R15 雪が降るまで、ひとり
新幹線の改札を抜けたとき、ホームに吹き抜けた風はただ冷たいだけだった。
十二月も半ばを過ぎているというのに、福島駅前のロータリーには雪の欠片も見当たらない。黒々と湿ったアスファルトが広がっているばかりで、東京を出るときに思い描いていた白銀の世界にはほど遠かった。
「なんだ、降ってないのか……」
わざわざ新幹線に飛び乗ったのは、ただただ雪見風呂に浸かりたかったからだ。日々の細々とした煩わしさを全部脱ぎ捨てて、雪の中で熱い湯に溺れたい。その一心だったのに、これではただ寒い地方へ移動してきただけではないか。口元がへの字に曲がりそうになるのを、マフラーに顔を埋めてごまかした。
とはいえ、引き返す気など毛頭ない。宿の予約など取っていない、気ままなひとり旅だ。駅前のタクシー乗り場へ向かい、乗り込むなり運転手に告げた。
「高湯までお願いします」
車は市街地を抜け、次第に勾配の急な山道へと入っていく。標高が上がるにつれて空気の密度が変わり、カーブを曲がるたびに車窓の冷気が鋭さを増していった。以前一度だけ訪れたことのある、あの白濁した硫黄の湯を思い出す。
山懐にひっそりと佇む、こざっぱりとした和風旅館の前で車を降りた。飛び込みで空室を尋ねると、運良く離れの小さな和室がひとつ空いているという。帳場の手続きもそこそこに、部屋へ案内されるなり浴衣に着替え、一目散に露天風呂へと向かった。
引き戸を開けると、濃密な硫黄の香りと共に、もうもうとした湯気が視界を塞いだ。乳白色の湯が、なみなみと湯舟から溢れ出している。
足先を沈めると、ピリッとした熱さが肌を刺し、続いてじわりと体の芯へ染み渡っていく。首筋まで湯に沈め、ふうっと深い息を吐き出した。目の前に広がるのは、冬枯れた茶色の山肌だ。静かではあるけれど、やはりどこか物足りない。岩肌の無骨な乾きを眺めながら、やっぱり雪はないか、と小さく苦笑した。
そのときだった。
湯面から立ち上る白い湯気の向こうに、ひらりとひとひらの白いものが舞い降りてきた。
湯に触れた瞬間、跡形もなくふっと消える。
「……あ」
見上げると、どんよりと重たく垂れ込めた灰色の空から、白い粒が次から次へと零れ落ちてきていた。
「うわー、雪だ!」
誰もいないのをいいことに、思わず声を上げてしまった。子どものように天を仰ぎ、口を開けて舌先を出してみる。冷たい結晶が舌の上でチクッと刺すように溶けた。湯舟から持ち上げた掌を開くと、六角形の細かな結晶がふわりと降り積もり、体温ですぐに透明な水滴へと変わっていく。
ちらちらと頼りなげに舞っていた雪は、やがて大粒の牡丹雪へと変わり、音もなく世界を覆い始めた。
さっきまで無骨に露出していた茶色の山肌が、見る見るうちに純白の化粧を施されていく。木々の枝が白い綿をまとい、黒々とした岩肌が淡い銀色へと沈んでいく。
「神様、ありがとう……」
胸まで湯に浸かり直し、両手で湯をすくって肩にかけた。
これ以上ない、最高のご褒美だ。風はなく、ただ雪が降り積もる気配だけが満ちている。耳が痛くなるほどの静寂。
あまりの贅沢さに、湯口の脇にある呼び鈴を押して、雪見酒を頼んだ。
しばらくして運ばれてきたのは、小さな丸い桶。水面に浮かべると、ゆらゆらと波紋を広げて揺れた。中には徳利と猪口、そして福島が誇る淡麗な純米大吟醸。
冷えた猪口を傾けると、華やかな吟醸香が鼻腔を抜け、研ぎ澄まされた米の旨みが舌の上を滑らかに転がっていく。熱い湯と、冷たい雪と、極上の美酒。
外気は氷点下に近いのに、乳白色の湯に包まれた体は芯からぽかぽかと温まり、頬は林檎のように火照っている。いつまでも、何時間でもこうしていられる気がした。
ふと、湯気に煙る雪景色を眺めながら、不埒な考えが頭をよぎる。
――これで、気心の知れた素敵な男性でも隣にいたら、もっと最高なのに。
肩を寄せ合って、冷たくなった互いの頬に触れたりして。
「まったく、強欲なことだわ」
誰もいない露天風呂で一人ごちて、猪口の酒を喉へ流し込んだ。
すっかり上気した体を引き上げ、ぽかぽかと火照る足取りで部屋へ戻ると、すでに夕食の膳がしつらえられていた。
山菜の小鉢に、熱々の茶わん蒸し。湯気を立てる地鶏の鍋に、からりと揚がった天ぷら、山奥とは思えないほど角の立った新鮮なお刺身。滋味あふれる和え物に、素朴な香の物。食卓の上に並ぶ馳走の真ん中に、事前に特別注文しておいた小鉢が鎮座していた。
ほやだ。
「海のパイナップル」とも呼ばれる、この奇妙な海産物。鮮やかな橙色の身を箸でつまみ、口へ運ぶ。
独特の磯の香りと、キュッと引き締まった歯ごたえ、そして奥からじんわりと広がる甘みと苦み。癖の強いこの味を、地酒で追いかける。東京の居酒屋ではなかなか味わえない、この濃厚な風味に出会うことも、今回の旅の大きな目的のひとつだった。
鍋をつつき、ほやを噛み締め、酒を舐める。誰に気兼ねすることもない、完全な自分のための時間。
腹八分目を超えたところで膳を下げてもらい、敷かれたばかりのふかふかの布団へ滑り込んだ。
畳に敷かれた厚い敷布団と、羽毛の重みが心地よく体を包み込む。窓の外では、いまも深々と雪が降り積もっているはずだ。
浴衣の襟元を少し緩め、温まったシーツの中で足を伸ばす。
現実に素敵な殿方が隣にいなくたって、なんの問題もない。
「夢の中で、とびきりの相手を調達すればいいんだもの」
まぶたの裏に、雪景色と、まだ見ぬ誰かの優しい横顔を思い浮かべる。
枕に顔を埋めると、自然と口元が緩んで、小さなくぐもった声がこぼれた。
ウフフ♡
夜はまだ、始まったばかりだった。
◇◇◇
翌朝、障子を開けると、庭の松の枝が重たげにしなるほどの銀世界が広がっていた。冷気で引き締まった朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、昨夜の雪見酒の火照りがようやく抜けたことを知る。
「さて、今日はどうしようかしら」
思い浮かんだのは、福島のもうひとつの名物、馬刺しだった。にんにくを利かせた辛子味噌を、しっとりとした赤身に絡めて食べるあの味。口の中がすっかり肉と地酒の迎え酒を求め始めている。
帳場へ寄り、近所で美味い馬刺しが食べられる店までタクシーを呼びたいと頼み出してみた。
だが、番頭はすまなそうに眉を八の字に曲げた。
「お客さん、この雪でねえ。駅のほうの車もみんな出払っちまってて、こっちまで上がってこれないんですよ」
「あら、そうなの……」
「もしよかったら、俺の友達に声をかけてみましょうか。麓で商店やってる奴なんですが、ちょうど軽トラで荷物届けに来るついでがあるから、乗せてってくれるかもしれねえ」
渡りに船とはこのことだった。二つ返事でお願いすると、ほどなくして長靴を履いたがっしりした体つきの男が現れた。日に焼けた精悍な顔立ちに、人懐っこい笑みを浮かべている。
「東京からのお客さん? いいよ、ちょうど飯食いに行こうと思ってたところだ。乗ってきな」
助手席に乗り込むと、車内にはほのかに煙草と柑橘の匂いが混ざっていた。凍結した山道をハンドルを器用にさばきながら、男は地元の話をあれこれと聞かせてくれた。ぶっきらぼうだがどこか気風がよく、都会の男にはない野太い包容力がある。
案内されたのは、観光客などまず来ないような、年季の入った大衆食堂だった。
運ばれてきた馬刺しは、息を呑むほど鮮やかな深紅。ねっとりと舌に絡みつく赤身に、ピリリと辛い特製の味噌だれが絶妙に合う。
「うわ、これ……東京の居酒屋のとは全然違う」
「だろ? ほら、遠慮しないでどんどん食いな」
男が豪快にビールを煽り、こちらの杯にも地酒を注いでくれる。昨夜のほやに続き、福島の美味にすっかり酔いが回り、昼間だというのに頭の芯が心地よく痺れてきた。
旅の解放感というのは、恐ろしい。
昨夜、露天風呂の中で「気心の知れた素敵な男性でもいれば」と呟いた冗談が、アルコールと雪の魔力によって、急速に輪郭を帯びていく。
「……ねえ、この後どうするの?」
伏し目がちに尋ねると、男はジョッキを置き、じっとこちらの目を見つめてきた。
「どうするって……あんたさえよければ、もっと静かなところ、行くか?」
どちらからともなく席を立ち、再び車へ乗り込んだ。
向かった先は、昨夜の宿ではなかった。男が勝手知ったる、鄙びた別の温泉宿。
薄暗い六畳間の障子越しに、鈍い冬の光が差し込んでいた。暖房の効きが追いつかない部屋の空気はひやりと冷たく、古い畳の青臭い匂いが漂っている。
男は無造作に上着を放り出すと、立ったまま帯に手を掛けた。
太い指先が躊躇なく胸元を割り、皺の寄った浴衣が足元へと落ちる。荒れた手のひらが首筋に伸び、熱い吐息とともに首筋から鎖骨へと唇が押し当てられた。煙草と地酒の匂いが混ざり合った生々しい呼気。
畳に押し倒されると、背中に編み目の硬い感触がじかに伝わってきた。男の重みがのしかかる。作業で鍛えられた厚い胸板が素肌を圧迫し、逃げ場のない熱が狭い空間にこもっていった。
ごわついた掌が内腿を割り、引き裂くように深く沈み込んでくる。軋む古い床板の音と、荒い呼気だけが部屋に響いた。乱暴なまでに力強い腰の動きに合わせて、視界の隅で障子の桟が小刻みに揺れ続ける。外の冷気が窓硝子を叩く音も、この部屋に渦巻く熱気の向こう側へ遠のいていった。
やがて短いため息とともに男の力が抜け、静寂が戻ってきた。冷えかけた室温のなかで、湿った互いの肌から、湯気のように薄い汗の匂いが立ち上っていた。
夕暮れ前、火照った体を整え、駅まで送ってもらった。
「楽しかったわ。送ってくれてありがとう」
「おう。気をつけて帰りな」
車窓越しに軽く手を振り、新幹線の改札をくぐる。
旅の恥は掻き捨て。雪の山奥で起きたことは、すべて雪が溶けるように消えていく。それが大人の旅の作法であり、二度と交わらないからこその極上の思い出だと思っていた。
――それから、数ヶ月が過ぎた頃だった。
東京の日常は忙しなく、福島の雪も、あの濃厚な馬刺しの味も、男の逞しい腕の感触も、遠い幻のように薄れていた。
休日の午後、インターホンが鳴った。宅配便の予定も心当たりがなく、怪訝に思いながらドアを開けた。
「……よっ」
立っていたのは、見覚えのある日に焼けた顔だった。
都会のマンションの廊下には似合わない、革のブルゾンを着たあの商店の男だった。
「え……っ!?」
声が凍りついた。心臓が跳ね上がり、呼吸が止まりそうになる。
「な、なんで……どうしてここが……」
「いやあ、東京は人が多くて探すのが骨だったよ。ちょっと近くまで用があってさ。顔、見に来ちゃった」
悪びれもせず、あの時と同じ人懐っこい笑顔を浮かべている。
頭の中が真っ白になった。住所なんて一言も教えていない。連絡先すら交換せずに別れたはずだった。
――宿帳? それとも、あの宿の番頭づてに……?
冷たい汗が背筋をつうっと伝い落ちる。
雪の露天風呂で「神様ありがとう」と無邪気に喜んでいた自分が、いまさらながら呪わしかった。あの雪見の夜に始まった気ままな一人旅は、とんでもない余波を残したまま、私の東京の日常へと土足で踏み込んできていた。
志乃、二十三歳。
あの雪の中で見たものはすべて、消えてなくなるはずの、うたかたの夢だったのだ。




