生きてる世界
そこは田舎と言うには少し都会で、だが都会と言うには少し田舎の剣道場。科戸一陣流を受け継いだ男が師範代を務める道場だ。
夜も老けゆく夏も終わりかけの十七時半、少年少女青年計五人の「ありがとうございました!!」を受けて初老と言える男──比嘉 玲十郎──は力強く頷いた。
「今日もみんな良く頑張ったな。日に日に成長するお前さんらを嬉しく思う。家に帰ったらしっかり食って、しっかり休むようにな」
この言葉は鍛錬の終了を迎える時の定型文だ。だがいつだって心の底からそう思っているし、嬉しいと言いたげな玲十郎の表情と声に、弟子である五人は嬉しくなってしまう。
「「「はいっ!」」」
彼らも嬉しくなって大きくなってしまう声もまた、定型文の様に決まっていた。帰り支度をする少年達を玲十郎が眺めていると、迎えに来た親達が感謝の言葉を述べて二人の少年少女を連れていく。
子供だけで帰っていこうとする高校生になる青年とも呼べる二人を見送っていると、一番弟子の青年が玲十郎にスマートフォンを見せてきた。
「爺さん、送っといたぞ」
「ああ、有難さん雄真、助かる」
「いちいち終わりの連絡とかめんどくせぇなぁ、なんとかなんねぇの?後、ついでに言うけど今日は帰らねぇから泊めてくれ」
雄真と呼ばれた青年は、玲十郎の実の孫でもある。
生真面目で品行方正を地で行って生きている父親に対し、祖父である玲十郎に似たのか雄真は適当な気質であった。長い人生、先を見据えると父親を見習って欲しいと思えど、出来上がった性格はどうにもならんと諦めた。これに関しては、父親も自身の父からの遺伝と考え諦めている節がある。
玲十郎は雄真から受け取ったスマートフォンをややぎこちなく操り、青年達の親から届く返信を確認していく。雄真が送ってくれた内容は『今終わりました』の定型文だが、子供達の帰る時間の目安になるため重宝しているそうだ。
「親が子を心配する気持ちはいつになっても変わらんさ」
そこまで言って雄真を振り返ると、彼の姿は既にない。玲十郎は彼を追い掛けて道場から出ると、道場そのものへ礼をするように深々と頭を下げた。皆で掃除をした道場は今日も床が輝いている。
「本日も誠にお世話になりました。明日も、そしてこれからも何卒よろしくお願い致します」
そして、鍵を掛ける。
これらの流れが見えたのか、母屋から戻ってきた雄真も慌てて頭を下げた。
「今日も有難うございましたっ!」
一生懸命に頭を下げる雄真に玲十郎が口許を緩めクスクスと笑い声を零す、同時に道場に感謝を告げることが出来る彼の素直さを喜んでいた。
数年前反抗期を迎え、祖父である玲十郎の言葉に不服そうにだが頷いていた少年は、今や素直に嬉しそうに笑う青年になっていた。
「さて、雄真そろそろ帰る準備を」
「だーからー、今日は俺帰らねぇ」
住居たる母屋に辿り着くと黒の大きな毛の塊、こと飼い犬の青葉が玄関でお座りをしながら出迎えた。大型犬らしく大きく長い尻尾を振りながら抑えた声で「わふ」とお帰りを言うように鳴いた。
「青葉ー!良いよな俺居ても!嬉しいよな!」
雄真が青葉を強く抱きしめる。困ったように青葉はまた「わふ」と鳴いた、今度のそれは「どうしたらいい?」とでも言ったのかもしれない。
「良いって言った!んじゃ俺風呂行ってくるわ!」
青葉から離れて雄真は客室という名の準自室となっている部屋から、置きっぱなしになっている着替えを持って風呂へ向かった。
そんな雄真を見送ると玲十郎はまあいいか、と頭をかいてから台所へ向かい隣を歩きだした青葉の頭を撫でた。それから玲十郎の息子でもある雄真の父親の携帯電話の番号を呼び出し、通話ボタンを押した。
シンクに背を預けると、今度は猫の紅葉が食事の気配を察して現れた。食事を求めて玲十郎の脚に擦り寄ると、黒の袴にサバトラが映える。「むぅ」と鳴いて声でのアピールも忘れない。
呼び出し音の間にシンクに上がった紅葉は腕へのアピールもしだした。すりすりとその腕に頭を寄せると玲十郎は頭を撫でてから顎を擽る、と電話が通話状態となった。
繋がった息子は「そう言えば今日真菜がクソ弟とか言って怒ってたなぁ……、何やらかしたんだか。父さんスマンがついでに謝るよう言っといてくれ」とボヤいてから、雄真が帰らない事を了承し、妻に伝えると答えてから通話を終えた。
姉と喧嘩したのが嫌で帰らない、と言う幼子の様な行動に呆れつつも可笑しく思えて口元を緩めた。
思わずこぼれた笑いに青葉が玲十郎を見上げた。
「あいつ泊まると一番風呂を取られて適わんのだけどなぁ、なあ青葉」
青葉の顔をワシワシと撫で回してから玲十郎は手を洗い冷蔵庫を開けた。可愛い可愛い孫と共にする晩餐には少し寂しいから買い物に行かなくては、いやその前に……など考えながら歩き出す。いや、歩き出そうとした。その瞬間何かに胸を殴られたかのような衝撃に膝を着く。しかし当然だが正面には誰もいない。青葉が雄真へと異変を知らせるべく大きく鳴いた。
「爺さん青葉どうした?」
尋常ではない青葉の鳴き声に風呂から雄真が大声を出すが、返事が出来ない程の痛みに玲十郎は胸を押さえ倒れた。嫌な音が鳴る。
返事が無いのに訝しみ風呂から出てきた雄真が、倒れる玲十郎を見て慌てて駆け寄る。
「じいちゃん!?どうしたよじいちゃん!」
痛みと青葉と雄真の悲痛な呼び掛け、咄嗟に出たであろう幼い頃と同じ呼び方 に少し落ち着けた玲十郎は、倒れたまま救急車を呼ぶようにと微かに告げた。それから心臓と同じ程痛む右腕に何故だか酷く絶望し、意識を失ってしまった。