22/旅路で
ちょうど、このくらいだった。
前を行く少女の背丈も、年の頃も、おれとの距離も、ちょうどこのくらいだったのだ。あの頃とは、何もかも変わってしまったが。
思い起こせば、懐かしさよりも苦痛の伴う、幼い記憶。
丘陵に突き当たるまで、見渡す限りの草原。元は農耕地域だ。耕され肥料の加えられた土で雑草は生い茂り、人の手で生み出された野菜は皆枯れた。人のやる事は大抵がそうだ。自然を切り出し、模倣し、利用するが、何にせよ脆弱。
ともかく、腰程もある草がこうも繁っていては、どこに何が潜んでいても不思議は無い。国境付近の次なる街まで、気を緩める暇は無い。それでワッカを先に行かせているが、彼女はおれを信頼してくれている様だ。人は、特に子供は、大抵後に続く人間を不安がって幾度も振り返るものだが、ワッカはそれをしなかった。
その信頼に、応え続けられたなら良いが。
アテネを離れて八日。子供の脚でよくもここまで歩き続けられる。恐らく信念や情熱というものが背を押すからなのだろうが、しかし、そろそろ限界だ。アテネで支給されるものを少しずつ蓄えた食料が、底を突こうとしている。歩調が初めの頃より頼りないし、一日の移動量も減っている。ワッカは肉を全く口に出来ず、そもそも動物を狩る弾丸も、もうゆとりが無い。そろそろ日が暮れるが、かと言ってここで休む訳にもいかず、気ばかりが急く。
焦りは心に隙を作る。
「ワッカ、止まれ」
茂みが動いた。風ではない。ほんの一束か二束、風が撫でるのに逆らって揺れた。それはおれ達が付け狙われている兆しだ。すかさず銃口を向けるが、しかし、妙だ。
推測するに、体高は高くとも六十センチメートル、オオカミかジャッカルだろう。どちらも群れで狩りをするものだ。だが、相手は単独。群れからはぐれたか、追われたか、いずれにせよ群れずに人間を狙うとは考えにくい。
囮なのか。既に回り込まれているのか。だとすれば、賢すぎる。
「なあ、あんた」
横合いから突然、男の声がした。後方三メートル程のところに、男が立っていた。
「カモって食ったことあるか?」
横目で確かめるに、男はひょろりとした長身で、ハンチング帽にタンクトップとカーゴパンツ、軽装だ。一体いつの間にここまで近付いてきたのか。
「おい、狙われているぞ」
「食った事無ェんだよ、カモ。ニワトリとシチメンチョウは目つぶって食っても解るんだがなァ……どんな味なんだよォ、カモって」
男はおれの言葉を無視した。こいつ、頭がおかしいのか。いや、違う。
こいつは、おれと同じだ。気配を殺し、獲物に忍び寄る、狩人だ。
照準の先を男に切り替えた。男は諸手を挙げて丸腰を強調しながらも、怯える様子も無くニヤリと笑う
「おおい、何やってんだよォ。狙われてるんだろォ?」
「ワッカ、そこを動くな」
「そうだよォ、下手に動くと噛み付かれるぞ」
「お前もだ。さもなければ銃弾に死ぬか、牙に死ぬか、選ぶ事になる」
不気味なのは、男も敵の存在に気付いているだろうに、そちらを気にする素振りも見せない事だ。
「イヤーイヤ、それは違うんだよォ。選択を迫られてるのは、アンタの方なんだぜ」
「何――?」
男はニヤけていた口をすぼめ、ヒュ、と口笛を吹く。
途端、茂みが割れ、獣が飛び出してきた。
オオカミかジャッカル――おれの予想は一部当たっていたが、外れていた。
「イヌだと!」
サビ色の筋肉質な体躯が躍り掛かってくる。襲いやすいワッカにでなく、おれに。
「行け! ジョニー、行け! 行け!」
イヌは人類史上最も古い家畜動物だ。オオカミの亜種、或いはジャッカルから種分化したこの種は、人に飼い慣らされれば他のどの動物より従順であり、明確な主従関係を構築する事が出来、よく働く。
嗅覚と聴覚に鋭く、俊敏で、敵を見付ければ大声で吠え立て、小さな獲物ならば咥えて主の元に戻る。その性質から狩猟や牧畜、農耕など、幅広く人間の生活と密接な関わりを持ち、またよく懐き感情表現の豊かさから愛玩動物、伴侶動物としても、従順さと勇猛果敢さから戦争にまでも用いられてきた。
人間はイヌの異種間交配を繰り返し、用途に合わせた種を開発していった。イヌの歴史は人間との歴史である。
しかし、人間と深い関わりにあるが故に、数年前から始まった異変によって、人類にとって最大の脅威となった動物でもある。
人間は絶大な信頼を置いたものに対して、実に無防備だった。
WHO、各国政府による緊急宣言によって、最も早期に駆逐され、絶滅し、人類の親しみによって築かれた歴史に幕を閉じた種である。
それが今、おれに牙を向けている。
銃の狙いを戻す。イヌに喉仏を噛み千切られるよりは速いはずだった。
だが、それよりも速く、一瞬の隙を突き、男が背後から羽交い締めにしてきた。背中に固い感触が突き付けられる。拳銃だ。
「ほォらさァ、オイラじゃねェんだよな! 撃たれて死ぬか、銃を捨てるか、アンタが選ぶんだよ!」
男が耳元でがなる。その間、イヌは足下で激しく吠え続けていた。
おれは大人しく銃を捨て、両手を挙げた。
「まだナイフとか持ってるんだろうけどさァ、どっちが速いか、もう解ったろう? そのまま両手を頭の後ろで組んで跪けよ」
「全く魂消たな。今時、イヌを飼い慣らしている奴がいるとは」
「どうかなァ。オイラのジョニーは獰猛だぜェ? って言うか、そんなこたァいいから座れよ、オラ」
銃口で二、三度突かれたが、構わず続けた。
「いや、よく躾けられている。盗みはしても殺しはしない、主の意向を理解している」
「オイオイ、チョーシ乗んなよな。お情けで生かしてやってるだけなんだぜェ? 今の時分、誰が殺人罪にビクつくってんだ」
そもそもどこの法だよ、と男は高らかに笑った。
「そうか、じゃあ撃て」
言い放つ。
「おれは撃っていい。しかしその場合、あっちの娘がすかさず反撃するぞ。護身用に拳銃を持たせているんだ」
「ハン! ハッタリかますなよなァ、オッサン」
「嘘だと思うなら、あの子の目を見てみろ」
ワッカの目――盗賊や牙を剥きよだれを滴らせる獣を前にしても、全く怯まない目。どうしてもここで躓く訳にはいかないという、決意の目だ。
「あの娘は、やる」
「ハ、ハンッ! 出来っこねェよ!」
「そうだな。あの子が銃を抜くより、お前の方が速い。だからおれと娘の両方を殺せば良い……出来るなら、だが」
男の腕が強張り、筋肉のちょっとした痙攣が、銃身を通して伝わってくる。
振り向き様に男の銃を持つ手首を掴み、捻り上げる。骨が軋み、拳銃が落ちた。道路を撥ね、乾いた音がする。
「やはりあの銃は軽い」
初めて男の顔を間近に見た。まだ若く、三十は手前だろう。
「ジョ、ジョニー、行け! ジョニー!」
「駄目だな」
そのまま組み伏せ、両腕を押さえ込むが、ジョニーは吠えるだけだ。
マウンテン・カー、ツリーイングドッグは、獲物を追い立てるのが役目だ。躾がよくされているだけに、自分より大きな相手、それも人間を襲う事は無い。
男は、身のこなしこそ素早いが、腕力は弱かった。肩の関節が外れる間際まで腕を捻られて、ひいひいと悲鳴を上げるばかりだ。
「さて、食い物を貰おうか」
ミイラ取りがミイラ。因果応報というものだ。かなり手慣れた様子から察するに、同じ手口を使ったのは一度や二度では済まないだろう。このまま腕をへし折ったところで、業の底には届くまい。この世界で良からぬ事を考える奴は、即ちただでは転ばない奴だ。武器が空の拳銃一つとは考え難いし、利き腕を封じておくのは得策と言える。
しかし、
「……その人、放してあげよう」
ワッカがそう言った。ワッカの声を聞くのは随分久しぶりだ。小僧が居なくなって以来、より一層口数が減っていた。
小僧が出て行ったのは、自分に責任があると思っている様だ。いや、思い込んでいる。一つの事を思い込んだ子供は、頑なだ。周囲の声などまるで耳に入らなくなり、ありとあらゆるものに対して、激しい拒絶が生じる。ワッカにしては、食事を摂る事さえもそうだった。スープを無理矢理飲ませても、すぐに吐き出してしまう程だった。貧弱な体付きが、より一層にやつれていく。点滴を打って何とかしのいでいた。
しかし突然、ワッカに食欲が戻った。二週間程して、毎日二度のスープを飲む様になり、すぐに固形物まで食べられる様になった。クリストファーやシュエなどは、これを喜んでいる様だったが、おれは違った。おれにはワッカの行動が、越冬する前に動物がするのと同じく見えたのだ。下手を打てば眠っている間にも餓死をする冬に備え、夏から秋の内に体力を蓄える、それだ。黙したまま出て行くつもりだと悟った。
ロコルを探す。生きているのか、死んでいるのかも定かでないが、それだけが唯一絶対の目的。目的を果たす以前に、自らが死んでしまうかも知れない。だがワッカは覚悟していた。その覚悟の前に、言葉は要らない。ただ頑なな、強い意志だけがあった。
そして、久しぶりに聞いた言葉が、これだ。何を思ってかは知れない。一点の目的を阻む者に違い無いにも関わらず、放せと言う。優しさからか、関わり合っている暇は無いという事か。
いずれにせよ、だ。
「お、おい」
男は唖然として、路上にへたり込んだまま、おれとワッカを交互に見た。ジョニーが脇に寄り、ちょこんと腰を下ろす。
「な、何でオレを放した? 何なんだよ、お前ら!」




