オープニング
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目を覚ました玲十郎は見たことの無い天井に少しの驚きを隠せないでいた。それでも最小に留めておける程度には落ち着きも持っている。だが動きの鈍い、と言うより思うように動いてくれない右腕の感覚に、眠ってしまう前の激しい痛みを思い出し背筋に冷えが通る。
持ち上げた左手に見え触れる服は、自身が持っていないものであるのは認識できた。
玲十郎は思う。驚く、等大きな感情の動きには若さと力が必要で、自分にはもうそれほどの力が無いと言ってしまうのが常だった。
その自負に値するように、傍目にも驚いたことを思わせない程度に反応が薄かった。
息をつき落ち着いた視界を巡らせる。そうすると自宅ではなく、かと言って記憶の中の最後の風景である受け継いだ道場でもない。強いて言うならテレビや映画のスクリーンの中で見たような、レンガと木で構築された建物のようで暖炉から薪が爆ぜる音がいやに響いた。暖炉の横にあるのは人の身長程もありそうな、大きな長柄の斧のようなもの、浅い知識の中でそれはハルバードと呼ばれているものだった。だが映像の中で見たものよりずっと大きく重たそうなソレに関心が寄せられる。
腹筋を使い身体を起こす。だが起き上がった事でぐわと視界が揺れ出すのを、左掌で視界を覆い目眩の落ち着く瞬間を待った。
(……何が、どう)
考えど考えど、彼の中に答えは訪れなかった。
突然大きな音を立て扉を開け現れた赤い髪の少年に、思考は霧散された。
「───あ、……!あ!じいちゃん起きたー!」
賑やかに、されど心配していると言いたげに傍に駆けより右手を掴み大声を上げる少年に、痛みを覚えながらも眩しそうに目を細めた。少年の様子から、門下生達を思い出され口角が少し上がる。
特に一番弟子でもある孫には祖父として、時には剣道場師範として厳しくしても尊敬の視線を崩すことは無かった。反抗期と思われる時期ですら彼は玲十郎の言葉には不服そうながら素直に頷いていたのが蘇る。
可愛らしいな、と表情で語る玲十郎の雰囲気が至極優しい。だがその右手から、返ってこない力に少年が少し不安になり慌てて手を離した。
「ご、ごめん、なさい。痛かった……よね?」
「ああ、驚かせたようで申し訳ない。それと心配してくれて有難う」
男が左手を伸ばし少し距離を置いた少年の頭に手を乗せる。
途端嬉しそうには少年は破顔し笑う。
「困った時は助け合う!母ちゃんにそう叩き込まれてるんだ!」
「ほーう、それは素晴らしい教えだ。良い母親に恵まれているんだな。じゃ良かったら御母堂……あー、お母さんか親父さんを呼んできてもらえるか?」
「ん?っへへ、うん!」
母の教えを誇っていた少年は大好きな母を褒められ、鼻の下を掻いて笑んでいた顔を満面にする。
そうしてから少年はハッとして「呼んでくる!」と走る音を賑やかにして、男の眠る部屋より出ていった。扉を閉める音はとても大きく、それはまるで若さと幼さが溢れ出ているかのように男には思えた。
じわりじわりと違和感が男を襲いドクンと心臓が高鳴る。手にも額にも汗が滲み、目が見開いてしまう。
日本人とは思えない原色に近い赤の髪、服装はよく見る洋服ではなく、かと言って和服でも無い。強いて言うなら、そう、ファンタジー映画の中で見る、麻と紐で作られたような服であった。
どれほどかして少年の父母であろうと推測出来る赤毛の女性と明るい茶髪の男性が、優しいけれど胃を刺激する匂いと共に現れた。髪色は母、顔立ちは父親かな、とこっそりと考える。
扉は男が開け先に声をかけた、女性はその両手にスープ皿とパンと水差しを載せた盆を両手に持っている。父親と思しき男が先に口を開いた。
「おはようございます、お加減はいかがでしょうか?」
「おはようございます。朝、と言うには遅すぎますけど野菜スープを用意したので良かったらどうぞ」
母親らしい女性が後に告げてから、少年が背後より父親の傍らへと駆け寄りその腰に抱き着いた。
見上げるその顔には、与えられた任務を達成した喜びが満ちており、父親の右手が少年の頭に伸びその髪を撫ぜた。ニッコリと笑い父の腰に更にしがみつく。
その二人の様を見て柔らかく笑む玲十郎に対し、二人の警戒が少し緩む。男は警戒が溶けたことに僅かな安堵を得て、両親と思われる二人に頭を下げてようやくお盆を受け取った。
「ご夫妻、そして少年、丁寧に痛み入ります。寝所の上からで申し訳ない、私自身の加減は問題ないため有難くいただきたく存じます」
恭しく頭を下げた男に対し夫婦は……特に少年の母親らしい女性の方はより毒気が抜かれた様に、見合いあって言葉を続けた。
「親父殿に教えたいぐらいの丁寧な言葉遣いの人ね、気にしないでいくらでも食べて下さいな。ついでに言うならうちの父にその丁寧さ分けてあげてくれたら嬉しいわ」
「こらこら。……あの、うちの妻のスープは絶品ですよ、是非食べてやって下さい。そして食べ終わったらでいいので、少し私と話していただけますか?」
「無論です、私については不安な事も多々あるでしょう。私に分かることでしたら全てお伝えさせていただきます」
そんなやり取りをしていたら少年の腹がグゥと鳴った。大人達は吹き出して、少年だけは真っ赤な顔をして怒るふりをしていた。
思いの外空腹が強かったのか玲十郎は静かに、だけども止まることなく左手でスープを運び食べ続けた。止まることなく、だが丁寧さを忘れず一口一口を味わっているように見えるのは年齢故かもしれない。利き腕ではないと思われる片腕しか使えないという事もあるだろうか、時折もたつきを楽しんでいるように見えた。
ユーシンは玲十郎の足元に座り込み楽しそうに眺めていた。
玲十郎は左手で水差しの水を、木のカップへとうつして飲もうとしたが僅かに零してしまい「あちゃ」と声に出してしまっていた。
「大人のじいちゃんも失敗するんだね」
言いながらクスクスと笑うユーシンに玲十郎が微笑み、ユーシンの頭をぽんぽんとたたく。手を伸ばしたその瞬間、夫婦からの鋭い警戒心が突き刺さったが気にしないことにした。
「歳食ってたって失敗なんてよくあるもんさ」
父親が代わりに、と注ぐと丁寧に謝辞を述べ飲み干した。皿の中身が無くなり、水差しの中身も残りカップ一杯になってから満足気な息をつき、左手を顔前に上げて軽く頭を下げる。
「ご馳走様です、大変美味しくいただきました。そして名乗るのが誠に遅くなり申し訳ない。自分の名は比嘉 玲十郎と申します」
頭を下げる玲十郎の旋毛を眺めさせられながら呆気にとられた夫婦は、安堵の吐息をこぼす。
「珍しい名前ね、少なくともここら辺の方ではないわよね?死ぬ様子なくて安心したわ、えーと、レンジュウロウ、さん」
「!?こら!簡単に死ぬとか言わない!」
「うふふごめんなさいエスート。わたしはレアリア。こちらの口うるさいけど素敵でカッコよくって、なこの人は私の愛する旦那様エスート、ちっちゃくて貴方を見つけて起きるまで見守ってたのはわたし達の愛する息子のユーシンって言うの。改めてよろしくね、レンジュウロウさん」
ニッコリと少年と同じようで少し違う、大人の笑顔を見せてレアリアが告げた。
それから片付けを名目にしてユーシンを引き連れて玲十郎の休む部屋を二人は出ていった。
「じいちゃん!またね!」
去る前に一生懸命に手を振ったユーシンに孫の幼い時を思い出し頬が綻んだ。ああ、と言葉を返し小さく手を振ると、まだニコニコと笑う顔を遮るように扉は閉まってしまった。
それからエスート、による玲十郎への尋問が始まった。