天国
昨日行った海とは真逆の方向に十分ほども歩く。
するとそこは既に山の只中だった。
登山道として整備されているお陰で、然したる労を要することもなく登ることは出来るのだが、如何せん今の季節は旺盛な夏の草木によって視界が利かず、とてもではないが自発的にここに来ようとは思わなかっただろう。
「千尋ちゃん、ここは?」
すぐ後ろを歩く少女に声を掛けながら振り向くと、両腕を胸の前で小さく畳んだピーカブースタイルの彼女――恐らくは虫を恐れているのだろう――が「えっと」と言いながら顔を上げた。
「山です」
「そうだね山だね。あ、肩に毛虫ついてるよ」
「きゃあああ! とって! とってください!」
白い夏服のセーラー服の上を我が物顔で歩くそれを足元に落ちていた枯れ枝でチョンチョンと突いて落とす。
「とれたよ。なんかすっごいビビッドカラーだった」
「ひっ!」
幽霊でも鳥肌は立つらしい。
「で、千尋ちゃん。道はこれで合ってるの?」
「あ、はい。ここは毎年来てたから大丈夫――あ、ほら」
彼女の細い指が差す方向へと視線を移すと、十数メートル上に太い丸太で組まれた建造物が見えた。
「へぇ。山の上にこんな建物があったんだ」
「ふたりで海に行った次の日に来たことがあるんですよ」
「……ごめん。やっぱり覚えてないや」
「大丈夫です! だから来たんですから!」
そう言うと彼女は俺を追い抜かしてとっとと登っていってしまう。
俺にこの急勾配をダッシュするのは……ちょっと無理かもしれない。
たった二つではあるが彼女との年齢の差を感じる出来事であった。
山頂はちょっとした広場になっており、トイレや自動販売機なども設置されていた。
平日の今日でこそ俺達以外の人影はなかったが、休日ともなれば家族連れなどで賑わうのではないだろうか。
「ねえ、千尋ちゃん。そこに広めの駐車場があるのが見えるんだけど」
「あ、はい。おばあちゃんの家の近くの信号を曲がったところから道が続いてますから」
「……そこから来たほうが楽だったんじゃない?」
「はい。距離もそっちのほうが近いです」
「え?」
「でも、私と万里くんが一緒に来た時はさっきの山道だったから」
「ああ、なるほど」
「てゆうか万里くん、こっちです」
彼女は手招きをしながら再び駆け出すと、先程目にした丸太組の建物の中に入っていく。
早足で追い掛けると、そこはどうやら山頂の端に設けられた展望台になっているようだった。
数基のベンチが置かれた室内はやはり無人であったが良く手入れがされており、仄かに杉の木の香りも漂っていた。
二十帖程の広さのそこを通り抜けると視界が一気に拓ける。
海抜でいえば二〇〇メートルもないはずだが、ここからの見晴らしは溜息が溢れるくらいに申し分のないものだった。
すぐ下には県道が東西に走っており、その向こうには広大な耕作地と、そして海と空の青がどこまでも広がっている。
「ああ……」
「どうですか? 思い出しましたか?」
「海に行った次の日、今度はちゃんと大人達に許可を貰って来たんだったよね?」
「はい、そうです。お父さんはすごく心配していたけど、万里くんのお母さんが『あとで迎えに行ってあげるから二人で行ってみなさい』って言ってくれて」
「……そうだった」
幼い日の俺と千尋ちゃんはここで、遥か遠くに見える海の上に浮かんだ入道雲を見て『あの下ってアメリカなのかな?』とか『ちぎって食べてみたい』とか、如何にも子供といった可愛らしい話をしながら、確か自販機で買ったゼリーの入ったジュースをはんぶんこして飲んだんだった。
何となくその時のやり取りを再現してみたくなる。
「千尋ちゃんほらあそこ。入道雲が浮かんでるよ」
「あっ、ほんとですね」
「あの下ってさ、アメリカなのかな?」
「……万里くん、高校生ですよね。アメリカは日本の東のほうですよ? あっちは南だから、あるとしてもオーストラリアとかニュージーランドです」
「あ、はい」
きっと乙女チックなんだろうと勝手に思っていた彼女は生粋のリアリストだったようだ。
そのあと俺達は展望台のベンチに腰を下ろし色々な話をして盛り上がった。
それは互いの学校のことであったり家族のことであったりと、本当に色々だった。
ただそんな楽しい話も彼女のそれは過去形であり、必然的に全てが思い出話だった。
それでも千尋ちゃんはずっと笑顔を絶やさず、コロコロと笑いながら俺の知らない自分の物語を聞かせてくれた。
「あっ! 千尋ちゃんあっち見て!」
「はい?」
「海のほう!」
「――あ」
いつの間にか沈みかけた太陽の光が海に反射し、夕方で凪いだ海面に光煌く一本の道筋を作り出していた。
「すごく綺麗です」
「うん、すごいね」
「……もしかして。天国って、あの向こうにあるんでしょうか」
「……どうだろう」
「もしそうだとしたら、本当は、私」
「そろそろ帰ろうか、千尋ちゃん」
俺は無理やり彼女の言葉を遮ると、夕日に照らされて紅葉のように赤くなった小さな手を握りしめた。
「明日あっちに帰ったら、何か歓迎会みたいなことしよっか?」
「……じゃあ、花火がやりたいです」
「花火か。いいねそれ。もう何年もやってないかも」
「……私もです」
家に着いた頃にはすっかりと日が暮れ、案の定俺のことを心配していた祖母に少しだけ小言を言われてしまった。
それが何だか懐かしくて、でもちょっぴり恥ずかしくもあって、すぐ横に立っている彼女にそっと目配せをして舌を出してみせる。
「万里くんはおばあちゃんの一人きりの孫なんですから、あんまり心配掛けたらダメですよ?」
違うよ千尋ちゃん。
おばあちゃんにとっての孫は、いつまで経っても俺と君の二人なんだから。




