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テレヌス  作者: 熊と塩
第二部 : Amantes amentes.
34/40

34/ゴシップ

 マザー号のエンジンは快調な唸りを上げている。アラシの指示で整備士の手が加わったおかげだ。部品を換装した訳でもあるまいに、急場のメンテナンスをしただけで見違える様だ。餅は餅屋と言ったところだ。やはりどんな化粧を施そうと、軍用車に違い無い。

 しかし悪くないとアラシは言った。

「どうしてか、不思議なものです。文化や民族が違えど、白色の持つ意味は共通して高潔、神聖、無垢。本来、兵器とは相容れない。それがこうなると、何だか象徴的ではありませんか」

 いやあ、と肩を並べたクリストファーは、頭を掻いた。

「そこまで考えちゃいないんですけどねえ。ぼくらはホワイトカラーだからって……でも言われてみれば、そういう意味合いがあって良いかも知れません。こいつは、汚れ無き母なんです。聖人が処女から生まれた様に、母の胎内には神秘と可能性が満ちていて、胎児には真実の自由がある」

「それなら、子供を乗せるにはうってつけだ。鉄の棺桶では、未来が無い」

 マザー号を眺めていたアラシの目は、いつの間にかそれよりどこか遠くを見詰めていた。

「……すみませんでした。あの農場から連れ出さなければ、こんな事には……」

「元はと言えば俺です。あいつをナメていたのがいけない。用意された場所でしか生きられない、流されるがままだろうと、消極的な期待をしたのが。可能性を見くびっていましたよ」

 クリストファーに向き直り、深々と頭を垂れた。

「どうか頼みます。あいつを見付けてやって下さい」

 生きる場所を選べないのは、大人の方なのかも知れない。

 あの難民収容所からは、北へ続く道が二手に分かれている。アラシ達がやって来た道は沿岸の、テッサロニキから来る国道だ。とすると、もう一方へ向かったと見るのが妥当だろう。

「先生はもう良いね?」

 マザー号に乗り込んだところで、シュエが言った。

「何が」

「思い残す事は無いね?」

 ああ。大方、オロールから聞いたのだろう。

「無い。別れは告げてきた」

 ただ、生きていたならまた会おうと約束をして。

 マザー号が町を出る時、見送りに立っていたのはアラシとオロールだけだった。


「犬? オオカミやジャッカルとは違うのかい?」

 町を発って数分、はぐれたジェラールの事を思い出していた。

「いや、以前なら血統書が付されても良いくらい、立派な犬だったが」

 クリストファーなら食い付く話題だろうとは思っていた。同時に、詳しい事が解りそうだという期待もあった。だからこそ、そうか、と不明瞭な呟きしか言わないのが気に掛かった。

「なぜ黙る」

「あ、いや……」

 些か狼狽した様子で座り直した。

「噂話で聞いたってくらいだから。あまり不確かな事を言うのもどうかと思って」

「不確かな事ばかりだろうが。言ってみろ」

「……先生もご存知の通り、犬ってのは他の何よりも人間の生活に近い動物だったから、真っ先に殺処分の対象になって、数年の内にイヌ科イヌ目イエイヌは絶滅した訳だけど、人間の愛好家の方は絶滅しちゃいない。それで、どうにか復活させようって目論見があったみたいだ。勿論アングラで、ではあるけど」

 人間と犬の関係は切っても切れないものだ。その発想に至るのは、無理も無い事の様に思う。しかし。

「どうやって? よしんば隠し持っていた犬を交配させても、凶暴化は免れないだろう」

「それだから愛好家も泣く泣く手放したんだけれども、どうにかしてあの人懐こい愛玩動物を蘇らせようと考えたんだよ。そこで、目を付けられたのが、保管された犬の精子と卵子。優れた血統のものを保存しようって、民間のバンクがあったんだ。今度の騒ぎが収まればいずれ活用しようと取っておいたけど、我慢出来ずに試してみたら凶暴性も無く大成功だった、って噂」

「それがどうして噂止まりなんだ。事実よく躾けられた犬を見た。大発見だろう」

 どうしてかなあ、とクリストファーは言った。

「ぼくが知ったのだって、ゴシップ記事だからねえ」

 答えにならない事を言ったきり後が続かなかった。どうにも引っ掛かる態度だ。

 今の世の中に起きているのは、説明が付かない事ばかりだ。解決法があったとして、それさえ説明の付かない事かも知れない。ならばこそクリストファーは思索を巡らせてきたのではなかったか。不確かで根も葉も無いなどと、一考もせず切り捨て取り合わないという態度は、らしくない。腑に落ちなかった。

「おい、何をはぐらかしている」

 クリストファーは答えない。シュエもだ。なぜ、この話題で黙り込むのだ。

「何を隠しているんだ」

 強い口調で詰問しようとも、答えない。ワッカも二人の背中を見詰めている。

 科学者が口にするのを憚る事とは、何だ。古くは政治に逆らう事だった。政治がまだ神の名の下あった頃は、地動説を唱える事すら罪だった。神が政治的な権威を弱めた今、科学を阻むのは何か。禁忌とは何だろうか。

 倫理。自然の摂理に違い無い。

 それ以上追及しなかったのは、マザー号が収容所の跡に至ったからだった。

 あの日見た惨状が、今も変わらずにあった。この世の地獄の中で口を開く事は、誰にも適わない。酷いとか惨いとか言えるのは傍観者だけである。明日は我が身と思えばこそ、そんな他人事の様な科白は口に出来なかった。

 アラシの部隊が作った轍を逆に辿り、収容所を出たところでマザー号は北西へ舵を切った。この航路が正しいという保証は無い。間違っていた時の保険も無い。ただ一縷の希望を賭けて突き進むしか無いのだ。

 収容所を離れてからも暫く無言が続いた。前方の座席に居る方としては、何やら隠し事をしている気まずさからだろうか。後方のおれとワッカは今後の不安から。

 突然、ブレーキが金切り声を上げマザー号が停止した。どうしたと身を乗り出すと、クリストファーもシュエも信じられないという面持ちで前を見詰めたまま、

「犬だ」

 と呟いた。

 道路の真ん中に、ぽつりと犬が座っていた。

「あれはジョニーじゃないか」

 後部ハッチを開けさせると、まずワッカが飛び出していった。おれも痛む足を引き摺って追う。幸いワッカはすぐに駆け寄る事はせず、マザー号の横腹でおれの到着を待ってくれていた。

 随分と汚れているがジョニー、ジェラールの犬に違い無かった。ワッカを手で制しながら歩み出ると、ジョニーはすっくと腰を上げ前脚を突っ張る姿勢を取った。警戒のそれである。

「ジェラール、居ないのか、ジェラール!」

 草むらの方へ大声で呼び掛けてみたが、応答は無い。ジョニーの態度からも察しが付いていたが、どうやら彼らははぐれたか、死に別れてしまった様だ。

 さて。束の間同道した間柄だから、このまま捨て置く訳にはいかない。けれども一度はやり合った仲でもあるし、一度警戒心を抱いた犬を手懐けるのはそう容易い事でもない。犬の事はある程度知っているつもりだが、扱いに慣れてはいない。どうしたものだろうか。

 と考えていると、ワッカが後ろから、

「おいで、ジョニー」

 と声を掛けていた。ジョニーは耳をぴんと立てて、訝しがる様子を見せながらも恐る恐る歩み出てきた。そしておれの横を少し遠回りして、ワッカの傍に寄る。

 しゃがみ込んだワッカがジョニーの頬を撫でてやると、ジョニーは尻尾を振り、頭を擦り付けて甘えた。やれやれという感じだ。犬は少女の無垢な精神を敏感に感じ取ったのだろう。

 それとも、ワッカにも動物と通じる特別な何かがあるのかも知れない。

「驚いたな。本当に人懐っこい犬だ」

 顔を出したクリストファーが驚嘆すると、ジョニーは再びやや警戒する素振りを見せた。ワッカが落ち着かせてやり、クリストファーはどうどうと間違った対処をする。

「ゴシップじゃなかっただろう」

「先生が知った時点でゴシップじゃないよ。浮き世離れしてるんだから。しかし、本当に驚いた」

 今度はどうも深刻そうな面持ちで言う。これは好機と、無邪気にじゃれ合うワッカとジョニーを尻目に、マザー号のハッチへ戻った。

「良い加減、隠し事は無しにしないか」

 詰め寄ると、クリストファーはうっとあからさまに呻いた。

「犬の話がそれ程し難いものとは思えん。ロコルやワッカに関わる事だからだ」

 ううんと唸る。図星なのだろう。

「あの犬と彼らにどんな共通点がある? 言え」

 問い詰めれば目を泳がせて、両手でちょっと待ってくれの仕草をする。

「……不確かな事は言えない」

「不確かな事なんて今まで散々喋り散らして来たはずだが。そうやって逃げるのは何か確信があるからだろう。違うか」

「確信とか確証とかなんて関係無いんだ。彼らの出生に関わる事だから……」

「彼ら? ロコルとワッカか。彼らの生まれ方に共通点があるという事だな?」

 おれは今、一歩退くひ弱な男の襟首を掴んで更に尋問を続けようと考えた。だがやめた。今の状況では更に揺さぶりを掛けるのは危険だと判断したからだ。本当にワッカとロコルの出自が明らかになるならば、それはしっかりと落ち着いた場面が望ましいだろう。ワッカには伏せる必要があるかも知れない。大人達が伝えるべきか迷うなら、まず当人らに聞かれぬ場所を選ぶのが適切だ。

 本音を言えば、もしワッカが出自とロコルとの関係を知った時、また塞ぎ込んでしまうのが恐い。少女のか弱い心に対して、おれはあまりに無力だ。

 しかし。ワッカとロコルに何らかの繋がりがあると知って、おれは大した驚きを抱かなかった。二人の持つ不可思議な能力、第六感の様なものもそうだが、彼らの互いの感情について、その理由が無いという事に、思うところがあるからだ。

 仮にだが、彼ら二人が兄妹だとしたら互いに特段の意味も無く惹かれ合う事は、無理からぬ事であると思う。人間は生物学的に、自分と異なる遺伝子を持つ相手に魅力を感じ、近しい者には惹かれぬものである。殊に、思春期の頃には嫌悪感さえ持つだろう。ところが子供は逆だ。群れの本能から来る庇護欲求なのか、親や兄弟や親戚の異性に、恋愛かそれに近しい感情を抱くものである。

 おれが姉を好きだった様に。

 見た目の人種こそ違えど、ロコルとワッカに血縁関係があったとしたら、おれは寧ろ合点がいく。だがワッカにとっては衝撃的だろう。受け入れがたいはずだ。

 だから、今は追及すべきではない。例えおれの仮説が間違っていたとしても、クリストファーもシュエも、揃って墓場まで持って行きかねない程に口を閉ざしているのだから、まず我々大人が時と場所を選ばなければならないだろう。

 子供らにとっては勝手な話ではあるのだが。

 それもこれも、ロコルが見付かってからの話ではあるのだが。

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