37/ランチを
ひゅうっと風が吹いて、頬を撫でた。草むらが揺れて、葉と葉が擦り合わさり、かさかさと音を立てた。
真っ白なテーブルクロスを敷いた円卓の向かいに、僕が居る。いや僕は僕だから彼は彼だ。僕にそっくりな彼なのだ。
「さあ、召し上がれ」
目の前の皿には美味しそうな料理が盛られていた。赤い色をして、少し酸っぱい臭いが香ばしく鼻を刺激する。
「これは何て言う料理なの?」
「スティファドだよ。ウサギ肉とトマトとタマネギを、ワインで煮込んだものだ。この辺りの家庭料理だね。ああ、ギリシャのコーヒーはもう試したかい?」
肯いて返すと、それは良かったとにっこり笑った。
「僕は苦手だけれどね。苦いやら甘いやら判らないし、口の中に豆が残って嫌だ」
さあ食べてと促されて、僕は肉にフォークを刺して、ナイフを入れる。
その時、僕のすぐ脇で、野ウサギの頭が爆ぜるのを思い出した。アラシが助けてくれた時の事だ。とてもお腹が空いていたけれど、急に食欲が失せてしまった。
「……ごめん。悪いけど、これは僕には食べられない」
「そうか。残念だ。じゃあ僕だけ頂くよ」
そう言うと、僕に似た少年は愉快そうに肉を頬張った。
ここは一体どこだろうか。見渡す限りの草原で、木も山も無い。地平線まで延々と草が生い茂っている。雲一つ無い青空の下に、僕と彼と、テーブルと椅子だけがぽつりと置かれている。
だけど一番の疑問は違った。
「君は誰?」
僕に似た誰か。僕ではない僕。まるでビデオカメラで写した自分を見ている様な気分だった。
彼はゆっくり味わい、嚥下してから応えた。
「じゃあ、君は誰?」
「僕は……」
「名前は訊いてないよ。君を定義しているのは名前なんかじゃないだろう?」
そう言われると、困ってしまう。僕はロコルという名前の、僕でしかない。
「……僕は僕だとしか、答えられないよ」
「なら、僕だって僕さ。それで良いじゃないか」
良いんだろうか。良くない気がしている。
本当に美味しいんだけどなあ、と呟いた彼の傍に、どこからか犬が近寄って来ていた。痩せているけど立派な犬だ。舌を出して物欲しそうに彼を見上げる。
「やあ、ジョニーじゃないか。君も来たんだね。じゃあ少しだけ分けてあげよう」
ウサギの肉を掌に載せて差し出すと、犬はすごい勢いで食べ切って、手に残ったソースを舐めた。
「君に良く懐いてるね」
素朴な感想を口にすると、彼はシャツで犬の涎を拭いながら首を振った。
「僕と彼とは、そういうんじゃないよ。そうだな……同じなんだよ」
「同じ?」
「ううん、こういう時の言葉選びは苦手なんだ。上手く言えないけれど、同じだ」
僕の目には、とても同じとは映らない。彼は彼で、犬は犬だ。
それに、人と動物だ。人と動物は絶対的に違うものだろうと思う。
「違うかな」
と突然言われた。考えている事が口に出てしまっていたのだろうか。
「違うと思う。だって、動物は人を襲うし」
「人だって人を襲うよ。動物だって動物を襲うんだ。ほら」
指差した先で、犬が野ウサギの首根っこを捕まえていた。
「人間だって霊長類ヒト科と呼んでしまったら動物じゃないか。区別しているのはヒトが人間だと思っているからだろう?」
それはそうなんだろうけれど。
「もっと言ってしまったら植物と動物だってそう違わない。脳味噌があるとか無いとか、細胞の仕組みがどうのこうの。そうやって、人間は分類したがるけれどね、こうやっちゃえば同じだ」
肉とタマネギとトマトとをフォークに刺して、一口に放り込んで見せた。頬張ったまま、関係無いんだよ、と言った。
「命って枠の中ならね」
「命」
既視感。以前にもどこかで、誰かに命の概念について話をされた気がする。
どこか遠くで。どこか記憶の片隅で。
「ああ、お腹いっぱいだ。お腹がいっぱいになると、コーヒーが飲みたくなるね。ギリシャコーヒーでも良いから飲みたい」
気が付くと彼の皿は平らげられている。
「コーヒーと言えば……君も母さんにはもう会っただろう?」
「母さん?」
「母さんだよ。そう言ったじゃないか。君は忘れっぽくて困るなあ。母さんと言ったって、君が幼い頃を一緒に過ごした人じゃないよ。そんな人は忘れたって良い。僕が言っているのは、コーヒーと哲学が大好きな、引き籠もりがちな母さんだよ」
ああ。言われてみれば、そんな人に会った事がある。ここと同じ青い空が窓から見えていて、揺れるカーテンを背にして座る、優しい女の人だ。
そうだ。あの人が命の概念とか、概念という命とか、教えてくれたのだった。
あの人が僕のお母さんなのか。
「みんなの母さんだよ。この世界のありとあらゆるものは彼女から生まれてくる。命があるものも無いものもね。母さんは概念そのものなんだよ。ただしヒトが作った概念じゃない。ヒトが現れるずっとずっと以前からあって、もっと根源的なものだ。例えるなら、概念という――」
「概念という生命」
「そうだ。やっと思い出してきたじゃないか!」
彼は大いに笑い、そして手を叩いた。
「でも、あの人は概念を否定していたよ。老いて、汚れているって」
「老いも汚れも否定ではないね。生命は必ず老いるし、代謝があれば老廃物が溜まる。生命という概念について議論が重ねられる程、手垢も付けばぽろぽろ落ちる物も出てきてしまうんだ。母さんはそれを認めただけだよ。否定じゃない。寧ろ僕らの存在を肯定する為に、敢えてそうしたんだ」
存在の肯定。僕や彼には、そんな事が必要なのだろうか。誰かに認められなくても、僕は僕ではないのか。
「ところが、そうはいかない。僕らはヒトにとって否定されてしまう存在だ」
彼の傍、犬とは反対に、巨大な試験管の様なものが現れた。ガラスの管と機械とが電線やチューブで繋がっている。ガラス管の中には何か赤っぽい半透明な液体が満ちていた。
「ううん、これじゃあ良く見えないな」
そう言うと、彼はナイフを逆手に持ち、えいと思い切り振りかぶってガラス管に突き立てた。ガラスの表面にヒビが走り、穴が空く。そこからどろどろと液体が流れ出して、液に浸かっていたものが姿を現した。
胎児だ。
チューブや電線はガラス壁にへばり付いた臍帯と繋がっていて、まだヒトの形になり始めたばかりの胎児は、羊水を失ってだらりとぶら下がった。
「これが君で、僕だ。そして彼女で、この犬だ」
「やめて、死んじゃうよ!」
僕は思わず立ち上がって叫んだ。ところが彼は落ち着いた様子で、大丈夫だと言った。
「これは単なるイメージだもの。イメージは死なない。ほらね」
ガラス管の穴もヒビも塞がって、再び羊水に満たされていた。
「あくまでイメージだ。本当にこんな装置だったかは知らない。けれど僕らはこうして生まれた。ヒトが生殖という手段の外で、母胎の外で作った命。それが君さ。クローン技術とか遺伝子操作とか、とうとう愚劣の塔の頂きまで上り詰めてしまった人間の、エゴが作り出したものさ。つまりは科学の子供だ。人為生物と呼ばれているらしいけれど。当然世界はこんな実験を許さない。だから、作られたばかりの僕らは、あっちこっちの国へ孤児として流された。だから僕らは、ヒトの言う命の外で生まれたんだ」
信じられない事だと思った。受け入れがたい事だとも思った。けれども同時に、納得もしていた。僕は他人と違う。その事をとても簡単に説明されたから。
「ヒトは誰だって他人とは違うさ。だけど僕らは、ヒトであってもヒトとして生まれなかった。そんな僕らに、母さんは可能性を与えてくれたんだ」
「可能性?」
問い返すと、彼は笑みを浮かべて、耳を指差した。
「聞こえるんだろう? みんなの声が」
ああ。聞こえる。動物達の声が、僕の耳には聞こえてくるのだ。
「正確には声じゃない。声で意思疎通を図るのはヒトや一部の生き物だけだからね。それは意思そのものだよ」
「意思……やっぱり怒っているのかな、彼らは」
「どうして? 怒る理由なんか無いよ。ああ、やっぱり君は勿体無い事をしてる。母さんが折角くれた可能性を無駄にしてるなあ。本当に、勿体無い」
「その……『可能性』っていうのは、一体何なの?」
僕は気持ちを落ち着ける為に、また座り直しながら訊いた。
「新しい生命としての可能性さ!」
彼は両手を拡げて、誇らしげに声を高めた。
「今まで個別だった生命が、僕らの元で一つになるんだ。動物も植物も、菌やウイルスでさえ、僕らを通じて一体になる。一つ一つの命が、まるで細胞の様に繋がりあって、この地球という星で一個の生命体になるんだ。ああ、なんて素晴らしい」
恍惚として、天を仰ぐ。
ガイア理論。以前にキッツから聞かされた話だ。けれどあれは、あくまで一つの生物の様な働きをするという仮説に過ぎない。
彼が言っているのは、本当に地球が一つの生物になる事だ。統一された概念と、意思による、巨大な生命体として。
だけれどそれは。
「……怖いよ」
彼は急に真顔に戻って、僕を見詰め返す。
「僕が僕で居られなくなるなんて、堪えられない」
「それをエゴと言うんだよ。何が怖いもんか」
「だけど僕は、僕が僕で居るから、人と触れあえるんだ。みんなで一緒になってしまったら、僕や他人の区別ができないじゃないか。僕は……」
ワッカを見付けられなくなってしまう。
僕は彼女と一緒に居たいんだ。僕として。
ああ、と彼は溜息を吐いた。同時に一際強い風が吹いて、テーブルクロスを、テーブルを飛ばしていった。残ったのは僕と彼だけだ。
「ああ。なんて残念なんだ。君もやっぱり、他のヒトと同じ様に罰が必要なのか」
「罰? 罰って何だよ」
「罪を犯した者には罰が必要だろう? 当たり前の話だ。母さんの大きな意思に反する事は、それも巨大な罪じゃないか。折角悲しみも憎しみも無い世界を作ろうとしているのに、それを邪魔するのは酷い罪じゃないか。自らの造り上げた世界で、それを望んでいたはずなのに、結局個が個を主張して、目に見える物だけを信じて正しい世界のあり様から目を背けてしまった。瓦礫の山の天辺で、寂しい悲しいと泣き喚くだけの愚かなヒトには、罰を与えなくちゃならないじゃないか」
僕にはそれが出来るんだ、と彼は立ち上がった。
「ヒトが自然の摂理に戻らないと言うなら、僕は全てを無に帰すまで戦う。そして一から新しい世界を、一つの命を生み出すんだ」
突如、足下が崩れ落ちた。椅子から転げ落ちて、穴の中へ、暗闇の奥へ、意識の深くまで落下していく。
「おやすみ。僕はもう起きるよ。何だか騒がしいしね」
僕はこのまま戻れないのだろうか。深い深い穴倉へ、永遠に落ち続けていくのだろうか。
嫌だ。怖い。
ワッカ、君に会いたい。
その時。暖かな手が僕の手を掴んだ。




