39/この手は離さない
声を上げたその刹那にも、引き金が引かれるところだっただろう。クラウスが僕を見返して、目を丸くする。
「小僧、お前……」
「待って、クラウス」
息も絶え絶えだった。自分がどれくらいの間眠りこけていたのか想像も付かないけれど、物凄く体が重かった。それでもここまで辿り着けたのは、ワッカが手を繋いでいてくれたからだ。
「やあ。今頃起きてきて、どうしたんだい? 君も見物かい?」
塀の上の彼が、僕を見下して嘲笑った。
「違う。君を止めに来たんだ」
「止める? 君もか」
うんざりしたという表情を浮かべて、塀の上でぐるりと回ってみせる。
「どうやって止めるんだい? その耳で?」
馬鹿にして、ははは、と笑い声を立てた。
僕は彼に歩み寄った。その途中で、クラウスの銃を下ろさせながら。
彼と同じ様に塀に上りたかったけれど、上手く力が入らない。その時、ワッカが僕の横で体を支えてくれた。ワッカの力を借りて塀によじ登り、ふらつきながらも何とか彼の隣に立つ。
「どうするんだ? 僕と殴り合うか?」
「違う。そんな事をしたって意味が無い。意味が無い事はしないんだ」
僕は丘の向こうに体を向けた。風が丘を駆け上ってきて、足を掬おうとする。
息を目一杯に吸い込んで、両手を口の横に宛がい、あらん限りの声で叫んだ。
「みんな! もう良いんだ!」
僕の声はきっと、街中に、いや世界中に響いた。その感触を確かめながら、僕は叫び続ける。
「そのままで良いんだよ! みんなはみんなのままで、構わないんだ!」
僕は僕のままワッカはワッカのままだから、好きだって気持ちを確かめ合える。
クラウスだって、キッツだってシュエだって。隊長だってオロールさんだって。これまで出会ってきた沢山の人達だって。僕の隣に居る彼だって。
寂しくても、切なくても、もどかしくても。だからこそ人と人との繋がりが大事に思えるんだ。嬉しかったり楽しかったり、時には悲しかったり悔しかったりする事が、何より尊く思えるんだ。
動物達だってきっとそうだ。みんな一生懸命に生きて、出会ったり別れたりしているんだ。
みんながそれぞれ孤独だから、この世界は素敵なんじゃないか。
「何を馬鹿な。そんな科白を喚いたって……」
鳥の群れがわっとこちらに向かってくる。獣達が石段を駆け上ってくる。
そして僕達を取り囲んで、じっと見詰めてくる。
「な、何だよ、お前達。早くやるならやれよ。早く殺せ!」
隣の彼がたじろぎながら叫んだ。けれども、動物達に彼の声はもう聞こえていない。
「お母さんが言ってたよ。『ごめんなさい』って。だから、もう良いんだよ」
ワッカが彼に向けて言った。
「もうみんな一つなんだよ」
「ずっと前から、この星は一つの生き物なんだ。こんな事をしなくたって、僕らは繋がっていられるんだ」
彼は歯がみして、地団駄を踏んだ。
「違う! そんなんじゃ駄目だ! こんな終わり方じゃ、僕が間違った事になる! 僕は、母さんの意思を……」
そこまで言い掛けて、途中でぷつりと糸が切れた様に項垂れた。
ああ、そうか、と小さく呟いた。
「僕は、間違えていたのか」
「そうだよ。こんなの、母さんだって本当は望んでなかったんだ」
「……そうか。なら」
ほう、と息を吐いて、彼は体から力を抜いた。
「もう一度話してくるよ」
そう言い残して、彼は丘の急斜面を落ちていった。
結局のところ、この一連の騒動は何だったのだろうか。
「何だったんだろうねえ」
と、隣でクリストファーも呟いた。
おれは未だに、ロコルや彼の双子、そしてワッカの言っていた言葉の意味が解っていない。クリストファーも同じだ。
ただあの時以来、世界中で動物達の襲撃はぴたりと止んだ。唐突に全てが終わったのである。
仮説を立てるなら、と前置きをして、クリストファーは話す。
「彼らは地球の意思みたいなものに呼応していたんだろうね。彼らは、ぼくらより一段上の存在なのかも知れない。新人類とでも言う様な」
「流石はエセ科学者だな。証明くらいしろ」
あはは、とクリストファーは明朗に笑った。
「まあ良いじゃないか。一件落着したんだし、のんびり構えたってさ」
一件落着か。万事解決とはいかないし、後味が良いとも言い難いが。
失われた命は戻って来ない。
ロコルの双子の兄弟は、重傷を負ったものの一命は取り留めた。しかし未だ昏睡状態のままである。脳に異常は無く、寧ろ活発に働いているらしい。夢を見ているそうだ。夢の中で、母さんとやらと話し込んでいるのかも知れない。
「何にせよ、人類史上初めての世界平和を迎えているんだ。喜ぼう」
世界一丸となって戦っていた、野生動物という外敵は去った。
「だが、いずれまた分裂するさ」
「そうだね。たぶん長続きはしない。その内事後処理であちこちの国が揉め始めるだろうなあ」
事後処理と言えば、ジェラールとジョニーは何事も無く解放された様だ。一連の危機が去ってしまえば、人為生物とやらは用無しらしい。今頃は彼ららしく、悠々自適に暮らしている事だろう。
「で、何の用だ?」
「ああ。ちょっと報告をね」
クリストファーは居住まいを正した。
「正式に、二人を引き取る認可が下りました」
「ほう。やっとか」
「やっとだよ。あちこちで紛争孤児が出来ちゃったからね。お上も大変だ」
「他には?」
「そう。それで、つきましてはこのぼくも、身を固める決心をしたのであります」
「そうか。めでたいな」
冷たいなあ、とクリストファーは言うが、前々からシュエとは騒動が片付いたら結婚の約束をしている、と聞かされていた。別に今更驚く事でもない。驚いてやるだけ無駄だ。
それで、と折れた話の腰を戻す様に言われた。
「先生はどうするんだい?」
「故郷に帰るつもりだ。髭を剃って、髪を切ってからな」
姉さんにあの日の事を謝らなければならない。許してもらえるだろうか。
きっと許してもらえるさ。
「他にも忘れてるよ。オルガだっけ? あの子と一緒に行くつもりなら、車を出すよ。先生は運転できないだろ?」
「……馬鹿野郎が」
小鳥のさえずる、のどかな昼下がりである。
僕の左手には、あの日からずっと、ワッカの右手がある。
もう動物達の声は聞こえない。ワッカも花が見えなくなったらしい。僕らは今や普通の子供だ。
「ねえ、ワッカ」
「何?」
「もう寂しい思いはさせないよ」
「うん」
雲一つ無い青空の下。僕たちは互いの手の温もりを確かめ合っていた。
テレヌス 了




