16/恋
「少し腫れが出てるけど、なあに、怪我自体は治ってきてるし、アスピリンを飲んでいればすぐ楽になる。君の体は思いの外頑丈だ」
包帯を換えてくれたキッツが、僕の肩をぽんと叩く。
「悪かったね、君らを出歩かせなければよかった」
「僕は大丈夫。ワッカは?」
「彼女の方も心配要らない。膝を擦り剥いたくらいでね。今はシュエが落ち着かせてるよ」
ワッカとは別室だ。診察もあったし、服もダメになってしまったから、当然と言えば当然だけれど、何だか引き離されたみたいで落ち着かなかった。
「襲撃はどうなったの?」
「ああ、あれ。実は……ちょっと妙だったみたいでね」
少し顔付きを険しくして、メガネを直した。
「結果から言うと、襲撃はなかった。でも誤報という訳じゃないらしい。監視は確かに動物達の大群を補足して警報を鳴らしたけど、牽制攻撃をする間もなく、引き返していったそうだ」
確かに妙だ。僕の知る限り、動物はいつも襲う時は襲うし、襲うとなればいつだって本気だし、がむしゃらだ。それが攻撃を受ける前に逃げ出すなんて、有り得ない。
「考えにくい、と言うか、あまり考えたくないんだけど、彼らに弄ばれている様な感じがするよ」
本当に考えたくないことだ。
獣も様々なことを学習していくのは、僕も知っている。しかし、そういうやり方を覚えたなんて、論外だということにしておきたい。
もしあんなことが繰り返されたら、この街は内側から破裂するし、ワッカももっと傷付くことになる。
僕は一言礼を言ってから、診察室を出た。
廊下に出ると、クラウスがベンチに腰掛けていた。蛍光灯の下で見ると、つくづく文明的なものとは掛け離れた容姿だ。
「さっきは、探しに来てくれてありがとう」
言いそびれていたことを口にすると、
「娘の所へ行くのか」
と逆に問われた。敢えて話を逸らしたのかも知れない。
「うん」
「なら、今はやめておけ」
「何で?」
「何でもだ」
そう言われると、逆に行かなくちゃいけないという気になる。だって、ずっと怯えてるのかも知れないし、泣いてしまっているのかも知れない。なら、僕は傍に居たい。
僕はクラウスの言葉を無視して、キッツに教えられた通りに、ワッカ達の居る別の診察室へ向かった。
戸口の前に立ったけれど、中から声は聞こえない。慎重に戸を叩いた。
「誰ね?」
「僕だけど、入っても大丈夫?」
「ちょっと待つね」
返事の後、靴音やら衣擦れやら、何やら中で慌ただしく動く音がした。しばらく待つと、ようやく「どうぞ」と声が掛かった。
そっと戸を開ける。いや、少し開いたところで、向こうから大きく開けられた。シュエが目の前に立ちはだかっている。突然、シュエは僕の両肩を掴み、ぐりんと後ろ向きにさせる。次いで、背後から僕の両目を塞ぐと、また振り回す様にして部屋の中へ向かされた。
「な、何?」
「そのまま三歩前に出るね」
何を企んでいるのかさっぱりだけど、言われるままに三歩前に進み出た。二歩目で椅子を蹴っ飛ばした。
「いいと言うまで目を閉じてるね。解った?」
「解った、けど……」
ゆっくり僕の目を覆っていた手がどく。従わざるを得ず、僕は目を固く閉じていた。
シュエが僕の背後から動いて、また何かやっている。
「あの、僕はワッカに会いに――」
「いいから、黙ってそこに立ってるね」
「え? もういいの?」
「ダメね!」
ぴしゃりと言い付けられた。
で、シュエが何かひそひそ言っている。「もうちょっとこっち」とか「肩の力を抜いて」とか。
数十秒間そんな調子。待ち続けていると、やっと「はい、目を開けていいね」と言われた。
パッと瞼を上げると、鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。白とピンクと若葉色。ビックリして瞬きをして、ようやくそれが何なのか解った。
ワッカだ。華やかな衣装に身を包んだワッカが、恥ずかしそうに立っていた。衣装はニッポンの和服に似ていたけれど、どこか違う、見たことのないものだった。ひらひらしているのに、何となく引き締まった印象もある。色彩は色取り取りだけれど、全体的に淡く、目に眩しすぎない。
「えっ、えっ、何?」
「ホァーフーね」
「ホァ……?」
「華服。中国の民族衣装。子供の頃にパーティーで着てたのがサイズピッタリだったね」
はあ、と自分でもよく解らない相槌を打って、もう一度見直す。よくよく見れば、髪の毛をすっかりといて、少し上気味のところで一まとめにしている。今まで見てきたのが、薄汚れたワンピースだったりお仕着せだったりして、地味なものだったから、目を見張る様だった。
「紳士はこういう時に感想を言うね」
「あっ、その……すごく、可愛いよ」
率直すぎた。ワッカは一層恥ずかしくなったみたいで、くるっとそっぽを向いてしまった。
「……もう、着替えていい……?」
「オーケー、オーケーね。ほら、男子は出るね」
そう、追い出されてしまった。
が、どういう訳か、シュエまで一緒に出てきて、後ろ手に診察室の戸をバタンと閉じた。そして僕をじっと見下ろし、ニヤリ、と笑った。
「やるね、ロコル君」
急に気取った口調で言う。何が、と問い返すと、溜息を吐かれた。
そして、どういう訳か、突然抱かれた。肩に前歯が当たったけれど、シュエはそんなことを全く気にしない様子で、僕の頭を撫で撫で、頬を擦り擦り、背中を叩き叩き、言った。
「純朴ちゃん」
何なんだ、いきなり。そう思っていると、シュエの腕に力がこもる。耳元で囁く声を低くする。
「その純朴さで苦しめなきゃいいけどね」
「え――?」
パッと体が離れた時には、もういつも通りの様子だった。相変わらずの、ひょうひょうとして、解らない女の人に戻っていた。ワッカにも聞こえる大声で「じゃ、仕事に戻るね」と言って、手を振りながら去って行ってしまった。
着替えたワッカは、ブラウスとスカート、よくある普通の女の子の格好だった。カメラがあったらよかったのに、と少し残念だったけれど、でもまあ、普通の格好だって似合うし、似合っていればどんなだっていいんだ。
「変じゃない?」
また褒めちぎって恥ずかしがらせてもいけないから、「変じゃないよ」とだけ答えた。
病院の診察時間はとうに過ぎていて、この部屋は今のところ、僕とワッカの貸し切りだ。床に転がって大口を開けるトランクには、服がごっちゃと山盛りになっていて、どうもワッカは着せ替え人形にさせられていたらしい。とは言え、ワッカの顔色は格段によくなっている。シュエの口振りからすると、着せ替えながら話をしていた様だ。噛み合わなさそうに思える二人だけれど、そこは女同士、通じるところがあったのかも知れない。
ワッカの隣、ベッドに腰を下ろした時、ワッカは「あっ」と何かに気付いて声を立てた。見返すと、すぐに目を逸らされてしまった。
「どうしたの?」
訊いても、すぐに返事はなかった。まだ折れ目のくっきり付いたスカートの、裾をぎゅっと握って、何か言いにくそうにしている。僕はただ待った。ワッカにすると、言いにくいのは、言わなくちゃいけないことだからだ。なら、僕が助け船を出すこともない。
スカートを握りしめたまま、意を決したという様子でもなく、おずおずと小さな声で言った。
「……ごめんなさい」
「どうして?」
ワッカは伏せていた目をちらと走らせて、ほんの一瞬、真新しい包帯に巻かれた僕の左腕を見た。
「また、わたしのせいで悪くさせちゃったから……」
「気にしないで。ワッカのせいじゃないし、誰のせいでもないよ」
僕は笑った。作為なんてまるでなかった。いじらしくて、つい笑ってしまったんだ。
「僕は、そうしたいと思ったことをやってるだけなんだ。でも、力もないし、器用でもないから、怪我をかばいながらなんて出来ない。それに僕は、自分の腕より、君の方が大切だよ」
「でも、わたしも……」
また言い淀む。頑張って言葉を探している。
そしてさっきよりも小さい、掻き消える様な声で呟いた。
「……ロコルが大切だから……」
それを聞いた途端、僕はワッカを抱き締めたい衝動に駆られた。両腕で力一杯に抱いて、大好きだと叫びたくなった。きっと、そうしたって少しも痛くなんかない。
でも、決めたことだ。堪えなくちゃいけない。
それに、優しさから出た言葉に違いない。たぶん、僕以外の誰かだって、ワッカは同じ顔をして悲しむだろう。そういう子だ。
でも、だけど、嬉しくて、嬉しくて、胸が張り裂けそうだ。
今にも頭が弾けて、リボンやら紙吹雪やらが飛び出そうになるのも、ぐっと噛み殺した。その代わりに、「ふへへ」なんていう、間の抜けた奇妙な笑いが、口を突いて出る。
格好悪いけど、もうどうだっていい。




