落としもの
「別れて」
私がそう言った時、彼はいつも通りの穏やかな声で「どうして?」と返してきた。怒ってもいなかったし、焦ってもいなかった。ただ、訳が分からないという顔をしていた。
「もう飽きたの。あんたのこと、どうでもよくなった」
私は冷たく言い放ち、彼の家の鍵を放り投げた。ベッドの上に落ちたそれは、金属のかすれるような小さな音をたてた。彼はその様子を静かに見守ってから、私の方へと近づいてきた。
「……俺、何か悪いことした? さっきから考えてるんだけど、分からないんだ。だから教えてほしい。じゃなきゃ、別れる理由が分からない」
それはそうだろう。昨日まで、私たちは仲良くやっていたのだから。きっと彼は冗談抜きで、結婚のことまで視野に入れ始めていたはずだ。だから、
だから、別れようと思ったんだ。
「――全部よ、全部。あんたのことが何もかも嫌いになった。……顔も収入も大したことないし、いっつもへらへら笑ってばかりで優柔不断で。今思えば、私はなんであんたと付き合ってたんだろう。あんたよりもいい男なんて、そこら辺にごろごろいるのにさ」
私は彼に右手を差し出した。彼は、私の顔と右手を交互に見比べている。それはやっぱり焦っているのではなくて、状況を理解していないように見えた。
「私の家の鍵、返してよ。私があんたの家に来るのは、今日で最後。あんたと会うのも今日で最後。あんたの顔なんて、もう二度と見たくないんだから」
イライラした声で言う私に、彼はしばらく考えこんでから無言で頷いた。
彼と出会ったのは今から四年前、私が二十二歳の時だった。
その頃にはもう、私は自分の身体のことを理解していた。
自分は、子供を産める身体ではないって。
十代の頃の無茶なダイエットが、全ての原因だった。さらに言うと、無月経のまま二年間放置したこと。
病院に行った時には卵巣と子宮が完全に萎縮していて、「妊娠できる身体ではない」と宣告された。
正直、その時は子供なんてどうでもいいと思っていた。男とは遊ぶ程度でいいし、結婚も子育ても考えただけで重い。だから妊娠できなくても、特に問題ないと思っていたんだ。
彼と出会うまでは。
彼の側にずっといたいと思うようになったのは、いつからだろう。
彼の子供がほしいと思いはじめたのは?
彼が小さな子を見て目を細める度に、胸がちくちくするようになったのは?
私が子供を産めない身体になったのは自業自得で、それを彼に告白する勇気がなかった。
――彼なら、私がそのことを告白しても、きっと傍にいてくれるだろう。
「俺が好きになったのは子供じゃなくて、君だよ」
子供のことなんて関係ない。きっとそう言って、笑ってくれる。許してくれる。
けれど私が、嫌なんだ。
彼がいいと言ってくれても、私が。
私が、自分を許せなかった。
彼の家から自分の家まで続いている細い道を、軽自動車で飛ばした。あまり整備されていない道のせいで、ヘッドライトの光が上下に揺れる。
この道ももう、二度と走ることなはいだろう。
「君がどうしても別れたいなら、別れるよ」
彼は私の家の鍵を渡しながら、笑った。いつもよりも力のない笑顔だった。
「君が幸せになれるのなら、それで」
私が鍵を乱暴に受け取ったのと、彼が私を抱きしめたのは同時だった。――何かを零してしまいそうで、私は懸命に息を止めた。
「……だけど、俺は」
彼の声で、私のちっぽけな世界が、震えた。
「――どうして怒らないのよ……」
私は乱暴にハンドルをきりながら、一人で声を荒げた。
「あれだけ言われたのに、どうして怒らないの!? 君が君がって、あんたはどうして私のことばっかり考えるのよ! 馬鹿じゃないの!?」
ハザードランプを点滅させて、路肩に車を停めた。ハンドルに額をあてて、目を閉じる。外からかすかに、鈴虫の鳴く声が聞こえた。
「だけど俺は、君のことが好きだよ」
耳元で囁かれたその声に、
「……私も」
ようやく返事をしてから、声をあげて泣いた。