21/胎動
ゴロゴロとタイヤの転がる音がしている。左右の出入り口に嵌められた柵の隙間から、ゆっくりと通り過ぎていく雲を眺めている。百人から押し込められたトレーラーは北西へ進み、市街を抜け出て、農場跡をひた走っていた。
小さな子の泣く声がしている。男の舌打ちが聞こえる。
「なあ、本当にいらないのかよ」
僕の脇腹を肘で小突きながら、ほとんど同年齢だろう小柄な彼は、再三再四小声で言った。
「しつこいよ」
「何もさ、おれは親切で言ってるんじゃ、ないんだよ」
彼が僕に渡そうとしているのは、小さな折り畳みナイフだ。護身用ということらしい。けれど、彼が身を守れと言っているのは、動物からでなく、同じ人間からだ。だから、僕は断った。
「こいつは一つの『契約』なんだぜ。おれとお前が仲間だっていう、契約だ」
「仲間? 何の」
一際小さな声になって、「脱走だ」と囁いた。
「これから行くトコは刑務所だ。いや、ブタ箱よりもっとひでえよ。そうに決まってる。ナイフの一本もなけりゃ、生きていけない。でもそれだけじゃ先がない。だから逃げ出すんだよ」
「無駄だよ。動物のエサになりたいなら、勝手にやってくれ」
うんざりした。どうにか出来るんじゃないかとか、どうにかしてやろうと考える、その無謀さが疎ましい。
結局、彼も僕を利用したいだけだとも思った。耳のことは知らなくても、利用出来そうなガキだと、かつての隊長やアディントンや、キッツ達の様に、そう判断したに過ぎない。
突き放すと、突然、彼が僕の太腿を掴み、そして爪を立ててきた。痛みから振り向くと、彼は下から覗き込む様にして、睨み付けていた。
「おい、おれは南イタリアの生まれなんだぜ? 意味解るか」
そう凄まれても、あまり怖くはなかった。強いて言うなら、僕に渡そうとしていたナイフよりも、大ぶりなナイフを隠し持っているだろうということくらい。
「本当にえげつないのはケダモノなんかじゃねえ、人間だ。動物は喰う時潔く殺してくれるが、人間は人間を喰う時、生かしたまま魂まで貪り尽くすんだ」
「君の半生には興味があるよ。でも、手伝えないんだ。僕は――」
ぞぞぞ、と耳の奥がうずいた。
ハッとして外に目を戻すが、景色は未だ穏やかだった。
「解らないヤツだ、拳で教えてやる!」
胸倉に掴み掛かってくるけど、それどころじゃない。
敵が迫っている。それをどうにかして知らせないといけない。しかし、ここで騒いだとしても、みんな唖然として僕を黙らせるか、パニックになるだけだ。軍隊に伝わるとは思えない。
一体どうしたらいいんだ、どうしたら――声は一層に大きくなってくる。
耳鳴りが始まる。錆びたネジを耳の奥にねじ込まれる様な頭痛が起こる。アテネの時と同じだ。思わず頭を抱え込んだ。
「何だよ、どうしたんだよ」
辛うじてそう言う声が聞こえた。でもそれさえ、遠くへ遠くへ追いやられていく。頭の奥底を、絶叫が支配していく。
視界が狭まる。魂が体から離れて行く。
「コーヒーは嫌いだった?」
黒い水面がわずかに揺らめいて、湯気が立ち上っていた。
「あ、いただきます」
僕は咄嗟にそう答えた。
その時やっと思い出した。僕は、目の前の名前も知らない彼女に誘われて、コーヒーをごちそうになっているんだった。「熱いから気を付けて」と優しく言われた。
一口ゆっくり飲むと、ギリシャ・コーヒーの砂糖をたっぷりの甘さ、その後に目が覚める様な苦み。
「美味し――」
違う。そうじゃない。言い掛けてから、そう思い出した。
けれど、何が違うのか、何を思い出したのか、明瞭としなかった。誰かを探さなければいけない気もするし、何かを知らせなきゃいけない気もする。何かをしなくちゃ、という気持ちの時に、ここへ来た気がする。
「……あの、僕、行かないと」
「どうして?」
スカッとした空を背景にして、女性は屈託なく微笑する。
どうしてなんだろう。解らない。ここに居ちゃいけないとも、居るべくして居るのだとも思う。僕が答えられずにいると、女性は後ろの景色を振り返って、藪から棒に言った。
「どう思う?」
「どうって?」
「命よ」
その時、とてつもない違和を感じた。僕は今まで、次に来る質問を知っていたはずだ。僕はこの先の展開を、一度経験していたはずだ。それも、気のせいかも知れないけれど。
「命」
「命は目に見えないし、触れることさえ出来ない。なのに、誰しもが在るものと考え、生命の存在を疑わない。定義も曖昧な、抽象的な概念……だから、様々な議論がなされ、様々な立場での生命論が生まれた。けれど、『自分が生きていること』を疑う人は居ない。あなたも、そうでしょう?」
僕は迷うことなく頷いた。お前は生きているか、と問われたら、はいと答えるだろう。
「でも、『どう』と聞かれたって、よく解りません」
「命を、『生きていること』をどう思うか、よ」
女性は柔らかく笑った。
「僕の命?」
「あなたの、とは限らない。誰の、とも限らない。命そのものについて」
「……難しいです」
大切なものだとか、何より尊重すべきものだとか、答えるのは簡単だ。でも彼女が尋ねているのは、そういうことじゃない。なぜ大切なのか、なぜ尊重すべきなのか、なぜそう思うか。そういうことだ。単純な質問であるだけに、答えに困った。
だから、「解りません」と答えた。女性は頷いた。
「そうね。それが正解。言葉でどう讃えようと、誇ろうと、命があくまで物質でなく概念である以上、単一的な価値を見出すことは、本来難しいの。例えば、あなたと他人、他人と好きな人……あるいは人間と動物、動物と植物……生命の定義の上では、それぞれが同じ命を持っていることになるけれど、全てが等しいかと言えば、それは絶対に違う。人は、生命という統一的な概念を用いながら、その実、個々に対して個別の価値を与えている」
クスクスと声を立てて笑う。ただし嘲る様子とは違った。
「じゃあ、質問を変えるけれど、どうして生命という概念は在ると思う?」
僕が答えられずにいると、女性はまた、それでいいんだという風に言った。
「戒めだと、私は思う」
「『戒め』……」
「人は、様々に命を評価する……彼女は好きで彼は嫌い、ネコは愛でてネズミは殺す、チョウは美しいけれどクモは気味が悪い……それでも、命は平等に存在するのだとしたら、私達は、私達が何者であるのかを考えずには居られなくなる。人間と他の生き物では何が違うのか――いいえ、私とあなたでは何が違うのか、それを考えるために、考えることを忘れないために、戒めとして、命は在る」
女性の言うことは、何となく理解出来た。あくまで何となくだけれど。
命なんて、みんな都合良く解釈している。でも一度問いかけられたり、疑問を覚えたりすると、必ず矛盾、不自然さにぶち当たってしまう。目に見えないから、国や宗教や個人によって、その解釈は異なるし、決定的な結論を持っている人は少ないと思う。
そんな命や生死の概念は、どんどん合理化されたこの世界でも、未だまことしやかに存在している。神と同じものかも知れない。神はどんなに否定されようと、反証を突き付けられようと、揺るぎなく在る。命が神であるなら、女性の言う通り、命とは戒律だ。
しかし、
「どうしてあなたは、僕にそんな話を?」
哲学的な話をする相手に、僕はあたわないと思う。知らないことが沢山あって、今の様に初めて考え付かされることばかりだ。
女性はにっこりと微笑んだ。
「あなたはまだ汚れていないから」
そうだ。それは聞いたんだ。一体いつだっただろうか。遠い昔の様にも、ついさっきの様にも思えた。
僕の記憶では、ここで僕は呼ばれて、話を中断させられたんだ。けれど、今は僕を呼ぶ人は居ない。
「命が、ですか? 汚れるって、どういうことですか?」
僕は尋ねた。他の生き物を殺すことだろうか、経験を積むことだろうか、そういう憶測を立てながら。それなら、僕はどちらも当てはまらない。けれど、女性は頭を振り、「そうじゃないわ」と言った。
「生まれたばかりの赤ちゃんだって、命は汚れているのよ」
「……解りません」
「命は概念。では、『概念』はどこで生まれたのかしら」
「人の中、でしょうか」
「そうね。この土地の古い人達は、命を、呼吸すること『プシュケー』と呼んだ。その古い人達、いえ、一番最初に命の概念を考え出した人は、死んだわ。けれど概念だけは残った。次の世代に語り継がれ、伝搬していった。一人の思考、思索から離れて、根を張り枝葉を増やしながら大きくなった概念を、『既成概念』と言うの。既成概念が樹立すると、今度は既成概念を糧にする、別の概念が生まれるのよ。それは既成概念を完全に切り倒そうとするものかも知れない、あるいは一部を取り込むものかも知れない。しかし既成概念もまた、別の概念という外敵を得ることで生まれ変わり、進化し、変容し、強く逞しくなっていく……これって、何かに似ているでしょう?」
「まるで……生き物ですね」
「まさしく、概念は生命だわ」
生命は概念であり、概念は生命である、か。「だから」と女性は継いだ。
「永く進化をやめ、さも当然と在り続け、考えることを忘れられた概念は、老いている。それが汚れるということ。生命という概念の元に生まれた命は、生命として認められたその時点で、既に汚れている」
「でも――!」
釈然としなかった。
「僕は、この通り生きてます。命があります。他の誰とも変わらない」
女性が言う通りなら、汚れていない僕は、命がない、いや、違う命の概念の元に生まれたことになってしまう。
女性はコーヒーを一口飲んで、穏やかに続けた。
「『生命』が何故生まれたのか……それは『個』を主張するため。それぞれが違うということに、根本的な理由を与えるために生まれた。生き物の輪郭線で囲われた部分を呼ぶ、単位として生まれた。親子であっても、兄弟で合っても、いくら触れ合おうと、いくら愛し合おうと、混じり合うことはない。もどかしくとも、切なくとも、繋がることはない。それが生命……けれど、あなたは違う。あなたは、繋がっている」
「僕の耳のことですか」
そう問い返してから、ハッとした。どうしてこの人が知っているんだろう。
そうだ。おかしい。何もかもおかしい。こんな人は知らない。こんな部屋は知らない。いつか経験していたはずなのに、知らないんだ。
どうにも釈然としない、奇妙な感覚から、思わずズボンを握りしめる。その時、ポケットの中にくしゃっとした感覚があった。ポケットの中には、四つ折りにした紙が入っている。ワッカに貰った絵だ。これは、女性に招かれるよりずっと後に貰ったものだ。
僕は立ち上がった。そのはずだった。コーヒーを引っ繰り返して、椅子を蹴り飛ばして、立ったんだ。でも、コーヒーはカップいっぱいに注がれたままだったし、僕は椅子に座ったままだった。
「――何なんですか、ここは! あなたは!」
「あなたはここで生まれたのよ。そして、私は母親」
母親――口にした刹那、部屋が逆さまになった。けれど女性は平然と椅子に座っていた。僕だけが重力を逆さに掛けられた様だった。天井に向かって投げ出され、「おかえりなさい」と言う声が聞こえた。
「いってらっしゃい」
第一部 了




