第5話 推しと同伴出勤
「……なあ、少し離れすぎじゃないか?」
「大丈夫よ、まだ平気。ほら、ちゃんと5メートル以内をキープしてるでしょ」
朝の通勤ラッシュに向かう駅までの道のり。上田晃次は、数メートル斜め上空をフワフワと漂いながらついてくる半透明の幽霊に、小声で話しかけていた。
「バッテリー」である晃次から半径5メートル以上離れると、存在が維持できなくなる内田李理香。彼女は今、死んだ時の白いワンピース姿のまま、まるで人間ドローンのような軽やかさで宙に浮き、晃次の斜め後方を追従している。
当然だが、すれ違うサラリーマンや学生たちには、彼女の姿は一切見えていない。彼らの目には、完璧にセットされた髪と立体的なネクタイでビシッと決めた長身の男が、時折虚空に向かってボソボソと独り言をこぼしているようにしか映っていないはずだ。
「それにしても、私のスタイリングの力って凄いわね。さっきからすれ違う女の人たち、みんなあんたのことチラチラ見てるわよ」
李理香が空中でくるりと宙返りをしながら、得意げに笑った。
確かに、今朝の晃次はいつもと違った。これまでは「存在感を消すこと」に特化したようなヨレヨレのスーツ姿だったが、李理香の厳しいダメ出しによって姿勢が矯正され、前髪を上げたことで精悍な顔つきが露わになっている。
「……気のせいだろ。俺が空に向かってブツブツ言ってるから、不審者だと思われて警戒されてるだけだ」
「あんたって本当に自己評価低いのね。せっかく素材は悪くないのに、宝の持ち腐れよ。まあいいわ、今日から私がその腐った根性を叩き直してあげるんだから」
幽霊のくせにやけに頼もしいというか、恐ろしい宣言を聞き流しながら、晃次は駅の改札を抜けた。
ここからが、都内勤めのサラリーマンにとって最初の地獄、通勤電車である。
ホームに滑り込んできた急行電車は、すでにドアのガラスに顔が張り付くほどの超満員だった。
「うわ……これに乗るのか」
「ひえっ、何この人間パズル。隙間が1ミリもないじゃない」
李理香が上空からドン引きした声を上げる。
「大げさな。日本のサラリーマンは毎朝これを乗り越えて戦場に行ってるんだよ。行くぞ」
晃次は気合を入れ、開いたドアから押し寄せる人の波の隙間に体をねじ込んだ。背後から「押し込み係」の駅員に背中を押され、息が詰まるほどの圧迫感に包まれる。
四方八方から見知らぬ他人の体温と、整髪料や汗の匂いが押し寄せてくる。身動き一つとれない密閉空間。
ふと上を見上げると、そこには信じられないほど優雅な光景が広がっていた。
「わぁ、すごーい! 人の頭の上がこんなにスッカラカンなんて知らなかった!」
李理香である。
彼女は物理的な干渉を受けないため、満員電車の圧死寸前の空間など全く関係なかった。人々の頭上、吊り革と網棚の間のわずかな空間を、まるでプールを泳ぐようにスイスイと飛び回っている。
時折、他人の頭や肩をすり抜けては「うひゃっ、変な感触!」と一人で楽しそうにはしゃいでいた。
「……いい身分だな」
「何か言った?」
「なんでもない。俺の半径5メートルから絶対に出るなよ。駅のホームに置いていかれたら、君、消えるからな」
「わかってるわよ。それにしても私、満員電車なんて乗ったことなかったから新鮮だわ。事務所の車移動ばかりだったし、下積み時代もこんなピークの時間は避けてたから」
人々の頭上で優雅に寝そべりながら、李理香は窓の外を流れる景色を眺めている。
(国民的女優が満員電車ではしゃいでる姿なんて、週刊誌が見たら発狂するだろうな……)
晃次は周囲のサラリーマンの背中に押し潰されそうになりながら、心の中で深い溜め息をついた。
やがて電車は目的地の駅に到着し、晃次は人の波に吐き出されるようにホームへと降り立った。
乱れたスーツのシワを伸ばしていると、頭上からスーッと李理香が降りてくる。
「お疲れ様。あんたたち、毎朝こんな苦行をやってるのね。ちょっとだけ尊敬してあげる」
「同情するならタクシー代をくれ。……いや、幽霊だから金は持ってないか」
「稼ぎなら私の口座に数億円あるわよ。親が管理してるだろうけど」
「次元が違った」
そんな軽口を叩きながら、二人はオリオンフーズの本社ビルへと向かった。
オリオンフーズの本社は、都内の一等地にそびえ立つ立派なオフィスビルだ。
晃次が所属する総務部は、そのビルの4階にある。備品の管理から社内イベントの調整、各部署からのクレーム処理まで、会社を裏から支える「何でも屋」だ。
IDカードをゲートにかざし、オフィスに足を踏み入れる。
すでに何人かの社員が出社しており、キーボードを叩く音や、電話の話し声がフロアに響いていた。
「おはようございます」
晃次はいつものように、誰に向けるでもなく、ボソボソとした低い声で挨拶をしながら自分のデスクに向かった。
「あ、上田さん、おはようございま……す……?」
隣のデスクに座っていた入社3年目の後輩・高木が、挨拶を返しかけて目を丸くした。
「……ん? なんだ、高木」
「いや、なんか今日、上田さん雰囲気違いません? いつももっとこう……寝癖とかついてて、死んだ魚みたいな目をしてるのに」
「失礼なやつだな。ちょっとネクタイの結び方を変えただけだ」
「マジですか? ネクタイ一つでそんなに変わるもんなんすね。なんか、急にバリバリ仕事できそうなオーラ出てますよ」
高木の言葉に、晃次は「そうか?」と適当に返し、パソコンを立ち上げた。
確かに見た目は変えられたが、晃次の中身は入社以来培ってきた「事勿れ主義の万年・主任代理」のままだ。面倒な仕事は極力避け、定時で帰って料理を作ることだけを生きがいにしている。
今日も適当に備品発注の決裁を回して、昼休みまで時間を潰そう。
そう思ってマウスを握った瞬間だった。
「……ちょっと、上田晃次」
耳元で、背筋が凍るような冷たい声がした。
ビクッとして横を見ると、李理香の幽霊が晃次の顔の真横に張り付き、般若のような形相でこちらを睨みつけていた。
「な、なんだよ。急に驚かさないでくれ」
晃次は周囲にバレないよう、口の動きを最小限にして囁き返した。
「さっきの挨拶は何? 『おはようございます』って、あのボソボソ声は何!?」
李理香の怒声が鼓膜を直接震わせる。
「え、普通だろ。総務部なんてこんなもんだ」
「普通じゃない! 覇気がない! 声が小さい! 目線が下! あんな挨拶、エキストラでも一発で降板よ!」
「会社とドラマの撮影現場を一緒にしないでくれ……」
「一緒よ! 会社だって人間関係のステージじゃない! あんた、私の復讐のために社内で『影響力』を持つって約束したわよね!? 挨拶一つまともにできない人間に、誰が重要な情報を話すと思うの!」
李理香の説教は止まらない。彼女は物に触れられないが、その言葉の圧力は並の物理攻撃よりも重くのしかかってくる。
「いい!? 挨拶は腹から声を出す! 相手の目を見る! そして口角を上げて、1ミリの狂いもない爽やかな笑顔を作るの! 女優の基本中の基本よ!」
「わ、わかったから大声出さないでくれ……」
「じゃあ今すぐやり直し! ほら、向こうから別の部署の人が歩いてきたわよ。さあ、腹から声出して!」
言われるがまま、晃次はフロアの通路を歩いてきた見知らぬ営業部の社員に向かって、背筋を伸ばした。
李理香の「スリー、ツー、ワン、アクション!」という幻聴のような合図と共に、晃次は口角を限界まで上げ、腹の底から声を張り上げた。
「おはようございますッ!!」
「……ビクッ!? あ、お、おはようございます……?」
突然の響き渡るような美声と完璧な笑顔に、営業部の社員は驚いて立ち止まり、引きつった笑顔で会釈を返して逃げるように去っていった。
フロアにいた数人の社員も、「今の上田さんか?」「なんか今日、すごい気合入ってない?」とヒソヒソと話し始めている。
「……ほら見ろ、変な空気になったじゃないか」
「最初はそんなもんよ! 続けていけば、必ずそれが『信頼』に変わるの! さあ、次! 電話が鳴ってるわよ! 3コール以内に取る!」
『プルルルルッ!』
デスクの電話が鳴った瞬間、李理香が空中で指示を飛ばす。
晃次はため息をつきつつ、言われた通り素早く受話器を取った。
「はい、総務部の上田で……」
「声が暗い! ワントーン上げる! ソの音よ、ソの音!」
耳元で怒鳴られ、晃次は慌てて声を裏返しながらトーンを上げた。
「は、はいッ! 総務部の上田でございますッ!」
『……あ、営業二課の田中ですが。すいません、コピー機のトナーが切れてしまって……』
「はい、承知いたしました! 直ちに新しいトナーをお持ちし、交換作業に入らせていただきます!」
『え、あ、はい。……なんか今日、やけに元気ですね? よろしくお願いします』
電話を切り、晃次はどっと押し寄せる疲労感に額を押さえた。
たかがコピー機のトナー補充に、なぜここまでの情熱を注がなければならないのか。
「よし、よく言えたわ! じゃあ今すぐトナーを持って営業二課に走る! 歩く時も背筋を伸ばして! 颯爽と! 風を切るように!」
「……お前、絶対に面白がってるだろ」
「何言ってるの、私は大真面目よ。小さな雑務の積み重ねが、大きな役を掴む唯一の道なんだから。さあ、早く早く!」
李理香に急かされ、晃次はトナーの箱を抱えてオフィスを足早に歩き始めた。
すれ違う社員たちに、先ほど叩き込まれた「腹からの発声」と「完璧な笑顔」で次々と挨拶をこなしていく。
「おはようございます!」「お疲れ様です!」
そのたびに、誰もが驚いたように振り返り、そして悪くない表情で挨拶を返してくるのがわかった。
「あら上田くん、今日はずいぶん爽やかね。髪型変えた?」
いつもは小言ばかり言ってくる経理部のお局社員までが、頬を染めて嬉しそうに声をかけてきた。
「ええ、少し気分を変えまして。今日も一日、頑張りましょう!」
李理香の「よし、今の返し完璧! 100点!」という合いの手を聞きながら、晃次は背筋に冷たい汗を流しつつも、完璧な営業スマイルを維持した。
(なんだこれ……めちゃくちゃ疲れるけど、周りの反応が明らかに違う)
ただの事勿れ主義のサラリーマンだった自分が、たった数十分の「演技指導」で、まるで社内の空気を変えるような存在になっている。
幽霊の推しによる、スパルタな「一流化計画」。
それは決して単なる嫌がらせではなく、犯人を追い詰めるための確実な武器作りなのだと、晃次も理解し始めていた。
「さあ、トナー交換が終わったら次は会議室のセッティングよ! 1ミリのズレもなく椅子を並べるの!」
「わかったよ、鬼上司。……いや、鬼監督か」
「フフッ、文句があるならいつでも降板していいのよ?」
「断る。最後まで付き合うって決めたんだ」
呆れながらも、晃次の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
霊感ゼロのサラリーマンと、横暴で完璧主義な幽霊の推し。
二人三脚で挑む前途多難なオフィスライフに、息をつく暇など一秒たりとも用意されてはいなかった。




