終章 燃える多島海
ハシムは信頼する仲間と共に、最後の準備を整えていた。
錆の浮いた甲板には、最低限の身の回りの品と、これまでに蓄えたわずかな金を詰め込んだ防水バッグ。そして、黒いゴムボート。
デッキにはガソリンが詰まった数本のドラム缶が、不気味な鈍色を放って並んでいた。
生まれ育ったケマル島。潮の香りと、貧しくも誇り高き漁師たちの思いがしみ込んだこの地を、今夜去る。おそらく、二度と踏むことのない土だ。
夜の帳が降りるのを待ち、ハシムの船は静かに港を滑り出した。明日は新月。月は既に水平線の彼方へ消え、アリエスの多島海は漆黒の闇に包まれていた。
暗闇の中、船は無灯火でとある島を目指していた。
ディーゼルエンジンが低いうなりを立てる。
ハシムはこの船で漁に出た日々を思い出していた。
「最後に積む荷物が、マグロじゃなくドラム缶とは……笑えない冗談だ」
ハシムは舵を握り、誰に言うともなく呟いた。
深夜未明、予定の海域に到着した。ここでゴムボートを下ろし、島に向かうことになっている。
だがその前に、大事な儀式があった。
ハシムは、カルビンが通信アプリの最後に残した言葉を反芻していた。
「我々は、海賊をとことん追い詰めるのが仕事だ。そいつが生きている限り」
——生きている限り、か。
アラディンは、逮捕作戦の前夜からケマル島周辺に展開していた。
午前0時。ブリッジ当直はカルビン、CICのレーダー席にブレイン、30mm機関砲の火器管制はバックスが担っていた。当直ではないはずのレイラもブリッジにいた。
「レーダー、感あり。小型船です。方位0-9-0、距離5マイル、10ノットで0-6-0に航行中。予定通りです」ブレインの報告が沈黙を破った。
「よし、追尾する」自ら舵を取るカルビンがスロットルレバーを倒す。アラディンのガスタービンエンジンがうなりを上げ、暗闇の中船体を40ノットまで加速する。航跡が淡く光る。夜光虫だ。
やがてターゲットまでの距離500mでアラディンは停船した。熱映像カメラの視界に、小さな漁船が映った。甲板上で何か作業をしていると思しき3人の姿が、白い影として映し出された。
カメラ映像を確認していたブレインが報告した。「ゴムボート、海面に下ろされました」
「よし。デッキの見張り員を中に呼び戻せ」
カルビンの命令に、レイラは無言で頷き、インカムへ指示を飛ばした。
その間にも3人の男が乗ったゴムボートはゆっくりと漁船を離れ島に向かっていく。
ブリッジの皆が無言となった。ディスプレイの明かりだけがブリッジを照らす。
突然、ゴムボートの上で小さな光が瞬いた。そして次の瞬間、アラディンの船体とブリッジの強化防弾ガラスに衝撃が走り、遅れて激しい銃声が轟いた。
ーカンッ、カンッ、ダダダダダー
ハシムの放ったAK47の一連射。7.62mm弾がアラディンの装甲に痕を残す。
カルビンが叫ぶ。
「不審船より発砲、被弾!直ちに応射せよ!」
カルビンの叫びに応えたバックスがFCSの暗視カメラとレーザー照準器で狙いをつけ、トリガーを引き絞る。
船首に搭載された30mm機関砲が火を噴いた。曳光弾がオレンジ色の光を曳きながら、吸い込まれるようにターゲット——漁船の甲板に無造作に積まれたガソリン入りのドラム缶——に命中した。
ドォォォォォン!
夜の静寂を引き裂く爆発。闇夜を焦がす巨大な火柱が立ち上がり、海面は真っ赤に染まった。炎は瞬く間に老朽化した船体を呑み込み、ボロボロと崩れながら、多島海の底へとゆっくりと消えていった。
クルーたちは沈みゆく漁船を無言で見つめていた。
やがてカルビンが口を開いた。「不審船は炎上、沈没。生存者を認めず」
ダメ押しのようにバックスが付け加えた。「この状況下で救助は不可能です」
だが、カルビンの目は確かに、炎に微かに照らされたゴムボートが島へ向かう姿を捉えていた。
「本船はカルバナ基地に帰投する。高速航行準備」
翌朝、カルビンはパークス長官へ報告を行った。
「不審船より先制攻撃を受け、正当防衛として応射。敵船は爆発沈没し、全員死亡と推定されます」
アラディンの船体と防弾ガラスに残った生々しい銃弾の痕は、この報告を裏付ける無言の証人だ。この報告を疑う者は誰もいなかった。
「危険な任務、ご苦労だった、ヨーク少佐。これで王国に真の平穏が戻る」
長官の声には、不都合な真実が全て闇に葬られたことへの、あからさまな安堵が混じっていた。
数ヶ月後。
環境改善が進み、元の健やかな海の復活を感じ始めた頃。アラディンは再び医療巡回任務で、名もなき離島の小さな港に停泊していた。
「お疲れ様でした、船長。皆さん、元気そうで良かったですね」
医師たちのチームの活動を支援していたケイトが、満足げな表情で戻ってくる。
出港の汽笛を鳴らし、アラディンがゆっくりと岸壁を離れたその時、一隻のボロい漁船が港に入ってきた。
すれ違いざま、その漁船の舵を握る男と、カルビンの視線がぶつかった。男は日に焼けた顔に不敵な笑みを浮かべ、無言のまま、力強く右の拳を突き上げた。
それは、あの嵐の夜に「シーマンシップ」を交わした男の、再生の合図だった。
カルビンはマイクを取り船内に達した。
「本船はこれよりケマル島に向かう。急患が発生したとの知らせだ」
ブリッジに心地よい緊張が走る。レイラ、アレックス、ブレイン、バックス。全員がそれぞれの定位置で、誇らしげに顔を上げた。
「アラディン、最大船速55ノット! 救助に向かう!」
【完】




