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第2話 幽霊のお腹は鳴りますか?

「わぁ……香ばしくて最高! すっごく美味しそう! ねえ、早く食べさせてよ!」


 ダイニングテーブルの向かい側。誰も座っていないはずの空席から身を乗り出しているのは、数時間前にニュースで死亡が報じられたばかりの国民的女優、内田李理香だった。

 死んだ時に着ていたと思われる白いワンピース姿。しかし、その足元は床から数センチほど宙に浮いており、華奢な体は背後の壁紙の模様が透けて見えるほど半透明だった。


 晃次はフォークを持ったまま、完全に思考が停止していた。

 目を強くこすり、自分の頬を思い切りつねってみる。痛い。夢ではないらしい。

 ならば幻覚だ。急激なストレスと絶望、それに空腹が重なった結果、脳が作り出した防衛本能的な幻覚に違いない。

 そう自分に言い聞かせる晃次をよそに、目の前の「幻覚」はアラビアータの皿に顔を限界まで近づけ、鼻をヒクヒクとさせていた。


「ちょっと、聞いてる!? 早くフォーク貸してってば。私、もうペコペコなんだから!」


 テレビで聞くような、鈴を転がすようなお淑やかなトーンではない。部活帰りの男子高校生のような、切羽詰まった声だった。

 晃次が固まっていると、李理香は痺れを切らしたように自分でフォークを掴もうと右手を伸ばした。

 しかし。

 彼女の細く白い指は、銀色のフォークに触れることなく、まるでプロジェクターの映像のようにするりとテーブルの木目をすり抜けた。


「……え?」


 李理香の声が裏返った。

 彼女は自分の右手を顔の前にかざし、不思議そうに見つめた。ダイニングのペンダントライトの光が手のひらを透過している。


「……なにこれ。えっ、透けてる。なんで? ドッキリ番組? それとも最新のプロジェクションマッピング?」


 混乱する李理香に対し、晃次は喉の奥から絞り出すように声を張った。


「き、君は……内田李理香、ちゃん……なのか?」

「そうだけど。ちょっと、あんた誰? スタッフさん? ここどこ? 私、さっきまでスタジオで撮影してて……」


 そこまで言って、李理香の動きがピタリと止まった。

 彼女のブラウンの瞳が見開かれ、顔面からさらに血の気が引いていくのがわかった。


「あ……そうだ。私、撮影してて。上から、大きなセットの柱が倒れてきて……。ドスンって、すごい音がして、息ができなくなって……」


 彼女は自分の胸のあたりを両手でギュッと抱きしめた。


「私……死んだの……?」


 重い沈黙がダイニングに落ちた。

 数時間前に見たニュースの凄惨なブルーシートの映像が、晃次の脳裏にも蘇る。

 現実逃避で作ったアラビアータの熱気だけが、二人の間に漂っている。

 晃次はあまりにも可哀想になり、どんな言葉をかければいいのかわからず口を開きかけた。


「……李理香ちゃ――」


「ぐきゅるるるるるるるるぅぅぅっ!!」


 突如、部屋の中に地響きのような音が鳴り響いた。

 それは、明らかに李理香の腹の虫の音だった。


「……え?」

「……え?」


 晃次と李理香は、同時に真っ赤なアラビアータの皿から、李理香の腹部へと視線を移した。

 李理香は顔を真っ赤にして、両手でお腹を押さえた。


「な、なんで!? 幽霊なのにお腹鳴るの!?」

「俺が聞きたいよ! 幽霊って内臓や消化器官の概念があるのか!?」


 悲劇的なムードは、その一瞬で完全に吹き飛んだ。


 李理香は感情のままにテーブルへ両手を振り下ろした。しかし打撃音は一切鳴らず、彼女の腕は手首まで木目をむなしくすり抜けるだけだった。


「ああもう、死んでる場合じゃない! 匂いが! ニンニクと唐辛子の匂いが理性をぶっ壊しにきてるの! 食べたい! 食べたい食べたい食べたい!」

「1000年に一度の透明感」と称された清純派女優の面影など微塵もない。そこにあるのは、極限まで空腹に耐えかねた一人のガテン系女子の姿だった。

「ちょっとそこのあんた! 私が食べられないなら、あんたが食べなさいよ! 早く!」

「……は? 俺が?」

「そうよ! あんたが食べて、どんな味か私に詳しく説明するの! いわゆる食レポよ! 早くしないと末代まで呪い殺すわよ!」

「理不尽すぎるだろ! そもそも君、テレビのキャラと違いすぎないか!?」

「うるさいわね、テレビはテレビ! 事務所の方針で『妖精』やらされてただけよ! こちとら下積み時代は牛丼と立ち食いそばのローテーションで生きてきたんだから!」


 衝撃の事実だった。晃次の中で神格化されていた「天使のような推し」のイメージが、音を立てて崩れ去っていく。

 しかし、なぜか嫌な気はしなかった。むしろ、その人間臭い怒号が、冷え切っていた晃次の心に奇妙な温かさをもたらしていた。


 晃次は言われるがままにフォークを手に取り、真っ赤なペンネを一つ突き刺した。

 李理香が身を乗り出し、親の仇でも見るような真剣な目で食い入るように見つめている。


「……いただきます」


 晃次はペンネを口に運んだ。

 咀嚼した瞬間、サンマルツァーノ種トマトの濃厚な旨味と酸味が口いっぱいに広がり、後からカラブリア産唐辛子の突き抜けるような辛味と、青森県産ニンニクの暴力的なまでの香ばしさがガツンと脳を殴ってきた。


「……美味い」

「どんな!? ねぇ、どんな味!? 詳しく!」


 李理香がテーブルをすり抜けて、晃次の顔の真横まで迫ってきた。物理的な距離がゼロに近い。生前ならファンとして即死もののシチュエーションだが、今は彼女の放つ「食への執念」のオーラが凄まじすぎて、ドキドキする余裕もなかった。


「えっと……トマトの甘みと酸味がすごく濃くて、それに負けないくらいニンニクのパンチが効いてる。パンチェッタから出た豚の脂の甘みが全体をまとめてて……でも、唐辛子がしっかり辛いから、フォークが止まらなくなる味だ。ペンネの茹で加減も芯が少し残るアルデンテで、ソースがよく絡んでる」


 晃次が真面目に食レポをすると、李理香は「ああああっ!」と頭を抱えて身悶えした。


「それ絶対美味しいやつじゃん! ずるいずるい! 私も食べたい! 唐辛子の辛さで『ヒーヒー』言いながら氷水飲みたい!」


 ジタバタと空中で暴れる彼女の姿は、どう見てもただの食いしん坊の女の子だ。

 晃次は、自分が作った料理でここまで狂喜乱舞してくれる相手を見て、自然と口元が緩んでいくのを感じた。


「……でも、なんで俺のところに来たんだ?」


 ふと冷静になり、晃次は尋ねた。

 いくらアラビアータの匂いに釣られたとはいえ、ここは都内のしがないサラリーマンの部屋だ。芸能界の人間でもなく、彼女の家族でもない。

 李理香はハッとしたように動きを止め、初めて部屋の周囲をぐるりと見渡した。

 そして、壁に貼られた巨大な自分のポスター、ガラスケースに並べられたBlu-rayボックスや写真集、そして、ダイニングテーブルの端に置かれた『李理香アクリルスタンド』に気づいた。


「……あんた、私のファンなの?」

「……ああ。大ファンだ」


 晃次は照れ隠しに少し視線を逸らしながら答えた。


「毎日、君のドラマとラジオを楽しみにして生きてきた。君の笑顔を見るだけで、仕事の疲れも、理不尽なクレームも全部吹き飛んでた。だから……今日、君が死んだってニュースを見て、本当にもう……自分の人生が終わったかと思ったんだ」


 その言葉に嘘はなかった。

 晃次の心の奥底から絞り出すような声を聞いて、李理香は少しだけ目を伏せ、半透明の唇を噛み締めた。


「……そっか。あんたみたいなコアなファンが、こんなに私のこと思ってくれてたんだ。だから、かな」

「だから?」

「私、事故の直前……すっごく無念だったの。『まだ死ねない、もっと演技したい、もっと美味しいものお腹いっぱい食べたい!』って。その私の強い念と、あんたの『私を失いたくない』っていう念の波長が、きっと奇跡的に合っちゃったのよ。それで、導かれるようにここに来たんだと思う」

「波長が……」

「それにほら、ここ、ニンニクの匂いがプンプンしてたし! 最後の最後に、私がテレビで言った『一番食べたかったもの』を作って待っててくれる人がいるなんて思わなかった。匂いにつられて、迷わず来ちゃったのよね」


 李理香は少しだけ恥ずかしそうに笑った。その笑顔は、テレビで見る作り物の「妖精の微笑み」ではなく、年相応の、どこにでもいる25歳の女の子の無邪気な笑顔だった。


「……信じられないな。推しが俺の部屋にいるなんて。しかも、幽霊になって」


 晃次はため息をつきながら、再びペンネを口に運んだ。


「信じなさいよ! 私はここにいるの!……あ、ちょっと! あんたばっかり食べないでよ! 次はパンチェッタのところ食べて! 私にも豚の脂の甘みを感じさせて!」

「幽霊なんだから太らないだろ。我慢しろ」

「我慢できるわけないでしょ! いいから食レポ続けなさい! 私の胃袋を満たすのは、私を呼び出したあんたの義務よ!」


 理不尽な命令を下しながら、李理香は晃次の周りをフワフワと飛び回る。

 数時間前まで、悲しみと絶望に支配されていたはずの三十路男の部屋は、いつの間にか、ニンニクの香ばしい香りと、やかましい幽霊の怒声に満たされていた。

 晃次は、パスタを咀嚼しながら、心の中でそっと呟いた。


(神様。彼女を連れ去ったことは一生許さないけれど……最後にこんな奇跡を起こしてくれたことだけは、感謝します)


 少し冷めかけてしまったアラビアータの味は、なぜか、今まで作った出来立てのどの料理よりも温かく、そして優しく感じられた。

 神様から与えられた、奇跡のような時間。。

 幽霊になった推しの胃袋を『食レポ』で満たすという、前代未聞の推し活が、ここにスタートしたのだった。

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