30/奇蹟を見たか
車体が揺れる度に、止血しただけの左足首と、骨折した左手首に響いた。オロールという女衛生兵は相当手練れの様子で、走行する車中にも関わらず、痛み止めの注射まで打ってくれた。だが当分、いや悪ければ一生、走る事も銃を撃つ事もままならないかも知れない。
いや、今何より心配しているのは、おれ自身の体ではなく、町の事、ルーカスやオルガの事だ。
軍の武装車両は、鳥の軍八百から一千メートル、射程距離外を追っている。一群の巨大な雲は肉眼でも見えた。おれとワッカがこの車両に同乗しているのは、同行を願ったのもあったが、後続のピックアップを待っていては間に合わないという緊急の判断にもよる。あの東洋人はやはりこの隊の長で、若さとは不相応に冷静な判断能力を持っている様だ。日本の自衛隊は優秀だとどこかで聞いた事があったが、全くその通りかも知れない。
しかし銃座から乗り出したその顔色に、焦りは隠せていない。ほんの少しハンドル操作を誤れば横転してしまう程の全速力で追っているが、鳥らとの距離は詰まらない。双眼鏡を覗き込みながら、歯軋りが止まない。それは他の兵士連中も同様だ。無線の周波数を探しながら叫び続ける者、その他も各々装備の確認に余念無く、忙しない。
おれも平静を保つのがやっとだ。もっと飛ばせないのか、この距離からでも撃てないのかと、口に出さない様堪えている。おれにしがみつき、懐に顔を埋めたまま動かないワッカも、体が震えている。恐怖感が一分一秒ごとに増していく。
俄然、隊長が叫びを上げた。
「ロケットだ、さっさと寄越せ!」
遂に射程に収めたかと思われたが、そうではなかった。町のバリケードが閉ざされているのを確認したのだ。同時に、暗雲が町を覆うのも。
「バリケードを爆破してこのまま突っ込む。寸前まで速度を緩めるな! 衝撃注意!」
無茶を言う。命中させる事に自信はある様だが、都合良く車一台分の道が空くとも限らない。命懸けだ。だが一方、兵士達に異を唱える者は居ない。皆頭を抱え込んだり、車体に掴まったり、命令通り衝撃に備えた。従順であるばかりでは、こうもいかないだろう。恐らく、こうして幾度として死線を潜り抜けてきたのだろうし、恐らく全員が、任を全うしようという捨て身の意思を持っている。
殆ど横たわった姿勢のまま、首を持ち上げて様子を見守っていたのだが、そこをオロールに押さえ付けられる。ヘルメットを被せられ、床面に当てていろと言うのだ。
「ワッカはそのまま、しっかり掴まってて。あなたもワッカを放さないで!」
「ああ……ところで、一つ頼みがあるんだ。拳銃は無いか? 片手で扱えるヤツだ」
「え?」
おれの頼みに意外そうな顔をした。そこに隊長の声が被さる。
「突入後二手に分かれろ。住民の救助が最優先だ。オロール、お前は残れ!」
いよいよか。
「発射ァ!」
打ち上げ花火の様な音と同時に、隊長の体が仰け反った。
爆音。ブレーキを踏んだ車の中で、前方に引き寄せられ、頭を打つ。そして一瞬、車体が宙に浮いた。バリケードの残骸に乗り上げ、跳んだのだ。
浮遊感の後、下から強く打ち付けられる衝撃。着地、突入は見事に成功したのだ。
停車するや否や、タラップが蹴り下ろされ、兵士達が踊り出て行く。その肩越しに見えたのは、上空を黒く塗りつぶし、そこから雹の如く降り注ぐ鳥の大群だった。
一直線に家々の窓を破り、漏斗で注ぐ様に流れ込んでいく。
四方八方から悲鳴や絶叫が聞こえる。
隊長は舌打ちをして、オロールにもう一度指示を与えてから、自らも戦場へ向かう。
残ったのはおれとワッカと、そしてオロール。オロールはライフルを構え、襲撃に備えている。
「さっきの頼みだ。拳銃を」
「ダメよ、必要無い。信用しなさい」
そう言って振り返りもしない。
「なら勝手に借りるぞ」
ホルスターから引き抜いて、オロールを押し退けた。
「ちょっと! 何を――」
タラップを転げて飛び出した。
やはり左足は腱を切られている様だが、愛銃を杖にすれば歩けない事も無い。
「ワッカを頼む」
オロールが何事か喚いたが、構うものか。拳銃を口に咥え、走る。おれは借りを返さなければならない。返せれば良いが。
ところが、ワッカまでもが車から飛び降りて、おれの後を追って来る。無理からない。ワッカもまた借りを作っていたのだ。しかし、今のおれには守る力も無い。
「このバカ! 戻りなさい」
怒鳴りながらオロールも付いて来た。正直、助かる。後ろは任せる事にした。
教会が見えてくる。町は阿鼻叫喚だ。逃げ惑う人々、空襲を掛ける鳥の群れ。この隙に乗じて雪崩れ込んだ獣の群れ。
子供を抱き抱えて蹲る女に襲い掛かる獣を、オロールが撃った。三発撃って一発が命中。
「早く逃げて、あっちへ!」
隊の到着した方を指し示すオロールの背後からも、鳥が迫る。それをおれが撃ち落とす。驚いて振り返ったオロールは、漸く顔色を陰らせながらも親指を立てて見せた。
「やるじゃん」
軽口を叩いてる場合では無い。
教会の戸は閉ざされている。閂を下ろされた様子も無い。父娘は中に留まっているだろう。そしてまだ襲撃されていない様だ。
いや、これからだった。
空の黒ずみから一点、斜線を描いて落ちてくる。後からもう一羽、二羽、三羽と続け様に急降下を始める。目指す先は、あれは、オルガの部屋ではないのか。
脚を急がせるが、ままならない。もどかしい。痛みなど忘れてしまえと思おうと、左足は完全に力を失っている。
あと五十メートルと至った辺りで、突如、教会の戸が開け放たれた。ルーカスがオルガの両肩を抱いて飛び出したのだ。
良かった、まだ無事だ……そう思ったのも束の間、戸口から鳥の群れが溢れ出る。火災の煙の様に、戸口から立ち上る、飛び上がる。舞い上がった鳥達は、屋根より高くで広がり、弧を描き、そして再び一点へ向けて降下を始める。
ルーカス!
「クラ――……!」
目が合った。驚愕の表情だった。だが、今朝別れたばかりだと言うのに、再会を喜ぶ様にも見えた。一瞬の事だ。
ルーカスの背中に鳥が突き刺さった。まるで上空に放たれた矢だった。カササギの黒い頭部が背に埋もれるのを見た。
ルーカスは不意に体を仰け反らしたが、直ぐ様オルガに覆い被さった。その上に、鳥が襲い掛かる。ルーカスの腕を脚を、頬を脇腹を切り裂いて、鳥が落ちる。ガンの様な鳥まで、落下速度を乗せて体当たりをする。
拳銃を撃った。しかし重なった上層を撃ち殺すに留まるしかない。精度が甘い。下手に狙えば、ルーカス自身を撃ちかねない。それは絶対に嫌だ。
小さな鉛玉を数発撃ち込んだところで、鳥は臆しもしなかった。ならば、もっと精度が高く、もっと弾をばらまけるものがあるだろう。振り返ってオロールを見た。
オロールは……硬直していた。銃を構え、照準器こそルーカスの方へ向けられているものの、狙いを付けるその目は見開かれたまま焦点を定められず、銃身を支える左腕は震えている。
駄目なのか。
助けられないのか。
そんなのは御免だ。おれは撃ちまくり、走った。地面を踏み締める足は無い、杖を支える腕も無い。転倒しても、構わず撃った。けれどルーカスを埋め尽くす鳥の群れは離れない。
影がおれに被さってきた。カラスだ。巨大化したカラスが、さながら猛禽類の様に、おれに爪を掛けようとしていた。だが銃口を向けて漸く気付いた。スライドが下がったままの位置にある。弾丸が尽きている。
銃声と共に、カラスの体が吹き飛んだ。おれの体から離れた位置にぼとりと落ちる。銃声はオロールのものではなかった。確かに、教会の方からした。
鳥の死骸の合間、翼を振り回し啄む鳥の下から、猟銃が突き出し、その銃口から一筋の煙が立ち上っている。ルーカスが撃ったのだ。ルーカスが助けてくれたのだ。出会った時と同じ様に、窮地を救ってくれた。
おれはルーカスに救われた。
照準器越しに見えたのは、見えていないはずの潰れた右目だった。それさえ埋もれ、銃口が下がっていく。そして手元を離れ、地に落ちた。
ルーカスの名を叫んだ。呼び止めようとした。この声が届いているだろうか。
もう届いていないのか。
すぐ背後で連続した銃声がして、ルーカスの上の鳥どもが弾き飛ばされていった。
撃ったのは隊長だ。オロールより後ろから、正確に鳥の塊を削り落としていく。
「オロール、援護しろ。ワッカ、伏せていろ!」
上空の敵が隊長を狙っている。隊長はそれを、照準を覗き込んだまま感じ取っていた。いや、勘付いていた。オロールは我に返った様に、銃口を隊長の頭上へ向ける。
希望が溢れたに違い無い。心強い助けだったはずに違い無い。
だがおれの心は、どす黒くドロリとしたタールに満たされている。
諦めという感情に――。
嵐が過ぎ去った空は、何事も無かったかの様に澄み切っている。
地上には鳥と人の死骸が散らばっている。剰りに対照的な光景で嘘らしい。
嘘であれば良かった。
おれはまだあの教会で眠りこけている。窓の外では大雨が続いていて、雨を浴び痛悔をして身も心もいくらかの垢を落とし、僅か残った嫌な予感が悪い夢を見せているに過ぎない。
そうであれば良かったのに。
手首と足首の痛みが、流れ出る血が、これは現実だと如実に訴えている。眼前の死骸の山から、目を逸らす事を許してくれない。
「――巫山戯るな……」
ああ、神よ。
一体彼が何をした。自分の娘を、町の住民を、おれやワッカという他人までも、守ろうとしただけではないか。その慈愛に対する報償が、これなのか。なら神とは何だ、預言者の告げた教えとは、何なのだ。
それとも、居もしないものを崇め、偶像に祈りを捧げ、虚空に拝んだルーカスは、ただの愚か者だったのか。蔑みの目を向け、嘲笑うべき男だったのか。
「巫山戯るな!」
おれの叫びに呼応する様に、鳥の死骸の山が、微かに動いた。一羽の死骸がこぼれ落ちる。まさかと思った。奇蹟が起きたのかと思った。
這いずり、山に近付く。死骸を払い除け、そこに見たものは、
呻き声がした。嗚咽だった。鮮血に染まった掌を、見えない目で見詰めていた。
「お父様……お父、様……」
ルーカスは、首にもう一つの口が開いていた。動脈を切断され、溢れ出た血が愛娘の体を濡らしていた。ルーカスの血を失った顔は白く、表情は、覚悟をした穏やかな顔のままだった。
オルガは無傷だった。ルーカスの体一つで隠しきれる程小さくはないのに、衣服の所々を破り裂かれただけだった。しかしその事は奇蹟とは呼べない。ただただ、父親の愛が為した事だ。自らの命と引き替えにしただけだ。
奇蹟などではない。
この世界に奇蹟など起こらない。




