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テレヌス  作者: 熊と塩
第二部 : Amantes amentes.
31/40

31/責務

 頬を貫いた拳は、酷く重たかった。教会の壁に背を預けるおれを、隊長は無言のまま強か殴り付けたのだ。怪我人であるなど、構いもしなかった。部下を危険に晒した事、理由はそればかりではなかっただろう。もう一撃を振りかぶったところで、自らの袖を掴んで立ち尽くしているオロールを横目に見て、ゆっくり拳を下ろした。彼にも絶対に守り抜きたいものがあるのだ。

 オルガは、父の亡骸の隣に座り込み、元より光の無い瞳を開いたまま、壊れた人形の様に放心している。血みどろであるのもあって、通りすがりに見つけたならば、死んでいると思ってしまうだろう。いや、心は本当に死んでしまったかも知れない。そうでない事、そうならない事を願うばかりだが、今のおれには掛ける言葉も無い。

 ワッカは膝を抱え込み、普段より一層に悲痛な面持ちでいる。彼女もまた、途方も無い喪失感に襲われているのだろう。

 愛する者を失う恐怖を、人はどうして知っているのか、考えた事がある。どうして現実になる以前から恐怖するのか。どうして、まるで恐怖するためかの様に誰かを愛してしまうのか。それはきっと、そうした概念が生命に刷り込まれているからだと結論付けた、いや、空想した事がある。手脚を動かす事、食事を摂る事、瞬きをする事、呼吸をする事、心臓を動かす事と同じ様に、知識や知恵よりももっと根深いところに、生まれ落ちたその初めから存在しているのだと思う。

 集合的無意識。心理学ではそう呼ぶらしい。そして、集合的無意識は共通する元型なる概念から発生すると言う。

 なら、元型はどこから現れ、その心理のエネルギーは、一体どこを源泉としているのだろう。


「経緯は解りましたが……」

 隊長は腕組みをして、釈然としないという面持ちを見せた。

 しかし、驚いた。小僧が一緒に居た軍隊とやらが、まさか彼らだったとは。人の巡り合わせとは奇妙なものだ。運命を信じてしまえば、いっそ楽だという気さえしてくる。

「確かに、ロコルは妙なヤツでした。でしたが……敵を従えるなんていうのは、輪を掛けて眉唾というものでしょう。そんな話を信じろと言うのが無茶では」

「おれだって頭から信じた訳じゃない。ワッカもだ。しかし、この町の事実としてあった事だ。容姿の似ている事や、小僧の失踪した直後に起こった事を、ただの偶然と言い切る方が難しい」

 車の外では遺骸の処理がされている。広場に並べ、生き残った住人達が身元を確認していた。

 ルーカスの娘はここに居る。やはり魂の抜け殻の様相だったが、唇は何事か呟き続ける如く開閉を繰り返し、肩が微かに震えている。徐々に自我が戻りつつある。まだこれから苦痛は増していく。

「……これからどうするつもりです?」

「この体ではもう、無理だろうな」

 おれの発言に、ワッカは顔を上げた。すがる様な目付きでおれを見る。解っているさ。ワッカは、元より一人で行くつもりだ。だから怪我を理由にアテネへ引き返すなどと言い出すなと、そういう事だろう。

 おれだって、ここで脱落するなんて不本意だ。ロコルを探したい。事情を聞きたい。何が起きているのか知りたい。運命や使命や、縁など関わり無く、おれの意思だ。

 疑問に対する答も見付かると、直感している。

「だから、頼めないか。小僧を探してはくれないか」

「それは出来ませんよ。勝手な行動は許されない」

「一年間も子供を連れ回しておきながら、良く言えたものだ」

「……言い訳をするつもりはありませんけどね」

 隊長は顔をしかめて、内壁にもたれ掛かった。

「ロコルには随分助けられましたよ。あいつが居る間、被害は抑えられていましたからね。隊員の命を預かる者として、利用しない手は無いでしょう」

 身を乗り出そうとするワッカを、おれが止めた。隊長はワッカを見る。

「悪いな。君やロコルにとっては、大人の都合だ、汚い話に聞こえるだろう。責めてくれて構わない。けれど俺は謝らない、決して」

 睨むワッカを見返す目に、頑なな光があった。ロコルを探すと決めたワッカの目と、同種の輝きだ。だが寧ろ、背負っているものの大きさがあるだけに、幾分にも鈍く、凄みがある。ワッカは目を逸らした。

 隊長の目線がおれに戻った時、眼光は消えていた。

「いつまでも子供を戦場に連れ回し銃を握らせるのは、軍人として大人として、許されないと思ってはいましたよ。ワッカの登場はあいつを手放すのに、いや俺の手から離れるのに、良いきっかけだった」

「しかし、『大人の都合』も、呆気なく置き去りにしたのも、結果的に奴を追い詰める事に繋がった。その責任を果たそうとは思わないか」

「責任は感じます。関わり合った縁もあるし、あいつを可愛がっていた奴も居る。一人彷徨っているあいつを探してやりたいとも思う。感情的には、ですよ……他の責任をなげうってまで果たすべき責任など、あるでしょうか」

 一理ある。どころか、正論だ。責任と繰り返してはいるが、彼を責めるべき謂われは感じない。難民保護の名目でロコルを連れていた事は狡猾ではあったろうが、しかしロコル自身の希望でもあり、難民の受け入れ先が無いというのも事実だ。こんな出来事が起こると予見出来るはずも無く、つい先程までは、今もあの集団農場に居るものとばかり思っていただろう。誰にも責められない。

 突然、叫び声が上がった。オルガだ。

 やっと人間らしい感覚が戻ったのだろうが、発狂と呼ぶ方が相応しい悲鳴だった。言葉にならない声が喉から絞り出されていく。顔に当てた手の爪先は皮膚に深々と食い込んでいる。

 止めてやらなくては、という時、一足早くにオルガに近付いたのは隊長だった。

 オルガの腕を掴んで力任せに引き剥がしたかと思えば、間髪入れず、頬を平手で打った。意外だった。優しく、そっとするのが人情というものだろうに、隊長の平手打ちはあまり加減していない様に見えた。実際、叩かれたオルガは束の間腰が浮き上がり、横様に倒れ、咄嗟に手を突いた。

 ああ、そうか。手を突いたのだ。不意に体を庇った。それは我に返ったからこそ出来た事だ。叫びもピタリと止んだ。

 オルガを抱き起こしながら、隊長は囁いた。

「君は生かされたんだ。解るかい? 君は生きるべきだ、しっかりと」

 その声は、打って変わって優しいものだった。オルガは震える唇を噛んで、嗚咽を漏らし、そして泣いた。

 泣きじゃくるオルガを軽く抱き、その背を撫でているところへ、叫び声を聞いたオロールが駆け付けてきた。

「アラシ、大丈夫?」

「この子を静かな所へ連れて行ってくれ」

「了解。さあ、おいで」

 肩を抱いて、連れ立って行く。オルガの足取りはよろよろとしていたが、泣き声は啜り泣きであったし、大丈夫だろうという気にさせた。

 親を亡くした直後の娘を殴るというのは、彼なりの優しさなどというものではなかったろう。きっと何度も同じ様な場面に遭遇し、取り乱した者の扱いに慣れていたのだ。あのまま放っておくか、当たり障りの無い慰めの態度で接していたら、折角ルーカスが守り抜いたその体を、オルガは自ら傷付けていただろう。痛みは現実から乖離する為にも、現実に引き戻す為にも有用だ。

 だから、直ぐ様オルガを殴った隊長の判断は、実践的でもあり、幾許か作業的にも感じられた。

 オルガを見送ってから目を戻すと、隊長は何とも微妙に、切なげな表情を浮かべていた。


 部隊は暫くこの町に留まるそうだ。元の任務は失敗に終わったし、今町を離れては無防備になる。警護部隊を待つか、町の住人を移送するか、いずれにせよ次の指示を待つしかないのだと言う。

 遅れて町に入った後続隊の報告では、ジェラールは発見されなかったという。難民であるから遺骸の身元を確かめる術も無いが、希望的観測ではなく、きっと逃げ延びただろう。

 さて、日も傾いた頃、おれとワッカは教会に居た。二晩を明かした部屋ではなく、その隣、オルガの部屋だ。ぬいぐるみや花、元は少女らしい品物、父親や町の住民らに愛されている象徴に溢れた部屋だったろうに、今は割れた窓ガラスと鳥の死骸と羽が散らばる、惨たらしいものだった。

 ワッカが箒とちり取りを手に、散乱したあらゆる物を窓から捨てている。今晩もその先も、オルガがこの部屋に戻るかは解らないが。おれと言えば、黙々と掃除するワッカを眺めている事しか出来なかった。

 思い返せば、遠い思い出の様だ。

 最後の夜、痛悔機密の後、食事の世話を断っていたのだが、折角なのだからと夕食に招かれたのだった。取り分け何か特別な食事ではなかった。ただ襲い来る敵の肉を前にして、滑稽にも食に感謝する祈りを唱え、静かに食う、たったそれだけの事だった。印象に残っている事と言えば、器用に食器を扱うオルガと、その様子をそっと見守るルーカスと、ルーカスに勧められておずおず肉を口に運ぶワッカ、そして久しぶりの食卓に居心地の悪さを感じていた事くらいだろうか。何の事や無い、日常的なもの。

 それが昨晩、たった二十時間前。

 しかし、永遠に失われてしまった時間だ。たった昨日の事なのに、もう二度と巡ってこない。時間というのは得てしてそう、当たり前だが、今との隔たりが剰りに大きく、思い返して懐かしく感じてしまう。

 大昔がつい昨日の出来事の様に、つい昨日が昔の出来事の様に……奇妙で、皮肉めいた現象だ。

「クラウス」

 ワッカが、破れたレースのカーテンを引き剥がしながら言った。

「わたし、解ったんだ」

「何を?」

「色々」

 作業する手を休める事無く、淡々と続けた。

「一つは、ロコルに会いたい理由。本当は好きだとか大切だとか、そんなんじゃない。さっきの話で解った。わたしも、責任を果たしたいだけなんだって。謝りたいだけなんだって。そうしなくちゃいけないからなんだって……そうでないと、私が辛くなるから」

「……そうか」

 そうとしか言えない。それが悪い事とは思わない。ただ、少し残念な気はする。

「それと、もう一つは、花の事」

 花、とはワッカの目に見えているものの事だろう。

「ルーカスの花は、黒ずんでた。ルーカスだけじゃなくて、お父さんも、お母さんも……あの日、運ばれていった人達も」

 ワッカはそこまで言って、振り返った。気が付かなかった。その目から涙が流れ出ている事に。

「これから死んじゃう人が見えるんだ」

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