10/ガイア
「この地球という惑星は、絶妙で不思議なバランスの上に成り立っているんだ。大気、海洋、地表、そこに生息する生き物、植物。君達が当たり前の様に感じている全ての環境が、どこか一つ綻びを見せたところで崩れ去ってしまう。それはとてつもなく危ういことの様に感じるけれど、この数十億年安定し続けている。神秘的だよね。生命の起源までを内包するこの地球そのものが、生命なのではないか……ま、あくまで生命に似ている、という話。ガイア理論はその大部分が現象として立証されているし、何故にそうなるのか、また何故にそうなったのか、このプロセスを解き明かすのが生態学や他の学問における最終目的にもなってる。別にオカルトって訳じゃあないんだ」
少しホッとした。生き物みたいだ、近い、と言うなら、決してそうじゃないということだ。僕は自分がミジンコだという想像から抜け出して、手の汗を拭った。
ところが、キッツはメガネを直しながら「でもね」と言い、ククク、と笑った。
「ぼくはガイア理論のオカルト的な部分にこそ、近頃の異常を解く鍵があるんじゃないかと思ってるんだ」
手をどけて見せた口元は、片方だけを吊り上げてニヤニヤしている。その顔付きは、絵に描いた様なマッド・サイエンティストだ。
「地球が一つの生命体だとするなら、この地球上にある物質は地球の体組織、有機物である動植物は細胞だと言えるかも知れないよねえ。だとすればどうだい? 地球にも染色体、DNAやRNAに相当するものが、あるのかも知れないじゃないか? もしあるとすれば、自身の細胞を自身の持つ遺伝情報から複製、修復することだって可能だ。傷口を塞ぐ目的か、欠損した部位を補う目的であるならば、細胞が独自に変異する以前の、原始の状態を蘇らせるんじゃあないか。そして地球にダメージを与えたものに対して、免疫機構を働かせることだって考えられる。即ち、地球にとってぼくらこそ、敵なんじゃないか……」
とうとうと語るにつれ、表情が恍惚としてくる。
よく解ったことは一つ。この人はやっぱりカルト信者だということ。仮説に仮説を、もしにもしを重ねるのは理論じゃないってことくらい、僕にだって解る。無人島で札束の勘定をしている様な空回りは、見ていて薄気味悪かった。
けれど反面、誰もが異常の一言で片付けた事柄に対して、筋道は曲がっていても、熱心に考える姿勢はある意味――本当にとても小さな意味で――尊敬できるかも知れない。
とは言え、やっぱりあまり関わり合いを持たない方がいい相手だと判断して、僕はこの場を離れるべくハンナを見遣った。ハンナもきっと同じ考えのはずだと、そう思った。
だのに、ハンナの目はらんらんと輝いていて、胸の前で両の拳を強く握り込み、今にも弾け飛びそうな様子だった。と思った瞬間、本当に弾け飛び、いや飛び上がった。
「すごい!」
勢いよく立ち上がった拍子に、椅子代わりにしていたバケツが転げた。
「そうよね、固定観念に囚われてたら、いけないのよ!」
ハンナは興奮して叫んだ。手を叩き、頬を撫で、胸を抑える。キッツの方が面食らってしまうくらいの感動ぶりだった。
「う、うん、ま、おかげで学者としては認められてないんだけど――」
「そう、認められる必要なんてないんだわ! 親とか家族とか、そういう決まりは、捨てちゃってもいいのよ!」
たぶん、キッツやシュエや、車の中に居るクラウスには、何かの発作を起こして意味不明なことを喚いている様にしか聞こえなかっただろう。僕は彼女が何を言っているか、キッツの話から何を得たのかすぐに悟った。
ハンナはキッツに駆け寄ると、その手を取ってひざまづいた。
「ねえ、お願い、あたしも連れて行って!」
「え……?」
「ハンナったら!」
ハンナをキッツから引き剥がして、今度は僕が引っ張って行く。
目の付かない物陰に連れて行くと、形勢逆転、腕を掴んでいた手を引っ剥がされ、背中から壁にどんと押し付けられる。そして唇を押し付けられた。
まただ。また僕を黙らせるための、卑怯なキス。
「ロコルも行かない?」
口を離したハンナは、耳元で囁いた。
「ううん、一緒に行きたい」
「……ダメだよ、ワッカを置いて行けない」
「じゃあ、ワッカも連れて行ったらいいんだ」
ハンナの指先が胸をくすぐった。
「君の家族はどうするの?」
「解ってて訊いてるんでしょ?」
僕を突き放して、うんざりと頭を振った。
「どうだっていいのよ、あんな人達。もう近くに居るだけで嫌、顔も見たくない」
「でも、別れ際くらいちゃんと話した方がいいよ」
忠告すると、ハンナはニッと笑った。
「それも一緒に行く条件?」
「悪いけど……」
いきなり連れて行け、それも三人一緒だと言って断られるのは目に見えていた。しかし僕の手には、彼らにとって魅力的なカードが一枚ある。
動物の声が聞こえる、敵が迫るのが解る。そう話している最中は、みんな唖然としていた。と言うより、呆れていたと思う。
「一年も軍隊と一緒に居られたのだって、それが理由だもの。もし嘘だと解ったら、その場で放り捨てたっていいよ」
「いやいや、仮に本当だとしてもね、うちには先生が居るし、ぼくらにとって得はあまりないなあ」
「あるよ」
断言すると同時に、僕はものすごい決断を下した様だったけれど、思いの外口にするのは簡単だった。
「僕の体を調べたらいい。血を採ったり、写真を撮ったりしたらいいよ」
「だけどね、君――」
「僕の耳は、言ってみれば突然変異なんだと思う。あなたの理屈が本当なら、人間だけ何も変わらないなんておかしいでしょ? 僕は変わり始めた人間かも知れないし、でなくても、何かしら関係はあると思う。もし、他に僕と同じ様な人が居たとしても協力してあげるとは思えないし、連れて行かないと後悔するかも」
思い付くままに喋った。冷静で小賢しい物言いをしているのは、自分でも意外だった。
ここまで言ったのは、ハンナのためなのか、自分のためなのか、そのどちらとも言えない。この農場から出たいのは確かでも、彼らと行動を共にするのは避けた方がいいだろう。暫く我慢して次の機会を待つのが得策で、実験動物として扱われる危険は冒す必要がない。二つの道を天秤に掛けたら、簡単に上下が付く。でも、僕は明らかに高々掲げられた方を選んだ。
「じゃあ、検査をしてから、後々迎えに来るっていうのは?」
「ダメだよ。三人一緒に行くことが僕を調べる条件」
キッツは困ったという風に、眉毛を掻いた。そして横目にシュエを見た。シュエは肩をすくめた。
「ただでさえ狭苦しいのが、もっと酷くなるね」
それは別に構わないという意味に取れた。キッツは続いてクラウスを見る。クラウスは車の奥の暗がりで腕組みをしたまま、寝ているのか起きているのかも解らない様子だ。キッツは唸った。
「ううん……いずれ戻らなきゃいけなかったんだ。連れ出すくらいなら、出来なくはない」
それを聞いた途端、ハンナはまたキッツに駆け寄って、思い切り抱き付いた。
「ありがとう! 本当にありがとう!」
首にがっちり腕を回して、ぴょんぴょん跳ねる。
「は、はは、は……解ったから、もう放してくれないかな」
シュエをチラチラ気にしている様だった。シュエの表情は無そのもので、ハンナに抱き締められたキッツを見る目は、凍り着いていた。キッツはハンナを突き返しながら言った。
「あ、あんまり快適な旅は期待しないでくれ。それと、出る時は夜逃げ同然だよ。ぼくらは、ここじゃあまり歓迎されていない様だから」
昼食の時間、仕事をサボった僕達が食堂に居ても、誰一人それをとがめなかった。ただ、炊事係のあのおばさんは機嫌が悪い様で、やたらと怒鳴り散らしている。ワッカもその対象の一人だった。
ここを出たいかと訊いた時、ワッカは上目遣いに僕を見ながらも、すぐに首肯した。散々怒鳴られるせいかと思ったけれど、ワッカが口にしたのは全く別の理由だった。
「たくさん、世界を見たい」
その動機が好奇心なのか、それとも他にあったのか。ともかく、ワッカの答えは僕にとって不都合だったけど、そう思うことを否定出来なかった。
程なくして、ハンナのお母さんがやって来た。やっとまともに目を合わせた娘に、お母さんはそれは嬉しそうな顔をしたけれど、真面目な顔で向かい合える席に着いたところで、神妙な面持ちになった。
「あたし、出て行くから」
ハンナはそう切り出した。とにかくここに居ると息苦しい。心が腐ってしまう様だ。特にお母さんやお父さんと居るのは耐えられない。そう語った。かなり辛辣な物言いだった。最後まで黙って聞いていたお母さんは、とても寂しそうに目を泳がせて、何度か何事か言い掛けてはやめてを繰り返し、深く息を吸ってから言葉を返した。
「行ってらっしゃい」
はっきりそう言った。
「いいの?」
「だって、止められないでしょう? いいえ、巣立っていく子を止める親なんてないのよ。お母さんも、お父さんも、あなたが飛び立っていくのを願っていたんだから」
「……やっぱり、どうでもいいんだ」
ハンナは俯いて下唇を噛んだ。きっと止めて欲しかったんだ。止められて、愛してると言われて、それを振り切りたかったんだろう。それがハンナの、家族を捨てるけじめだった。
お母さんは腕を伸ばしてハンナの手を握った。
「いい? 何も言わなくていいから、よく聞いて。ハンナ、あなたは強い子よ。フィリップを亡くした悲しみから、あなたは立ち上がった。でもお母さん達にはそれが出来なかった。それがあなたをどんなに辛い気持ちにさせたか、解ってるつもり。それでもお母さんとお父さんがあなたの様になれなかったのは、フィリップは何物にも代えられない、大事な大事な、わたし達の子だったから……でもね、ハンナ。あなただって変わらないのよ。あの子は、巣立つことも外に友達を作ることも出来ないまま死んでしまったわ。あなたにそうなって欲しいなんて願う訳ない、翼を大きく広げて自由に大空を飛んで欲しい。それが子供への、親の願い」
お母さんの頬を涙が一筋、静かに流れ落ちていったけれど、声を震わせることなく、さっきよりも強く、もう一度言った。
「だから、行ってらっしゃい」
夜、僕とワッカとハンナ、三人で申し合わせた時間に抜け出すと、先でキッツ達が待っていた。シュエが小さく手を振った。
ハンナはお母さんと話して以来、元気がなかった。考え込んでいる様で、キッツ達を見付けてから側に行く時、一人だけ一歩遅れた。それから僕の背中に向かって「待って」と呼び止めた。
「……あたし、強くなんてない」
すぐ近くに居るのに、逃げる様にして出てきたのに、ハンナは声を張り上げた。
「あたし、立ち直ってなんかない。思い出と戦うことから逃げてただけ。今だって、ほら、こうやって逃げようとしてる!」
悲痛な叫びだった。思い切って本音をぶちまけていた。でも、僕には解っていたことだ。二度目のキスから知っていた。だから言った。
「行きなよ。大事な家族のところに」
「ごめん」
ハンナは僕に駆け寄って、強く抱き締めた。
「ありがとう」
僕もぎゅっと抱き返す。それは温かくて、キスなんかより、よっぽど心地の良い、別れの挨拶だった。
僕を放したハンナは、背中を向けて駆け戻っていった。振り向くことはなかった。その背中が消えるまで見送ってから、
「行こう」
ワッカの手を取り走った。




