サンタはいないと気付く日に
錆だらけの石油ストーブを背に、健さんはもったりした動きで礼をした。
頭を上げた拍子に、黒の烏帽子が板張りの床へ落ちた。健さんは、皺に埋まりそうな茶色の目を細めて手を伸ばす。床に垂れる白絹の袖は艶を既に失い、晒されている髪の毛の方がむしろ白い。
老いたな、と思う。
健さんがここに来るのは、先月の新嘗祭以来だ。が、たった一月の間に、ずいぶん動きが鈍ったように思う。拾った烏帽子の紐を結び直す指先も、かすかに震えている。この調子で、最後まで祝詞を読めるのだろうか。
健さんこと白神健一郎氏が、我が樅木神社の宮司になって、三十年か四十年くらい経つ。前の社が空襲で焼けた後、ここで再建されたのが七十年ほど前のはずだから、この地での歳月は半分くらい健さんと共に在ったことになる。老いるはずだ。
どうにか烏帽子をかぶり直した健さんが、三方に捧げ物を並べ始める。柚子、柚子、柚子……全部柚子だ。健さんの心の声が聞こえてきた。
(申し訳ございません、鷲巣忠隆公。今年も、冬至祭は行えませなんだ。この御祈祷で、どうかお許しください)
かまわんよ、と、人には聞こえぬ声で答える。
昨年頃から市井に疫病が流行っているのは知っておる。民を病の穢れに晒すのは本意ではない。儂の力はその柚子に込めておくゆえ、一陽来復の札と共に氏子たちに配ってやるがよい。
健さんが祝詞を読み上げ始めた。だが、まったく呂律が回っていない。酔客のうわごとにしか聞こえない呻きに、何かがおかしいと感じ始めた時、健さんの身体はゆっくりと傾いだ。
まず祝詞の記された紙が、次いで烏帽子が、最後に健さんの身体が、床に落ちた。
死の穢れが濃く立ちこめる。
音のない拝殿の中で、動くものは錆びたストーブの赤い炎ばかりだった。
◆ ◇ ◆
境内の立入禁止が解かれたのは、健さんの突然の死から二日後だった。死因は脳梗塞で事件性はない、と、マスク姿の氏子たちに警官は説明した。警官が黄と黒の紐仕切りを解いて去った後、氏子たちは声を潜めて話し始めた。
「もう、無理かもしれませんねえ」
「無理ですねえ」
若い――といっても五十代くらいの――氏子たちが、いやにさっぱりとした口調で言った。
「御祭神の鷲巣忠隆公は、関ヶ原や大坂冬の陣夏の陣を戦われた猛将。軽んじれば罰が当たるやもしれん」
腰の曲がった、白髪の氏子が言った。
「でも宮司のなり手、もう十年以上探してましたよね? 後継者さえいれば、健さんだって十何箇所もの神社の面倒、ひとりで見なくてもよかったはずですよ」
「社殿の維持費ももう出せてないんでしょう? 大きな所に合祀してもらえば、街住まいの氏子も参拝しやすいですし」
若めの氏子たちは、口々に言う。
境内をあらためて見回せば、まず目に入るのは茂り放題の御神木だ。長らく剪定されず不揃いに伸びた枝の先には、ひびが入った瓦と詰まった雨樋がある。参道の石畳は雑草で目詰まりし、手水舎では水の止まった水盤が苔で斑になっていた。
「解散しかないと思いますよ」
早く片付けてしまいたい――氏子たちの心の声が聞こえる。
社殿を取り巻く木々を、ふと眺める。名の通り樅の木が多くを占める森では、健さんが時折、青葉の枝を取って持ち帰ることがあった。あの様子ももう見られないのかと思いかけた時、儂は木陰に一匹の黒猫を見かけた。人ならざる気配に気づいたのか、猫は首を傾げて本殿の方角を見つめてくる。
「ところで、健さんのお通夜と式は?」
「通夜祭は釜崎葬祭ホールで二十四日……今日の十八時ですよ。告別式は明日、二十五日の十一時から。神式だから間違えないでね」
そうか、今なら、健さんが人であるうちに会ってこられるのかもしれん。
儂は、音にはならぬ声で猫に囁きかけた。
「すまぬ、身体を借りてもよいか」
猫はぴくりと耳を動かすと、ふにゃあと一声鳴き、腹を見せて寝転んだ。
感謝しつつ気を凝らせば、儂の意識はすうっと猫の中へと入っていった。試しに一声発してみる。
「にゃおぉ」
うむ、首尾上々。
身体を借りれば、あとは動くだけだ。釜崎葬祭ホールとやらの場所は知らないが、勝算はある。
境内のすぐ外に、氏子たちの自動車が何台か停まっていた。うち一台の後ろには大きな荷台があり、脇に「大磯金物店 釜崎市大工町XXX-X」と書いてある。つまりこの車に乗れば、うまくすれば葬祭ホールへ、悪くとも釜崎市内には着くことができる。この鷲巣忠隆、生前の智謀では他の家臣たちの後塵を拝していたが、この程度はわけなく思い付くのだ。
他の車を足掛かりに荷台へ飛び乗れば、鳥居から氏子たちが出てくる気配があった。あわてて儂は、積荷の青くつやつやした幕の下へ身を隠した。
ごとりと荷台が揺れ、儂は目を覚ました。青幕の中で寝入っていたらしい。
顔を出すと、車は開けた場所で止まっていた。黒く塗られた地面に白線が引かれ、他に何台かいる車たちは線の囲いの中に行儀よく並んでいる。横には石の箱のような建物があり、硝子張りの入口の上に「釜崎葬祭センター」の白文字が見えた。
動く車がないことを確かめ、飛び降りる。猫のしなやかな身体は、幸いにも痛み一つなく着地してくれた。入口へ向かえば、傍らに確かに「故白神健一郎儀 式場」の立看板があった。
だが肝心の、健さんの気配がない。通夜祭で遷霊の儀が行われるまで、魂は身体の周りを漂っているはずなのだが……そういえば通夜祭は十八時からだったか。今、陽はまだ高い。
儂は、しばし周りを散策して時間を潰すことにした。
道に沿って少々歩けば、大通りに出た。雑多な商店が道の両脇に並び、上には半円状の透明な屋根が架かっている。吊られた大看板には「釜崎西通り商店街」と丸みある文字で書かれており、マスクと厚い上着を着けた大勢の人々が下を行き交っていた。
不意に、香ばしい匂いがした。見れば、通りの入口の店が鶏を揚げている。
「クリスマスチキン当日販売分 五本入1350円 十本入2700円 なくなり次第終了」
きつね色の肉が次々と赤い箱に詰められ、多くの若い客――ここでの「若い」人々は、本当に若い二十代や三十代だ――に渡されていく。猫の身ゆえか、濃厚な肉の香りに抗いがたい誘惑を感じる。
長居は危なそうだ。儂は商店街の中を散策することにした。
商店街には様々な店があった。食堂や服屋は言うに及ばず、菓子屋、花屋、化粧品屋……そして一軒の例外もなく、入口に同じ飾りを掲げている。
「Merry Christmas 2021 西通りのクリスマス」
そう赤地に金文字で書かれ、左上には柊の葉と金の鐘の絵がある。下の空欄には、店の名が手書きされている。
クリスマス。入口の店もそんな名の揚げ鶏を売っていた。
気付いてみれば、随所にクリスマスと名の付く品が並んでいる。菓子屋はクリスマスケーキ、化粧品屋はクリスマスコフレ、などと名付けた何かを売っているし、クリスマスクーポンとやらを出している店もある。商売繁盛の願掛けの類だろうか。
いぶかるうち、商店街の終わりまで歩いてしまった。ゆっくり散策したおかげか、陽はだいぶ西に傾いてきた。とはいえ冬至の翌々日、十八時までにはまだあるはずだ。儂は、もう少し足を延ばしてみることにした。
商店街出口から少し歩くと、一群の露店があった。入口の立看板に「釜崎紺屋町聖教会クリスマスバザー」とある。揚げ鶏とはまた違う旨味の匂いに引き寄せられてみると、服や雑貨が並ぶ机の奥で、黒服の若い娘たちが豚汁を大鍋からよそっていた。湯気と共に漂う旨味が、猫の敏感な鼻には毒だ。隙間を空けて並ぶ客に、娘たちは一椀の汁と一枚の紙を差し出す。
「ありがとうございます。よろしければクリスマス礼拝にもお越しくださいね」
クリスマスとは何かを拝むものなのか。大鍋の脇、簡素な椅子に積まれた紙を覗く。
「釜崎紺屋町聖教会 クリスマス&イブ礼拝のご案内 今年のクリスマスは教会で過ごしてみませんか? クリスチャンでない方もご参列いただけます。イブの礼拝後にはケーキの用意もございます。イエス・キリストのご生誕日を皆様でお祝いいたしましょう。 日時~」
そこから先が、頭に入らない。
紙面には大きく、忘れられない忌まわしき印――キリシタンのクルスの紋が描かれていた。
「あら。猫ちゃんもお祈りしたい?」
一人の娘が儂の前に屈み込む。
「聖なる日に、猫ちゃんにも主のお恵みがありますように」
娘が胸の前で手を動かす。かつて島原で見た一揆衆と同じ、十字の形に。
かっと、頭の芯が熱くなった。
「きゃ!」
娘が小さく叫ぶ。気付けば、殴りつけていた……猫の手で。
後ずさる娘を、さらに引っ掻こうとして思いとどまった。
「どうされました?」
「野良猫を見ていたら、急に――」
娘たちのざわめきを背に、儂はその場を駆け去った。
◆ ◇ ◆
こつ、と足元に小石が跳ねた。
振り向けば、歳の頃十二、三ほどの童が幾人か、柱の陰でこちらを窺っている。
ぱらぱらと石が飛んでくる。だが骨の浮いた腕では、まともに飛ぶのは半分ほどだ。残り半分も狙いは逸れ、臑当を叩くのはひとつかふたつ。
儂は刀を握り直した。彼奴らは降伏の求めに応えぬ。わかっている。
大股に歩み寄れば、いたのは四人だった。男児二人、女児一人、母と思しき女一人。石を投げ続ける男児たちを、母が肉のない手で招き寄せる。
全員が静かに手を合わせた。母の手が十字の印を切った。
こうなればどうにもならぬ。
親と子、いずれを先に討つのが、まだしも慈悲があるといえるか。はじめの頃はそんなことも考えた。もはや意味はない。これほどに殺し続けたなら。
袈裟懸けに四人、斬り捨てた。親と子は、わずかに声を上げただけで地に転がった。
母親の懐に、鉛玉を熔かし合わせて作った、いびつなクルスが見えた。
これさえなければ。
この者たちが正気でさえあれば。
せめて命乞いさえしてくれれば。死を喜ぶ狂気に囚われてさえいなければ。
また足元に石が跳ねる。総数三万七千の一揆勢は、いくら殺せど尽きることがない。
儂は、石の飛んできた方を振り返った。
◆ ◇ ◆
街が、沈みかけた陽の色に染まっている。道や石壁の色は、まるで炎か血だ。
関ヶ原、大坂冬の陣夏の陣。いずれよりも島原の一揆は堪える戦いだった。
蜂起の原因は悪政と重税であり、一揆勢すべてがキリシタンでなかったことは知っている。だがそれでも、あの宗門さえ関わっていなければ、多くの者は救えたのではないかと今でも思う。
一揆鎮圧後、儂は主君に誓った。釜崎の地を悪しき習俗から守り抜くと。松柏が雪中でも緑を失わぬように、いかなる厳しい時代でも人々の模範となると。
死後、藩士たちが儂を神社に祀ったのも、そのためなのやもしれなかった。
空を見れば、たなびく雲が赤く燃えている。
七十数年前、社が燃えた夜のことが思い起こされた。空から降る炎で、釜崎の街は焼き尽くされた。あれは敵国の――キリシタンの神を奉ずる者たちの――戦闘機だったと聞く。
頭を振り、儂は西通り商店街へと向かった。通夜の時間も近づいている、そろそろ葬祭センターに戻らねば。
すべての店が掲げる「西通りのクリスマス」の札を、儂は見ないように歩いた。なぜ皆がキリシタンの祭りを祝うのか。わからないが、わかりたくもない。
商店街の半ばあたりに人だかりができていた。見れば人垣の中に、奇妙な赤服をまとった老人がいた。いや、本物の老人ではなく、老人の仮装をした中年男だった。
赤服に白の縁飾り。口元は、不自然に豊かな人造のあごひげで覆われている。胸まで届く純白が、あの日の健さんの髪色に重なる。
「それでは良い子の皆さん、サンタさんからクリスマスプレゼントです! 間隔を空けて二列で並んでくださいね」
傍らの娘が言えば、偽老人は大袋から菓子の小箱を取り出し、居並ぶ子らに渡しはじめた。受け取った者の笑顔が、マスク越しでさえはっきりわかる。
すべてを叩き壊したい衝動に駆られる。大袋を裂き、偽老人を殴り、子らを「クリスマス」のない所へ逃がしたかった。猫の身でさえ、なければ。
地面だけを見ながら、商店街を駆け抜けた。
入口を抜け、揚げ鶏の匂いもしないほど遠くへ逃れたところで、儂は鳴いた。ぶにゃああ、と濁った声が、奇妙に虚しかった。
黒服の人々が、葬祭センターからぱらぱらと出てくる。通夜振舞は終わったらしい。
儂はそれを横目で見ながら「故白神健一郎儀 式場」の立看板の裏で丸くなっていた。会場には一歩も入れていない。当たり前だ、厳粛な通夜祭に野良猫など混じれるわけがない。結局、今日は何もできず終わってしまった。
しかし寒い。ここなら風は避けられるが、温暖な九州でも十二月の夜は冷える。やがて、去る人々の足音も途絶え、会場の明かりも落ちた。
寝るか。寝るしかなかろう。だが、明日はどう樅木神社まで帰ればいいのか。この思慮のなさが、生前猪武者呼ばわりされた由縁だったと、儂は久方ぶりに思い出した。
震えつつ自分の毛に顔を埋めていると、不意に懐かしい気配があった。
「……忠隆公? もしや忠隆公ではございませんか!?」
上を向けば、猫の目には何も映らない。だが神としての勘は、よく知った魂を確かに感じ取った。
「健さ……宮司の白神ではないか」
精一杯厳かに、心の声で言う。この姿で威厳を出すのは逆に滑稽かもしれないが。
それでも健さんは、儂へうやうやしく頭を下げた。姿なくとも神にはわかる。
「畏れ多いことです。ところで、いかがなさいましたそのお姿」
「そなたこそ、遷霊の儀は終わったのではないのか」
「身体がなくなるまでは、こうして漂うこともできるようです。少し、行きたいところがございまして」
言いつつ、健さんは何かに気付いたようだった。
「よろしければご一緒にいかがですか。私の行く先には、屋根も暖気もございます」
断る理由が、なかった。
健さんの気配についていくと、やがて民家の玄関に来た。猫の目に見えるかぎりだと、築数年程度の二階建てで、脇の物置には小さな自動車も停まっているようだ。健さんは軒下の薄汚れた箱の前で、儂へ向かって一礼した。
「給湯器の室外機でございます。この上であれば暖がとれるかと……敷物の一つもお出しできず申し訳ございませんが」
ありがたく乗らせてもらおうとした時、儂はかすかな違和感に気付いた。
樅木神社の霊気を、遠く離れたここで感じる。見れば、玄関に樅の葉でできた輪がかかっていた。松かさや玉飾り、赤い紐が付けられた見目好い飾りだ。
「どうなさいました」
「いまどきの正月飾りは変わった作りだな」
「ああ、クリスマスリースですね。この家の者が作りました」
全身の毛が、逆立つ。
「そんなはずはない。この葉は樅木の森から取られたものだ、儂には分かる」
怒りを滲ませれば、健さんはわずかに後ずさった。
「これが『クリスマス』の飾りだとすれば、この家の者は、儂の木を盗んでキリシタンの飾りを作ったことになる。島原の一揆を鎮めた者として、儂はその所業を見逃しはせぬぞ」
「……私です」
玄関の前、健さんが静かに平伏する。
地面の冷たさは、霊の身には伝わらぬだろう。それでも、地につけた手が痛々しい。
「私が、この家の者に樅を渡しておりました。何年もずっと」
返す言葉が見つからない。在りし日の健さんが、森で青葉を取っていたのは――
立ちつくす儂の前で、健さんは地面に付きそうなほどに頭を下げた。
「ですので罪は私にあります。罰はどうかこの身一つにお与えください」
「なにやら事情がありそうだな」
健さんは深く頷いた。
「忠隆公、家の中はご覧になれますか」
「この目では難しいな。獣の身を離れれば可能だろうが、そうすれば猫がどこかへ行って――」
言いかけたところで、強烈な睡魔に襲われた。
「すまんな。少し寝かせてくる」
室外機とやらの上に乗れば、身を包む暖気に大あくびが出る。猫の意識が眠りに落ちる直前、儂はこの小さな身体を離れた。
肉の身から抜けた瞬間、壁の向こうの様子が、幕を払ったように視界に広がる。霊の身は家の内外すべてを一度に見られるが、ひとまず、人がいるあたりに意識を凝らす。
あたたかな光に包まれた、洋風の居間であった。低い机の脇には柔らかそうな布張り椅子が並び、齢三十ほどの黒髪の女が、黒服の上に童女を抱いていた。齢五つほどに見える童女もまた黒服で、背を丸くして、女の膝の上で眠っている。部屋の奥には、洋室に不似合いな真新しい仏壇があった。
「孫娘の美紀子です。抱いておるのは曾孫の香織でございます」
健さんが目を細める。
「美紀子は昔から草花が好きでしてな。長じてからは花飾りや草木飾りをよく作っております。神社周りの樅は質が良いそうでしてな、持っていくとたいそう喜んでおりました……手先の器用さだけは父に似たようです」
健さんの声が、ほんの少し低くなった。
健さんの一人息子は神職を継がず、釜崎市内で自動車整備工になった。三年ほど前に亡くなったと聞いたが、娘がいたとは初耳だ。
部屋の中の声が聞こえる。
「香織は寝たか」
「お通夜に出るのなんて、生まれてはじめてだしね。疲れちゃったんだと思う」
夫と思しき男が、童女を部屋まで抱いていく。居間に残った美紀子が、戸棚から小さな箱を取って後を追った。
意識を凝らして追跡すると、行先は子供部屋だった。小さな寝台の横に、なぜか大きな靴下が吊ってある。男は幼子を寝台に寝かせ、喪服の首元だけを緩めた。後から入ってきた美紀子が、小箱を靴下の傍に置いた。
「あれも『クリスマス』とやらの習わしか」
「はい。クリスマス前日の夜に靴下を飾っておけば、聖者『サンタクロース』が子供に贈り物を届けてくれる、と、かの教えでは信じられております」
「我らの国でもか」
「はい。クリスマスの前夜、多くの日本の子供たちは贈り物を待ちながら眠ります」
「そうか」
どうしても声に苛立ちが混じる。
サンタなんとかの名は商店街でも聞いた。あの作り物の老人が聖者だというか。贈り物を撒けば、民はたやすく手なずけられるというのか。
樅木の社のありようを思えば、腹のあたりに澱みが湧く。
「白神よ。……悔しゅうはないのか」
できるだけ怒りは抑えたつもりだ。それでもどうしても、なにかが滲む。
「父祖伝来の社は荒れ果て、我らの民を害した宗門の祭が華やかに祝われる。……そなたは島原の一揆を見てはおるまい、だが前の戦で、釜崎の街を焼いた炎は見ておるはずだ」
健さんは無言で肩を落とす。うつむき、返すべき言葉に惑っているように見えた。
なぜ迷う。儂は悔しいぞ。儂が軽んじられるのはどうでもよい。だが我らの父祖は、大いなる八百万の神々は。
さらに言葉をたたみかけようとした時、ふと、眠る童女が目に入った。毛布から覗く頬はふっくらと桃色に染まり、肉付きの良い耳たぶは触れれば心地よさそうだ。
この子はよく食っておるようだ。……一揆衆の子らとは違って。
ふと気になって、儂は健さんに訊ねた。
「白神よ。そなたも、子らにクリスマスの贈り物を与えたことはあるのか」
健さんの答えは、意外にもすぐに返ってきた。
「はい、息子が幼い頃は毎年。車が好きな子でしたので、ささやかながら、ミニカーを靴下に入れてやっておりました。消防車やパトカー、救急車など」
健さんまでもか。
返す言葉を見つけられずにいると、健さんは穏やかな、けれど寂しげな笑みを浮かべた。
「神職の家に生まれたことを、恨んでほしくはありませんでしたのでな。彼らの神も八百万のひとつと、己に言い聞かせながら……それに」
健さんは、眠る子を眺めつつ目を細めた。
「子供たちは皆、いつか気付きます。『サンタ』が本当は誰なのか。贈り物を買い、二十四日の夜に枕元に置いてくれたのは誰なのか。それは決して、馴鹿と橇を駆る異教の聖人ではないと」
そこまで一息に話すと、健さんは大きく息を吐いた。
「……その日のために背中を見せ続けることが、ただひとつの道と思っておりました。神々を敬い、日々の勤めを欠かさず、行いを正し、人々の模範となり……そうしておれば、伝わるものと思っておりました」
健さんが遠くを見る。その先に意識を向けてみれば、憂いに満ちたまなざしは洋居間に戻り、奥の真新しい仏壇を見つめていた。
「皆、いつか気付く。けれど和幸は……息子だけは、小さな車をくれた異教の聖人に、連れていかれたままだったのかもしれませんな」
そうだな、もう四十年くらい前のことか。
宮司になりたての健さんが、黒い詰襟姿の息子を連れてきたことは今でも覚えている。学業成就の祈祷を用意する健さんに、息子は目を合わせぬまま言ったのだ。大学へは行かない、機械系の専門学校へ行くと。
健さんが本気で怒ったところを見たのは、あの時が最初で最後だ。境内で言い争う声が、本殿の儂のところにまで届いたものだ。
美紀子と夫が居間に戻ってきた。二人は鞄の中身を検め、明日の告別式に備えて詰め直しているようだった。
美紀子が席を立ち、仏壇下の引き出しから何かを取り出した。
「これ、一緒に焼いてもらえるかしら」
出てきたのは、透明な箱に入った小さな自動車だった。赤い箱のような車、上下半分ずつ白と黒に塗り分けられた車、白地に赤い線が入った車……次々と机に並ぶ模型たちを前に、健さんの肩が大きく震えた。
「棺に入れていいのは燃える物だけだぞ。これはちょっと無理だろ」
「やっぱり」
深く息を吐きながら、美紀子は並べたうちのひとつ、赤い箱状の車を手に取った。
「父さん、これをずっとお守り代わりにしてたの」
美紀子は、うつむき加減に語り始めた。
「子供の頃、クリスマスにもらったものなんだって。神職の家にサンタが来るのもおかしな話だけど、きっと、生まれの違いで寂しがることがないように気を遣ってくれたんだろう……って、治る見込みがなくなってから教えてくれたの」
言って、美紀子も仏壇を見た。健さんと孫娘の視線が、同じ方を向いた。
「サンタは俺によくしてくれた、けど俺はなにも返せなかった、って、苦しそうに言うのよ。神職になるには大学を出なきゃならない、けど俺の頭じゃ無理だった。だったらせめて、できることでなんとかしようと思った、でもだめだった……って」
嗚咽が聞こえてくる。はじめは美紀子かと思った、けれど、それが生者の発する音でないことに、儂はすぐ気付いた。
「お守りは一年経ったら神社へお返しするものだ。だからこれも、サンタのところへ返してきてほしい……そう言って託されたんだけど。結局、切り出せないまま――」
そこで言葉を切り、美紀子は両手で顔を覆った。丸まる背に、夫がそっと手を置いた。
「……和幸。和幸」
儂の傍らで、人には聞こえぬ声が、嗚咽混じりにここにはいない者を呼ぶ。
大きく震える健さんの背に、儂はそっと手を置いた。霊の身同士であっても、温もりは確かに伝わってきた。
儂と美紀子の夫は、共に何も言わず、ただ隣の者の背を撫で続けた。
なるほど。確かに、皆気付くのだな。いつか。
ふと見れば、居間の壁には樅木神社の一陽来復札が掲げてあった。昨年の冬至に儂が分け与えた力は、もう消えかけているようだが。
健さんの墨文字が踊る札の横で、神社の樅で作られた緑の輪が、洋居間の者たちを静かに見守っていた。
夜が明け、昼になった。
澄み通る青空の下、金の飾りで縁取られた黒塗りの車が、ゆっくりと葬祭センターを出ていく。マスク姿の参列者たちは、無言で頭を下げ車を送っていた。
儂はその様を、ここへ来た時に使った、大磯金物店の車の荷台で眺めていた。大磯の主人は帰りに樅木神社へ寄るらしいと、健さんが昨夜のうちに教えてくれた。
厳粛な空気だ。だが儂はひとり、笑いを噛み殺すのに必死だった。
神の耳には、健さんの曾孫の想いがはっきりと聞こえていた。
「ばいばい、ひいおじいちゃん。仏様のところでサンタさんに会ったら、ありがとうって伝えてくれるとうれしいな」
今朝見たものを思い出す。
この童が目覚めたのは、儂が猫の身に戻る少し前だった。枕元の小箱を手にした幼子は、輝くばかりの笑顔を浮かべて階下へ駆けていった。サンタさんが来たよ、と白く瑞々しい足で跳ね回る娘を、両親は目を細めて見守っていた。
儂はキリシタンを好まぬ。その習俗も。あれらから民を護るのは我が使命だ。
だがあの時ばかりは、咎める気にもなれなかった。
出棺を見届け、参列者が家路につき始める。大磯金物店の車も走り始めた。
寒風に撫でられつつ顔を上げると、空に一片の雲が浮いていた。濃い青の中、吹けば散りそうな小さな白。
この日、十二月二十五日、儂はひとりになった。ひとりになった神がどうなるか、誰も知らぬ。
けれど無縁の魂として、雲の如くたゆたいながら民の行く末を見守るのも、存外悪くないのかもしれない。
来年の今頃、街はどう在るだろうか。健さんの曾孫は、いつ「サンタ」の夢から覚めるだろうか。
大いなる天地の神々よ。願わくはその時まで、我をこの地に留め置きたまえ。
※作中に登場する人名・地名・家名・施設名等はすべて架空のものです。