14/アテナイ
人生初めてのフライトは快適そのものだった。天候もよく、走り回れるほど広く、動物に襲われる心配もなく、時間や緊張に迫られることがない。難点を言えば少し冷えるくらいで、キッツもシュエも、クラウスさえも、安心して横になっている。
僕とワッカも同じだ。今日一日の睡眠時間は、出発前にちょっと仮眠を取ったくらい。ワッカがどれくらい眠れたかは解らないけれど、こんなに心地よかったら、眠くなるのが当然だった。僕は輸送機の床に、ワッカはマザー号の中で毛布にくるまって寝ている。シュエに腕枕をしているキッツが、羨ましくて堪らなかった。
いいんだ。焦らないと決めたのは僕だ。
眠っていたのはほんの数十分。着陸が始まった。離陸の時と同じ緊張感と、ちょっとした恐怖を味わったけれど、さっきに比べれば幾分慣れた様だ。寝起きで頭がぼうっとしていたのもあったと思う。
「おお、麗しのマイ・ホーム・グラウンド!」
タラップを駆け下りたキッツは、両手を広げて感動していたけれど、滑走路の光景はあちらの空港と大差なかった。
「いいから、手伝うね!」
車の横転防止のベルトを外し始めていたシュエに怒鳴られて、キッツは駆け戻ってくる。
前後を軍の装甲車にエスコートされて、アテネに入る。
上部ハッチから顔だけ出して、あっという間に通り過ぎていく景色を見ていた。流石に首都と言ったところで、初めこそ畑の跡らしきものを見晴らせたけれど、行けば行くほどごみごみとしてくる。古めかしい円形の家があったかと思えば、いきなり角張ったホテルが出てきたりする。ほとんどが、壁面の色は白か茶色で、屋根は赤。次々に新しい文化を取り入れながら、何千年も守り通してきた街並みだ。けれど、キッツが言うには、この辺りはみんな廃屋らしい。
「この辺りは山が多いだろう? クマやオオカミ、それからイノシシやキツネなんかの被害が出てね。それで、外周地域に住んでいた人達は、国外へ逃げるか、アテネ市へ行くしかなかった。結果、首都は紀元前の城塞都市に逆戻り、って訳。ああ、ほら、そろそろ見えてきたよ」
高々と掲げられたアテネ市の看板。鉄条網。コンクリートブロック。戦車。現代の城壁だった。ゲートを顔パスで潜り抜け、アテネ市街へ。
ようやく人影が見え始めた。と思うと、瞬く間に道が人で溢れ返った。賑わっている、とは言いがたい。活気がないんだ。道路端にしゃがみ込んでいた人達は、僕らを見るなり立ち上がって、何か物欲しげな目付きで見送った。
男の子と目が合った。まだ十歳前後くらいの、小さな子だ。痩せ細っていて、僕を恨めしげに見詰めていた。僕はそれからすぐ頭を引っ込めた。
「どこでも人口過密が問題でね、ここも例外じゃない。結局屋根のある家なんて限りがあるもんだから、ホームレスが急増してる。けど、ま、経済がほぼストップしているおかげで、治安はそう悪くないんだ。どちらかと言えば衛生面が深刻」
「……どうにかならないのかな」
「難しいよ」
キッツは溜息を吐いた。
「世界中、どこもかしこも似た様な状況だからね、国外退去にしたって行き先がない。今、世界に蔓延しているのは貧困と疲弊、どうしようもない絶望感……二度の大戦や世界恐慌の様に、政治で何とかなるものじゃない。軍隊が動いても、それは延命措置でしかない。医者にしてもそうだ。だから、ぼくらは道を探してる。ぼく達人類が進む道をね」
力強く言ってから、「ま、悪足掻きさ」と投げ遣りに言った。
市街を突き進み、丁度中心辺りに来たところで、「マイホーム!」の叫びが上がった。やっとアジトに到着したらしい。
彼らのアジトというのは、病院のことだった。これが、医院なんてものじゃなくて市営病院だ。装甲車から降り立った僕は、ビックリしてその立派な佇まいを見上げていた。
「何をそんなに驚いてるんだい?」
「だって、アジトなんて言うから、もっと小汚いところかと思ったのに」
「失敬だね、君。言ったじゃないか、ぼくの本業は医者だって。ここで働く傍ら、敷地内の研究所で色々やってるの」
へえ、と言ってみたものの、病院に勤める医者が、仕事を放り出してあちこち行くのを許されてるなんて、信用がないんじゃないかと思った。
そこへ、病院の中から一人の青年が駆け出て来た。彼も医者だろう。白衣を羽織って、首からIDカードをぶら下げている。
「先生、丁度良いところに!」
歓迎するでもなく叫んだ。
「何事?」
「エキノコックス症です。汚染された地下水で生活していたグループがあって……」
それを聞いたキッツの顔が、急に引き締まった。
「発症してる?」
「二人は。一人は手術中、疑いが二十人。とても手が足りないんです」
「解った」
頷き、早くも服を脱ぎながら病院内へ向かって行く。
「僕達は?」
「悪い、観光でもしててくれ」
言い残して、レントゲンは撮ったのかとか、血清検査の結果はいつ出るかとか、早口に話し合いながら行ってしまった。
シュエも車を移してすぐ救援に行くつもりだ。クラウスを下ろして、マザー号は走り去った。
「観光って……どこへ行ったらいい?」
クラウスに尋ねると、「さあな」と素っ気ない返答。
「俺はその辺りに居る。日が落ちる前には戻って来い」
ワッカを連れ立って、市街を見て回ることにしたのだけれど、やはり僕の思っていた観光地としてのアテネとは、大きく異なっていた。まるでスラムだ。治安は悪くないとキッツは言っていたけど、みんな餓えてやつれて、悪さをする気力もないという感じだ。こういった街では、ネズミやその他の動物の侵入経路になるから、折角整備された下水も封鎖されている。路地からベルトを締めながら男が出てきた時は、すぐにワッカの手を引っ張ってその場を離れた。
通りに軍のトラックが入ってきた。配給品を積んでいる。それ見た人々は、持ち手の折れたマグカップや歪んだボールを手に手に、わらわらと押し寄せていく。
敵の襲撃に遭わなくても、内側から壊死していくのは時間の問題かも知れない。
こうした街の様子を見ていると、どうにかしなければ、と思う。キッツやシュエも、きっと同じ気持ちなのだろう。だから、目の前に涌き出る問題に対処する一方、地球という環境を取り巻く大きな問題にも目を向けている。
じゃあ僕は、一体どうしたらいいのだろう。僕に出来ることはなんだろう。巨大で漠然としたものに立ち向かっていくのは、出来そうにない。右手に触れる温かさを守りきるだけでは、こと足りない。
僕は、無力だ。
サイレンが鳴り響いた。どこからともなく、立ち並ぶ建物の壁を反響し、空から降ってくる。
途端に、街中の時間が止まった。誰もがぴたりとして動かなくなった。
それも一瞬だった。わっと叫びが上がり、陶器やガラスの割れる音が起こり、人々が走り出した。
敵だ。すぐに状況を飲み込んだ。バリケードが破られたか、どこからか潜り込んだか、とにかく街が襲われているんだ。
僕らも病院へ引き返そうとした。そう遠くへは来ていない。けれど、さっきの人集りが津波の様に、押し合いへし合い、我先にと逃げ惑い、行く手を阻む。
人の波が僕とワッカを引き離そうとした。繋いだ手は今にも千切れそうだった。
「ワッカ!」
とうとう、僕とワッカの手が離れた。あっという間に、ワッカの姿は見えなくなった。
じりじりと、耳の奥であのノイズがする。どんどん大きくなる。僕は必死に人の波を掻き分けてワッカを探すけれど、その小さな姿はどこにも見当たらない。
わんわんと鳴る。がんがんと響く。頭蓋骨の中を音が跳ね回り、脳を揺さぶり、頭痛が起きた。
こんなのは初めてだ。今までにないくらいの大群なのかも知れない。なら、早く逃げなくちゃいけない。でも、ワッカは見付からない。それに、頭の痛みは次第に激しさを増す。
どんと背中に人がぶつかる。押し倒されて、地面に倒れ伏した。起き上がろうとした時、頭が弾け飛んだのかと思うほどの激痛が走った。思わず頭を抱えてうずくまる。蹴られて、踏まれて、しかしそれ以上に激烈な頭の痛み。
壊れた拡声器で絶叫している様な爆音は、もはや高音の耳鳴りになって、人々の悲鳴も足音も、遠ざかっていった。
音が消えた。何も聞こえなくなった。耳鳴りさえしない、静寂そのものだった。同時に頭痛も止む。
風がひゅうと通り過ぎていくのを聞いて、僕は顔を上げる。
通りには誰も居なかった。動いているのは、石畳の隙間から顔を出した雑草くらい。僕がうずくまっている間に、どれくらいの時間が過ぎたんだろう。みんなどこかへ逃げ込んだのだろうか。
起き上がり、ワッカを探した。名前を呼んだ。姿はなく、返事もない。
僕以外、姿を消した。この街から、いや世界から。そんな気がした。
酷い孤独に陥った。もしかすると、僕は死んでしまったのかも知れない。そう思った。
そんなのは嫌だ。僕は走った。走りながら、何度もワッカの名前を叫んだ。ついでにキッツも、シュエも、クラウスも呼んだ。街にはただ僕の声がするばかりで、誰一人、答える者はなかった。
息が切れて立ち止まる。家の影がぐっと伸びてきて、僕を覆った。胸を掻き毟られる思いがして、目頭が熱くなる。
僕はここに居るのに、ここに居ると認めてくれる人が居ない。独りぼっちだ。独りぼっちは嫌だ。ワッカ、キッツ、隊長、誰か、側に来て……。
「誰を探しているの?」
後ろから女の人の声がして、振り返った。
その人は、太陽の光を背後から受けて、佇んでいた。
まるで神の使いの様だった。風が吹いたら掻き消えてしまいそうな儚さと、あるべくしてここにあるという存在感が、ない交ぜになった佇まい。絵画の様な美しさと、そして既視感を覚えた。
そうだ。僕は思い出した。ワッカと初めて会った時と、同じだ。
誰も居ない、死んだ街にたった一人で立っている、女性。
「あの……女の子を見ませんでしたか」
「さあ。見ないけれど、その子ならきっと大丈夫。それより、おいで。コーヒーをごちそうしてあげる」




