けると、昨日叱られたのもあってか駆け寄って来ることはせず、小さく手を振るだけに止めた。僕の隣にはハンナ。居たたまれない気持ちになって、手を振り返すのにさえためらっていると、僕の気持ちを知ってか知らずか、ハンナは腕を絡めながら、僕の代わりに手を振った。
ワッカが手を下ろしながら見せた、あの不思議そうな顔は、夢に出そうだった。食事を配りに来る度、ハンナが僕にベタベタして見せ付けようとするのも、やっぱり胃が痛む。
ハンナはこれを三角関係と言っていたけれど、僕には違って思える。ワッカへの気持ちは単なる片思いで、ワッカが僕をどう思ってるか解らない。だからハンナが間に入ってくると、その直線を分断されるだけで、三角形にはどうしたってならない。あまりに一方的だ。
それに、ハンナとハンナのお母さんとのことも気掛かりだ。ハンナはお母さんを避け続けていた。食事の時は、敢えて混み合っている席を選んで近くに座らせないし、顔を合わせたって無視して僕の腕を引っ張って行く。僕にしたら、その動機はあまり快くないけど、服をくれた恩人で、仲を悪くする理由にされてしまうのは喜ばしくない。だから、
「お母さんとちゃんと話した方がいいよ」
と何度も忠告した。けれど、
「いいのよ、あんな人」
ハンナは機嫌悪そうに言うばかり。加えて「ああ、離れて暮らせたらいいのに」なんて溜息を吐く。
そんな風にして、何日か過ぎた。仕事には慣れてきたけれど、僕の肩にのし掛かるものは、日増しに重くなっていった。ハンナからは愚痴ばかり聞かされて、代わり、ワッカとの会話は減って、ほとんどない。心がボロ雑巾みたいになっていく気がした。
彼らがやって来たのは、そんな時だ。
彼らは装甲車に乗っていた。国連軍も採用しているアメリカ製、同じものを僕も見たことがある。それを全部白で塗り潰していた。それが事務所の前に停車するのを、僕とハンナは偶然目撃した。また何かあったのかと思ったけれど、どうも様子が違う。車はたったの一台だったし、管理者が出てきて迎え入れるでもなかった。
降りてきたのは、どう見ても軍人とは程遠いタイプの人間だった。まず出てきたのがスラッとした長身の男で、ポニーテール、メガネを掛けていて色白。続いては、東洋系の女の人だ。
二人が連れ立って事務所へ入っていくのを、僕らは興味深く眺めていた。
「ねえ、何だと思う?」
ハンナに訊かれても、僕は首をひねるしかなかった。するとハンナは「ちょっと見てみよう」と提案して、僕の手を取って車の方へ走っていった。
開け放たれたままの後部ハッチから覗き込む。中はどうも、ごちゃごちゃしていた。兵器の類いではなさそうだ。見たこともない、用途不明な機材が目一杯詰め込まれている。唯一それと解ったのは、コンピュータのモニタくらいだ。
しげしげ眺めていると、奥の方で何か光るものがあった。横に二つ並んだそれが、僕達の方を、じっと見ていた。ぼさぼさの髪と髭の間から覗く、人の目だった。
「うわっ、ごめんなさい!」
驚いて後ずさると、どん、と背中で誰かに当たった。後頭部の辺りに柔らかい感触。またビックリして振り返ると、さっきの女の人だった。女の人は、あはは、と快活に笑った。
「なかなか楽しげでしょう?」
怒る素振りはなく、僕の肩を二度ほど叩いた。
女性の後ろから、さっき事務所に入ったばかりの男性も出てきた。男の方も笑って言った。
「やあ、驚かせたかい? 物騒な外観だから、ま、仕方ないね」
「白く塗ったってダメね」
驚いたのは車にではなく、中に居るもう一人にだ。もう一度見ると、そちらの男は黙ったまま奥に座ったままだ。
「君達は避難民だね。彼女はシュエ。ぼくはクリストファー、キッツでいいよ。それから、奥にいらっしゃるのはクラウス先生。心配は要らない、ぼくらは学者だ」