家族
「すいません。ちょっと寝過ぎまひ……ふぁぁ」
洗濯物を片して部屋に戻ると、ベッドの上で如何にも寝起きといった表情を浮かべた彼女が欠伸と共に謝罪の言葉を発した。
「別に用事があるわけでもないからいいよ」
「ダメです。せっかく二人でいるんだから。もっと一緒になにかしたいです」
「一緒に何かって言っても、この天気だからね」
昼前まではポツポツといった程度だった雨脚は、少し前から豪雨といっていいような強さで屋根や窓を打ちつけている。
「あ、じゃあさ。晩御飯作るの手伝って貰ってもいい?」
「はい! お料理は得意だったのでお安い御用です!」
千尋ちゃんにはエプロンの代わりに――諸事情により若干伸びてしまった――俺の体操服を着てもらうことにしたのだが、その結果、彼女はとんでもなくマニアックな姿で台所に立つことになってしまった。
「あの、千尋ちゃん。短パンもあるから」
「だ・か・ら! 裾が長いから大丈夫ですよ?」
いやだから、チラチラと見えてるんだって。
「で、何をすればいいんでしょう?」
「えっと。俺はひたすら野菜を剥くから、千尋ちゃんはサイコロ状に切って炒めて欲しい」
「ていうことは、カレーか肉じゃがですか?」
「そうそう、カレー。鍋一杯に作れば向こう三日はいけるから。それじゃお願い」
「了解です」
俺がピーラーを使ってジャガイモとニンジンを剥いてまな板の上に置く。
そして彼女がそれを最適なサイズにカットしたあと、油をひいた鍋の中にじゃんじゃん放り込んで炒める。
タマネギは芯を取って、やはり一口大にしてから頃合いを見ながら追加投入する。
「あ。万里くんの家って、カレーのお肉は豚肉なんですね」
「うん。千尋ちゃんちは違った?」
「はい。いつもチキンカレーでした。うちはお母さんがとにかく鶏肉が好きな人だったから」
「うちもお母さんがポークカレー派だった影響かな。でも、チキンカレーもいいな。次はそうしよっかな」
「ええ。ぜひそうしてみてください」
野菜と肉がある程度炒まったところで、水を投入して煮詰める工程に移行する。
彼女は入念に灰汁を取り、水を張ったボウルにお玉を潜らせながらとても楽しそうだった。
「千尋ちゃん、お料理好きなんだね」
「はい。お母さんが何でも作れる人だったから。私も小さい頃からお手伝いをしているうちにレパートリーが増えに増えて、今は五〇種類くらいはあると思います」
「すごい。じゃあこっちにいる間、またお願いしてもいいかな?」
「はい! よろこんで!」
ルーを溶かして煮込むと程なくしてカレーは完成した。
時計に目をやるとまだ午後の三時を少し回ったばかりで、再びやることが無くなった俺と彼女は明日以降の予定を立案する会合を開くことにした。
「それでは、今年の夏を満喫するための会議を開催します」
服をモコモコに着替えた彼女が議長の貫禄で進行役を務め、俺は議事録の代わりにスマホでメモを取る。
「……えっと、なにか発言してください」
えらく竜頭蛇尾な議長だった。
「はい、議長。明日、制服をクリーニングに出しに行きたいです」
「採用します」
即決。
「あ、あと明後日くらいに食料品を買いにスーパーにも行きたいです」
「了承します」
「明々後日にクリーニングに出した制服を取りに――」
次の瞬間、議長が突然叫ぶ。
「却下します! あ、取りに行くのはいいんですけどね」
「え、じゃあいいじゃん」
「裁判長! 被告人はこの会議の趣旨を理解していないように思います!」
急に検事へと転身した彼女に非難される。
「意義あり!」
俺は立ち上がって腕を水平に伸ばし声を上げた。
「弁護人の発言を許可します」
被告じゃなかったの?
「では言わせてもらいます。俺としましては原告の訴えを全て受け入れる覚悟であります」
「……え?」
「だから千尋ちゃんが全部決めてくれればいいよ。遊園地でも動物園でも、好きなところに行こう」
議長で検事で原告の千尋ちゃんはぽかんと口を開けて立ち尽くす。
「それでいい?」
「……はい。以上をもちまして閉会します」
時間潰しで始めた会議は僅か五分で終了した。
その後はリビングのソファーに並んで座ると、スマホを使って近場の行楽地を探す。
「あ、近くに遊園地があるんですね」
「うん。ここに来る途中で湖の上を電車で通ったでしょ? あの時遠くに観覧車が見えてたじゃん」
「ああ、あそこですか」
「じゃあここは確定、っと」
ブラウザの星マークをタップしてブックマークに登録する。
「ここは? オルゴール館。遊園地のすぐ近くだから同じ日に行けるよ」
「お気に入り、お願いします」
「じゃあついでにここも――」
旅行の予定を立てている時間というのは、もしかしたら本番よりも楽しいのかもしれない。
あっという間に二時間が経過し、悪天候のせいか窓の外は既に薄暗くなっていた。
「俺ご飯にするから、千尋ちゃんお風呂に入ったら? 物理的には必要ないのかもしれないけど。気分的にはすっきりしそうだしさ」
「そうかもしれないですね。じゃあ、お風呂お借りましす」
体操服の裾から形の良いお尻をチラチラと見え隠れさせながら歩いて行く彼女を見送ったあと、俺は千尋ちゃんの作ってくれたカレーライスを頂いた。
野菜の切り方も使用した材料も、普段自分で作るカレーと殆ど同じだったはずのそれだったが、今まで食べたカレーの中でもベストスリーに入る逸品に思えた。
「出ました」
風呂上がりの彼女は不思議なことに先程よりも少しだけピカピカしているように見えた。
「おかえり。それじゃ俺もお風呂に入ってくるね」
ソファーから立ち上がろうと膝に力を入れた途端、それは唐突にやってきた。
急に両頬に違和感を覚えて手を顔に当てる。
指先に感じたのは、少しだけ生暖かい液体――涙の感触だった。
「あ……れ?」
「万里くん?」
「あ、ごめん。……なんでだろう?」
「え? どこか痛いんですか?」
彼女は細く整った眉毛を八の字にすると心配そうに俺の顔を覗き込む。
「そういうのじゃなくって。きっと、俺……。今日っていう日が、すごく楽しかったんだと思う。だから、かな?」
風呂上がりでタオルを頭に巻いたままの彼女は眼の前までくると、その白く細い腕でそっと俺の頭を包み込んだ。
相変わらず体温は感じることが出来なかったが、とても柔らかくて優しいその感触が只々愛おしく、俺はついに声を出して泣き出してしまった。
「大丈夫ですよ」
「……うん」
六年前に事故で母を亡くした日、この世界は楽しいことばかりではないことを知ってしまった。
俺は彼女との何気ないやり取りに、幸せなことが当たり前だった幼い頃の日々を思い出してしまっていたのかもしれない。
きっとその喜びと悲しみとが涙になって還元されたのだろう。
「万里くん。私がここにいる間は私のことをお母さんと思ってくれてもいいですよ」
「……え? なんでそうなった? あとそれ、だいぶ無理がない?」
「じゃあ、かわいい妹だと思ってください」
「……恋人のほうが……いい」
「――わかりました。それで……ううん。それがいいです」




