32/見えない世界
夜。教会は家を追われた人々で埋められていた。ただ沈痛な顔を突き合わせ、ただ目を閉じ、押し黙っている。見放されて尚も。ワッカは彼らに水を運ぶなど、忙しくしていた。奉仕に走る姿は健気であるし、またよく似合ってもいた。
オルガはまだ戻っていない。重傷者共々隊のテントに居ると聞いて、おれは教会を抜け出した。
広場に並べられていた遺骸は、夕暮れまでに町の裏手へ簡単に埋葬し、代わりに兵士達が体を休めていた。あちこちで火を熾しコーヒーやスープを作りつつ、銃器の手入れやらほつれた服の裁縫やらしている。惨状と戦場と日常を行き来する彼らの心情は計り知れない。
尋ねるに、重傷者を匿う大きなテントの脇に立てられた、小さなものがオロールのテントで、そこにオルガも居るらしい。
「いいか」
外から声を掛けると、すぐにオロールが顔を出し「あら」と言った。
「安静にしていて、って言わなかった?」
「心配は要らない。おれより彼女だ」
オロールはちらとテントの中を振り返ってから、
「大丈夫、だいぶ落ち着いたから」
そう答えながら這い出して、おれを引っ張ってテントから離すと、声を潜めて言った。
「ねえ、体に障害を抱えている人には二通りある。脆いか、強いか。彼女は強い方ね……きっと、良いお父さんだったんでしょう」
「ああ、良い男だったよ」
「でも、あまり刺激しないで頂戴。本人がどれだけ気丈に振る舞っても、周りの人間が壊すのは簡単なんだから」
「解ってる」
慰めや励ましが出来るとは思っていない。実のところ、しようとも思っていない。無駄だからだ。無駄な事を無駄と解ってするよりも、必要な事がある、それをする。
オロールはおれの顔を態とらしく覗き込んで言う。
「ひょっとして、特別な関係?」
「馬鹿言え」
「そう? 残念」
ぐぐと姿勢を戻して腕を組んだ。目をテントへ投げ遣る。
「大事な人が居るって、心強いものよ。あなたがそうでないのは残念だけれど……だからって、弱みにつけ込む様な真似も絶対に無しにして」
「だから。そんなじゃない。おれはオルガの父親と、その……友人だった」
「ふうん」
じっとりとした目付きでおれを見返してくる。疑っているのか。いや、疑われても無理からぬ事だ。成り行きでほんの数日世話になっただけなのだし。しかしおれがルーカスに対して友情を感じているのは真実だ。今更の事だろうが。
「なら良いわ。適当なところで休ませてあげて。あたしも休まないと」
背伸びをしたオロールの首筋が鳴るのを聞いた。
「そうだ、それと……さっきはごめんなさい。撃とうと思ったら、頭が真っ白になっちゃって……」
「君は戦闘員じゃないのだろう。誰も恨みはしないさ」
「うん。でも、彼女には言えないな。卑怯でしょ」
「刺激するなと言ったのは誰だ?」
オロールは苦笑いを浮かべて、頷いた。
「そうね。それじゃあ、後は宜しく」
後悔を振り払う様に背を向けて、立ち去って行った。
見送ってから気が付いたが、ここはオロールのテントではなかったか。隊の中に行く当てでもあるのだろうか。
オルガは泣き腫らした目をしていたが、もう涙は止まっていた。血みどろの服は着替えられ、体も拭われている様だ。小さなテントに体を押し込めると、顔向きを変えないまま「クラウス様」と呟いた。
「おかえりなさい」
そして薄く微笑む。
「……ああ、ただいま」
「意外に、早いお帰りですのね。ふふ……お父様の言う通りでした」
「何と言った?」
「『いずれ戻ってくる。そう遠くない内だ』と。でも、思った以上で驚きました」
だが一歩遅かった。それは口にしない。
不意に、オルガの手が何かを探して這った。段々と近付いてきて、包帯で巻かれた左足に触れる。
「怪我を?」
「大したものじゃない」
オルガの手が撫でる様に脚を這い上がってくる。身体ごと傾けて、上へ上へと昇ってくる。左手首に触れそうになって、おれは右手で、オルガの手を取った。
冷たい。陶器の様な指先は、少し力を加えたらいとも容易く折れてしまいそうだ。そんな指が、寧ろ、おれの手を強く締め付けた。
「……もう、行かないで下さい」
声が微かに震えている。
「寂しい……すごく、寂しいのです。もうお父様の声が聞けないなんて、もう、本を読んでくれる事も、お花や洋服の色を教えてくれる事も、おやすみを言ってくれることも、おはようを言ってくれる事も、髪を直してくれる事も、手を繋いでくれる事も……あの手に触れる事が、出来ないなんて……」
泣いていただろう。涸れ果てた瞼から涙は溢れなかったが、泣いていた。
おれはオルガの手をそっと振り解く。胸が痛んだ。泣いている女の手から逃れるのは、刺し貫かれる様な痛みがあるのだと知った。
「それは出来ない。留まる訳にはいかない。ルーカスと約束した」
卑怯な言い様だったろう。オルガは顔を上げ、光の無い目でおれを見詰めた。開ききった瞳孔の裏側には、どんな男が見えていただろうか。若い頃の父親に似ているかも知れない。だが何にせよ、その姿はおれではない。
「君がおれに縋る事は解っていた。君がおれに頼らざるを得ない事は知っていた。君の父親もおれに託すのを望むかも知れないとも考えた。だが、おれは君を支えられない。君の助けにはなれない。おれは君が思っている様な男じゃない」
そう言いながら頭を過ぎったのは、罪悪感だった。一方で、敢えてそうするのだという確信もあった。
「君を慰める為に来たんじゃない。君に尋ねる為だ。以前、君が世話をした少年の事だ」
オルガはハッと顔色を曇らせたが、すぐ隠す様に顔を背けた。
「……どうしてでしょう」
「おれ達はある少年を探している。君の知っている少年と同一人物かも知れない。おれは、そいつのする事を止めたい」
オルガの表情は変わらなかった。思慮深く、おれの言う事の意味を悟っていた。
「お話ししたら、行ってしまうのですね」
「そうだ。だが話してくれなくても行く。後戻りは出来ないからだ。だから、次の一歩を確実にする為の情報が欲しい。その少年と一番関わり合いを持っていた君から、手掛かりを貰いに来た」
敢えて、考えを明らかにした。敢えて、父を亡くした娘への配慮も、引き留めたい気持ちへの同情も差し挟まなかった。如何に残酷な事かは承知しているし、如何に身勝手か理解している。しかし、形振りを構っている時じゃない。
一刻でも早く少年に会わなければならない。彼を止めなくてはならない。おれ達がしなければならない事なのか、などという疑問は要らない。
そうしなければならない、そうしたいと思うから、そうするのだ。
当初からの目的、ワッカの目的を忘れてはいない。ロコルは探す。ロコルを探すのと少年を見つけ出すのは同じ直線上にある。彼がロコルなのか否かは会えば解る。考えても無駄だ。
この発想の切り替えは、ルーカスのおかげだ。彼にさせられた痛悔機密も、彼の死も、多大なる影響を与えてくれた。恩人だ。だからこそ罪悪感が起きるが、おれはもう迷わないし、留まらない。
「今、一つ解った事がある。おれは『そいつを止める』と言った。だが君は疑問を口にしなかった。その猶予があったにも関わらず、寧ろ訳を知っているかの様だった」
オルガは何も言い返さない。顔を背けたまま奥歯を噛み締めた。
「君は、その少年が何をしたか、知っていたな」
そう問うと、体を離し姿勢を整えながらも「はい」と答えた。もう隠し立てする必要を失ったとばかりに、実に呆気なく。
「亡くなった赤ちゃんの事、そのすぐ後の襲撃の事……小さな町ですから、隠し事は出来ません。町の人がこっそり噂してるのが聞こえました。私、目は見えない分、人の心が見えます。息遣いとか仕草で解るのです。特に嘘を吐く時は、よく見えます。でも、お父様の嘘は優しくて……だから私も、知らないフリをしていました」
ルーカスは自分の娘を侮っていた様だ。いや、もしかするとルーカスもオルガの嘘を見抜いていたかも知れない。今となっては知り得ない事ではあるが、思い遣りからの嘘や楽観は、家族の関係を維持するのに必要だと、おれもよく知っている。
「では、その少年が動物を招き入れたのだという話を、君は信じたのか」
「信じ難い話だと思いました。でも信じられなくとも、何と無く理解出来ました」
「理解?」
妙な言い回しだ。
「彼は、私とは口を利いてくれていました」
おれは思わず身を乗り出していた。
「話してくれ。彼は君になんと言っていた?」
オルガは、諦めきった穏やかな表情で語り始めた。
少年が、足取りは覚束ないものの、一人で階段の上り下りが出来る程に回復した頃だった。朝、オルガが少年の体を拭っている時、突然少年は口を開いた。
「見えないからこそ、見える世界」
発せられた声、その言葉にオルガは声を失った。
「光の中に生きる動物にとって、目は世界を捉える重要な器官だけれど、その機能は必ずしも同一じゃない。例え同じヒトの間であっても、見え方は違う。見える者と見えない者が、遠くの霞む者と近くのぼやける者が、色の見分けが付く者と付かない者が居る。程度の差もある。それぞれが違う。誰もが知っている事だ。なのに、ヒトはそこに境界を引いた。いくつもの基準を設けて区別した。なぜだろう?」
静かな語りだった。
「怖いからだ。自分と誰かとが同じでないと、我慢ならないから。堪らなくなるから。生まれながらに、違う者は排除されると知っていて、違う者を排除したいと思っているから。それが群れを作る動物の本能だからだ。けれども、違う者を不気味と感じる事も、違う者が孤独だと感じる事も社会の中で否定して、ヒトはそれを理性と呼び、本能を拒絶する。本能から脱さないまま本能を拒絶した社会は、やがて自然の成り行きから外れていってしまった」
オルガは息を呑んだ。少年は身動き一つしなかったが、その声や息遣いに抱き竦められる様だった。
「歪んだ塔に尚も石を積み、頂で愉悦に浸る愚かさが、何者にも優るという傲りが、何者をも近付けぬという高ぶりが、一体何をもたらすか。ヒトは自らの創った物語からすらも学べない。それすら、愚劣の塔を築く煉瓦にしてしまった」
言葉には確かに嫌悪があった。憎悪があった。侮蔑があった。しかし少年の声色には、感情が全く感じられなかった。怒りも憎しみも無い、ただ文字列を読み上げているかの様に、淡々として冷たいのだ。
だがオルガの手を取った少年の掌には、体温があった。人のぬくもりがあった。
「いずれ崩れ落ちるのを知りながら、石を積む。揺れても尚しがみつく。なら下りる事は? 梯子は外された。なら転げ落ちる事は? 蹴落とされるがまま、足掻く事をやめたなら。痛みを恐れなければ、逸脱する事は可能だ。そうしたならば、そこにあるのは」
頬に宛がわれた手から、オルガは少年の表情を知った。
「見えないからこそ、見える世界」
少年は微笑んでいた。




