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第4話 幽霊の取扱説明書

 翌朝。

 スマートフォンの無機質なアラーム音で目を覚ました上田晃次は、ぼんやりとした頭で天井の木目を見つめていた。

 昨夜はあまりにも多くのことが起きすぎた。愛する推しの訃報、ヤケクソで作った激辛アラビアータ、そして幽霊となった内田李理香の出現と、彼女が殺されたという衝撃的な事実。


「……夢、だよな。いくらなんでも」


 重い体を起こし、晃次はボサボサの頭を掻いた。ひどい疲労感がある。推しの死という現実を受け止めきれず、脳が都合のいい幻覚を見せていたのだと思いたかった。


 ベッドから這い出し、重い足取りでリビングのドアを開ける。


「あ、おはよう。遅いわよ、もう朝の7時じゃない。私のマネージャーをやるなら、毎朝5時には起きてスケジュール確認するくらいじゃないとダメよ」

「……」


 ダイニングテーブルの上で、死んだ時の白いワンピース姿のまま胡座をかいて宙に浮いている国民的女優が、腕を組んでこちらを見下ろしていた。

 やはり夢ではなかった。

 幻覚でもない。網膜に焼き付くような透き通る美貌も、生意気でガサツな口調も、昨夜のままだ。


「おはよう、李理香ちゃん……。幽霊って、睡眠とかとらなくても平気なのか?」

「全然。疲労感も眠気もないわね。ただ、あんたが寝てる間、暇で暇で死にそうだったわ。あ、もう死んでるんだった」


 自分で言って自分で笑う李理香のポジティブさに、晃次は思わず苦笑した。絶望のどん底にいた昨日の自分からは想像もつかないほど、心が軽い。


「さてと……俺たちはこれから、君を殺した犯人を捜すっていう、とんでもないミッションに挑むわけだ」


 晃次はキッチンに立ち、コーヒーメーカーのスイッチを入れながら、手元のメモ帳を広げた。


「相手はうちの会社の役員クラスかもしれない。俺たちには強力な武器が必要だ。だから出社する前に、昨夜の現象を踏まえて君の『幽霊としての能力』を整理しておきたい。取扱説明書みたいなものだな」

「トリセツね。いいわよ」


 李理香が空中でスッと立ち上がり、晃次の手元を覗き込んだ。


「まず『物理干渉』は不可。フォークや物に触ろうとしてもすり抜ける。ただし、激しい感情がトリガーになれば、周囲の磁場に干渉してポルターガイストを起こせる。これは昨夜の皿や引き出しの件で実証済みだ」


 晃次はメモ帳に素早く箇条書きしていく。


「透過能力についても、壁やドアをすり抜けられることはわかってる。問題は『距離の制限』だ。昨夜、君は玄関から廊下に出ようとして体が薄くなったと言っていたな」

「ええ。あんたっていうバッテリーから離れすぎると、存在が維持できなくなるみたい」

「なら、限界距離を測っておこう。俺はここに立つから、君は玄関の方へ少しずつ離れてみてくれ。絶対に無理はするなよ」


 李理香は頷き、壁をすり抜けながら玄関の方へとフワフワと遠ざかっていった。


「……この辺りから、指先がピリピリして透け始めてるわ」


 リビングにいる晃次から、彼女の声が少し遠く聞こえる。目測でだいたい半径5メートルといったところだ。


「わかった、戻ってきてくれ。……俺を中心とした半径5メートル以内。これが君の行動限界範囲だ。潜入捜査をするにしても、俺が壁越しにギリギリまで近づいておく必要があるな」

「了解。まあ、常に一緒にいるんだから問題ないでしょ」


「よし、これで能力の把握はできた。それじゃあ、俺は着替えて会社に行く準備をするよ」


 晃次はメモ帳を閉じ、寝室のクローゼットに向かった。

 いつものように、皺になりにくい化学繊維の安いスーツを適当に引っ張り出し、ワイシャツに袖を通す。ネクタイは結ぶのが面倒なので、あらかじめ輪っかが作ってあるワンタッチ式のものだ。

 洗面台に向かい、寝癖のついた髪を水で適当に撫でつける。入社して数年はこの辺りも気を遣っていたが、30歳になり、出世コースからも外れた「万年・主任代理」の自分には、身だしなみにこだわる理由などなかった。


「……ちょっと」


 洗面所の入り口から、氷のように冷たい声が聞こえた。

 振り返ると、腕を組んだ李理香の幽霊が、能面のような無表情でこちらを見つめていた。


「なんだ? さすがの幽霊も男の着替えを見るのは恥ずかしかったか?」

「ふざけないで。あんた、まさかその格好で会社に行くつもり?」


 李理香の視線が、晃次の全身を値踏みするように舐め回す。


「え、ああ。いつもこれだけど。総務部なんて社内でお茶引きと備品管理してるだけだし、誰に見られるわけでもないからな」

「ダメ。絶対ダメ。問題外。今すぐ全部やり直し!」

「はあ!?」


 李理香は洗面所の中にふわりと入り込み、晃次の周囲をグルグルと飛び回りながら、機関銃のようにダメ出しを始めた。


「まずそのスーツ! なんでそんなにヨレヨレなの!? サイズも合ってないから肩が落ちて、だらしなく見える! ワイシャツの襟もくたびれてるし、何よりそのワンタッチのネクタイ! 中学生の制服じゃないんだから、大人の男がそんな手抜きアイテム使わないの!」

「いや、これは朝の時短と動きやすさを重視して……」

「言い訳無用! 今すぐクローゼットの奥にある普通のネクタイを持ってきなさい! 髪型も何それ! 水で濡らしただけ!? 鳥の巣なの!? 全体的に覇気がない、やる気がない、オーラがない! マイナス100点!」


 あまりの剣幕に、晃次は圧倒されてクローゼットから普通のシルクのネクタイを引っ張り出してきた。


「なんで朝からそこまで怒られなきゃならないんだ。俺の勝手だろ」

「勝手じゃないわよ! あんた、昨日言ったわよね? 私の復讐を手伝って、真犯人を暴き出すって」


 李理香はピタリと空中で動きを止め、晃次の目の前まで顔を近づけた。半透明の彼女の顔から、強烈な威圧感が放たれている。


「役員クラスの悪事を暴くなら、あんた自身が社内で『影響力』を持たなきゃ話にならないの。説得力は、まず見た目から作られる。ヨレヨレのスーツを着た冴えないおじさんの言うことなんて、誰も真剣に聞いてくれないわよ!」

「おじ……っ」

「私は女優よ? 衣装やメイク、立ち振る舞い一つで、人間が他人に与える印象がどれだけ変わるか、誰よりも知ってるわ。犯人を捜すなら、まずはその冴えない見た目から直しなさい! 今日からあんたを、誰もが振り向く『デキる男』にプロデュースしてあげる!」


 そこから先は、まさに地獄のブートキャンプだった。

 李理香は物に触れられないため、彼女が直接ネクタイを結んだり、髪をセットしたりすることはできない。その代わり、彼女の口から絶え間なく飛んでくる「完璧な演技指導」に合わせ、晃次が自分で手を動かさなければならなかった。


「違う、ネクタイの結び目はもっとキュッと小さく! 結び目の下にディンプルをしっかり作って立体感を出すの! ……ああっ、もう、私が自分で結びたいのに触れないのがもどかしいっ!」

「わ、わかった! これでどうだ!」

「次は髪! ワックスをもっと手に馴染ませて! 前髪は上げる! そう、おでこを出して! あんた、目鼻立ちは悪くないんだから、隠すともったいないのよ。もっと自信満々な表情を作って!」

「自、自信満々……こうか?」

「口角を少しだけ上げる! 背筋を伸ばして、肩甲骨を寄せる! そう、胸を張って!」


 格闘すること約20分。

 洗面所の鏡の前に立っていたのは、いつもの「くたびれた主任代理」ではなかった。

 前髪をすっきりと上げ、精悍な顔つきが露わになっている。李理香の厳しい指導の末に結ばれたネクタイは美しく立体感を保ち、Vゾーンにメリハリを生んでいた。背筋を伸ばしたことで、本来の183センチという長身と、ガッシリとした肩幅が際立ち、見違えるような「洗練された大人の男」のオーラが漂っていた。


「……誰だ、これ」


 晃次自身が、鏡の中の自分を見て呆然と呟いた。


「ふふっ。やればできるじゃない。まあ、スーツの質はすぐには変えられないけど、着こなしと姿勢だけでこれだけ印象が変わるのよ。これなら、役員室に乗り込んでも舐められないわ」


 李理香は満足そうに腕を組み、空中で何度か頷いた。


「すごいな……。まさか、国民的女優に直接スタイリングしてもらえる日が来るとは思わなかった」

「スタイリングだけじゃないわよ。会社に着いたら、歩き方から声の出し方、仕事の進め方まで、全部私が指導してあげるから。覚悟しなさい」

「お手柔らかにお願いしますよ、ゴースト上司」


 晃次が冗談めかして肩をすくめると、李理香は「さあ、行くわよ!」と玄関に向かって飛んでいった。


 彼女は「バッテリー」である晃次から半径5メートル以上離れることができない。つまり、これからの通勤電車も、会社での勤務中も、ずっと行動を共にすることになるのだ。

 ネクタイを締め直し、晃次は玄関のドアノブに力強く手をかけた。

 霊感ゼロのサラリーマンと、傍若無人な幽霊の推し。

 長く険しい復讐への道のりが、今、静かに第一歩を踏み出したのである。

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