第4話 おれが嬉しくなったわけ
「ね、ね、こうすけ君、見て見て」
そう言ってサチが取り出したのはスマートフォンだ。汗をかいた服を着替えて、あとは帰るだけのタイミングのこと。
平日放課後の練習後とはいえ、学校にスマホを持ってきていることにびっくりする。
「スマホじゃん!? え、これ自分のなの? いいなぁ。おれも欲しいんだけど、母さんはまだおれには早いって言って買ってくれないんだよね」
「ふふ、いいでしょ。じゃなくて、中身を見なさい中身を」
画面に映るのは初めに山道。歩道に鈴なりに並んで声を上げている人たち。旗を持ってたり、腕を振ったりしている。そしてその歓声が向けられているのは、道路の中心を大きなフォームで走っていく選手たち。
「これって、マラソンのレース?」
「ちょっと違って、これ箱根駅伝の動画。普通のマラソンだとこんなに山道走ることはないみたい」
「ああ、これが箱根か。そういえば神崎先生も時々箱根と言っていたね」
「そうそう。よかった。全然知らないって言われたらどうしようかと思っちゃった。そう、こないだけんや君がいきなり覗き込んできてね、何見てんだなんていうから、箱根ですけどって言ったら、なんだそれハコフグの仲間か? なんていうんだもん。もう呆れちゃったよね」
あははと笑うサチ。だが、どうにもおれは笑いきれない。だっておれが知らない内にサチとケンちゃんが仲良くなっているだなんて知らなかったから。でもサチはおれのそんな複雑な気持ちに気づくこともなく(気づかれても困るけど!)話を続ける。
「じゃなくて、ほら、この選手! ちょっとこうすけ君の走り方に似てない?」
映るのはおれよりも年上で、細身だけどしっかり鍛えられた選手。大きく腕を振って、走るというより滑るようなスムーズな動きで山道を駆け抜けている。
「……全然違わない?」
おれとは何一つも一致していることはない気がする。第一、おれは最近ようやくフォームがこなれてきたねと先生に言われた程度のレベルだ。映像に映るこの人とは比べるレベルに差がありすぎる。アリとキリギリス、じゃなくてアリとゾウくらい違う。
道の両側からはこの選手に向けてずっと声がかけられ続けている。誰もがその人を見ていて、先導する白バイですら、その人のためにいるようだ。今は動画越しにおれとサチすら注目しているくらいだ。すごい名のある選手に違いない。
こんなにも大きな舞台で、全力で走ることのできるような人と自分が似てるなんて、とても思えない。
「そりゃ全部一緒じゃないのは分かってるってば! そうじゃなくて、背筋がまっすぐ伸びてるところとか、腕の引き方とか、特に空中での姿勢の良さが似てるでしょ!」
「いや、こんなふうに走れてないし、似てないと思うなぁ」
「もう! ほらこことここ! そっくりでしょ! ……あれかなー? もうわたしの方がこうすけ君のフォームについては詳しいかもしれないなぁ」
「いや、そんなことはないでしょ。おれの方がおれの走り方知ってるし!」
そんなじゃれあいをするものの、その動画に出ていた選手名だけは忘れないように覚えておく。家に帰ってから改めて見返してみたい。おれの走り方は神崎先生とサチが作ったと言っても過言ではないので、実際サチの方がわかってる可能性があるのだ。それに、映像越しでもあんなふうに走りたいと思うような、かっこいい姿だったのだ。
***
選抜選手に選ばれてから結構経った。だんだんと長い距離を走るのに慣れてきた気がする。
先生ももう少ししたらみんなと合流だなと言ってくれる。そう言われると成長したって実感が湧いて来て、なんだかドキドキする。
その話をすればサチも自分のことのように喜んでくれて、これもまた嬉しくなる。未だに話すことと言えば練習のことばかりだけど、それも楽しいから問題なんてないのだ。
「そういえばさ、こうすけ君って結構バランス感覚いいよね」
一緒に話す時間が増えてきたから、サチが突然話を振ってくるのにもだんだん慣れてきた。
「おれが? 別にそんなことないと思うけど、なんで?」
「ほら、先生にフォーム診てもらってる時とか、片足のままずっと立ってたりするでしょ? そうそう、かけだした瞬間のポーズしてとか無茶言われた時のポーズ!」
神崎先生はフォームが大事というモットーの元、おれたちの走り方を直してくれるんだけど、時々熱中し過ぎて無茶を言う。
空中で体がどうなってるかって、その瞬間のポーズしてとか言ってくる。足がついてないのをどう再現すればいいのかって、おれたちが悩むとそういえば無理なこと言ってしまった、とか言い出すのだ。そんなの初めから分かってるでしょうと!
ちなみにその時はみんなに持ってもらってそのポーズをした。くすぐったかったし、サチまで面白がっておれを持ち上げる方に回ったから恥ずかしいやらで大変だった。
まあそんな無茶が時々言われると、片足で立ち続けることがあったりして、そのことをサチは言っているようだ。
「あー、うちでバランスボール使ってるからかなぁ。母さんが面白そうって買ってきて、すぐ飽きたやつがおれの部屋にあるんだ」
「え! バランスボールあるの?! いいなぁ〜! わたしも買って欲しかったんだけど、すぐに飽きるからダメってママに言われちゃってさぁ。買って貰えばちゃんと使うのに」
……多分、飽きる。サチが移り気なのは、そろそろおれもわかってきている。半目で見るおれの視線にサチは気づいていない。ふと、近くでウォームアップしている6年生女子と目が合う。話を聞いていたようで、悲しそうに首を振っている。ですよねって、声に出さないままに同じ気持ちを共有する。
「あ! そうだ! ね、こうすけ君のバランスボール見せてくれない? そうしたら飽きるかどうかちゃんと判断できると思うから!」
……え、それってうちに来るってこと??
***
まさかおれの部屋に女子を呼ぶことになるとは。未だかつてない事態に戸惑いっぱなしである。なんとか断れないかと言葉を探していたら、なぜか6年女子がいいじゃんいいじゃんと後押しをしてくる。なぜだ! さっきまで心を共にしていたというのに裏切り者と!
まあそんなこと言えるわけもなく、断る術も理由も思いつかずにとうとう家の前まで来てしまった。
「マジで来るのぉ……?」
「こらこら、そのために来たんでしょ? 観念しなさい!」
フンス、と煮えきらないおれの態度をサチが嗜めてくる。最近サチは妙におれに対して強気になってきた気がする。確かに身長はおれより高いし、足も速いしスタミナもある。なんか弟みたいな扱われ方をしているような気がしないでもない。
ドアを開けてただいまと声をかける。どうか母さんも父さんもいませんように……! いつものケンちゃんやミナトを呼ぶのとは違って妙な恥ずかしさがあるのだ。
だが現実は無常だ。
「あら、今日は早かったわね。今日はあんたの好きなとんかつよ。って、おともだち?」
なんでいるんだよぅ! おれが何かいう前にサチが一歩前に出る。
「初めまして! 向井幸と言います。今日はこうすけ君に見せてもらいたいものがあったので遊びに来ました」
「あらあらご丁寧にありがとうねぇ。幸助の母です。頼りない子だけど、仲良くしてくれてありがとうね!」
なんだこれ、地獄か? サチに向ける優し気な顔と、俺に向けるニヤついた顔。器用に使い分ける母さんに気づかないサチ。まるで針のむしろだ!
「ああもう! 挨拶はそこまででいいから、早く入って。廊下の奥がおれの部屋だから! ほら早く! 母さんはあっち行ってて! なんかの途中なんでしょ!?」
「やあねぇこの子ったら。後で飲み物持ってくからね。じゃあ幸ちゃん、ごゆっくりね」
はい、などと快活に返事なんてしなくていいからさっさとこの場を離れたい。自分家でこんな恥ずかしい思いをすることになるとは思ったことないよ!
***
「あ、これがこうすけ君のバランスボールかぁ。結構大き目なんだ?」
ようやく部屋に入ってくれたサチだが、おれはすでに疲労コンバイである(まだ習ってないけど多分あってる)。
「それ、初めのうちはすぐ転けるから、まずは壁際で乗るところから始めるといいよ」
そう言ってからとりあえず椅子に座る。入学の時に買ってもらった勉強机だが、デカデカと恐竜が描かれている。今更ながらに女の子を入れて良かったんだろうかと疑問符すら湧いてしまう。
おっと、えっとなどと変な掛け声でサチがバランスボールを楽しんでいる。コツを掴んだようで、すでに部屋の真ん中で膝たちみたいな姿勢でボールの上をフラフラしている。
見た目はともかく、あれは結構大変なんだ。ケンちゃんなんか転がりまくるから怒って蹴飛ばしていたくらい。体幹がしっかりしているとこういうのも上手くなりやすいらしい。先生の受け売りだけど、とサチが言っていた。
それにしても、ボールに食い込んでいるむき出しの膝が、なんとなくいつもより眩しい気がして目を逸らし続けている。何見てるの? なんて言われたら爆発してしまう。
あまりにも見るべき視線に迷うので、とりあえず最近買って貰ったばかりの走り方の本を眺めることにする。写真が多くておれでもわかりやすい。自然、サチの掛け声だけが部屋に響く。
しばらくしてコンコンと扉が叩かれた。振り向くとドアが静かに開けられていて、母さんが覗いている。思わず動きを止めたサチがボールからきゃあと転がり落ちる。
「あら、ごめんなさいね。これ、おやつでもと思ったんだけど、邪魔しちゃったかな?」
「いえ! ありがとうございます! こうすけ君のバランス感覚見習おうかと思って借りてたんだけど難しいですね……!」
「あー、それねぇ。私がダイエット用に買ったんだけど、難しくてすぐやめちゃったのよね。で、ずっと幸助のおもちゃってわけ。休みで暇な時なんて、ずっとそれに乗ってたりするのよ。変な子でしょ? 昔ねぇ、一回穴開いちゃって壊れたんだけど、泣きながらこれ直してなんてお父さんに言っててね」
「いいから! もうそういうのいいから、さっさと出てって! おやつとジュースはありがとうね! じゃあほらもういいでしょ!」
なんとか話を続けようと踏ん張る母さんをずりずりと外に押し出す。どうやっても居座る気?! なんて酷い根性だ。でもこれ以上恥を話されるわけにはいかない。全力で押し出して、ようやく一息つく。
「全部! 嘘だから! そういうのはなかった。ほら、ボールなんていいからケーキ食べて食べて!」
サチはおれの話も聞かないでバランスボールをコロコロと転がして全面を確かめている。そして補修跡を見事に見つけて見せる。
「ふふ、しっかり直ってるね」
「……父さんはそういうの上手いからね」
「もう、すねないでってば。いきなり可愛い話が出てきたら気になっちゃうでしょ?」
「カッコ悪い話の間違いでしょ。はぁ〜、とりあえず食べよ。ボールは終わってからね」
「はいっ!」
返事の良さに呆れながらケーキを二人で食べる。ショートケーキが二つ。用意してたはずはないから、わざわざ買ってきたのかもしれない。我が母ながらそこまでするかと呆れてしまう。
「ね、さっき何読んでたの?」
「ん、これ。マラソンの走り方ってやつ」
陸上選手に選ばれたと家で話したら、早速父さんが買ってきたものだ。箱根はいいよなぁとか言ってたけど、多分マラソンと駅伝の区別がついてない。
「ちゃんと真面目に勉強していて感心感心! ……長距離の方の選抜はみんなクラブの子だったし、後から入ってきたら大変かもって思ってたんだよね。だからこうすけ君がしっかり走れるようになってきて、みんなで喜んでるんだよ?」
改めてそんなこと言われるとなんだか気恥ずかしい。
「神崎先生のマンツーマン指導のおかげだよ」
「それと?」
それと? 他に何かあっただろうか。思わず首を捻ると、サチが突然おかしな動きを始める。指を立てて、自分に向ける。手のひらで自分の胸を叩いて、胸を張る。
「あー、うん。教えてくれたおかげでもあるね」
「んふー! でしょう? ふふ、わたしの細やかなサポートでみんなとも早く仲良くなれたもんね? もっと感謝してもいいんだよ?」
「すごいすごいさちにすごい感謝のこころが出てきたー」
「もう! 棒読みになってる! もっと感情こめて!」
からかってやろうとわざとらしくしたら、サチがのってくれる。横っ腹を突かれたり、服を引かれたり。
並んで本を読みながら、なんとも楽しいおやつどきだ。
***
ぽんぽんと弾むような会話が続く中、ぎいとドアの軋む音。また母さんか? 振り向くと、目を輝かせたミナトと仏頂面のケンちゃん。
「おーっと、気づかれてしまいましたねぇ! いやいや、どうぞどうぞ! 好きなだけ、いちゃつかれてください!」
「いつから……じゃない、ミナトっ!」
あまりの言いように思わず声を上げてしまう。反応が怖くてサチの方を向けない。
「お前、楽しそうなのはいいんだけどさ、真面目に練習してんのかよ?」
「してるに決まってるだろ! っていうか二人ともいきなりきてどうしたんだよっ?」
「お前と最近遊んでなかったから、遊んでやろうと思って……来たんだけど、俺たちお邪魔だったみたいだな」
「いやはや、草食系こうすけが女の子とこんなに仲良くなってるとはねぇ。俺たちは男子の友情ってことで対戦でもしてようぜ。こうすけちゃん、変なことしちゃダメよ?」
俺の文句を聞いているのか聞いていないのか。明らかにスルーしているのは間違いない。ミナトはご機嫌で、気持ち悪い声色でとんでもない爆弾発言を残していく。
「サチに失礼だろっ!」
と反論する言葉の前にドアが閉まり、廊下を駆けて行く音。お邪魔しました〜!! と大声でしっかり挨拶する声まで聞こえる。
なんでこんなタイミングで来るのか。あんなふうに揶揄われたら、気まずくて仕方ないじゃないか。頭を抱えていると、妙に嬉しげな声。
「ふふ、こうすけ君、あの二人と仲良いんだね」
どういう意味だろう?そりゃ仲はいいけど、気が置けなすぎて今みたいに困るくらいだ。
「ごめん、あの二人悪ふざけが好きでさ……」
「気にしなくってもいいよ。それにしても、こうすけ君、草食系なんだ?」
「あれはね、おれがサラダとか好きなのをからかって言ってるの。別に草食系ってわけじゃ……」
「……ないの?」
あるかも。今更ながらにドギマギしてしまうせいで会話もギクシャクしてしまう。なのに全然気にした様子のないサチ。これが人間性の違いってやつか。密かに衝撃を受けつつも、さっきまでの話の続きを始めるサチを見つめる。
「え、どうしたの?」
「いやさ、あんなふうにからかわれても受け流してて大人だなって思って。おれもサチみたいに大人の対応とかできればなぁ」
「……こうすけ君の友達で、冗談ってわかってるから気にしてないだけだよ。でももし、本気で言われてたら──ね、どう反応して欲しかった?」
思わず突っ伏する。そんなの知らないし困るに決まってる。
「ウソウソ! ほら話の続きしよ? それで、箱根の選手との違いはね」
それからしばらく、ひたすら箱根駅伝について聞かされるのだった。
──おれはどんなふうに反応して欲しかったんだろう?
***
帰り際に、家の外まで見送りをする。本当は送っていきたいくらいだったけど、まだ日が沈むほどではなかったし、大丈夫と言われたらなかなか無理にとは言えない。
楽しかった時間の分、去り際は寂しさがある。それでもサチは妙に楽しげだ。さすがクラスの人気者。あまりこういう感覚はないのかもしれない。こっちは目立たない地味人間だものなぁ。そんなことを考えていたら、急にサチが顔を近づけてくる。びっくりして固まると、耳元でそっとくすぐるように楽しそうな声。
「そういえばさ、さっき、初めてちゃんと名前呼んでくれたよね?」
ぎくしゃくと固まって身動き一つ取れないままのおれから離れると、じゃあ今日は帰るねっていう。コクコクとうなづくだけのおれに満足げだ。
家3軒分くらいまで離れたところで、サチが振り返る。
「嬉しかったよー!! またねぇ!!」
そのあとはすぐに角を曲がってしまったので、サチの顔を見ることすらできなかった。固まり続けたおれはと言えば、父さんが帰ってくるまで家の門に手をかけ続けていたのだった。
***
今日の授業が終わって、校庭に出る。練習はない日だけど、なんとなく走ってみようかなと思っている。この間散々聞かされた箱根駅伝の話に洗脳されてしまって、箱根の動画を見たのだ。どの選手もすごくダイナミックに体を動かしていて、それなのにゆったりと、でもすごい速い。特に、サチが似てると言ってくれた選手の姿を何度も繰り返している。
実況の人が言っていたけれど、速いだけではなくて強いのだ。長い距離を普通では出せないようなスピードで駆け抜けていく。確かに、速いっていうより強いの方が当てはまる気がする。
トラックの上で準備体操を始めていると、隣に誰かが立つ。体を伸ばしながら誰かと見れば、ケンちゃんだ。ミナトもいつものように面白いことが始まるぞという顔で並んでいる。
「あれ、どうしたの? 今日は短距離での練習あったっけ?」
ケンちゃんは100m走の選手だから、もしかしたらここを使うのかと思った。けれど違う答えが返ってくる。
「お前さー、結構弛んでるんじゃないかって思ってさ、今からでもおれが変わったほうがいいかもなって。おれの方が速いしそっちの方がいいんじゃねって」
いきなり何を言い出すのか。あれだけ長距離に選ばれたおれのことを馬鹿にしていたというのに。意味のわからない心変わりに困惑していると、ミナトがニヤニヤと続きをいう。
「こないださ、向井とコースケいい感じだったじゃん? だからケンちゃんたら、気になって気になって仕方なくなったのよん。あら、これって三角関係じゃないの?!」
「ミナトは黙ってろよ! 大体そんなんじゃねぇよ! 色ボケしてるやつが気に入らねぇだけだって!」
「あらあら、そんなこと言ってさ、図書館まで向井追いかけて行ったのはだぁれかなぁ?」
ばッ、いうんじゃねぇと突如ミナトを羽交締めするケンちゃんだが、伊達にクラス1のスピーカー、秘密を相談してはいけない男No.1は違う。
「普段図書館なんて寄り付かないくせに、外から向井いるなって見えたらさ、スマホ開いてるところに後ろから寄ってってさ、それ、なんの動画?? とかいきなり聞いちゃうんだよね。マナーがなってないよなぁ。しかも箱根駅伝だって言われて、な~んにも知らんもんだから、ハコフグの仲間か? なんて言って呆れられてたしぃ!」
「あーもううるさい! いいからコースケ、そこ並べや! 一周勝負な。ミナトは号令かけろ! ほら早く!」
どこかで聞いた話だ。顔を赤くしているケンちゃんからするとミナトの話は事実だろう。なんだ、一緒に遊んでいたってわけじゃなかったのか。
心に引っかかっていたものが取れてなんだかホッとする。ほっとしたついでにのこのことラインに並んでしまったが、よく考えるまでもなく1周勝負じゃ短すぎる。短距離じゃないか!
「用意、ドン!」
文句をつける前にスタートが切られる。スタートダッシュを決めるケンちゃんに追いつけない。どんどん離される。結局結構な距離を離されてのゴールになってしまった。
いきなりの勝負に息を荒げるおれと、同じくらい激しく息をしているケンちゃん。
「ほら、俺の方が速い。やっぱ俺が選手変わった方がいいじゃんな」
ただ、それは譲れない。
「……ケンちゃんじゃ、無理だよ。今更変わろうったって」
「は? 今の勝負で話はついたろ?」
「つくわけないじゃん。おれは3000m走るんだよ。今の一周はせいぜい200mじゃん。何にも勝負になってないよ。正直ダサいよ。こんなセコいマネしてさ」
「……お前、自分で何言ってるか分かってんのか?」
「おーっと! コースケとケンちゃんが喧嘩を始めました! これは珍しい!! これはビッグニュースです!」
真面目な状況でもミナトは変わらない。ひたすら面白がる方向に話を持って行きたがるのだ。
「いやー、でも確かにコースケの言う通り1周じゃ長距離どころか中距離でもないな! じゃあさ、3000mやってみりゃいいじゃん! おーさすがオレ! ナイスアイデア!」
だから時々助かる。
二人とも自分の方が速いって思ってる。なら、実際の距離で試してみればいい。ちょうど、体も温まった。おれが、今までケンちゃんと競争して勝てたことなんて一つもなかったけど、この立場だけは譲れない。
神崎先生に教えてもらって、長く走れるようになってきた。同じ距離を走る6年生や4年生とも抜きつ抜かれつ楽しく走れるようになってきたのだ。
ここにいたいと思った。だから、勝てるかはわからないけど、勝つ。自分の居場所を、楽しみを勝ち取ってみせる。グッと口を引き結び、目に力を込めて胸を張る。
「おれは、勝負してもいいよ。おれが勝つもの」
囃し立てるミナトが相変わらず鬱陶しい。ケンちゃんはおれを見ている。何も言わず、ただ二人で正面から睨み合う。
「……ふん、お前が色ボケて緩くなってるから試してやっただけだし。そんなにマジになってんじゃねぇよ。馬鹿馬鹿しい。無駄に走ってられっかよ。これだからマジメくんは困るんだよなー!」
そう言ってケンちゃんは目をそらした。別に本気で喧嘩したかったわけじゃない。ただおれも譲れなかっただけ。勝ち負けではないし、たとえ勝ったのだとしても、それを嬉しいとは思わない。でも、おれの意地をケンちゃんは認めてくれた。それが嬉しい。
さっさと校庭を去ろうとするケンちゃんに追いつき、肩に軽くパンチ。
「ちゃんとおれのこと応援しろよな!」
「うっせーな色ボケ野郎。そういうのはミナトに頼めよ」
「ミナトなんて頼まなくても旗振るやつじゃん。ケンちゃんは言わないとやらないから言ってんの!」
それでもつい熱くなって誰より声を張り上げるのがケンちゃんのいいところなのだが。
――ケンちゃんとは幼稚園の頃からの付き合いだ。
ずっとおれはケンちゃんの後ろを付いて回っていたし、大体いうことは聞いていた。子分めいた、というかほぼほぼ子分だった幼稚園から、友達に変わった今でもその傾向は続いていた。
だから、ケンちゃんがおれにやれるのかって、試したと言ってくれたことが嬉しかったんだ。もっと上にいると思っていたケンちゃんが、対等な場にいることを教えてくれたのだから。
今日は練習しようと思ってたけど、やめた。こんなにいい気分を三人で分け合わないなんて嘘だ。ケンちゃんは嫌そうな顔をしていたけど、それすら楽しんでいるっておれにはわかる。
ミナトが茶化すから二人で集中攻撃する。ケンちゃんの冗談を間に受けたミナトがおれに迫る。そんなわけないだろと叫ぶおれ。笑うケンちゃん。
結局、その日は母さんに小言を言われるくらい、帰るのが遅くなってしまったのだった。