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南の風 時折、凪  作者: 青空野光
勾坂千尋
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理亜

理亜りあ、そろそろ起きなよ」

 こんもりと膨らむ冷感素材のタオルケットを一気にめくると、その下からダンゴムシのように身体を丸めた少女が現れる。

 背中の中ほどまである黒髪がシーツの上に放射状に広がり、その中心部にある整った顔はこの上なく安らかであった。


 彼女――佐久間理亜さくまりあ――とは家が隣同士だったこともあり、幼い頃から互いの家を行き来しては一緒に遊んだり宿題をしたりと、それこそ兄妹のように育った。

 それは高校一年になった今も変わらないどころか俺が一人暮らしを始めてからはむしろエスカレートしていた。

 まるで自宅が二つにでも増えたかのような振る舞いの彼女は、夏休みに入って以来じつに一日の半分を俺の家(ここ)で過ごしている。

  今日などは昼過ぎにやって来るとキッチンに直行し、一昔前にヒットしたアニメソングを鼻歌で唄いながら大量のカレーを作り始めたのだった。

 そのあと二人してそれを食べていると、今度は急に『眠くなってきちゃった』と言うや否や、僅か十分後には俺のベッドに潜り込んで今に至っている。

 吹奏楽の部活帰りで制服姿だった彼女が俺の体操服を勝手に引っ張り出して着替えていたところまでは知っていたのだが、下は制服のスカートのままだったようであった。

 だが元来の寝相の悪さ故に完全にめくれ上がったそれは本来の機能を完全に失っており、ふくよかな臀部を包む桃色の布地が”チラ見え”ならぬ”モロ見え”している。

 そこから生えている細くもなく太くもない大腿部に一箇所だけ、蚊に刺されたような赤い痕が見受けられた。

 いかに兄妹のように育ってきたとはいえ、俺とて年頃の男子であるのだ。

 目の前にある布や、その更に下に隠された部位に興味が無いわけではなかったが、こうも惜しげもなく()()()されると気持ちが萎えるということは、ここ数年で彼女から学び得たどうでもいい知見だった。

 

「り~あ~!」

 再び名前を呼びながら鼻と口をそっと塞ぐ。

 彼女を起こすのは中々にして大変なのだが、この方法であれば比較的容易に夢の世界から引き戻すことが出来る。

「っぷは!」

 形の良い唇を大きく開いた彼女は、欠乏した酸素をその大きな胸いっぱいに取り込みながらこちらを睨む。

「……もう少し優しく起こしてほしいんだけど」

「だったら呼ばれたら起きてよ。てか、そろそろ日が暮れるけど。どうする? 晩御飯もうちで食べてく?」

「今日、お外で食べるってお母さん言ってたから帰る」

 気だるそうにそう言った彼女は、大きな欠伸をしながら握りこぶしを作った両腕を天高く掲げて背伸びをする。

 体操服の『曳馬万里ひくまばんり』の印字が、縦横に大きく引き伸ばされるのを黙って見ていると、彼女は目尻に涙を溜めたまま口を開いた。

「万里いま、私のおっぱい見てなかった?」

「いや、体操服が伸びないか心配してただけ。てゆか、胸より下を気にしたら?」

 腕を上に伸ばしたまま視線を下に落とした彼女は自身のあられもない姿を確認すると、慌ててスカートの裾を両手で掴み小さな布を必死に隠す。

「……えっち」

 そのエッチな格好で寝ていたのはどこの誰だと問い詰めたかったが、耳の先まで真っ赤にしてうつむいてしまっている女性にこれ以上の追撃を加えるのは、何だか男が廃るような気がしたのでやめることにした。

 のだったが。

「……見たいなら見たいって、そう言ってくれればいいのに」

「ふ?」

「別に減るものじゃないし」

 熟したサクランボのように艶やかな唇から放たれた言葉の衝撃に腰が砕けそうになる。

「ばか」

 むくれ顔でそう言った彼女は、俺の体操服を着たままブラジャーを掴むと部屋を出ていってしまった。

「あ、送ってくよ」

「いい」


 部屋の窓から理亜を見送ると、このあと晩ご飯までの時間をどのように使うか考えることにした。

 高校一年の夏休みともなれば、やれ部活の大会だやれ短期講習だと多忙を極めて然るべきだろう。

 が、まさにその只中の俺はといえば、道端の日陰で寝そべる野良猫と同じかそれ以上に暇を持て余しているという有様だった。

 それは別に人様よりも学校の成績が良いからとか、スポーツ推薦での進学が決まっているからというわけでもなく、生来のマイペースがそうさせていただけなのだが。


 結局、『他にやることがなかったから』という消極的な理由で自室の机に向かい宿題を始めたのだったが、その途端ベッドの上に放ってあったスマートフォンがけたたましい音を上げて鼓動した。

 連絡先ごとに着信音を設定していたそれは、画面を見るまでもなく父からのものだということを知らせていた。

 椅子から立ち上がり軽く背伸びをしたあとスマホを手に取ると、受話器のマークのアイコンをフリックする。

 こうして数週間振りとなる親子の会話が開始されたのだが、その内容はといえば全く以て望ましいものではなかった。

「はい、もしもし」

『あ、万里。ちょっと急用なんだけど今、大丈夫か?』

「うん。宿題してただけだし」

『偉いな。そういう殊勝しゅしょうなところは父さんに似たんだな』

「いや、そういうのいいから。で、急用って?」

『ああ。お前、母さんの弟――叔父さんは覚えてるか?』

勾坂さぎさかのおじさん? もちろん覚えてるよ」

『その叔父さんのところの娘さんがな……。昨日、亡くなったそうなんだ』

「……え? 千尋(ちひろ)ちゃんが?」

『お前のふたつ年下だから、まだ十三か十四くらいだろうに。本当に気の毒にな……』


 父が『叔父さんのところの娘さん』などと遠回しに言ったのは、俺が千尋ちゃんのことをおぼろげにしか覚えていないと思ったのだろう。

 実際のところそれはその通りで叔父の再婚相手の連れ子だった彼女とは、従妹いとことは言えど血の繋がりはなかった。

 それに加え、母が六年前に他界してからは母方の親戚とは少し疎遠になっていたこともあり、会ったのは二度か三度でそれも幼稚園児か小学生の時分だったし、俺個人の問題として幼い頃の記憶が曖昧だということを父が知っていたからだろう。

「……そっか」

『うん。それで申し訳ないんだけど、父さんの代わりに葬儀に出てもらいたいんだ』


 父は大手自動車部品メーカーでエンジニアをしていた。

 今は南米の新拠点として建設されたばかりの工場立ち上げの為、アルゼンチンのブエノスアイレスに単身赴任している。

 男ばかりの二人暮らしだった故に、俺は中学に上がる前には一通りの家事を熟すことが出来ていた。

 そのお陰で地球の裏側まで連れて行かれることもなく、今年の春からは高校生ながらに実家で一人暮らしをしている。

 もっとも、それに伴い中学まで続けていた部活動からは引退することになった。

 理由はといえば部活動と勉強、そして家事という三足の草鞋を履き分ける自信がなかったからなのだが、結果それは正解だったように思う。

 部活をやめたことによって失ったのは運動をする機会程度だったのに対し、有り余る程の自由に使える時間を手に入れた俺は今のように『暇だから勉強をする』という、はたから見れば立派にも映るであろう自主性と計画性を手に入れていた。


 閑話休題。

 そんな理由から父が葬式に出ることなどは、到底叶わないことだった。

「じゃあ、どうすればいい?」

『父さんも電報と供物は出しておくけど、お義母(かあ)さんと義弟妹おじさん達にお悔やみを伝えておいて欲しい。日程とか諸々はメールで送るから』

「ん、わかった。……それで、千尋ちゃんはなんで亡くなったの?」

『お義母さんが電話を掛けてきてくれてな。当然っちゃ当然だけど、父さんも詳しいことは聞けなかったんだが。学校から帰っている途中に信号を無視した大型トラックに巻き込まれて、というような話だったよ』

「……そっか」

『じゃあ、すまないけど頼むよ』

「うん。上手くやっとくから心配しなくてもいいよ」

『お前のそういうしっかりしたところは父さんに――』

「なんかあったら電話するね。じゃあ」

 電話を切るとそのままベッドの上に身を投じる。


 匂坂千尋。

 正直なところ俺にとっての彼女とは、その顔すらはっきり思い出せない程に他人に近い存在だった。

 ぴっしりと切りそろえられたおかっぱ頭だったのは何となく覚えてはいるが、そもそも会話らしい会話をしたことすらなかったのではないだろうか?

「……いや」

 確か、祖父の一周忌に両親に連れられて母の田舎に訪れた小二の夏。

 たったの一度だけだったが、俺の方から彼女に声を掛けたことがあった気がする。

 酒を飲んでつまらない話をしている大人達に内緒で、二人きりでどこかに出掛けたような記憶があった。

 祖母にもらった小遣いを握りしめ、近所の駄菓子屋にでも行ったのだったか?

 それとも、お隣さんの飼っている柴犬でも撫でに行ったのか?

 勉強をしていた時よりも真剣になってしばらく考えてみたが、結局それ以上は何も思い出すことが出来なかった。

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