2/聞こえる声
僕は思わず、あ、と声を上げた。オロールさんも、煙草を吸っていた兵士も、さっきまで呻き声を上げていた負傷者も、みんなが一斉に僕を見た。
ざわざわという声は、まだ聞こえてくる。どころか、どんどん大きくなってくる。何と言っているのかは聞き取れない。だけど、それが恐ろしく不穏なことを喚いているのが解る。
「ロコル、聞こえるのね?」
オロールさんはさっきまで持っていた注射器の代わりに、拳銃を引き抜いていた。他の連中も、咥え煙草にライフルを携え始めた。
動物の声が聞こえる。それが僕の能力だ。
鳴き声とは明らかに違う。たぶん、動物達の意識だとか意思だとか、そういうものから出てくる、ノイズみたいなもの、だと思う。言語的ではないから、何と言っているのかは解らない。だから会話も出来ない。
どうしてこんな風になったのか、僕には解らない。恐らく生まれ付きのものだ。両親から生前聞いた話では、僕は物心付いた頃からこうだったらしい。いや、今よりもっと変わっていたみたいだ。
「うん、だけど――」
声は大きく聞こえるけれど、こちらに近付いてくる感じはしなかった。それに、これは仲間の怒号や銃声の後ろで聞こえるのに、よく似ている。もうやり合っている時のだ。
「隊長が危ない!」
僕はキャンプを飛び出した。後ろから三人付いてくる。
隊長が危ないってことは、あの少女も危険な状態だということだ。
声のする方向へ走る。銃声も聞こえてきた。
隊長は崩れた家に入り、辛うじて天井の残った角に居た。少女はその後ろでうずくまって、耳を塞いでいる。
「隊長!」
こちらに気付いた隊長は、僕らの頭上に銃口を向けながら叫んだ。
「伏せろ!」
束の間、僕達を大きな影が覆った。それは一瞬で大きくなる。僕は咄嗟に、蹴つまづく様にして伏せたけれど、反応の遅れた一人が宙に浮き上がった。
突風が砂煙を巻き上げ、仲間は悲鳴と共に上空へ飛んでいく。振り返ると、巨大な鳥が仲間をさらっていったところだった。馬鹿でかいワシだ。仲間を掴まえたまま、もう豆粒くらい小さくなるまで飛び上がっていた。そして、その高さから、掴んだ兵士を落とす。絶叫と、鈍い音、そして砂の柱。
「隠れろ!」
誰となくそう喚きながら、散り散りに遮蔽物の陰に飛び込んだ。僕は右手の、壁と壁とが倒れてお互いを支え合う、小さな隙間に体を滑り込ませた。左前方には付いてきた二人、右に隊長と少女という位置。僕の方から両者の姿はよく見える。
「ロコル、弾はあるか。こっちに寄越してくれ」
言われるまま、僕は持ってきたライフルから弾倉を引き抜いて、投げ渡す。どうせ、僕が持っていても役に立たないものだ。
僕は、銃が撃てない。構えて引き金を引いたって、的には当たらない。突撃銃も軽機関銃も拳銃でさえもダメだ。非力で情けない。
「良い肩だ。敵は二匹。そっちから見えるか」
「太陽を背負ってよく見えませんよ、隊長」
雲一つない晴天。眩しい太陽の周囲を、小さな影が旋回している。さっきの兵士との対比からして、翼の長さは優に三メートルを超えているだろうに、その大きさを感じない、やっと視認出来るという状況だ。雲とほとんど同じ高さに居るんじゃないかと思うくらいだった。
「奴ら、さっきからあの調子だ。対空砲が欲しいぜ」
「どうにかして取りに戻れませんかね、隊長」
「今出て行ったらあっちの思う壺だよ」
流石に、猛禽類は賢い。褒めている場合ではないけれど、闇雲に突っ込んでこないだけに厄介だ。隊長の言う通り、こっちが業を煮やして飛び出そうものなら、さっきの二の舞は間違いない。かと言って、いつまでもここに隠れている訳にもいかない。僕らは文字通り袋のネズミだ。
「おい、あそこの二本の柱、見えるか」
隊長は二十メートルほど先、倒れ掛けた柱を指差した。たぶん戸口の跡だ。
「見えます、隊長」
「よし、俺があそこまで走って囮になる。奴らが降りてきたところをお前らでやれ」
「しかし隊長、何も隊長がやる事は――」
「言い出しっぺの法則ってのが、ニッポンじゃ常識なんだよ」
隊長は真剣な面持ちでそう言った。冗談にしか聞こえないけれど、隊長は本気らしかった。
「待ってよ、隊長! その子はどうなるの」
「ここに居りゃ大丈夫だ。最悪襲われても、良い的だろ」
それはそうだけど、それじゃあ隊長と同じ、囮じゃないか。
「良いか、三つ数えたら行くぞ」
「隊長、三と同時ですか? それとも数えてから?」
「うるせぇぞアメ公。三と言ったら三だ」
唾を吐いて、隊長はライフルを握り直し、数え始める。
一。
二。
三。隊長は駆け出した。すかさず、上空から影が一つ降りてくる。速い。落ちていると言った方が良いくらいの急降下だ。
「隊長、六時方向!」
瞬く間にワシは隊長に迫った。目標の柱までは、まだ数メートルある。隊長は雄叫びを上げながら、跳んだ。瓦礫の中へ転げながら叫ぶ。
「撃て!」
今にも隊長に鉤爪を掛けようとする巨鳥へ、一斉に銃弾が浴びせ掛けられる。耳をつんざく甲高い鳴き声を上げ、羽と血飛沫を撒き散らしながら、錐もみして落ちてゆく。でも、その軌道は真っ直ぐに隊長へ向かったままだった。
そしてワシの巨体が、隊長にのし掛かった。小さな爆発でも起きたかの様に、砂埃が立ち上った。それだけ重量があるってことだ。
「隊長! おい、隊長が潰されちまったぞ」
他の二人が唖然とする。僕もだ。隊長がやられた。いや、あんな事で隊長がやられてたまるか。そう信じたい。
敵は、僕達が驚いたり嘆いたりする暇をくれない。次のもう一羽が、銃撃した二人に狙いを定め急降下してくる。二人はサッと屋根の下に入ったけれど、ワシはその屋根を蹴り破った。怒りにまかせた攻撃だったんだろう、二人は無事だったけれど、崩れた屋根の残骸に体を挟まれてしまっていた。
しかも、
「あっ」
別の一羽が地上に降り立った。あの女の子の、真正面にだ。上や後ろは壁が守っているけれど、隊長が居ない今、正面は全くの無防備だ。
「は、早く、撃って!」
「ああ、畜生、見えねえ!」
さっきの攻撃で少女の居る方が見えなくなっていた。身動きも取れないらしい。
ギャア、と声を上げて、ワシは翼を広げ、少女に近付いていく。少女は耳を塞ぎ、丸くなったままだ。
僕の手元には、弾の入ってないライフル。
助けられない――なんて、言うものか。見捨てられるものか。
「うわああ!」
叫びながら、僕は瓦礫の中から飛び出した。呼び止める仲間の声が聞こえる。でも、構わなかった。
銃身をひっくり返し両手に握って、振りかぶりながら走る。助走と全体重を載せて、ワシの背中を思い切りぶっ叩いた。
固い。木の幹か何かを力尽くで殴り付けたみたいだ。反動が僕の手や腕に全部伝わってくる様で、少しも手応えがなかった。
振り返ったワシの黒い目が、ギロッと僕を射貫く。途端に、全身の毛がぞわぞわ立ち上がる気がした。
圧倒的で、慈悲なんかなくて、凶暴で、理性のない、獣の目。
僕は一瞬にして、恐怖に囚われていた。無数の冷たい手に抱きすくめられ、縛られていた。
翼で振り払われ、トラックに轢かれた様な衝撃を受けて、僕の体は軽々と吹き飛ばされた。ゴツゴツした瓦礫の山に背中から落ちる。巨大で分厚い翼に、もろに打ちのめされた左腕は骨が折れているか、少なくともヒビが入っている。それでも悶えてる暇はなかった。飛び起きれば、両翼を広げて威嚇するワシの影が、すぐ目の前に迫っているからだ。
あのくちばしで一突きされたら、あの鉤爪で一掻きされたら、一溜まりもない。一巻の終わり。一瞬にして、死ぬ。
無我夢中でライフルを振り回した。樹脂製の銃身は軽く、片腕でも簡単に振れるけれど、その分、ただの棒きれみたいなものだ。「狙って撃ってなんぼのモンだろうが」と僕をバカにする、いつかの隊長の声が頭に響いた。隊長、打ち出す弾丸はあなたが持ってるんだ。
ワシが足を持ち上げる。はらわたを引き摺り出されたり、首と胴とを切り離されたりする、僕のイメージが駆け巡った。
パン、と乾いた音が鳴った。ワシがよろめいて、羽毛が舞う。続いて二回、三回の音。ライフルより軽い、拳銃の銃声だ。横合いから撃たれたワシは、驚いてギャアと叫び、翼をやたらに振り乱し、飛び上がろうとする。その眉間に、一発の銃弾がめり込んだ。地から離れたワシは大きく仰け反って落ち、そしてピクリとも動かなくなった。
呆気ないと思ってしまうくらいの結末だった。
ワシを倒したのは隊長だった。押し潰す死骸の下からぬっと腕だけ出して、片目を覗かせていた。
「隊長がやった!」
仲間達が這い出てきて、叫ぶ。わっと隊長の元に駆け寄って、ワシの死骸を持ち上げた。ずるずる死骸の下を逃れた隊長は、それまで呼吸がなかなか出来なかったらしくて、肩で息をしていた。
「たまげたな、生きてら!」
「死人が撃てるか、タコ」
言い合いながら、笑う。
その様子を、ライフルを変な風に構えたまま呆然と見ていた僕だけれど、我に返って真っ先に思い出したのは、あの女の子の事だった。
少女は、笑い声を手の平の隙間から聞いたのか、耳を塞ぐのをやめて、顔を上げていた。必死になって挑みかかった僕より落ち着いている様子で、隊長と隊員達のやり取りを見詰めている。
立ち上がり、未だ感覚の鈍い脚に無理を言って、少女に駆け寄った。
「大丈夫?」
声を掛けると、ゆっくり僕を方へ顔を向けた。
その目で見られるのは二度目だ。少女の瞳は、さっきのワシのものとは、あまりに対照的だった。
深くて、どこまでも深くて、底の知れない、その奥に広大な空間が広がっている様な、吸い込まれるほど虚ろで、それでいて光を湛えた、海だった。
僕はまた体の自由を奪われた気がした。威力ではなく、魅力で。
「ロコル!」
隊長が片足を引き摺りながら、僕に歩み寄っていた。
「怪我はあるか?」
妙な訊ね方だったけれど、僕は素直に首を縦に振った。僕の左腕を大袈裟に覗き込んで、隊長は「そうか」と言った。そして僕の頭にポンと手を載せた。
「怪我をしてなけりゃ、ぶん殴ってるところだ。無駄な無茶をするんじゃない」
優しく叱られて、僕は思わず「すみません、隊長」と謝った。
「君は? 怪我はないか」
今度は少女の方に訊ねながら、手を差し出す。少女はその手を取って立ち上がり、小さく応えた。
「ありがとう」