第5話 おれが真っ赤になったわけ
何だか最近走ることに対しての抵抗が少なくなってきた気がしてる。朝早く家を出て学校に向かいながらそんなことを思う。
今日はそもそも朝練のない日だ。なのに早めにやってきて校庭を走り始めている。もちろん神崎先生にも許可をもらってのことだけど、自分からやりたいなんて提案する時点でどうかしている。ちょっと前の自分が見たらあごが外れるんじゃないだろうか。
まあそれはおいておくとして、これは秘密特訓なのだ。
どうしてもおれの練習量は足りていない。そりゃずっと続けてきているみんなとは根本的に走っている量が違うから仕方ない。でも、練習量の差があるのを分かったうえで、少しでも追いつきたいと思ったのだ。だから神崎先生にこっそりとジカダンパンした。
神崎先生は練習のしすぎはダメだからねと渋面だったけど、おれは結構回復早い方だからと押し切った。練習日に悪い影響が残ってたら秘密特訓は禁止にするからとの条件でやらせてもらってる。
選抜選手として選ばれる前は俺もケンちゃんを笑えないくらいの寝坊助だった。いつもいつも起きてこない朝寝坊のおれが、一人で起きてさっさと学校に行くものだから母さんもびっくりしていたっけ。
それに、練習量が増えた分食欲も増えているし、なんだか元気も増してきた気がしないでもない。もしかしたら一足早く成長期に入ってしまうかもしれない。そうしたらケンちゃんよりも背が高くなるだろうし、サチの隣に立っても見栄えがするに違いない。
逆に、あまりゲームをしなくなってしまった。おかげでミナトには付き合い悪いぞとつつかれている。まあ記録会までは我慢してもらおう。
それと、靴も新しく買ってもらった。
父さんにお願いしてアマゾンを覗いてみたら、びっくりするくらい種類があってどれがいいのやらさっぱりだった。だからみんなの履いている靴とか、こだわりについて聞き込み調査をしてみた。
けど、みんなあまりにばらばらだったから、結局自分で好きに選ぶことにした。だって全員言ってることがばらばらだったから。軽いのがいいとか、クッションがいいとか、結びやすいとか。
それでもいきなりネットで買うのはやめた方がいいよと言う意見に従って、スポーツ用品店に連れて行ってもらった。一応目星をつけていた靴を見つけたのはいいんだけど、今度はどの色にしたらいいか目移りして困ったよね。けど、最終的にはやはり黒だよな。一番かっこいいのを選んだ。父さんと一緒に行ったんだけど、父さんも買っちゃおうかなぁなんて言ってた。絶対続かないから無駄遣いになるよと言ってみたら、お腹をつまんで憂鬱そうにしてた。
まあ、靴は後でもいいんだし、時々一緒に走ってみてもいいかもしれない。たまには父親孝行だってしないとね。
***
「あっ! 靴! 新しくしたんだ!?」
次の日の練習で早速サチが食いついてきた。
「うん。日曜に買いに行ってきた。ちゃんと走るのは今日が初めてだから結構楽しみでさ」
「わかるぅ~! 新しい靴ってわくわくしちゃうよね。それにしても、わたしとおそろいだねぇ!」
確かにそうなのである。色とサイズこそ違うけれど、同じメーカーの同じ商品だったりする。
「あれだけこれがいいって繰り返されたらね!」
「えへへ、だって仲間が欲しかったんだもん。でもでも、いい靴でしょ?」
「まあたぶん。昨日軽く試したけど、なんか足が軽くなった気はするかな」
その場で軽く足踏みしたり跳ねてみたり。二人してぴょこぴょこしていると、神崎先生がやってきた。
「おっ、コースケは新しい靴だな! とうとう履き替えたか」
「そうなんです! わたしと同じ靴なんですよー」
「あはは、仲がいいね。でも色はさすがに黒を選んだか」
サチの靴は薄い桃色だ。サチには似合っててもおれには似合わないでしょ。
「最近は派手な色が増えたよね。路上を走るなら目立つ方がいいからいいことだけど。それはそうと、コースケは今日は靴を慣らすところからね。あまりペースを上げすぎないで、ゆっくりと靴の持ってる反発とか、形の違い、ロッカー構造がどのくらい効いてるかとかね、確認すること。新しい靴で張り切るのはわかるけど、慣れないうちは無理しない方が靴にもいいからね。うん、結び方は教えたとおりにできてる。じゃ、練習開始まで靴談義でもしてなさいな」
靴談義? 靴の話をしてろってことかな? 今ならいくらでも話せるけど。
「ね、サチはロッカー構造って知ってる? 知ってたら、教えてほしいんだけど」
「ん? いいよ、教えてあげる! ほら、この靴って横から見ると底がなだらかに丸くなってるでしょ? つま先の方がちょっと上がってて。こういう形をロッカー構造っていうの。この構造だとね、こう、足を着いたときに自然に転がるみたいな動きが出来るの。そうすると、あんまり力を使わずに前に進めるんだって」
「へぇ。そんな機能があるんだ。……そういうのも知ってたなら買う前に教えてくれればよかったのに。ぎゅっとした反発があるとかぽよぽよしてるとかじゃなくってさ」
「え、えへへ? でもわかりやすかったでしょ?」
「父さんにこれがいいって説明するときに苦労したよ……。最後は完全にごり押しだったからね!」
「まあまあ、次の靴を選ぶときにはちゃんと説明してあげるから」
もう。次とかはまあ、まだわかんないけど、その時はもしかしたら一緒に行けたりしたらいいよなぁ。
「靴もいいけど、ランニング用のウェアとかもかわいいのも多いんだよ」
「ああ、なんかかっこいいのも多かったね。父さんも驚いてた」
「ふふ、ね、今度一緒に見に行こうね」
……一緒に。そういうことをサラリと言えちゃうところ。多分おれはずっとサチには敵わないんだろうなと思う。期待していた、そして予期せぬ言葉に驚いているおれをにこやかに見ている。思わず目をそらしてしまった。でも仕方ないと思う。頭の中ではなんとか返事を返そうと考えているんだけど、何一つ言葉は出てこない。結局おれが言葉を取り出す前に向こうからサチを呼ぶ声。
「じゃあ、約束ね」
ぴゅうっと呼ばれた方へ走っていってしまうサチ。
でもそれでよかったかもしれない。だって、たぶん耳まで赤くなってるから。
***
前から大人の時間間隔ってのがよくわからないと思っていた。父さんたちはよくもう半年過ぎたの?! とかあっという間の一週間だとか言ったりする。でもそれはおかしな話だ。一週間も半年も、おれと父さん、子供と大人で時間は同じなんだから。むしろ大人は夜遅くまで起きていても怒られないわけだし、子供よりもずっと時間を長く感じてなきゃおかしいはずだ。第一、一週間はとても長い。
でも、ようやくおれも時間の早さを感じるようになってきたみたいだ。気が付けば陸上競技会の本番が来てしまったのだ。あと一週間ある、まだ三日ある、いやいや明日まで24時間だ。なんて思っていたのに、まるで一瞬だった。じたばた最後の悪あがきをする暇もない。
結局神崎先生が言うように、これまでやってきた練習の成果を出すだけ。とはいえ簡単に出来るなら苦労しないのだ。ハッキリ言って、めっちゃ緊張してる。おれの順番はまだ先なのにだ。午前中に短距離に出る子がもうガチガチになっていて、その緊張がうつったみたい。
出番もまだなのに緊張するのも馬鹿らしい。ちょっとその子から離れて深呼吸をする。ついでに視線を外してあたりを見回してみる。
今おれがいるのは競技場の観客席だ。ドーナツでいう所の食べる部分。先生やお手伝いの保護者が席を取ってくれているのだ。陸上競技場なんて初めて来たものだから、面白いものでもないかなときょろきょろしてしまう。
もちろん地域の小学校が集まって開かれる大会、というか競技会?だから、見慣れないやつらも多い。児童だけではなくて、それぞれの先生と保護者がいるから大盛況だ。手持ち無沙汰にぶらぶらしているやつもいれば、ウォーミングアップとして体を動かしている子もいる。ちなみにおれの出番はもっと後だから、ウォーミングアップにはまだ早いのだ。
いつの間にか始まっていて、いつの間にか終わっていた開会式もおわり、次々と競技が進められていく。参加者が多いから、みんなを並べるわけにはいかないようで、偉い人がスタンドの上にあるでかいテレビに映って話をしていた。当然おれたちがそんなのを大人しく聞くわけもない。ざわざわとおしゃべりしながら緊張をごまかしていた。
俺たち長距離組の出番は午後だから、それまではひたすら応援してる。
短距離を駆け抜けていくケンちゃんを応援したり、ソフトボール投げで別のクラスの選手が投げる姿に声を上げる。長距離組と違って一つ一つの競技時間は短くて、華がある。やっぱり短い時間に勝負が決まるってのはカッコよさがあるよな。
お昼休みまでずっと応援し続けるのはちょっと疲れてしまいそうだけど、仲間たちの努力が形になっていくのを見るのは楽しい。当然のことだけど、おれたち以外にも頑張っている選手がいて、その真剣さについ応援したくもなる。時々終わってから泣いてしまっている人もいて、なんだかおれまで胸が熱くなる。うれし涙も悔し涙も、おれにはまだ、よく分からない。
ちなみにうちの学校からは一位入賞者は残念ながら出ていない。ギリギリケンちゃんが三位入賞をしたくらいだ。
お弁当を食べてから、おれたちがでる長距離の部までは多少時間がある。あまり食べ過ぎると後が辛いし、選手はあまり食べ過ぎないようにって言われてる。腹ごなしにちょっと動こうよって、サチを誘ってみた。ケンちゃんが他のやつとひそひそ話している隙を狙ってだ。下手に見られるとからかわれるから、気づかれないように細心の注意が必要だった。
それで一緒に競技場の周りを回って見ている。まるでお祭りのように出店が並んでいて、競技場併設の広場も賑やかだ。
「も〜! 絶対終わったら全部のお店回るんだからね!」
サチは去年も出ているみたいなんだけど、おれは初出場だし何もかもが新鮮だ。残念ながら本番が近いから出店の買い食いはできないが、それでも鮮やかな出店の看板を見るだけでも楽しい。
さっきも念を押すように神崎先生が注意してた。本番前の買い食いは禁止! って。確かに直前に食べるとすぐに横っ腹が痛くなるから仕方ない。が、そんなにわざわざ言わなくても買い食いなんてする人はいないだろうと思う。
「何年か前に出た選手がね、直前に食べたせいで吐いちゃったんだって。レース中に。だから口を酸っぱくして禁止っていうの。屋台の人にも話がいっててね、買う時に "君は選手かね? レースの後じゃないと売ってあげられないよ" なんていうんだって。あーあ、午前中の短距離の子はいいよね。終わったらご褒美にって買っていいんだもん。私たちの出番なんて最後の最後でしょ? もうほとんどお客さんも帰り支度始めちゃう時間だからって、屋台も半分くらい閉まっちゃうんだよ?! 信じられない!」
おれに注意の理由を教えてくれていたはずが、いつの間にか順番の是非についてひたすらヒートアップしている。こういう時のサチは大変に迫力がある。ちらりとおれたちを見て話しかけようとしてきたチームメイトが、サチの熱のいり方に離れていくのが見えた。おれとしては、珍しい表情を独り占めにできていいんだけども。
***
サチが落ち着いたところを見計らって南第一小の指定席に戻る。サチは女子のグループに、おれも男子のグループに。しかし何故か男子は一塊に顔を突き合わせている。何だろうか。口を曲げて不機嫌そうだ。
「どうしたの?」
ケンちゃんが駆け寄ってきて肩を揺さぶってくる。
「どうしたのじゃねぇだろ! みろこの成績を!」
指さされた結果表を見てみる。と、南第一小が赤く縁取られていて、記録が書き込まれている。そして、その隣も青で枠がかかれている。そこでようやく問題に気づく。
「第2に負けてんの?!」
そう、この学区にはいくつも小学校があり、中でも南はほとんど同じ名前の小学校があるのだ。我らが南第一小と南第二小である。距離も近く、名前も一画違い。それでも第一と第二では大きく違う。昔からこの2校の仲はわるいのだ。お互いライバル意識を持っていて、こういう学校を跨いだイベントでは勝ち負けがとても重要視される。だから、おれたちは他はともかく第二には負けられないのだ。
ケンちゃんは午前の前半で100m走に出て惜しくも三位だった。順位をみると、二位が第二だ。ペラペラと記録をめくる。幅跳びも200mも、全部第一の上に第二がある。
「なんでこんなことになってんの!?」
「知るか! でもまずいのは分かんだろ!」
慌てるおれの袖がちょいちょいと引かれる。振り返ると案の定サチで、疑問が顔全体に浮かんでいる。男子が深刻な顔で頭を抱えているのを見て、女子代表で聞きに来たのだろう。サチは物おじしないし男子とも仲がいいから、こういう時に積極的に行動しがちだ。
「何がまずいの?」
「あー、向井。俺たちはな、第二には負けられねぇんだ。第一の誇りがあるからな」
「……何それ? 全然わからないんだけど。学校の名前一つでそんなに騒ぐことじゃないでしょ」
男子代表のケンちゃんの説明が一言で切り捨てられる。ぐぐ、と詰まるケンちゃんをなんとか援護してやりたい。だが、あの物言い、女子のロマン全否定モードだ。たとえサチであっても、いや、サチ相手だからこそ迂闊にものは言えない。
おれは慎重に言葉を選ぶ。
「え、っと、一応ね、おれたち、結構近いところで通ってるのもあってね、ライバル意識?ってのがあるんだ。別に名前自体はきっかけってだけ、だと思うけど、とにかくお互い負けないようにって思ってるの。だから、あまり冷たくしないでもらえると嬉しいんですけどどうでしょう……?」
おれの言葉にもサチは首をかしげている。なんら感銘を受けた様子はない。ため息を一つついて、首が振られる。
「ライバル意識ってのはわかったけど、あまり大騒ぎしないの。一位争いならともかく、四位五位どっちが上かなんてみっともないでしょ。全力を作ることが大事で、結果は後! 先生が言ってたじゃない。ほら、こうすけ君、わかった?」
「あっ、はい」
揃って応える俺たちを放って、他の女子の元へとサチが行ってしまった。代わりに残ってるのはケンちゃんか。いや、悪いわけじゃないけど。
***
「…それでもさ、負けっぱなしはまずいよね」
「ああ。女子はそういうの分かんないからな。仕方ねぇ。でも負けっぱなしは仕方なくない! もうあとは男子の長距離だけだ。コースケ、お前やれるか?」
みんなの仇をうつ。いや、別に死んでるわけではないけど、そのくらいの気概で挑むつもりだ。
「なんにしても、全力でやって勝てばいいんだ。そうすりゃ誰も文句無いだろ」
「うん。頑張ってみる。任せてよ。それより、約束どおりちゃんと応援してよ?」
「約束まではしてねぇよ! ま、お前の頑張り次第だな。せいぜいしっかりやれよ」
「うん、やる気十分で結構!」
突然後ろから声がかかって二人して飛び上がる。神崎先生はこういうイタズラものなところがある。
「コースケもケンヤも、闘争心ってのは悪くないよ。むしろ全くないのは困る。でもね、コースケ。先生がいつもいってることは覚えているかな?」
「……長い距離は平常心が、大事」
「そういうこと! ケンヤみたいに100mを一気に駆け抜けるなら話は別だけど、長距離には平常心が大事。長い道のり、そんなに急いでどこにいくってね。最後の最後まで闘争心はとっておいていいんだ。どこまでも自分の走りをコントロールすること。走り切れる限界を見極めて、ペースを最後まで保ち続けること。闘争心をぶつけるのは最後の切り札だよ。これができる選手がね、一番強いんだ」
何度も何度も耳に残って覚えるくらい神崎先生が言ってきた言葉だ。速いではなく、強い。いつでも自分の力を発揮し続けるだけの能力を持つこと。長い距離を走り続けるためにはそれが不可欠だと先生は言う。
サチが大好きな箱根駅伝でも、マラソンでも同じだ。どれだけ自分を保てるかが大事だって言う。自分を信じてやり切ること。敵討ちだとか、第一小の名誉のため。別に悪くはないんだろうけど、そのために頑張ってきたというわけではない。自分を保つって言うなら、普段からおれが考えている通りに走らないと行けないはずだ。
平常心。ちょっと勢いに当てられてた気がする。改めて考えると、先生とサチの言うことの方が、正しい。勝負の結果は大事だけど、それよりも全力を果たすことの方が大事だ。
「短い練習期間だったけどね、コースケは強くなったよ。しっかりと自分を持ち続けるなら一位だって取れる──かもしれない」
ガクリと肩を落とす。
「先生さぁ、もっとこいつを勇気付けるように言い切って欲しかったんだけど」
「いや、タイムはともかく順位は他の子との兼ね合いもあるからねぇ。みんな頑張っているのは一緒だから、ちょっと言い切りにくいかな」
ポリポリと頬をかく先生をジト目で見つめると、誤魔化すように仕事が残っていたと叫んで教員エリアへと逃げていく。
それをジト目で見つめながらも、おれは思う。強い選手。おれがそう呼ばれる選手になれるかは分からない。けど、神崎先生もケンちゃんも、サチもおれを信じてくれている。自分を持ち続けるってことは、自分を信じるってことだ。おれがおれのことを信じないでどうするのか。
そんなおれをどう思ったのか、ケンちゃんが強めに肩を叩く。
「ま、頑張ってくれや」
ポンポンと叩かれる肩に、ケンちゃんからの熱を貰った気がした。
***
気合が入ったのはいいけれど、出しておかないといけないものもある。
本番の前にちょっともよおしてきたから、一言断ってお手洗いに行く。トイレまでは微妙に距離があるから、速めに行っておかないと後で困ることになる。ぐるりと競技場のカーブに沿って歩く。
ふと、誰かに見られている気がした。辺りを見れば、大柄な男子がおれをまっすぐに見ている。
「次の3000mで、第二が全勝だぜ」
その物言いと、ウェアにかかれた学校名。南第二小の生徒だ。ゼッケンはこうすけと同じ緑色。名簿の名前を思い出す。
「ええと大門……くん?」
「ああ。お前は杉原だったよな。今日はうちが勝つぜ。当然、一位でな」
いきなりの大口だけど、自信と同じくらい体格も大きい。こうすけとは頭一つ分の差がある。
ランナーとしては背の高さ、つまりリーチイコール大きさはメリットになる。同じピッチで脚を動かした時、一歩の幅が大きければそれだけ速くなりうるのだから。大門にはおれにない練習量に裏打ちされた自信と体格があった。それはおれが欲しくて堪らないものだ。
──でも、それだけで強さは決まらない。おれだって真剣に練習をしてきた。その密度なら負けるつもりはないし、自信だってさっき持つと決めたところだ。
「おれも、負けるつもりないよ」
グッと力を入れて立つ。1秒か、1分か。長くも感じたし、一瞬だった気もする。……すぐに大門が笑い、おれも笑う。
「なんか、漫画みたいだったな。今の俺たち」
「うん。かなりいい感じだった。でも負けないってのは本気で言ってる。今日は頑張ろう」
「ああ。俺も一位狙いは本当だ。どっちが勝つかは分かんないけど、よろしくな」
そういって別れる。何せおれはお手洗いに来たのだ。多分大門も一緒に来た誰かを待ってる。まあ、用事はさっさと済ませるべきである。
***
もうすぐ本番だ。3000m走は先に男子が走って、次に女子の番になる。競技場の待機所でその時を待っている。いくつかのグループに分かれていて、みんな速く見える。どうにも落ち着かない。
落ち着かない時は靴紐を結び直すに限る。いつだったか神崎先生が言ってたそれを実践するためしゃがみ込む。交差する紐を一度緩めてから結び直す。つま先は少し余裕をもって、足首にいくにつれてギュッする。これがコツだ。だけど、靴ひもを緩めたらなぜか鉢巻まで緩み始めた。ずれて目にかかる。どっちから直すべきかと思っていたら、後ろから誰かが鉢巻を解いてくれた。
「結び直すね」
サチだ。男子の後すぐに女子の出番だから、もう競技場内へ降りてきていたみたいだ。
「……ね、こうすけくんは、自信ある?」
なんでかはわからないけど、サチの声がいつもとちょっと違う。おれの頭の鉢巻はすでに解けていて、結び直すのなんて簡単なはずだ。なのに、すぐ結べる直せるはずのそれは、いつまでもサチの手の中だ。
サチも、もしかしたら緊張しているのかもしれない。去年も、陸上クラブでこの記録会に参加している。だから、おれの知らないような怖さを感じているのかもしれない。普段おれを勇気づけてくれる、鈴のように響くその声が震えている。いつもとは全く違う状況と、見たことのないサチの様子。
──なら、おれもいつもとちょっと違っててもいいかもしれない。
「あるよ! だって、今まで練習で積んできたものがあるからね。──サチが積んでくれた分もね」
ざわざわと好き勝手に話をしている集団だ。他の誰にも聞こえなかったろう。でもサチにだけは届く。
「──ッ、もう! そんなにかっこいいこという子にはこうじゃ!」
鉢巻がギュッとキツく絞められる。きついきついと両手を上げて降参する。そうしたら、サチはいつものような心地よい笑い声をあげて、それから丁寧におれの鉢巻を結び直してくれた。
「ふふ、こうすけくん。ね、かっこいいところ見せてね。約束だよ?」
そういって、おれが靴紐を結び直す前に離れていってしまう。
でもそれでよかった。紐を結ぶからって、下を向いていてよかった。
だって、今おれってば、ゆでだこみたいに顔が真っ赤になっているはずだから。