くるくるホウレンソウⅢ
俺の名前はデヴィッド・タナカ。もちろん偽名だ。
国際スパイであるこの俺が、そう簡単に本名など口から漏らすわけがないだろう。ちなみにコードネームは『0011』である。
「タナカ様ですね?」
くすぐったい声で俺の名を確認する、宿泊するホテルの受付嬢のかわいさに、ほっこりしてしまい、危うく宿帳に『田中K太郎』と本名でサインをしてしまいそうになった。かわいい女の子には本名を覚えてもらいたいもんな。
このホテルはイカしてる。従業員がみんな私服のジーンズ姿という、カジュアルゆえに宿泊客にも開放感を与えてくれる。いいホテルだ。まるでこの間新しいメガネを作りに初めて行ってみた『オ◯デーズ』みたいな雰囲気だ。
すまないな、こんないいホテルでこれから殺人事件が起きることになる。
世間ではゴールデンウィークの真っ只中だが、国際スパイである俺には連休など、ない。
今日は国内で、海外のスパイを暗殺する仕事だ。
天井裏に忍込み、隣室に泊まっていたロシアの秘密スパイのオッサンを忍者のごとく毒殺すると、俺はボスにスマートフォンで報告をした。
出ない……。
何回ベルを鳴らしてもまったく出てくれない……。
まぁ、よくあることだ。
昼飯のハンバーガーでも食べるのに忙しいのだろうが、仕事が忙しくて手が離せないという想像をしておいてあげよう。そうしないと俺のほうも腹が減ってくるからな。
「キャアー!」
死体を見つけたのだろう。かわいい受付嬢の悲鳴を背にしながら、俺はその素晴らしいホテルを立ち去った。
あまりに電話がかかってこないので、先輩の001に電話してみた。
このままではこれからどう動いていいのやらわからない。東へ歩きだしたらいいのか、西へ歩きだしたらいいのかもわからない。
『おう、お疲れ、0011』
「お疲れさまです、001。ボスがいつものように電話に出ないんだ。このあとの俺の仕事は決まっていますか?」
『おう。トルコへ飛んでくれ。美味すぎるケバブの店があるらしいんだ。その味の秘密を盗んできてくれ』
「決まってたんだ……」
『昨日の時点で決まってたらしいぞ。決まったらその時に教えてくれればいいのにな』
「まぁ……、いつものことです。わかりました、トルコでケバブですね?」
俺は一度じぶんのアパートへ戻り、トルコへ飛ぶ準備をすることにした。
アパートに帰ると、ペットのマッくんが水槽の中で嬉しそうに飛び跳ねる。マッくんは馬寒湖産のマリモだが、動物のように感情豊かで、ミルクが大の好物だ。
「明日はトルコ行きだ。比較的近場の仕事だからすぐに帰れると思うよ」
そう言いながらマッくんと戯れていると、スマホが鳴った。ボスからかと思ったら水道局だった。
『先月分の水道料金が引き落としできませんでしたので、払い込みに来てください』とのことだ。
仕事で日本にいることが少ないので、口座に金が足りてないとこういうことがしばしば起こる。
そういえば先月はマッくんがいたずらで水道の蛇口をひねり、丸二日間水が全開で出っぱなしになってた。そりゃ口座の金では足りないわけだ。
コンビニでは払い込みできないというので、帰ったばかりだったが仕方なくもう一度車で外へ出た。
往復1時間程度の距離だったが、帰るとクタクタになってしまった。不休で仕事続きなので疲れが蓄積しているようだ。
今夜は夜ふかしせず早めに寝よう。そう思いながら、水道局からの帰りに買ってきたケバブを晩飯に食べていると、スマートフォンが鳴った。見ると、ようやくボスからだった。
『明日の仕事は聞いてるか?』
「はい、ボス。001から聞いています。トルコでケバブですね?」
『よろしくな』
それだけの電話だった。
ケバブで缶ビールを2本開け、いい気分で風呂に浸かっていると、またスマートフォンが鳴った。見るとまたボスからだ。なんだか嫌な予感がしたが、出ないわけにはいかない。
「はい。こちら0011」
『ああデビッド。トルコの仕事のことだが、それが終わったらすぐにカンボジアへ行き、そこからアメリカへ飛んでくれ』
「あっ。カンボジアからアメリカですね? どういう仕事で?」
『知らんけどなんだか物資を運んでほしいということらしいぞ』
知らんけどじゃねーよとは思ったが、それよりも感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
後の予定がわかることほどありがたいことはない。余計な動きをせずに済むし、余計な金も使わずに済む。マッくんには悪いが、あらかじめミルクをたっぷりやって、留守番させておくこともできる。
俺は早速みっちり明日の準備に取りかかった。
次の日、気分は爽快だった。
みっちり準備はしてある。3日後までの仕事の予定もわかっている。こんなことは滅多にない。
うちの組織は先の予定などまったく不明で、健康診断も直前になっていきなり病院に行けと指示される。検便を取ることさえ不可能だ。たまに早めの連絡があっても、それがクルクルと変わりまくることが普通なのだ。
早速カンボジアまで小型セスナで飛ぶと、廃倉庫の裏で、怪しげなおばあさんたちから箱を受け取った。
発泡スチロールの箱は重く、それが180箱ほどだ。
中身はわかっている。
魚だ。
なんとか小型セスナにすべて積み込むと、俺は急いでアメリカに向かった。
カリフォルニアの水産物加工会社にコイツを運び入れ、そして──
「今から急いでこれをかまぼこに加工しますので、それを明日の朝までに日本のオオサカまで届けてください!」
アメリカ人のイケメン工場長に早口でそう言われた。
俺は親指を立て、笑ってみせた。
前もって聞いていたのだ。セスナの中でボスから『ハードスケジュールになるが、頑張ってくれ』と言われていた。
できれば日本を発つ前に教えてほしかったが、それでも直前になって言われるのとでは大違いだ。
用意してもらっていた別室に通されると、そこで食事をもらい、ソファーに横になり、仮眠をとっておくことにした。
かまぼこが出来上がった。
「大変でしょうが、どうか明日の朝までにこれを……お願いします!」
工場長はまるで日本人のようにペコペコ頭を下げていた。
よほど無理な仕事を頼んでいると思っているのだろう。
確かに──並みの国際スパイなら無理な仕事だといえる。
しかし俺は、違う。並みの国際スパイなどではないのだ。
これぐらいハードな仕事など、毎日のようにやらされているから、ふつうなのだった。
16時間ノンストップで太平洋の上を飛び、日本へ帰ってきた。
大阪では子どもたちが俺の到着を待っていた。
関西国際空港の対岸にある田尻漁港で『世界のかまぼこ展』が開かれ、そこに出展されるアメリカかまぼこの到着を待っていたのだ。
世間はゴールデンウィーク最終日。漁港には人が溢れ、賑やかなことこの上ない。
俺がアメリカかまぼこをセスナから降ろしていると、かまぼこ展のお偉いさんらしきおばちゃんがやって来て、俺に頭を下げてきた。
「無理言うて悪かったなぁ、お兄ちゃん。お陰で子どもたちにアメリカかまぼこを食べさせてあげられますわ!」
その後ろからはこれもお偉いさんらしきお父さんが出てきて、笑顔で俺に抱きついてきた。
「ありがとな! 兄ちゃんのお陰でかまぼこ展、大成功や!」
次々と関係者が出てきては、俺に頭を下げ、笑顔で「おおきに! おおきに!」と言う。
冷酷な国際スパイである俺も、思わず笑顔になった。
ボスから電話がかかってきた。
『御苦労だった、0011。依頼人からもお礼の電話がかかってきたぞ。無理な仕事を急にお願いしたのに、見事に無事やり遂げてくれてありがとうってな!』
みんなが笑ってくれる。
俺はとても世の中のために良いことをしたような気分になり、俺も笑顔が止まらない。
これぐらい、うちの組織ではふつうの仕事なのに。
こんなに感謝されたことは未だかつてなかった。
もしかして──うちの組織って、ブラック?
改めてそんなことを思いはじめていた。