15/白昼夢
古ぼけたアパートの、小さな一室だった。土の壁には花や葉のレリーフが施され、ロウソクを灯す照明を、無理矢理白熱電球に変えた様なところだ。
レースのカーテンがふわりと舞う。優しい風が頬を撫でる。それに乗って、カップに注がれたばかりのコーヒーが香ばしかった。
本当に静かだった。開け放たれた窓からは、人の声の一つもしない。配給や警邏に闊歩する戦車のキャタピラ音も、何もない。ただ、女の人が自分のコーヒーを注ぐ音、靴音、それから腰掛けた椅子の軋む音だけがした。
「あの……」
「コーヒーは嫌いだった?」
「あ、いただきます」
正直なところ、喉はカラカラだった。さっきの発作的な耳鳴りのせいで、大量の脂汗をかいてもいた。けれど、女性の言葉遣いや立ち居振る舞いの、その悟りきった様子が、不思議でならなかった。見ず知らずであるはずの僕を家に招いたのも、気に掛かる。とは言え、鼻の下に置かれたコーヒーは自己主張してくるし、折角出されたものに口を付けないのも失礼だろう。
小さなカップを手に取り、黒く波打つ水面に、ふっと息を吹き掛けると、優しい刺激が鼻の奥に行き渡る。「熱いから気を付けて」と女性が言うのを受けて、そっとすすり込んだ。
「……美味しい」
まず砂糖の甘さが舌に触れて、少し遅れて苦みが鼻に抜ける。軍と一緒だった頃に飲んだのとは、比較のしようもない。出来れば冷たい水が欲しいと思っていたけれど、熱々のコーヒーはむしろ爽やかで、すっと体に染み込んでいく様だった。
「気に入った?」
「はい」
「よかった」
女性はにっこり微笑んで、自身も一口、静かに飲んだ。
窓から差し込む斜陽が、女性の背中に当たって、栗色の髪を透かす。逆光は表情を暗い色に塗るけれど、女性の場合、秘密めいた印象にさせて、美しかった。
美しいなんて、恥ずかしくて普段は使えない言葉だ。でもこの女性には、その言葉以外、言ってこと足りるものが見付からない。
つい見とれてしまう自分を律した。
「あの、僕、行かないと」
「どうして?」
「一緒に来た女の子と、はぐれちゃったんです。だから、探しに行かないと……」
「大丈夫よ」
もう一度「大丈夫」と繰り返す。大丈夫、かも知れない。時間はゆっくりと穏やかに流れていっている。あの喧噪はもうどこにも見当たらない。きっと、ワッカは大丈夫だろう。
女性は、ふと振り返って、窓を眺めた。開け放たれた窓からは、ひたすらに青い空が見える。
「どう思う?」
いきなり、そう尋ねられた。
「どうって?」
「この景色」
「綺麗だと、思いますけど」
「そう、綺麗ね。どうして綺麗なのかしら」
「それは――」
青いから。そう答えようとしたけれど、そうじゃないと思った。
青い空や、湖は、それを見た時、確かに綺麗だと感じるけれど、青は青、ただの色で、空が青いのは当たり前のことだ。赤くて綺麗な花もあれば、白くて綺麗なシャツもある。どんなに赤い花でも、どんなに白いシャツでも、泥が付いたら汚いと感じてしまうし、赤くも白くもなくなってしまうだろう。だからきっと、あの空は青いから綺麗なのではなくて、綺麗な空だから青いんだ。
空が綺麗な理由を、僕は説明出来なかった。
「ここから、ずっと見ているの。それで、綺麗だと思う訳を、ずっと考えてる。不思議よね。誰に教えられたのでもないのに、空を見ると、美しいと感じてしまう」
言い得て妙だと思う。空を見れば、誰だって清々しい気持ちにさせられてしまう。それを忘れることはあっても。
「ずっと、答えのないところに、答えを求めているのね。空に、雲に、太陽に、月に、星に。簡単な答えを避けながら」
「『簡単な答え』って?」
「そうであるから、そうなのだ」
女性は僕に視線を戻して、微笑する。不意に抱き寄せられる様な引力を感じて、僕は目を逸らした。
「なんだか、哲学ですね」
「哲学……そうね、そうかも知れない。だとしたら、ヒトはみんな哲学者なのでしょうね。ヒトはみんな考える。どうだっていいことも、どうだっていいと出来ずに。けれど、自ら哲学者を名乗った人々は、自らの行いを高尚な思索と呼んで、門を狭めたわ。考えることを優越にしてしまった。ただ、ありのままを受け入れさえすればよかったのに、その選択肢を失わせてしまった」
悲しげに俯いて、コーヒーを飲んだ。僕は哲学を口にしたことを恥じた。
「……ごめんなさい」
「いいのよ。私も、そう、哲学者だから。考えることしか出来ないもの」
「でも、このコーヒー、すっごく美味しいです」
「ふふ、ありがとう」
照れ笑いをしてから、「そうだ」と女性はカップを置いた。
「あなたとお喋りをしていて、一つ、思い付いたの。青は、命の色だ、って」
「命の色」
「そう、命の。空が、ずっと日の昇る頃の紫や、沈む頃の赤、沈みきった後の黒だったら、何も生きていけない。きっと、あの隅々まで広がる青に、私達は命を見ているの。だから、美しいと感じ、憧れさえ覚える……あなたとこうしていると、空を見ているのと同じ、青さが見える。澄み渡った青」
「若いから?」
「そうとも言えるかも。あなたは黄昏と程遠いもの。けれど、たぶん違うわね。あなたはまだ汚れていないから」
女性の言葉は抽象的で、取り留めがない。でも、なぜか胸にすっと染み込んでくる。飲み込まれている、いや、包み込まれている様だった。この部屋この空間全てが、女性の腕の中にある様だった。
いつの間にか、時が経つのを忘れていた。僕がさっきまで何をしていたのか、何をしなくてはいけなかったのか。
思い出させてくれたのは、ワッカの声だ。遠く、遥かどこまでも遠く、僕の名前を叫ぶ声がする。
「ああ、いけない。つい、長居させてしまったわね」
日が沈んでいく。窓一面の空は、青から赤へ、そして赤から黒へと変わっていった。女性の影が消える。テーブルも、僕の手も、黒く塗りつぶされていく。
地響きが聞こえる。
「またね」
目を開くと、石畳があった。すぐ横を、色々な靴が走り過ぎていく。靴音、悲鳴。
あの女性はもう居ない。ここは彼女の部屋じゃない。サイレンの鳴り響いた、大通りだ。
僕は気を失っていたのか。それとも、白昼夢を見ていたのか。
解らない。今こうして、狂乱の中にうずくまっている僕が、現実なのか。部屋で平穏にコーヒーを飲んでいる僕が、真実なのか。本当の僕はどこに居るのか。
「――コル!」
ワッカの声がする。何度も、僕の名前を叫んでいる。
そうだ。ワッカを探さなくちゃ。僕はワッカを守ると決めたんだ。ワッカと生きている世界が、現実だ。
「ワッカ!」
立ち上がり、見回す。しかし人の波は凄まじい勢いで、今にも僕を押し流していこうとする。ワッカもこの流れの中で、必死に耐えているはずだ。
叫び声のする方向が解った。さっき配給に来たトラックの方だ。僕はそちらを目指した。パニックを起こした人々は、容赦なく押し返そうとしてくる。誰の耳にも、女の子の叫び声なんて届いていなかった。誰も彼もが、自分一人生き延びるのに精一杯だった。何度も突き倒されそうになる。でも、倒れている訳にはいかない。
何とかトラックの所まで辿り付く。その外装に張り付く様にして、ワッカを目指した。
ワッカは車輪と車輪の間に挟まっていた。きっと人の波から逃れるつもりで逃げて来たところを、押し込められたんだろう。
「ロコル、動けないの、スカートが引っ掛かって……」
手を突っ込んでスカートを引っ張ってみたけれど、何かがガッチリ噛んでいる様で、びくともしない。覗き込んでじっくり外している時間もなかった。
トラックがエンジンを掛けたからだ。
「おおい、今出しちゃダメだ!」
今タイヤが回ったら、怪我をするどころじゃ済まない。僕は声を張り上げたけれど、運転手に聞こえているとは思えなかった。それにこの混乱で、僕らの姿が見えているとも。
無理矢理引き千切って脱出するしかない。
「ワッカ、いいね、三つ数えたら、思いっきり腕を突っ張るんだ」
三つ数を数えてから、スカートを思い切り引っ張る。車がガクンと動いた拍子にスカートは裂けた。慌ててワッカを引っ張り出し、危うくタイヤに巻き込まれるところで、難を逃れた。
「ワッカ、歩ける?」
肩を抱いて尋ねると、ワッカは小刻みに頷いた。唇が青く、目線が定まっていない。
もう二度と放すまいと、ワッカを強く抱いて、ほとんど暴徒と化した人混みを横切る。何度もぶつかり、蹴つまずいたけれど、僕はワッカを庇い続けた。左腕の添え木が折れても、痛みなんてまるで感じなかった。
あの時と同じだ。僕はただ、ワッカを守らなくちゃいけない、ワッカを酷い目に遭わせてはいけない、その考えの基に一心不乱だった。そこに理性や感情はなくて、もっと本能的な、胸の奥で音も立てずに燃えるものに、突き動かされていた。
僕らは細い路地に転がり込んだ。大人なら入って来られないくらいの、僅かな隙間だ。その中に僕とワッカ、体を二つ押し込んで、息を潜めた。膝を抱え込む様にして横並び、行き交い、退け合い、引っ張り合う人々を見遣っていた。
ワッカの肩が震えている。怯えていた。バッタの大群の中にあっても、微動だにしなかったワッカが、酷く怖がっている。
そう言えば、と思い出した。ワッカと隊長がワシに襲われている時、ワッカはうずくまっていた。あの時も、ワッカは怯えていたと思う。でも、耳を塞いでいたんだ。
あれはたぶん、銃を撃ったからだ。
だとしたら、ワッカを何よりも傷付けるのは、僕ら人間だ。
いつしか通りはしんと静まり返り、路地の外に人の姿も無くなった。ただ、細長く切り取られた、橙色の陽が見えるばかり。
遠くで、小僧、と叫ぶクラウスの声がした。




