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テレヌス  作者: 熊と塩
第二部 : Amantes amentes.
23/40

23/花

 農家が住んでいただろう空き家は、長らく放置されていただろう。窓ガラスは砂埃がこびり付いて日差しを遮るが、割れた箇所も無く、風を遮ってくれている。寝室のベッドにはマットレスがそのまま残されている。一晩を過ごすには申し分無い。

 日暮れ前にここへ案内したのは、さっきの男――名はジェラールというらしい――だった。脅迫の手段を看破されては降伏するしかないだろう。だが、逃げる機会を与えたにも関わらず、どころかおれ達を昨晩の寝床に導く、というのは、腑に落ちなかった。ジェラールが言うには、

「アンタ方に、ちょっと興味が涌いたんでねェ」

 というのが理由らしい。果たしてこの男を側に置いていて良いものか。

「なァ、アンタ方ァ何なんだ? どこへ行こうってんだ?」

「教える前に、こちらの質問に答えてもらう。あの犬はなんだ。まるで十年前のそれだぞ」

「ジョニーの事かい。や、オイラにもよく解らねェ。一年前、事故ったバンに出会してさ、覗いてみりゃ……」

 顎で指したジョニーは今、ワッカに撫でられて尻尾を振り回している。

「ゲージに何頭か入れられてた内の生き残りだ。初めは生け捕りにしたヤツかと思ったけどよ、しかし、普通何がなんでも食い付いて来ようとするもんだろ? それが、上目遣いにじっと見てくるだけだ。恐る恐る檻から出してみりゃ、な」

「解らんな」

 例え仔犬の頃から育てたとして、ああも人に懐く事は、ここ数年来の異変の最中では、常識として有り得ない。

 だが更に驚くべきはワッカだ。いくら馴れた様子の犬が相手と言え、物心付いた頃から驚異であった動物には、近付くのも恐ろしいものではないのか。しかも首を撫で、頬を舐めさせもする。子供らしい純粋さ、などといった言葉で割り切る事の出来ない程、受容している。

 計り知れない。


 この家の暖炉に火がくべられるのは、一体何年ぶりだろうか。炎が、家人でなく見知らぬ闖入者の為に燃えている。揺らめく灯りの中、ワッカはマットレスの上で膝を抱え、その足下ではジョニーが蹲り、そしてジェラールは恐る恐る紙片を開いた。

「何だい、こりゃ? ……絵か。花?」

「ワッカが描いた。上手いだろう」

「上手いかどうか、って言うと……」

 ジェラールはワッカを横目に見て閉口した。失笑してしまいそうだった。

 ワッカの絵は何とも言えない、独特なものだ。シュエの描く抽象画をいくつか見せられた事があったが、それとも違う。上手いか下手かという次元には無い様に思う。絵画の技法について詳しい事は知らないが、恐らく抽象的とも写実的とも呼びがたいもので、。

「しっかし、こんな……や、こういう形の花は見た事無ェなァ。お嬢ちゃん、この花はなんて花だい?」

 ワッカは答えない。膝越しに、宙へ視線を漂わせているだけだ。今、彼女の五感は何も感じていない。ただ一つの事を思い耽っている。

「その花は存在しない」

「ふーん、そいじゃ、空想の産物かい」

「それも違うな。厳密に言えば、それはある小僧を描いたものだ」

 おれの答えを聞いて、ジェラールはしばしぽかんと口を開けていた。

「――や、意味が解らねェよ」

「彼女には、人がそう見えるのだ」

 ジェラールはまたも唖然とした。今度は言葉を返さず、ワッカの視線の先で手を振った。

「いや、ものは見えている。実際のところ、どういう風に見えているのかはおれにも解らないが、人を見た時に浮かぶ像なのかも知れない……そこに描かれた小僧も、奇妙な感覚を持っていたな」

「へ、へェ……や、よく解ったぜ。よく解らねェが、ここは一旦解った事にしておくぜ。しっかしよ、何だか不気味だぜ、コレ。や、や、お嬢ちゃんの事は良いんだが、この絵の具がよ……何だってこんな赤黒い――」

「それは血だ」

「うえっ!」

 血と知るや否や、指で摘んで突き返してきた。


 難民を乗せたトレーラーが、襲撃を受け全滅した――その知らせが入ったのは、ロコルが発って三日後の事だった。ワッカが追って出たのがそれから一ヶ月半。

 アテネを出てたった一日で、トレーラーの襲われた現場に着いた。たった一日だ。車では半日と掛かっていない距離。その場所には横転したトレーラーがそのまま残されていた。遺体などは運び出されていたが、路面やコンテナの中には、血痕がこびり付いたまま、遺留品が散乱したままだった。靴、スカーフ、バッグ、ぬいぐるみ……その中に、ロコルの花はあった。

 血糊で貼り合わされた絵。慎重に開くと、血の染みが偶然にも花弁を着色していた。

 その血がロコルのものか否か、それは解らない。クリストファーのもとに持ち帰り、照合する事も出来たが、それはワッカが拒否し、探し歩く道を選んだ。もしロコルの血であったら、と怖れたのかと言えば、きっと違う。例えロコルのものであっても、それはロコルが出血したというだけに過ぎないと、ワッカは諦めなかっただろう。ロコルと再会するまでは、旅を続けるつもりだ。

 ワッカが旅を続ける限り、おれは付き従う。


 絵をワッカに返すと、すっと受け取りポケットに仕舞い込み、また膝を抱えた。

「あんたは、何だってこのお嬢ちゃんにそこまでするんだ。一人じゃ無理だ、誰かが守ってやらねェと、ってのは納得いくんだけど、なァ」

「答えを探しているからだ」

「何の『答え』?」

「己が何者であるか」

 すると、ジェラールは大袈裟に吹き出し、笑った。

「まるで十代のガキみてェな理由だ! うくく……まッ、ちょっと安心したけどねェ。小さい女の子に欲情する、なんて言われたらどうしたモンかと思っちゃった」

「……下品な奴だ」

「お上品な盗賊があるかい?」

 違い無い。


 夜を明かすには寝ずの番が鉄則だ。夜の番はおれの任だった訳だが、今夜はジェラールに任せる事にした。流石に疲労が溜まっているからだ。

「おい、あんた、おめでてェヤツだってよく言われねェ? 信用するのが早すぎるんじゃねェの?」

「盗もうが逃げようが構わん」

 ワッカに視線を移した。既に横になり、背を向けている。眠っているかは定かでない。

「お前を信用しているのは、彼女だ。おれは彼女を信じる」

「どういう理屈なんだか……」

「彼女は視力以上のもので人を見ているからな。まあ、そういう事だ。後は任せた」

 それだけ言い切って、俺は目を閉じた。


 次に目を開けたのは、空が白んだ頃だ。暖炉の火は消え、薄暗がりで見えたのは、目を閉じる前と同じワッカの背中だ。ジェラールとジョニーは居ない。

「――逃げたか」

 荷物はある。中身を漁られた様子も無い。

 その方が良いだろう。役に立つか、足手まといか、という話じゃない。これはワッカとおれの旅だ。言うならば、一人の小娘のわがままと、それに付き合う世話焼き、果てない道程だ。その道連れは要らない。

 奴が居なくなったところで、ワッカも特段残念がる事もなかろう。強いて言うなら、あの犬の事はもう少し知っておきたかったか。

「おい、起きたのかい?」

 戸口から声がした。振り向けば、朝日を背に受けてジェラールが立っている。何故だか落胆させられた。

「異常無しだぜェ。先、急ぐんだろ? だったらとっとと起きねェと」


 ジェラールがおれ達に付いて回るのも、盗賊などという生き方をしているのにも、さして込み入った理由は無いらしい。

「人様に迷惑掛ける生き様のが好みなんでねェ」

 と口走っていた。それが真意か知らないが、悪ぶったものの言い方をしたのだろう、とは察しが付く。つまるところ、おれと似た部類の人間だという事、なのかも知れない。

 世界を覆った未曾有の危機の前に、人は皆臆病になった。臆病なのは悪い事ではない。だが臆病な故に馴れ合い、取り繕い、飾った言葉で励まし合ったり、聞こえの良い言葉を怒声に乗せたりする様は、不快だ。個が鳴りを潜め、全に迎合し、孤が主張し、善が救いの手を差し伸べる、といった流れが、たまらなく不愉快だ。以前までは多少なりともあった、それぞれの存在する空間が、価値観が、棲み分けというものが、平らげられてしまうのに、どうしようもなく不条理を感じてしまう。

 所詮人間は、一つの脳で見聞きし、ものを考え喋る、一つで完結した生き物だ。一人と一人、二人かそれ以上と交わる事は有り得ない。共感や相互理解は錯覚だ。アシとかハチとかの昆虫、ヒツジとかシカとかの動物に出来るそれを、阻んでいるのは人間の理性に違い無い。出来るというのは思い込み、或いは自己暗示だ。

 かと言って、他人や自己以外、その他大勢に対して無関心でいられるかと言えば、そうではない。本質は孤独であると思う一方、故に孤独を愛せず、きっと無意識の内、人間の最も奥深くにある根本的な部分での、錯覚ではない接続に強く憧れている。そうであれば良いのに、と思う。

 そうした思想や感性を持った人間は、人の社会には馴染めない。個々人の錯覚の下に成り立つ巨大な何かに違和感を覚え、まるで怪物を前にしている様に思っている限り、内に入る事は出来ない。大多数とは相反し、大きな隔たりを作ってしまう。そうなっていく。

 まあ、このジェラールという男が、これ、またはこの中のどこに当て嵌まるかは知る由も無いが、人の社会に対して臍を曲げているという点では、近いところに居るのだろう。

「町まではあと十数キロってところだ。降伏ついでに見送らせてくれよなァ」

「その後はまた追い剥ぎか」

「ま、そーなるわなァ。どーせ、オイラは爪弾きモンだからァ」

 ハハハ、と高らかに笑ったが、声音は少し乾いている。

 言葉通り暫く、後に付いて来たが、町が見えてきた辺りで、ここまで、と別れた。ジェラールは去り際、掲げた手をヒラヒラ振って、意味深長に言った。

「気ィ付けてなァ」

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