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テレヌス  作者: 熊と塩
第一部 : Cogito, ergo sum.
16/40

16/恋

「少し腫れが出てるけど、なあに、怪我自体は治ってきてるし、アスピリンを飲んでいればすぐ楽になる。君の体は思いの外頑丈だ」

 包帯を換えてくれたキッツが、僕の肩をぽんと叩く。

「悪かったね、君らを出歩かせなければよかった」

「僕は大丈夫。ワッカは?」

「彼女の方も心配要らない。膝を擦り剥いたくらいでね。今はシュエが落ち着かせてるよ」

 ワッカとは別室だ。診察もあったし、服もダメになってしまったから、当然と言えば当然だけれど、何だか引き離されたみたいで落ち着かなかった。

「襲撃はどうなったの?」

「ああ、あれ。実は……ちょっと妙だったみたいでね」

 少し顔付きを険しくして、メガネを直した。

「結果から言うと、襲撃はなかった。でも誤報という訳じゃないらしい。監視は確かに動物達の大群を補足して警報を鳴らしたけど、牽制攻撃をする間もなく、引き返していったそうだ」

 確かに妙だ。僕の知る限り、動物はいつも襲う時は襲うし、襲うとなればいつだって本気だし、がむしゃらだ。それが攻撃を受ける前に逃げ出すなんて、有り得ない。

「考えにくい、と言うか、あまり考えたくないんだけど、彼らに弄ばれている様な感じがするよ」

 本当に考えたくないことだ。

 獣も様々なことを学習していくのは、僕も知っている。しかし、そういうやり方を覚えたなんて、論外だということにしておきたい。

 もしあんなことが繰り返されたら、この街は内側から破裂するし、ワッカももっと傷付くことになる。

 僕は一言礼を言ってから、診察室を出た。


 廊下に出ると、クラウスがベンチに腰掛けていた。蛍光灯の下で見ると、つくづく文明的なものとは掛け離れた容姿だ。

「さっきは、探しに来てくれてありがとう」

 言いそびれていたことを口にすると、

「娘の所へ行くのか」

 と逆に問われた。敢えて話を逸らしたのかも知れない。

「うん」

「なら、今はやめておけ」

「何で?」

「何でもだ」

 そう言われると、逆に行かなくちゃいけないという気になる。だって、ずっと怯えてるのかも知れないし、泣いてしまっているのかも知れない。なら、僕は傍に居たい。

 僕はクラウスの言葉を無視して、キッツに教えられた通りに、ワッカ達の居る別の診察室へ向かった。


 戸口の前に立ったけれど、中から声は聞こえない。慎重に戸を叩いた。

「誰ね?」

「僕だけど、入っても大丈夫?」

「ちょっと待つね」

 返事の後、靴音やら衣擦れやら、何やら中で慌ただしく動く音がした。しばらく待つと、ようやく「どうぞ」と声が掛かった。

 そっと戸を開ける。いや、少し開いたところで、向こうから大きく開けられた。シュエが目の前に立ちはだかっている。突然、シュエは僕の両肩を掴み、ぐりんと後ろ向きにさせる。次いで、背後から僕の両目を塞ぐと、また振り回す様にして部屋の中へ向かされた。

「な、何?」

「そのまま三歩前に出るね」

 何を企んでいるのかさっぱりだけど、言われるままに三歩前に進み出た。二歩目で椅子を蹴っ飛ばした。

「いいと言うまで目を閉じてるね。解った?」

「解った、けど……」

 ゆっくり僕の目を覆っていた手がどく。従わざるを得ず、僕は目を固く閉じていた。

 シュエが僕の背後から動いて、また何かやっている。

「あの、僕はワッカに会いに――」

「いいから、黙ってそこに立ってるね」

「え? もういいの?」

「ダメね!」

 ぴしゃりと言い付けられた。

 で、シュエが何かひそひそ言っている。「もうちょっとこっち」とか「肩の力を抜いて」とか。

 数十秒間そんな調子。待ち続けていると、やっと「はい、目を開けていいね」と言われた。

 パッと瞼を上げると、鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。白とピンクと若葉色。ビックリして瞬きをして、ようやくそれが何なのか解った。

 ワッカだ。華やかな衣装に身を包んだワッカが、恥ずかしそうに立っていた。衣装はニッポンの和服に似ていたけれど、どこか違う、見たことのないものだった。ひらひらしているのに、何となく引き締まった印象もある。色彩は色取り取りだけれど、全体的に淡く、目に眩しすぎない。

「えっ、えっ、何?」

「ホァーフーね」

「ホァ……?」

「華服。中国の民族衣装。子供の頃にパーティーで着てたのがサイズピッタリだったね」

 はあ、と自分でもよく解らない相槌を打って、もう一度見直す。よくよく見れば、髪の毛をすっかりといて、少し上気味のところで一まとめにしている。今まで見てきたのが、薄汚れたワンピースだったりお仕着せだったりして、地味なものだったから、目を見張る様だった。

「紳士はこういう時に感想を言うね」

「あっ、その……すごく、可愛いよ」

 率直すぎた。ワッカは一層恥ずかしくなったみたいで、くるっとそっぽを向いてしまった。

「……もう、着替えていい……?」

「オーケー、オーケーね。ほら、男子は出るね」

 そう、追い出されてしまった。


 が、どういう訳か、シュエまで一緒に出てきて、後ろ手に診察室の戸をバタンと閉じた。そして僕をじっと見下ろし、ニヤリ、と笑った。

「やるね、ロコル君」

 急に気取った口調で言う。何が、と問い返すと、溜息を吐かれた。

 そして、どういう訳か、突然抱かれた。肩に前歯が当たったけれど、シュエはそんなことを全く気にしない様子で、僕の頭を撫で撫で、頬を擦り擦り、背中を叩き叩き、言った。

「純朴ちゃん」

 何なんだ、いきなり。そう思っていると、シュエの腕に力がこもる。耳元で囁く声を低くする。

「その純朴さで苦しめなきゃいいけどね」

「え――?」

 パッと体が離れた時には、もういつも通りの様子だった。相変わらずの、ひょうひょうとして、解らない女の人に戻っていた。ワッカにも聞こえる大声で「じゃ、仕事に戻るね」と言って、手を振りながら去って行ってしまった。


 着替えたワッカは、ブラウスとスカート、よくある普通の女の子の格好だった。カメラがあったらよかったのに、と少し残念だったけれど、でもまあ、普通の格好だって似合うし、似合っていればどんなだっていいんだ。

「変じゃない?」

 また褒めちぎって恥ずかしがらせてもいけないから、「変じゃないよ」とだけ答えた。

 病院の診察時間はとうに過ぎていて、この部屋は今のところ、僕とワッカの貸し切りだ。床に転がって大口を開けるトランクには、服がごっちゃと山盛りになっていて、どうもワッカは着せ替え人形にさせられていたらしい。とは言え、ワッカの顔色は格段によくなっている。シュエの口振りからすると、着せ替えながら話をしていた様だ。噛み合わなさそうに思える二人だけれど、そこは女同士、通じるところがあったのかも知れない。

 ワッカの隣、ベッドに腰を下ろした時、ワッカは「あっ」と何かに気付いて声を立てた。見返すと、すぐに目を逸らされてしまった。

「どうしたの?」

 訊いても、すぐに返事はなかった。まだ折れ目のくっきり付いたスカートの、裾をぎゅっと握って、何か言いにくそうにしている。僕はただ待った。ワッカにすると、言いにくいのは、言わなくちゃいけないことだからだ。なら、僕が助け船を出すこともない。

 スカートを握りしめたまま、意を決したという様子でもなく、おずおずと小さな声で言った。

「……ごめんなさい」

「どうして?」

 ワッカは伏せていた目をちらと走らせて、ほんの一瞬、真新しい包帯に巻かれた僕の左腕を見た。

「また、わたしのせいで悪くさせちゃったから……」

「気にしないで。ワッカのせいじゃないし、誰のせいでもないよ」

 僕は笑った。作為なんてまるでなかった。いじらしくて、つい笑ってしまったんだ。

「僕は、そうしたいと思ったことをやってるだけなんだ。でも、力もないし、器用でもないから、怪我をかばいながらなんて出来ない。それに僕は、自分の腕より、君の方が大切だよ」

「でも、わたしも……」

 また言い淀む。頑張って言葉を探している。

 そしてさっきよりも小さい、掻き消える様な声で呟いた。

「……ロコルが大切だから……」

 それを聞いた途端、僕はワッカを抱き締めたい衝動に駆られた。両腕で力一杯に抱いて、大好きだと叫びたくなった。きっと、そうしたって少しも痛くなんかない。

 でも、決めたことだ。堪えなくちゃいけない。

 それに、優しさから出た言葉に違いない。たぶん、僕以外の誰かだって、ワッカは同じ顔をして悲しむだろう。そういう子だ。

 でも、だけど、嬉しくて、嬉しくて、胸が張り裂けそうだ。

 今にも頭が弾けて、リボンやら紙吹雪やらが飛び出そうになるのも、ぐっと噛み殺した。その代わりに、「ふへへ」なんていう、間の抜けた奇妙な笑いが、口を突いて出る。

 格好悪いけど、もうどうだっていい。

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