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テレヌス  作者: 熊と塩
第二部 : Amantes amentes.
29/40

29/鳥

 茫然と立ち尽くす事しか出来なかった。おれも、ワッカも、ジェラールも、ただただ立ち尽くし、眼前の有様を眺め続ける事しか、出来得なかった。

 現実として受け入れるのが困難だった。

 いや、頭の片隅で想像していたからこそ、強い拒絶感があった。

 数台の武装車はいずれも無人。搭載された機関銃には空の弾帯がぶら下がる。フロントガラスが割れ、シートが濡れている。

 バリケードのフェンスゲートは、開け放たれたままだ。しかも、鋼鉄製のフレームがひしゃげている。

 そしてその向こう、街は……。

 突然、ワッカが走り出した。止める間も無く、手脚を大きく振り回して。

「おれは追う! お前は来なくて良い」

 後方のジェラールに言って、おれも走った。程なくして、ジェラールの「畜生!」だの「バカヤロウ!」だのという叫びがして、足音が付いてきた。

 大通りの直線、左右はちょっとしたビルやアパートや店舗が建ち並んでいる。それなりに栄えた街だったのが解る。しかし、窓や戸はことごとく破られている。爪痕、衝突し大破した軍用車の数々、そして死体。

 死体、死体、死体……軍人も民間人も、男も女も、子供も老人も、皆死んでいる。皆殺しだ。

 ワッカは一直線に走っていく。慣れない身振りで、まだ疲れの抜けていない体で、我を忘れて、駆けていく。

「誰か……!」

 切り裂いた風に、ワッカの声が残っていた。

「……誰か……誰か……!」

 初めて聞く声色だ。あまりに悲痛、あまりに痛切な声だ。ところが行き過ぎて、言葉に偽りがあると知れてしまう声だった。探しているのは、誰か、などではない。そして死体の中を探してはいない。

 必死に走る勢いのまま、道路のひび割れに蹴躓いた。手を突く事さえ意識に及ばず、顔面から舗装に叩き付け、幾度か転げる。

 追い付いて抱き起こすと、鼻から唇、顎まで擦り剥き、顔を上げさせた途端に鼻血まで流れ出た。だが何より痛ましかったのは、顔面を濡らす涙だった。

「――ロコル……」

「ワッカ、しっかりしろ! まだ……まだ――」

 まだ、結論付けるのは早い。おれはそう言おうとしていた。まだ、あの少年がロコルと決め付けるのは、まだ、この惨状がロコルの引き起こしたものと思うのは、まだ、早い。そう言おうとした。

 だが言えなかった。おれも、確証の無い疑念を抱いてしまっているからだ。獣の群れを率いて難民を惨殺していくロコルという、おぞましい想像に取り憑かれてしまっているからだ。

 背筋を冷たいものが撫でた。

 想像のせいばかりではない。辺りはしんと静まり返り、後から追ってくるジェラールとジョニーの足音を除けば、物音一つ無い。だが、居る。

 ワッカを抱き寄せ、感覚を研ぎ澄ませれば、周囲の気配が伝わってくる。素肌の表面をビリビリとわずかな電流が走る。耳で、鼻で、肌で感じる気配は、すぐ間近にひしめいていた。

 その時、バサリと音がした。ベッドシーツを広げた様な、そんな音だ。バサリ、バサリと次々に、道の左右の建物から音が立つ。

 頭上に影が迫った。

「ジェラール、隠れろ!」

 叫びながら、ワッカを抱えて傍にあった軍用車に飛び込む。何が襲い来るのか確かめる暇は無かった。一瞬だ。

 屋根に何かのぶつかる音。そして腰の辺りにべちゃりとした感触が降り掛かった。血と臓物だ。更に、今頭上で弾け飛んだものの、長い葉の形をした体毛が張り付いている。鳥だ。

 飛び込んだ瞬間、車体が傾いたのが幸いしたらしい。だが、一撃を回避した後も安堵している時間的猶予など無かった。


 <鳥>というタイトルの映画があった。確か監督はヒッチコックだったか。昔、まだ母が存命の頃、家族で観た記憶がある。

 父は映画好きで、彼の書斎はビデオテープだらけだった。所蔵は本国ドイツのみならず、アメリカやフランス、幾つかは日本のものまであったと思う。主にホラーやサスペンスを好んでいた。十にも満たない子供が当然観るべきでない、劇場では年齢制限の掛かる、残酷描写や性描写を含む映画を毎夜の様に観せられ、トラウマの如く心に焼き付いて離れていないものが多々あるが、中でもあのヒッチコックの映画は、強烈な印象が残っている。映画そのものを観る機会を失って尚、その映像は鮮明に思い出せる。

 幼心に、不可解でならなかった。そしてそれ故に怖かった。謂われの無い暴力は何にしろ恐ろしいのだが、相手が身近に存在する動物というのが尚更に、奇妙ながらリアリティを持っていた。

 幼いおれが、街中鳥類に出会うと身構えてしまう様になったのは、当然と言えるだろう。そして、もし今襲われたら一体如何にして勝つか、難を逃れるかを考えるのも必然だ。

 しかし、想像の中でさえ、鳥には一度も勝てたことが無い。一羽や二羽なら叩き落とす事も適うだろうが、群れで襲われたらどうしたらいいのやら。何とか逃げ延び家に閉じこもったとして、映画の真似をして窓を塞ぐ時間はあるのか。敗北し、鋭い嘴と爪で目を抉られるところまでを空想し、身震いして逃げ帰るしかなかった。


 この街がどうして滅んだのか、漸く理解した。

 建物の窓という窓から、一斉に鳥達が飛び上がった。人間の住まいは、土砂降りから身を隠す絶好の休息所に仕立て上げられていたのだ。大小の鳥の大群が瞬く間にも空を覆い、黒いうねりと化す。

 幼い頃の恐怖が現実となった今も、対処の術が思い浮かばない。隠れる事がどれだけの意味を持つか、いや隠れる場所などあるものか。現にこの武装車も、強化ガラス製の窓さえことごとく打ち破られている。戦うにしても、逃げるにしても、「どうやって」という疑問が付く。

 考え倦ねる時間さえ許されない。

 またもワッカを抱え上げ、車外へ滑り出た。全周囲から襲撃される危険を考えれば、得策ではない。だが車内に留まっても方向を限定出来るというだけで、寧ろ身動きが取りにくくなる。最善策などありはしない。

 ジェラールは姿を消していた。流石の逃げ足だ。しかし逃げ延びる事は可能だろうか。

 他人の心配をしている場合ではない。走るしかない。街の中へ向かってだ。入り口の方へ行っても打開策が無いのは知っていた。やもすると、街の中心部付近にはまだ生き残った人間が居るかも知れない。そういう淡い期待もある。

 鳥の攻撃を避けながら逃げる。と言っても、ただジグザグに走るだけだ。攻撃は正に鳥の雨とばかりだ。一羽一羽読んで躱すなど不可能だ。あちらも決死の特攻と言った様相で、滑降してくる大半が路面や電柱や壁面にぶち当たり、トマトの如く砕け散っている。そんな猛攻を直撃していないのは単なる幸運。幾度となく嘴が体を掠め、表皮の一部や服を切り裂いていった。

 幸運は長く続かない。カラスが一羽、おれの左足首を切り裂いて墜落した。ぶつ、という音が骨を伝わって聞こえた。勢いの付いた左脚は構わず前に出るが、地に着いた途端ぐにゃりと曲がり、体重を支える事無く、つんのめる様にして転倒してしまう。しかも、ワッカを庇うべく伸ばした左腕も、二人分の体重と加速に耐えきれず、手首から折れた。

 頭の中に「致命傷」の言葉が閃き、刹那真っ黒に塗り潰された。

――終わりだ。

 咄嗟に体を捻り、折れた左腕でワッカを庇いながら、上空に銃を向ける。本能がそうさせたものの、精神の遥か上層にある理性は、無駄だと叫んだ。

 無駄な事はしない。そのはずなのに、照準を定められないまま右手は引き金を引く。一発目の鉛玉はたった一羽を辛くも撃ち落とし、二発目は跳ね上がった銃口もそのままに、あらぬ空間を貫いた。もう弾を込め直す事も出来ない。

 仰いだ空では鳥達が、ぐるぐると渦を巻いている。無駄な抵抗をするなと言わんばかりに。

 おれの胴を掴んだワッカの手が、強く握り込まれる。次に鳥が襲い掛かって来ようものなら、空の銃を振り回すつもりだ。無駄と知りながら。

 無駄だ。何をやっても、もう無駄だ。


 思い返せば、無駄な事はしないなどとうそぶきながら、随分と無駄な事ばかりやってきた。

 ワッカと同行してきた事も、クリストファーとシュエの用心棒を買って出た事も、誰かの為に役立とうとした事は、無駄な事だ。逃避、一時の慰めのつもりだったに違い無い。

 逃避や慰めが無駄なら、山に篭もったのも無駄。ひたすら感覚と肉体と銃の技術を鍛えた事も、結果として無駄。

 だとすれば、この短い人生の殆ど全てが無駄だ。何と実りの無い人生だったろう。

 無駄。無駄。無駄。

 無駄が降り積もり、凝固し、形を作ったのが、おれ。

 すまない。そう言いたかった。おれにも、失った家族にも、そして一番にワッカにも、そう言いたい。

 ごめんなさい。


 上空に、一点の光が走った。白い筋が軌跡を描き、一瞬黒い煙の塊が膨らんだ。

 続いて爆発音。風。瞬時に小さく膨らみ萎んで消えた爆煙に、鳥の群れの一部が削り取られ、ひらりひらりと舞う羽毛だけを残した。二度、三度と空中で爆発が起きる。目の前で起こる出来事を理解するのに、一拍の間があった。助けが来たのだ。

 助け? 何と都合の良い解釈だろう。

 近接信管を用いたロケット弾など、一般に入手出来るはずがない。軍隊だ。遅ればせながらやって来た応援部隊と偶然かち合った。また運に味方をされた。それだけだ。まだ生き延びるらしい。

 機関銃の乱射が近付いてくる。横付けされた武装車から兵士達がぞろぞろ降りて、空へ向けて銃を撃ちまくる。その最中、二人の男が駆け寄ってきて、おれとワッカを車両の影に引き摺る。

 やかましい銃声の切れ間に聞かされた第一声は、意外なものだった。

「どうしてここに居るんだ」

 そう言ったのは、精悍な顔付きをした東洋人だった。難民の生き残りと考えるのが自然だろうに。しかも、見詰める先はおれではなく、ワッカだった。ワッカはすぐに答えなかったが、やはり意外という面持ちで相手を見返している。顔見知りなのか。

 兎も角、事情を確かめ合う場合ではない。

「――もう一人居るんだ。拾ってやってくれないか」

「どこに?」

「解らない」

 必要な情報とは言え、混乱を来す内容だったろう。だが男は顔をしかめる事すら無く、トランシーバーに叫んだ。

「生存者二名を回収、A班は引き続き敵殲滅、B班は生存者の捜索に当たれ」

 指揮官らしく、近くの兵士におれ達を収容する様指示を出す。

 その間にも軍の迎撃は続き、鳥の群れは逃げ始めていた。これで一安心――と考えたのは、間違いだった。

 鳥達が大挙して飛び去っていく方向は、街の入り口へ向かう方角だ。つまり、おれ達が来た道のりを遡って行く。

 あの町へ向かって行く。

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