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第6話 深夜の背徳ジャンクフード

「ただいま……」


 午後9時。築20年の2LDKのマンションに帰り着いた上田晃次は、玄関のドアを閉めるなり、その場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。

 首を締め付けていたシルクのネクタイを乱暴に緩め、深い、本当に深い溜め息を吐き出す。


「お疲れ様! いやあ、今日は最高の初日だったわね! 営業部のあの人、あんたの笑顔にドギマギしてたじゃない!」


 晃次の頭上から、明るく響き渡る声が降り注ぐ。

 声の主は、半透明の白いワンピース姿で宙を優雅に漂う、国民的女優・内田李理香の幽霊だ。彼女は物理的な疲労を一切感じないため、朝から晩までテンションが全く変わっていない。


「俺は……もう限界だ。顔の筋肉が攣りそうだし、喉は枯れかけてる。まさか一日中、舞台俳優みたいに発声し続けることになるとは思わなかった」


 晃次が床に這いつくばったまま呻くと、李理香はふわりと床に降り立ち、腕を組んで見下ろしてきた。


「何言ってるの。あんたの会社での影響力を高めるためには、あのくらいのオーラと愛想の良さが最低限必要なのよ。明日も明後日も、犯人を見つけるまでずっとあの調子でいくからね」

「……鬼か」

「鬼じゃなくて、プロデューサーと呼びなさい。さ、早く立って! お腹ペコペコよ。夕飯にしましょう!」


 幽霊である李理香は物理的に食事をとることはできないが、晃次が食べて詳細な「食レポ」をすることで、味覚を擬似的に共有する『代理摂食』を楽しむことができる。彼女にとって、この時間は一日のメインイベントなのだ。

 晃次は重い体に鞭打って立ち上がり、キッチンへと向かった。


「今日は本当に疲れたから、素麺でも茹でて終わりにさせてくれ……。めんつゆに生姜でも入れて……」

「却下!」


 李理香の鋭い声が、キッチンの静寂を切り裂いた。


「素麺!? そんな精進料理みたいなもので、私の胃袋と魂が満足すると思ってるの!? 昨日はアラビアータを作ってくれたじゃない!」

「昨日はヤケクソだったからできたんだよ。今は指一本動かすのも億劫なくらい疲れてるんだ」

「疲れてる時こそ、ガツンとしたものを食べなきゃダメよ! 私ね、事務所にずっと禁止されてて、生前、絶対に食べられなかったアレがあるの! どうしても、死ぬまでに……あ、もう死んでるけど、とにかくアレが食べたいの!」


 李理香が空中でジタバタと暴れ始める。その強烈な食への執念に、晃次はため息をつきながら冷蔵庫の扉に手をかけた。


「わかったよ。で、アレってなんだ?」

「チーズがナイアガラの滝みたいにドバーッとかかってて、ニンニクがガツンと効いてて、分厚い肉から肉汁がジュワァァァって溢れ出す、超特大の高カロリージャンクバーガーよ!!」


「ジャンクバーガー……」


 晃次は目を見開いた。


「1000年に一度の透明感」と称され、サラダとスムージーしか口にしないようなイメージで売っていた清純派女優の口から出たとは到底思えない、暴力的なメニュー名だった。

「テレビのイメージと違いすぎるだろ。そんなジャンクなものが食べたかったのか?」

「当たり前じゃない! 毎日毎日、茹でたササミとドレッシング抜きのブロッコリーばかり食べさせられて、炭水化物は敵だと言われ続けてきたのよ! 私のスマホの検索履歴、深夜に調べた『都内 絶品バーガー 肉汁』ばっかりなんだからね!」


 李理香の目には、うっすらと涙さえ浮かんでいるように見えた


 その切実な叫びを聞いて、晃次のオタクとしての使命感に火がついた。

 推しがそこまで飢えていたというのなら、全力で応えるのがファンの務めだ。


「わかった。俺が持てるすべての技術を使って、最高にジャンクでギルティなハンバーガーを作ってやる」


 晃次はワイシャツの袖を腕まくりすると、手早く調理の準備に入った。

 疲労はどこへやら、料理モードに入った彼の動きに無駄はない。

 冷凍庫から、特売日に買って保存してあった牛ひき肉のパックを取り出す。ハンバーガーのパティは肉の食感が命だ。ひき肉に、食感を残すために細かく刻んだ牛バラ肉を混ぜ込み、塩胡椒とナツメグを強めに振って粘り気が出るまで力強く捏ねる。


「ニンニクは絶対に妥協しないでね! 翌日の撮影のこととか気にしなくていいんだから!」

「任せろ。パティの中にも刻んだニンニクを練り込むし、ソースにもガッツリ効かせてやる」


 玉ねぎをみじん切りにし、パティのタネを特大サイズに成形して真ん中をくぼませる。

 フライパンに牛脂を引き、強火で一気にパティの表面を焼き固める。


『ジュウウウウウッ!』という派手な音と共に、暴力的なまでに香ばしい肉の焦げる匂いがキッチンに充満した。


「あああっ……! いい匂い! これよ、この匂い! 私の全細胞が歓喜してるわ!」


 李理香がフライパンの真上で空気を抱きしめるように身悶えしている。

 パティを裏返し、弱火にして蓋をして中まで火を通す。その間に、別のフライパンで厚切りのベーコンをカリカリになるまで焼き上げた。


 次はメインイベントの一つ、チーズだ。

 チェダーチーズとモッツァレラチーズをたっぷりと小鍋に入れ、少量の牛乳を加えて弱火でじっくりと溶かしていく。黄色と白のチーズが混ざり合い、とろとろのマグマのように仕上がる。

 バンズは、買い置きしてあった少し大きめのパンを横半分にスライスし、内側にバターをたっぷりと塗ってトースターで焦げ目がつくまで焼く。


「よし、組み上げるぞ」


 晃次は大きめの平皿にバンズの下半分を置き、マスタードとマヨネーズを混ぜた特製ソースをたっぷりと塗る。その上にシャキシャキのレタス、輪切りのトマト、そしてカリカリのベーコンを乗せる。


「主役の登場だ」


 肉汁が溢れ出ている特大のパティを、野菜の上にドンッと乗せた。


「そして、これだ」


 晃次が小鍋を傾けると、とろとろに溶けた黄金色のチーズが、厚さ3センチはあるパティの上からナイアガラの滝のようにドバーッと流れ落ち、パティを完全に包み込んだ。

 最後に、内側にソースを塗ったバンズの上半分を乗せ、崩れないように長い竹串を中央に突き刺す。


 完成したのは、ファストフード店では絶対にお目にかかれない、標高15センチを超える超特大のチーズ・ベーコン・ガーリックバーガーだった。


「……ヤバい。これはヤバいわ。見た目だけで致死量のカロリーを感じる……!」


 ダイニングテーブルの向かい側に座った李理香が、目をキラキラと輝かせて身を乗り出している。

 晃次は冷蔵庫から大きめのグラスを取り出し、氷をたっぷりと入れ、コーラをなみなみと注いだ。炭酸がパチパチとはじける音が、ジャンクな食卓のBGMになる。


「さあ、早く! 冷めないうちにガブッといって! 肉汁を一滴もこぼさないでよ!」


 李理香の急かしに頷き、晃次はバーガーを両手で鷲掴みにした。

 ずっしりとした重みと、バンズの温かさが手に伝わってくる。

 大きく口を開け、顎が外れそうになりながらも、バーガーの層を一気に噛みちぎる。


『ザクッ、ジュワァァァッ……!』

「んんんっ……!」


 晃次は目を大きく見開いた。

 噛んだ瞬間、バンズのサクッとした食感に続き、パティから熱々の肉汁が爆発するように口の中に溢れ出した。牛バラ肉を混ぜたことで、まるでステーキを噛みちぎっているような力強い肉の旨味がガツンと来る。そこに、強烈なニンニクのパンチと、濃厚で塩気の効いたチーズのコクが怒涛のように押し寄せてきた。


「どう!? どんな味!? 肉汁どう!?」


 テーブルをすり抜け、晃次の顔の真横まで迫ってきた李理香が叫ぶ。


「最高だ……! 肉の弾力がすごい。噛むたびに肉汁が湧き出してくる。それにニンニクの香りが鼻を抜けて、カリカリのベーコンの塩気と、とろとろのチーズが全てを暴力的にまとめ上げてる。レタスとトマトの酸味がわずかな抵抗をしてるけど、完全にカロリーの波に飲み込まれてるよ。これは……合法的な麻薬だ」


 晃次が熱弁を振るうと、李理香は「あああああっ!!」と頭を抱えて空中でジタバタと悶え始めた。


「ずるい! ずるいずるいずるい! 私の口の中にも今、絶対その味が広がってる気がする! パティの粗挽き感とチーズのコクが! ああっ、早くコーラ! 氷たっぷりのコーラで喉に流し込んで!」


 言われるがまま、晃次はグラスを掴み、冷たいコーラを喉に流し込む。

 強烈な炭酸とシロップの甘さが、口の中に残る油分と塩気を一気に洗い流していく。爽快感と背徳感が混ざり合った、完璧なマリアージュだった。


「ぷはぁっ……!」

「くうぅぅぅっ! 炭酸が喉で弾ける感覚、たまんないわね!!」


 自分が飲んだわけでもないのに、李理香はまるでジョッキを飲み干した後のように快感に震えていた。


 それから数十分間、部屋には晃次がハンバーガーに食らいつく咀嚼音と、李理香の興奮した叫び声だけが響き渡っていた。

 最後の一口を飲み込み、晃次は大きく息をついて椅子の背もたれに寄りかかった。


「食った……。さすがに胃が重い」

「ふふっ、お疲れ様。見事な食べっぷりだったわよ。食レポの腕も上がってきたんじゃない?」


 李理香は満足そうに微笑みながら、向かいの空席の辺りをふわりと漂っている。

 その顔には、いつもテレビで見せていた作られた「妖精の笑顔」ではなく、年相応の、ジャンクフードを満喫した女の子の心底幸せそうな笑みが浮かんでいた。


「こんな夜遅くに、ニンニクとチーズたっぷりのハンバーガーを食べてコーラを飲むなんて……生前だったら、マネージャーに絶対に殺されてるわね」

「今はもう幽霊なんだから、カロリーも肌荒れも関係ないだろ。毎日でも食えるぞ」

「それはそうなんだけど。でも、なんだろう。こうして『やってはいけないこと』を二人でこっそり共有してるみたいで……すごく悪いことしてる気分。でも、最高に幸せ」


 李理香の言葉に、晃次も自然と口元が綻んだ。

 彼女は国民的女優で、雲の上の存在だった。推しとファンという、絶対に交わるはずのない二つの世界。

 それが今、深夜のダイニングルームで、カロリーとニンニクの匂いにまみれながら、同じ背徳感を共有している。

 会社で真犯人を暴くという重い使命を背負う二人にとって、このジャンクな食卓は、ただの食事以上の意味を持っていた。


(俺は、彼女のこういう普通の顔を守りたかったのかもしれないな)


 ポスターの中で微笑む完璧な李理香よりも、今目の前で肉汁の味を想像して騒いでいるガサツな李理香の方が、はるかに愛おしく感じられる。


「ねえ、晃次」


 不意に、李理香が少しトーンを落として呼びかけてきた。


「ん? なんだ?」

「明日も、会社でビシッとして、しっかり情報集めてよね。私も全力でサポートするから」

「……ああ。任せておけ。俺たちで絶対に、君の無念を晴らしてやる」


 深夜の静寂の中、コーラの氷がカランと音を立てて溶けた。

 推しとファン、上司と部下、そして幽霊と人間。

 いくつもの奇妙な関係性が交差する中で、ただの協力者という枠を超えた特別な連帯感が、静かに芽吹き始めていた。

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