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スカイ・エンド  作者: 秋助
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第4章

 空中世界から天空都市に戻る方法を探し求めて、僕達の冒険は続いていた。

 夜道を歩いていたエンが突然、ギャギャイ! と悲鳴を上げると派手に転ぶ。

「どうしたんだ、エン」

 転んだ場所を見ても何もなく、単に足がもつれただけだろうと思っていたら、不自然な景色の歪みがゆっくりと動いているのを捉えると、すぐさま『カイエン』を構える。

 ジッ、と動く歪みを睨んでいると、魚眼レンズに映ったように縦長や横長で小さな僕が何人も現れる。「は?」と驚くとぐにゃぐにゃした小さな僕も同じ動きを真似た。チカ、チカ、と光の乱反射を感じてよく目を凝らして見ると、甲羅が鏡になった亀がのそのそと歩いていた。

 エンが前足で甲羅を引っ掻いていると、ひっくり返って手足をバタバタとさせる。

 ぎゃーぎゃ! と愉快そうに笑うエンに呆れながらも、未知なる体験に胸を高鳴らせていた。

 どんな生命体がいるのだろうか。どんな冒険が待ち受けているのだろうか。

 退屈だった生活に、『オリヴィエ冒険紀』のような日々が舞い込もうとは思いもしなかった。

 それもこれもエンと一緒にいるおかげだ。僕一人だった諦めていただろう。

 天空都市に帰る方法は見つかっていない。それでも、エンと過ごす日々は生きるに値する。

 最近はエンがしつこく勧めてくるから鈴海月『エスタス』の乾燥した体を食べてみることにした。おずおずと口の中に含むと、ボリ、コリ、プニ、と三つの歯応えを感じて感触は悪くなかったけど、味は一切しなかった。本当にエンはこれをおいしいと思っているのだろうか。

 とは思いつつ、妙にクセになる食感を楽しんでいると『クジラ』の鳴き声が聞こえてきた。

 浮遊大陸の真下にいるのか姿は確認できないけど、最近はこうして何度もクァン、クァン、と鳴き声を発している。僕達の身を案じてくれているのかと考えると嬉しくなった。

 夜の空中世界はとても静かだ。天空都市では真夜中に『アンビリーバーズ』がミツバチを乗り回す日があったり、『地上』では空害の鳴き声や『海』のザザン、ザザン、と流れる音が聞こえる。それはそれで心地良いものではあったけれど。

 音がないとこの広い世界で一人ぼっちになった気分になってしまう。『一人』であることには間違いないけれど今はエンがいる。環境音を除けば夜はいつもエンの寝息で騒がしかった。

 否が応にも僕は一人じゃないと思い知らせてくれる。

 夜空には今日も不動の星『アイリス』が輝いていた。

「この星は始まりの龍『イグドラシル』が生み出したとされているんだ」

 ぎゃ? とエンが首をかしげる。

 この世界の始まりにして、そしてこの世界を終わりに導いたもの。

 元は『地上』に存在していた全ての大陸は、『イグドラシル』の進攻から逃れるために空中世界、天空世界へと避難した。なんともおとぎ話のような展開だ。けれど、『地上』の化け物と遭遇して、空中世界の謎に触れて、おとぎ話だと切り捨てることはできなくなった。

 現にこうして、目の前に『ドラゴン』のエンがいる。

「なぁ、お前は一体何なんだ?」

 ぎゃぎゃい? と何度も何度も首を、いや、体ごと左右に揺らす。

 苦笑いしつつも、エンはエンだと翼を撫でた。

 エンが鼻をスンスン、と鳴らすと一本の木の前に立って僕を呼びつける。

「本当はあまり夜に食べると駄目なんだぞ」

 まぁ、今日もたくさん飛び回ってくれたからいいかと蜂刀を取り出す。一見、堅そうな木に刀を差し込むと、やわらかさを伴って簡単に切れていく。周囲の木の皮を『カイエン』で剝いていき、蜂刀でサク、サク、と小分けにすると、ほのかに甘い匂いが広がった。

「よし、食べてもいいぞ」

 あたたかくて甘い、ケーキのような熟蜜樹だ。天空都市に自生している熱蜜樹の種が空中世界にも落ちて育ったらしい。知らないだらけの冒険に、どこか懐かしさを感じて心が安らぐ。僕も口の中に含むと優しい甘さが広がった。

 空中世界での生活もだいぶ慣れてきた。この環境に慣れるのが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、知識はないよりあった方がいい。生物図鑑に補足を書き込んで、お手製の植物図鑑に食べられる植物、武器になる植物を書き込む。

 僕自身が『オリヴィエ冒険紀』のオリヴィエになったように、未開の地を切り開いていく。

 エンと一緒にどこまでも、どこまでも突き進んでいこう。

 夜の帳が段々と色濃くなっていく。このまま探索を続けるのは危険だろう。

「今日はそろそろ休むか」

 なんとなく見つけた洞窟に入り込むと、独特な冷たさを感じた。

 中は外以上に暗く、光源がないと自分がどこを向いているのかわからなくなってしまう。

「エン、火球を頼むよ」

 ぎゃーい! と小さく圧縮した火球をゆっくりと放つ。

 僕達の歩く速度に合わせて、のろのろと火球も進んでいく技を編み出したのだ。

「……ん?」

 洞窟の奥から何かが聞こえたような気がして足を止める。

 気のせいか? いや、そのとき――

 ドゥン! と衝撃波が響いては僕とエンが洞窟の外に吹き飛ばされてしまう。

 うまく受身を取れずに痛みを感じていると、ズシン、ズシン、と何かが近付いてきた。

 すぐさま態勢を整えて『カイエン』を構える。

 ……羽の生えた、ゴリラ?

 天空都市にも野生のゴリラは存在するけれど、こいつは何もかもが違う。

 まっしろな体毛、ごつごつとした筋肉はあるものの、体型は人のそれと同じ細見の体。

 サイズが違う機械のように不恰好な羽が六本。

 そして、禍々しい仮面。

 剝き出しで並んだ歯、目元に細く開けられた穴からは赤い線が装飾されている。

 右手には二角槌『ガベルクラウン』と似たハンマーに、左の拳には鋼鉄のグローブを携える。

「生物図鑑に載っていない空害だ」

 人型ネズミ『ミュスカー』と発光蝶『フィラメント』に加えて、爆弾羊『グニーシャ』と擬声オウム『エンブリオ』や、幻影生命『影狼』や鈴海月『エスタス』と、蒸気蛇『フォトンバイパー』など、未知なる存在と散々遭遇してきた。

 それでも今日まで生き延びてこられたのは生物図鑑があったからだ。

 正体不明の敵に立ち向かうだけでこんなにも体が震えるだなんて思わなかった。

 そのとき、ギャギャア! とエンが高らかに叫ぶと、僕の顔を勇敢なまなざしで見つめる。

「ありがとう。今はお前が一緒にいるもんな」

 名は体を表す。ヴァイオレットさんがよく口にしていた言葉だ。

 生態を名前に関連付けて、敵の輪郭をイメージすることによって対応方法が見えてくる。

 羽の生えたゴリラに命名するのなら、超獣『ギガントマキア』と呼ぶべきか。

 『ギガントマキア』がゴゴゥ! と吠えるのを合図に二手に別れる。

 どちらかに攻撃してきたらもう一方が助けに入る。さすがに範囲攻撃はできないだろう。

 けれど――

 大きく息を吸い込んだ『ギガントマキア』が胸を力強く叩く。

 超高密度の空気が僕達を襲った。

 『カイエン』を地面に突き刺して抵抗するけど、ズズ、ズズ、と徐々に押し戻されていく。

「本家『ドラミングバスター』だ……」

 『カイエン』のダイヤルを切り替えると龍爪全体に冷気が纏う。

「新型龍爪術その三『ニヴルヘイム』!」

 地面に向かって凍てつく風を撃ち出すと、蛇のように『ギガントマキア』へ向かっていく。

 パキ、パキキ、と凍っていく攻撃が敵の両足を捉えた。

 けれど、足裏の皮がベリベリと剥がれることなんて厭わずに氷の枷から逃れる。

 冷気が溜まり次第、無差別に、無造作に地面へ撃ち続けていく。

 そんな攻撃なんて通用しないんだよと言わんばかりに空中を飛び始めた。

「敵は僕だけじゃないぞ」

 ゴォウ? と訝しむ『ギガントマキア』をよそに、エンが地面に向けて火球を吐き出す。

 溶けた氷から水蒸気が発して翼が結露する。

 行動範囲を地上に絞れればまだ戦い方はある。ここからが正念場だ。

 地面に引きずり落とされた『ギガントマキア』が、やれやれと言わんばかりに頭を掻く。

 『ギガントマキア』が右手に携えたハンマーを地面に叩き付けると大きな地響きが起こる。

 体全体が震えて、脳が揺らされる感覚に気持ち悪くなりながらも動こうとすると、平衡感覚が鈍って後ろ向きに倒れ込む。同時に『ギガントマキア』が残った氷の道を使って僕に迫る。

 ハンマーが僕の頭めがけて振り下ろされる、瞬間、龍爪同士をぶつけて光を放つ。

 ゴギャゴガウ! と仮面を抑えながら天を仰ぐ『ギガントマキア』に向かって、もう一度『ニヴルヘイム』を撃ち込む。口から白い息と唾液を撒き散らしながら、なおもハンマーを振り下ろす手をやめない。ふと、横からエンの火球が体全体を包み込んだ。

「助かったよ、エン」

 ギャイギャイ! と高らかに鳴く声が頼もしかった。

 先に倒すべき相手を見定めるために『ギガントマキア』が僕とエンを交互に睨む。

 ドゥン、ドォン、ドゥン、ドォン、と『ギガントマキア』が胸を何度も、何度も叩く。

 ドラミングだ。威嚇や感情表現に用いられるけれど、今はどれも違う気がする。やがて体から蒸気のようなものが溢れ出して毛が逆立つ。体内の血液循環をむりやり加速させて身体強化をしているんだ。生命力を削ってでも、今、ここで僕を殺すという意思を感じた。

「まるで『影狼』と戦ったときの僕みたいだな」

 まっしろな体毛が少しずつ深紅に染まっていく。毛の一本一本に血が流れ込んだみたいだ。

 ふっ、と視界から『ギガントマキア』が消える。

 ――瞬間、僕の目の前に拳が「え?」

 顔全体をコンクリートの壁に叩き付けられたような衝撃で体が吹っ飛ぶ。

 何度も、何度も、地面を転がっては尖った石や鋭い葉に体中を切り刻まれる。

 あまりの速度に何が起きたか理解できず、ぼやけた視界が澄んでいくとエンの背後にいた。

 ふと、顔に生温かいものが流れるのを感じて右手で触っていると鼻血がべったりとくっつく。

 ギャギャイ! とエンが『ギガントマキア』を睨みつつ僕を心配してくれた。

 そうか。僕は拳に殴られたんじゃない。拳から守ろうとしたエンの体にぶつかったんだ。蒸気を発する光速の拳を受けていたら鼻血どころではなく首ごと吹っ飛んでいただろう。

「あ……ある、るるる、べ、しょ……に、かか」

 『ギガントマキア』が人間の言葉らしきものを喋る。擬声オウム『エンブリオ』と同じように人間の声を真似できるのか? ……いや、それにしては違和感があるような。

「あるべ……きき、き、ば、ばしょ……えれ、えれ」

 あるべきばしょにかえれ。在るべき場所に帰れ?

 人間は天空世界に。空害は空中世界にいるべき。ということなのだろうか。

 拳を地面に埋め込んでググッ、と大規模に地面を抉り出した。

 まるでキャッチボールをするかのようにいともたやすくエンに地面を投げる。

「――危ない!」

 麻袋の中から泡弓『バブルアロー』を取り出して撃ち出す。

 矢が当たった瞬間に地面を泡が包んだ。ふわふわと漂う地面に向けてエンが火球を吐く。

 熱風に乗った泡は『ギガントマキア』の頭上で弾けて直撃した。

 轟音を立てながら砂へと還っていく土煙の中から、ゆらゆらと影が蠢いていた。

 首をゴキ、ボキ、と鳴らしながら胸を何度か叩く。

 避けられなかった。ではなく、わざと避けなかったのだ。『ギガントマキア』の膂力なら余裕でその場を離れることができただろう。つまり回避に割く力より、地面の塊を食らった方がダメージが少ないと煽っているのだ。仮面の向こう側で僕達を嘲笑っているような気がした。

 小手先だけの攻撃ではこいつに効かない。

「一緒に戦おう、エン」

 背中に飛び乗って心を落ち着かせる。一つの体に、一つの魂になったように心を合わせる。

 連打される『ドラミングバスター』の衝撃波をかいくぐって火球を吐いた。

 『ギガントマキア』が拳の風圧だけで火球をいなしていく。

 圧倒的な身体能力、絶対的な動体視力、今までのどんな敵よりも強者だった。

 ダイヤルを捻ると龍爪に炎を纏う。一つ一つの爪の先端から銃のように炎弾を放つ。

 一発一発の火力は弱いものの、連発して撃てるから敵を翻弄できる。

 敵の退路を断っていくように炎弾と火球で追い詰めていく。

 ゴォウ! ゴォウ! と威嚇する『ギガントマキア』が両足を屈めて勢いよく跳躍した。

 翼なんかなくても飛べると言わんばかりに空を制す。

「自由に飛べないのに空へ逃げるのは悪手だろ」

 狙いを定めて『カイエン』を構える。ダイヤルを捻って龍爪を帯電状態にした。

 右手の龍爪を全て飛ばして『ギガントマキア』の体に巻き付ける。五本の龍爪を導体代わりにして、左手に溜めた電撃を、一気に撃ち放つ。

「新龍爪術その四『オクソール』!」

 貫くほどの光が僕達を覆う。焦げた臭いのあとに遅れて衝撃音が響いた。

 雷の直撃を受けながらも『ギガントマキア』は攻撃の手は緩めない。

 その拳に、突き刺すほどの殺意を感じてゾッとする。

 エンの野生的な勘と本能でとっさに避けるもその拍子に背中から落ちてしまう。

「――っ、ぐ!」

 エンから落ちた際に背中を打って呼吸が荒くなる。ひゅー、ひゅー、と息が空回るのをもどかしく感じつつ、次なる一手のために態勢を整えた。『ギガントマキア』が両手両足に力を込めるとブチ、ブチ、という音と共に血管が浮き出てきた。

 轟音が響いた瞬間、弾丸のような拳がエンの顔面に迫る。危ない、と思ったときにはエンが体を硬直させて迎撃態勢を取る。だけど、敵の様子がどこかおかしい。

 『ギガントマキア』が急激な方向転換を始めて、僕を殺すために迫った。

「……は?」

 目の前には再びエンが立ち塞がっている。けれど背中に、貫かれた拳が――

 ポタ、ポタ、と深紅の血が流れて、エンがぎゃぎゃうと弱々しく鳴いた。

 ゴッ、と舌打ちでもするかのように『ギガントマキア』が唾を吐く。

 貫いた拳を引き抜こうとしても腕は硬直したままだった。

 体の筋肉を収縮させて『ギガントマキア』の動きを制限しているのだ。

 エンが僕の顔をしっかりと見据える。

「なんで……できるわけないだろ……」

 四年にも満たない関係だ。言葉も通じない種族だ。

 けれど、エンが僕に伝えようとしていることは明確に伝わってきてしまう。

 エンの口からも血がゴポゴポと滴り落ちる。

 残りわずかな命、自分ごと攻撃して『ギガントマキア』を討て。

 そう伝えているのだ。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!」

 レイピアに続いてお前までいなくなってしまうのか。

 もう、これ以上、誰も失ってほしくないのに。僕が、弱いから――

 そのとき『ギガントマキア』がハンマーで左腕を何度も叩く。

 鈍い音と共に左腕が砕けて地面にボトリ、と落ちた。

 こいつを自由にさせてはいけない。

 エンが全身全霊の力を込めて『ギガントマキア』を拘束する。

 背中から、口から、瞳から、血を流しながら動きを抑えた。

 ギャギャア! と僕を一喝するようにエンが咆哮する。

 優しく、精悍な瞳が僕を見つめる。大丈夫、アトラならできるよと言われている気分だ。

「ありがとう、エン。君がいてくれて本当に良かった」

 エルマ、僕達の子ども、リリン、オリゼさん、ヴァイオレットさん。

 大切な人達との出会いが僕を前に進ませてくれた。

 機械型カメレオン、人型ネズミ、発光蝶、爆弾羊。

 擬声オウム、幻影生命体、鈴海月、蒸気蛇。未知なる存在との戦いが僕を強くしてくれる。

 そしてレイピアとエン。二つの命が、縁が、僕を構成する礎となった。

 今、ここに全ての感情を込める。

「新龍爪術その五『廻縁』!」

 ――それは静かな、静かな生命の終わりだった。

 龍爪が首元に突き刺さり、音もなく『ギガントマキア』の首が地面へと転がり落ちる。

 体全体が鉱石のように硬く変形していき、やがて砂となってボロボロと崩れていった。

 先ほどまでの激しい戦いが嘘のように静けさを増していく。

「大丈夫か! エン!」

 ぽつんと残った仮面を踏み割ってエンの元へと駆け寄る。

 横たわるエンの瞳から涙が溢れる。ぎゃーうと鳴く声が少しずつ弱くなっていく。

「死んじゃ駄目だ! なぁ、お前に会わせたい人がいっぱいいるんだ……」

 僕の瞳からも涙がボロボロ、ボロボロと溢れる。エンの前足が僕の頭を優しく撫でてくれた。

「なんで、なんで、なんで、なんで、なんで!」

 僕がもっと強ければ、僕にもっと勇気があれば、たくさんの『もしも』が浮かんでは消えた。

 地面に拳を何度も、何度も、何度も叩き付けると、皮膚が切れて血が滴る。

 そのとき――

 雨がぽつ、ぽつ、と降り始めた。僕達の悲しみを隠すように辺りが暗くなる。

 頭を上げると一際大きな浮遊大陸が空を支配した――天空都市だ。

「おーい! 助けてくれ! 僕はここにいるぞ!」

 必死に声を放つも雨風と雷の音に遮られて僕の声は届かない。

 それでも、声を上げる。上げる。上げた。

「僕は――」

 ふと、激しく振る両手を止めて、声を荒げることもやめる。

 気付くわけない。晴れているときに天空都市からぼんやりと見えるくらいだ。

 狭間の雲が厚い。天候が悪い。誰かが僕を見つけたとしてもここまで来る手段がない。

 いや、手段があったとしても助けてくれるかは別問題だ。誰も救えなかった。どころか二つの命を犠牲にしてしまった。もう四年が経っているのだから誰も僕を覚えてはいないだろう。

 こんな命、ここで尽きてしまった方がいいのかもしれない。

 今まで諦めては決意を固めて、決意を固めては諦めてしまう。所詮、それだけの決意なのだ。

「ぎゃ、ぎゃー……と、ら」

「エン。今、僕の名前を……」

 気のせいなのかもしれない。けれど、僕には確かにそう聞こえた。

「ぎゃーら、あい、あ、とー」

 ゆっくりと瞳を閉じるその最期の最期まで、僕はしっかりと見届けた。

「僕の方こそ、ありがとうな……」

 このままではエンが濡れてしまう。僕の力では土葬するほどの穴は掘れないし、火葬するにしても身を焼く思いはさせたくない。蓮傘を地面に敷き詰めて『カイエン』のワイヤーをエンに巻き付けて蓮傘の上に寝転がす。溜まっていた唾液が口から垂れて寝ているように感じる。

 すでに亡くなっていると、信じたくないだけだ。

 ひとまず、洞窟に避難して『これから』のことについて考えることにする。

 雨と涙が落ちて蓮傘が少しずつ膨れ上がり、やがてエンの体以上に大きくなる。泡笛を吹くと七色に光るシャボン玉がいくつも生まれては蓮傘の隙間に入り込む。蓮の先端を掴んで引っ張ると驚くほど簡単に動いた。体も、魂も、軽くなってしまった気がして恐ろしくなる。

 僕達の命は、吹けば飛んでいく綿毛のような存在だったのだ。

 洞窟の奥に進むと、『ギガントマキア』が食い尽くしたであろう空害の骨や、何かの機械の破片が散らばっていた。『カイエン』で少しだけ綺麗にしてゆっくりとエンを下ろす。

「今はここで休ませることしかできなくてごめんな。必ず、立派なお墓を建てるよ」

 両手を合わせて、祈る。

 そのときだ。ボォウ、と弱々しく鳴く声が聞こえて思わずエンの方を振り向く。そんなわけないだろと自分の馬鹿らしさに嫌気が差してくる。ふと、岩陰からこちらを覗く視線を感じて『カイエン』を構える。影が鮮明になるにつれてそのの正体がはっきりとした。

 ボォウ、ボォウ。と『ギガントマキア』の子どもと思われる個体が僕達を見て怯えている。

 『ギガントマキア』は僕達が子どもを襲うと思って攻撃を仕掛けてきたのか?

 静かに立ち上がって、命の価値を値踏みする。

「お前を殺したところでエンは戻ってこない。けれど、そういう問題じゃないんだ」

 『カイエン』を子どもに向ける。両手を開いて勢いよく叩くと龍爪に電撃が纏う。

 ボォウ! ボォウ! と鳴き叫ぶ子どもの意思なんてお構いなしに電撃の矢を、

 撃ち放った――

 と、天井からパラパラと岩の破片が落ちてくる。

「……行け!」

 怒号に怯えながらも、子どもは僕を睨みながら洞窟の外へと走り出していった。

 狙いが外れたのか、狙いを外したのか。僕でさえも判別が付かなかった。結果として、龍爪は空へと向かっていっただけだ。そこには厳格なルールも、礼節も、敬意もない。

「弱いくせに刃向かうなよ……」

 それは子どもに言った言葉なのか、僕自身に向けた言葉なのか。

 エンに背中を預けて力が抜けたようにへたり込む。両膝を立てて、両手で顔を塞いで。

 目を閉じる。このままエンと一緒に死ぬのもいいのかもしれない。

 襲ってくるから殺す。共存できないから倒す。自分が生きるために滅ぼす。ただそれだけの行動の裏側に、一体どれほどの物語があったのだろう。相手を討つ理由がそっくりそのまま自分に返ってくるなんて、どうして今まで考えたことがなかったのだろう。

 仮に大型ミツバチ達が人間に対して敵意を持っていたら。僕はレイピアを殺しただろうか。

 子どもを守るために僕達と戦った『ギガントマキア』同様に、僕の大切な人達が空害に襲われそうになったら間違いなくそいつを殺すだろう。そこに差異なんてなかった。

 倫理観が揺らいでいく。命の価値が滲んでいく。

 僕は僕の信じる『正義』に従って生命を殺す行為を善だと思い込んでいるだけだ。

「故郷になんて戻れるわけないだろ……」

 その日の夜、僕は幼子のように丸まって眠った。もう温かくない、エンの体に寄り添って。

 いつのまにか、涙が溢れていた。



 エンが卵から孵って一年近く経った日のこと、僕は『モルガナ』で生物図鑑を眺めていた。

 『ドラゴン』が実在すると知ってから改めて読み返すとまた違った楽しみがある。

 深紅の体、翠緑の瞳、白銀の爪。遥か昔――いや、もしかしたら今もこの世界のどこかに。

 ぎゃい? とエンが僕の頭に乗ってくる。最近は頭の上がお気に入りの場所らしい。

「この『ドラゴン』はお前の親なのかもなぁ」

 いつもの間の抜けた感じとは違い、そのときは鋭い視線で絵の『ドラゴン』を眺めていた。

 エンの卵は一体いつからあって、僕が見つけなかったら孵化しないままだったのか。

 親の代わり。というわけではないけれど、孵してしまった責任はある。

 フラマリアへと戻る間にエンの親を見つけることができたなら。そういう思いもあった。

 ある日、地底湖で泳ぐエンを眺めていると、子どもと遊んでいる感覚になる。

 体に害はないのかと心配しつつ、僕も泳がないのかと聞くように見てきた。

「僕は泳げないんだよ」

 というより、天空都市の住人には『泳ぐ』という行為が生活に根付いていない。

 エンが大きく息を吸い込むと濁った湖の中に潜っていく。

 何が潜んでいるのかわからないのに、そもそも視界も悪いだろうによく泳げるなと感心した。

 湖から上がったときのためにブランケットと櫛を用意する。

 生物図鑑に描かれた『ドラゴン』の姿を思い返す。人間と『ドラゴン』が勇ましく空を飛び回る。きっと最高の仲間で、最強の相棒なのだろう。けれど、実際のところはどうなのだろう。

 学校で習ったように『ドラゴン』は人類を滅ぼした敵なのだろうか。人類に仇なす空害なのだろうか。エンが大きくなったとき、人に危害を加えるようになったときは、僕の手でエンを殺さなければいけないときが来るのかもしれない。

 フラマリアとアウロラが、人類と空害が仲良く手を取り合う日は訪れるのか。

「……エン?」

 湖に潜ってから五分くらいは経っただろうか。人間と『ドラゴン』では肺の作りが違うとは思いつつも、エンが湖の中で溺れているかもしれないと思うと心臓がズクズクとしてくる。

 助けるべきか、様子を見るべきか。

 いや、まだ大丈夫だろうという慢心が『地上』や空中世界では命取りだ。

 溺れたらどうするという不安と、迷っている間にもエンが沈んでいく恐怖を覚える。

 ふっ。と、もう生まれているであろう僕達の子どもが頭をよぎった。

 生を授けた以上、最期まで守り抜くのが責任だ。覚悟を決めて、湖の中に飛び込――

 ギャギャア! と、エンが勢いよく湖の中から飛び出てきた。

「お前……無事だったのか」

 大きく膨らんだ口の中が何やらモゴモゴと蠢いている。

 ギャ! と吐き出すと、人の顔の二倍はありそうな藍色のカエルが飛び出てきた。藍色のカエルは口の中から少しだけ小さい赤いカエルを吐き出し、赤いカエルは口の中から少しだけ小さい青いカエルを吐き出す。そうして、緑、黄、橙、紫と七匹のカエルが集まる。

 エンが陽気に前足を振り回すと、虹色ガエルが指揮棒代わりにゲコ、ゲコ、と歌い出す。

 もしも『ドラゴン』が人類を滅ぼす存在だとしたら。

 先ほどまでの疑問が馬鹿みたいに思えてきて、僕もけらけらと歌い始めた。

 エンとなら、きっと、僕はどこまでも進んでいける。



 ふっ、と何か冷たいものが頭に落ちて目を開ける。天井を確認すると水滴がポタ、ポタ、と漏れていた。雨の勢いが増したのか、洞窟の外から轟音が聞こえる。まるで滝壷の中にでもいるみたいだ。水滴が至る箇所から漏れてきてエンの体を濡らす。

 水滴から守るものはないかとリュックの中を探ると、何かが袋の中から落ちる。

「これは……」

 エルマからもらった超形状記憶糸『アリアドネ』のお守りだ。

 どんなに切っても、どんなに形を変えても、最終的には元通りになる性質を持っている。

 もしかしたら、と頭の中を色んなことが駆け巡る。

 以前『クジラ』の背中から滑空したこと、レース中のリリンによる羽捌きのこと。

 そして、エルマが『アリアドネ』で編んでくれた防寒具。

 エンの翼とこの糸があればマント代わりのものが作れる。

 『クジラ』の噴気孔に乗って滑空できれば天空都市に辿り着けるかもしれない。

 いくつもの事象が僕を生きる方向へと導いていく。

「ご都合主義だな」

 ふふっ、と笑みが零れるのに自然と涙も溢れてくる。

 ご都合主義だって何だって、帰還の光がわずかにでもあるのなら縋らないと失礼だ。

 僕は必ずフラマリアへ戻ってエルマと子どもに再会する。

 それが散ってしまった者達への厳格なルールであり、礼節であり、敬意だ。

「エン、ごめんよ」

 レイピアの針から削り出した蜂刀でエンの翼を切り取る。

 その一羽一羽に僕達との思い出が詰まっているような気がした。

 エンの大好物だった鈴海月『エスタス』の亡骸を潤葉の包みから取り出す。熟成した鈴海月からは、ねばねばとした接着剤代わりの粘液で羽と羽を組み合わせる。

 組み合わせた部分に粘液を垂らしてしっかりと押さえつけるとあっというまに固定した。

「昔から物づくりは苦手だったんだよな」

 料理は物づくりだからとエルマにまかせっきりにしていたら怒られたことを思い出す。それは決して「私も楽がしたい」という意味ではなく、「たまにはアトラの手料理が食べたいんだからね」といった理由である。どこまでも、どこまでも優しいエルマの性格だった。

 お守りと防寒具から『アリアドネ』の糸を引っ張り出すと、どこに収まっていたのか不思議に思うくらいに糸が収縮していて、するする、するすると際限なく糸が伸びた。

 翼のマントに網目状にして貼り付ける。グッ、グッ、と引っ張ると確かなしなりが感じられた。翼の四隅にもピン、と糸を固定して両手両足が引っかかるようにする。

 おそらくチャンスは一度きりしかないだろう。

 しっかりとマントを作らないと翼がボロボロになってまた『地上』へ落ちてしまう。

 何度も、何度も翼の調整を重ねる。

 浮遊物質を採掘する際にオリゼさんが慎重に辺りを確認するあの雰囲気と似ていた。

 お手製の滑空マントを背中に携えて、 安らかな表情を浮かべるエンに向けて敬礼する。

「今までありがとう、エン。行ってきます」

 洞窟の外に出ると雷雨は勢いを失ったものの、それでも素晴らしい旅路とは言い難い。

 途中まで蓮傘を差していたけど、どうせこれから濡れに濡れるんだ。

 フラマリアに戻れば雨に打たれる機会なんてなくなるだろう。ここで思う存分雨を浴びよう。

 空中都市の崖側まで移動する。

 待っていましたよ、と言わんばかりに『クジラ』がクァン、クァン、と鳴いた。

 思えば『クジラ』にもたくさん助けられてきた。

 最初こそは狭間の雲を食べて、空害を天空世界に招く存在だと考えていたけれど逆なのかもしれない。むしろ天空領域を侵さんとする空害達を飲み込んできた可能性の方が高い。

 本番までの肩慣らしに滑空マントを使って『クジラ』の背中に飛び乗る。

 ふわっ、と重力を失ったようにゆっくりと体が沈んでいくと何の問題もなく着地できた。

 不思議な気分だ。エンが亡くなって、天空都市が彼方に流されて、絶望の底にいたはずなのに、ふと気付けばなんとか故郷に戻ろうと躍起になっている。そしてチャンスがすぐそこまで迫っている。夢物語のようだけど、このまま夢で終わらせてたまるか。

「君に会えて良かったよ。『ティアマト』」

 初めて会ったときは名前を知らなかったけど、こうして名前を呼べるのを嬉しく思う。

 噴気孔の近くによって『そのとき』が来るのを待つ。

 排水溝に水が流れるようなゴポ、ゴポ、という音が聞こえて、やがて勢いよく噴射を始める。

 なぜだろう。恵みの雨のように感じた。

「……よし」

 少し離れて、助走をつけながら滑空マントを広げる。貫くほどの衝撃を体全体に受けて急上昇を始めた。途中。滑空マントからミシッ、と鈍い音が鳴ったことに驚きながらも信じるしかなかった。ふと、水飛沫の中にきらきらと光るものを捉える。

 ボフン、と柔らかな感触を受けたあとに視界が灰色に染まった。流し込まれるように口の中に入った『何か』にどこか懐かしい甘さを覚える。これは……狭間の雲に含まれる水だ。

 浮上する勢いは増していき、雷雲が発生しているのか肌にひりひりとした痛みを覚える。

 雨や強風で前後左右が不明瞭になっていく中、謎の光を頼りに遥か天空を目指す。

 轟々と吹く風に滑空マントを剥がされそうになるのを必死で押さえ込む。マントの強度自体は大丈夫そうだけど僕自身が風圧に耐えられそうにない。けれど、終わるわけにはいかない。

 僕一人の命じゃないんだ。数多くの命が、犠牲が、願いが僕をここまで繋いでくれた。

「行くぞ、エン!」

 滑空マントを力強く握ると、風の抵抗を受けてマントからギャギャイ! と音が鳴った。

 狭間の雲を突き抜けて、天空世界の空が――広がった。

 先ほどまでの暗雲が嘘のように、どこまでも、どこまでも安寧の夜が繋がっている。

 四年前、『地上』に落ちてからずっと、今まで恋焦がれた故郷の景色だ。

 狭間の雲の中で見つけた光が僕へ寄り添うように集まってくる。

 発光蝶『フィラメント』だ。

「お前、天空世界まで飛んで来れたのか?」

 僕の言葉を無視して『フィラメント』の群れは一つの方向へと突き進む。四年の歳月は空いてしまったけど僕だって空の住人だ。一度風に乗ってしまえば空を制することなんてたやすい。

 ひらひらと進む『フィラメント』の先を確認すると、遠くに淡く光るものを見つける。

 夜日葵の花畑だ。

 高度は段々と落ちていくものの、この距離と速度なら充分に辿り着けるだろう。

 心地良い風を全身に浴びながら滑空マントの向きや力加減を調整していく。

 ギャイ、ギャイとエンに似た軋む音が僕の心を安心させてくれた。大丈夫、一人じゃない。

「エンがいてくれたから、僕は――」

 そのとき、狭間の雲から雷が空に向かってつんざく。

 まるで僕を天空世界に帰さないと言わんばかりに雲は様相を変えていく。

 今まで多くの空害や化け物と戦ってきたけど、空の住人にとっての天敵は『空』そのものだ。

 僕達の味方であり、敵であり、仲間であり、天災でもある。

 驟雨、雷、強風、雹。今、ここで、空の自然災害を制さなければ帰還は果たせない。

「これが最後の戦いだ」

 雲の流れが不規則な箇所を見つけて、そこを目指して滑空する。

 渦のようにうねる風に乗っかって更なる急上昇を始めた。

 風向き、雲の色、いくつかの事象をもって雷が突き上げる位置を予測する。

 降り上げる雨が滑空マントの内側に溜まって重さを増していく。

 空気抵抗が減っていき少しずつ高度が下がる。

 体を捻って空を仰ぐと内側に溜まった雨が体全体を濡らして思えず声が漏れた。

 雨が空っぽになった段階でもう一度体を捻って態勢を整える。

 リリンのアクロバティック走行だ。

 一難去ったのもつかの間、雹が合わさり、氷柱となって僕の体と滑空マントを襲う。

 両手両足で操縦しているため、避けるのに精一杯で氷柱をどうにかすることができない。

 ふと、僕の周囲を『フィラメント』が囲い、襲い来る氷柱を光で砕いた。

「お前にもずっと助けられっぱなしだな」

 青白くチカ、チカ、と明滅を繰り返す。返事のつもりだろうか。

 空を自由自在に泳ぐつもりで前へ前へと突き進む。

 やがて、エルマと一緒に見た『イエローバレッド』の観戦地が顔を覗かせる。

 泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ。

 空が、光が、今が、あと数メートル先に、僕の待ち望んでいた未来が待っている。

 そのとき――

 雲が怒っているかのような轟音を響かせた。

 刹那、光の槍をよけるのに精一杯で思わずマントを手放してしまった。

 落ちる。

 再び『地上』へと落ちていく恐怖が体と心を支配した。

 こわい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい!

 『カイエン』を発射させて地面に食い込ませる。

 ワイヤーがせり上がってなんとか崖際に掴まったものの、地面がぬかるんで力が入らない。

「あ、っぐ!」

 肩が外れそうになるのを堪えて必死にしがみつく。

 龍爪の一本一本にヒビが入っていき、その内の何本かは折れて『地上』へと落ちていく。

 もう駄目だ。地面から両手が離れる、瞬間――

「アトラ!」

 聞き間違えるはずがない。見間違うはずがない。この声は、エルマだ。

 滲む視界に差し伸ばされた右手が映る。

「エルマ……どうして」

 いや、今そんなことはどうでも良かった。雨合羽を着たエルマが僕の右手を力強く握る。

 生きたいと強く願え。

 いくつもの命が、いくつもの出会いが僕をここまで繋いでくれた。

 ここで、終わって、たまるか!

「アトラ、もう少しだからね。がんばろうね」

「でも、このままじゃ――」

 ズッ、とエルマの体が空に放り出される。

「あ」

 雨が、風が、雷が襲う。自然の前に人間はなんとも無力だった。

 ふと、全ての音が飲み込まれる。

 ザザン、ザザンと篠突く雨もその場に留まって見えた。

 シン、と――

 色が消えていく。音が失われていく。声が隠れていく。

 …………………………あ、

 遠く、遠く、遠くの空から風の塊が迫る。風車の羽根や熟蜜樹が巻き込まれて僕を襲う。

 ふわり。と、重力が開放されていく感覚に陥る。

 雷が光る。

 人間の世界から天空の世界へと反転した。

 スローモーション。

 浮かぶような速度で、空中遊泳をしているようだった。

 空から落ちていく様を、ただ、ただ、他人事のように眺めている。

「今までありがとう。愛してるよ、エルマ」

 優しく抱きしめる。こんなにも小柄だったのかと今さら驚く。

「あなたと出会えて嬉しかったわ。アトラ」

 エルマも力強く抱きしめる。親指を唇に触れて、エルマの顔に唇を近付けた。

 最期の、最期の、最期にエルマと再会できたんだ。僕にはもう、悔いなんて残っていない。

 そのとき――

「アトラぁ! 会いたかったよぉ!」

「は?」

 リリンが橙色のミツバチと共に、僕とエルマをカゴに乗せた。

 そのままの勢いで空中に放り出された僕達は濡れた地面に背中を打ちつける。

「『イエローバレッド』のときと立場が逆になっちゃったね」

 痛みにもだえていると、寝転がったままエルマがほほえむ。

「もう! 急にフィーネがエルマの家に向かったと思ったら、ここまで連れてくるんだもん」

 リリンが今にも泣き出しそうな表情で駆け寄ってくる。フィーネと呼ばれるミツバチがギチ、ギチと鳴き声をあげる。頭を忙しなく動かすその姿にはどこか見覚えがあった。

「……レイ、ピア?」

「お、アトラもミツバチ達の顔がわかるようになったんだねぇ」

 感慨深そうにリリンが「うんうん」と首を縦に振った。

「レイピアの子どものフィーネよ。かわいいでしょ」

「うん。そうだね」

 それは、掛け値なしの本音だった。

「アトラとレイピアはずっと一緒にいたから、きっとお母さんの匂いを感じ取ったんだね」

 レイピアのことを思って、同時にどうしようもないほどの罪悪感が僕を襲った。

「リリン、ごめん。レイピアは――」

 口元に人差し指を当ててくる。わかってるから、その先は言わなくてもいいと伏し目がちな表情が暗に物語っていた。いつも明るいリリンにこんな顔をさせてしまったことを心苦しく思う。けれど、すぐに八重歯を見せながら笑って僕の背中を思いきり叩く。

「たまにはミツバチ達のお世話、手伝ってね」

「……うん」

 フィーネの頭を優しく撫でるとギチ、ギチチ、と嬉しそうに鳴いた。

 雲の隙間から晴れ間が覗く。始まりの夜明けだった。

「あたしなんかのことより、ほら!」

 リリンが手のひらを向ける。そこには気のせいか顔の火照っているエルマが立つ。

「アトラ、さっき私に何しようとしたの?」

「いや、その、あれは……」

 参ったな、と頭を掻いていると、エルマが僕に近寄ってきて頬にキスをした。

 何も関係のないリリンが「まっ!」と両手で顔を覆って、指の間からにやにや見てくる。

「おかえり、アトラ」

 不純物のない彼女のほほえみが、今ではなんだか妙に気恥ずかしかった。

「ただいま、エルマ」

 空っぽになった『アリアドネ』のお守りをぎゅっと握り締める。

 切っても、変わっても、離れても。どこかで繋がっていると願って、ようやく辿り着く。

 再会の光が、僕達を祝福していた。



 感動の再会も束の間、僕はヴァイオレットさんに同行して天空管理局『リィンカーネーション』を目指すことになった。初めて三角獣ガブリエルに乗るけど背中は氷のように冷たい。

「話したいこともいっぱいあるだろうに、本当にすまない」

「……いえ」

 ヴァイオレットさんいわく、『地上』の成分や空気が天空都市にどういった影響を与えるかわからない以上、空害研究組織『ラビリンス』で検査を続けなければならない。しかし空王セントエルモの計らいによって報告を済ませたあと、一日だけ家に戻れるようになったのだ。

 豪華絢爛な正門を通り抜けて初めて『リィンカーネーション』謁見の間に訪れる。

 子どものころ、一般開放されている部屋は見学したことがあるけれど、普段は立ち入ることが許されない場所に足を踏み入れるのはとても緊張する。悪いことはしていないはずなのに戦々恐々と体が萎縮してしまう。

「よくフラマリアに戻ってきたな、アトラよ」

 玉座に座る空王に深々と頭を下げる。

「ヴァイオレットから少しだけ話は聞いているが、帰郷を果たした経緯を教えてくれんかの」

「はい」

 静かに目を閉じる。約四年だ。約四年のことなのに思い返してみれば一瞬に感じる。

 数分、声を発しないまま時間だけが流れた。

 誰も急かすようなことはしなく、ただ、僕の口が開くのを静かに待ってくれた。

 自分の気持ちに整理をつけて、これまでのことを語り始める。

 雷に打たれて『地上』に落ちたこと。レイピアと防寒具が僕の命を守ってくれたこと。

 防龍シェルター『モルガナ』を見つけて活動拠点にしたこと。

 多くの化け物達と戦いを重ねたこと。赤い鉄塔で天象儀を見つけたこと。

 三年後、エンの卵を見つけて一緒に冒険したこと。空中世界で『クジラ』に出会ったこと。

 『ギガントマキア』との交戦でエンが命を失ったこと。

 エンの翼と『アリアドネ』の糸で滑空マントを作ったこと。噴気孔から舞い上がったこと。

 再び落ちそうになったところを、エルマとリリンに助けられたこと。

 いくつもの犠牲の上に、僕が帰還を果たせたこと。拙い言葉で、綻びながらも話を続けた。

「其方は素晴らしい。『地上』に落ちても決して諦めず、一人で生き抜いたのだ」

「いえ、僕一人だけではありません」

 空王が首をかしげる。

「エルマの存在があったからこそ故郷へ辿り着けました。紆余曲折はあったけれど、最後まで諦めずに帰還を果たせました。誰かのことを思うだけで人間は空を制することができます。そこに、フラマリアとアウロラの人種は関係ない。と、思います」

 ヴァイオレットさんが静かにほほえむ。

「それに、エンとレイピアという勇敢な仲間のおかげで僕は命を繋ぐことができました」

 種族も、人種も、性別も、年齢も関係ない。それが本当の『自由』なのではないだろうか。

「そうか。ならば私達も手を取り合わねばならんの。なぁ、ガンクウ」

 空王の向ける視線に目を合わせると、少し離れたところにアウロラの長老の姿が見えた。

 この二人に、フラマリアとアウロラに何があったのかはわからない。

 けれど、長老が小さな声で「そうだな」と呟く。

 すぐに歩み寄るのは難しいのかもしれない。けれど、必ずどこかに光はあると信じて。

「時間を奪って申し訳ない。さぁ、今日は家でゆっくりしなさい」

「ありがとうございます」

 長老から「娘によろしく言っといてくれ」と聞こえた気がした。

「裏口から家まで送ろう」

 ヴァイオレットさんが僕を小さく手招きする。

「え、正面口からの方が近いんじゃないんですか?」

 僕の言葉にため息を吐いて、頭を掻きながら「参ったな」と呟く。

「外に出れば嫌でもわかるさ」

 不思議に思いながらも空王と長老に深く頭を下げてその場をあとにした。

 冷たく薄暗い通路を抜けて裏口の戸を開けると、三角獣ガブリエルが凛々しく待機していた。

「今回はアトラも乗せてやってくれ」

 主人の頼みにガブリエルが応える。流し目と細長いまつげに気品を感じる。

 どうぞお乗りくださいと言われたような気がしたので背中にまたがる。ひんやりとした感触が今はとても安らぐ。一気にスピードを上げて正面の門に回り込むと人だかりができていた。

「……なんですか、これ?」

「英雄の噂を聞きつけて一目見ようと集まってきたんだ。全く、面倒事を……」

 確かに、正面から出て行ったらもみくちゃにされていただろう。

 風を切りながら思いを馳せる。英雄。僕は英雄なのだろうか。

 僕一人だったら故郷に戻れなかった。命の犠牲の上に僕の日常が成り立っている。

「僕は……」

 重苦しい雰囲気に気付いたのかヴァイオレットさんがほほえむ。

「君のおかげで天空世界の謎が飛躍的に解明されるだろう。空害対策も、浮遊物質の減少も、これから大きな進歩が期待される。それは紛れもなく生き延びた君の功績だ。誇っていい」

「……はい」

 天空都市の住人達の歓声を背に受ける。この功績が嘘にならないように生きよう。

「それに、君にはこれから大仕事をしてもらうかもしれないからね」

「え?」

 どういう意味なのかうまく咀嚼できないまま、視界には見慣れた景色が広がってくる。

 何度も、何度も、何度も、恋焦がれた僕達の家だ。

「さぁ、着いたよ」

 ガブリエルから降りた瞬間に、ふわっと体が軽くなったように感じる。

「ありがとうございます。本当に色々と、ありがとうございます」

「お礼を言われるほど高尚なことをしたつもりはないよ」

 ふっ、と頬が緩む。

「空に愛される日々があらんことを」

 ヴァイオレットさんの敬礼に続いて、僕も答礼で返す。

 三角獣ガブリエルに跨って遠ざかっていく彼女の姿を見つめて再び敬礼をした。

 振り返って、扉をノックしようとした瞬間にその必要がないことに気付く。

 長い冒険生活の間に、どこか自分の居場所はなくなったと勘違いしてしまったみたいだ。

 おずおずと扉を開けると内装は四年前と何一つ変わっていなかった。

「おかえり、アトラ」

 最愛の妻が優しい笑顔で僕を迎えてくれた。

 そして、エルマの右足にしがみつきながら隠れている小さな少女。

 白銀の髪、淡雪のような白い肌、澄んだ碧の瞳。エルマをそのまま小さくしたようだった。

「ほら、アルマもパパに挨拶しなさい」

 アルマと呼ばれる少女、いや、僕の子どもはおずおずとするばかりだった。

 頭を撫でようとすると奥の部屋へと駆け出して引っ込んでしまう。

「恥ずかしがってるだけよ、きっと」

「そりゃそうだよなぁ」

 四年間も行方不明だった男を急に父親だと思えなんて、子どもじゃなくても戸惑ってしまう。

 座って、と手振りで勧められて一息つく。テーブルの上にはミツバチのきぐるみを纏ったエルマと僕が並んだ写真の他に、アルマとリリンがミツバチの体を洗っている写真や、エルマに抱かれて浮遊物質採掘場の見学をしているアルマの写真が並べられていた。

「リリンもオリゼさんもよくアルマの面倒を見てくれるの」

 ハニーミルクの入ったマグカップを用意してくれたエルマもテーブルに座る。

 甘くて、どこかほろ苦さもある落ち着いた味わいが心を優しくほぐす。

「私達の名前を取ってアルマにしたの。素敵な名前でしょ」

 エルマが左手の薬指から指輪を外す。以前。僕がオリゼさんから渡すように頼まれた、浮遊物質を加工したものだ。その碧さはアルマの瞳そのものである。魂の色、確かそう言っていた。

「どこかの国の言葉でね、アルマには『魂』という意味があるらしいの」

「そう、なんだ」

 運命か偶然か、僕達の願い、想い。そして、祈り。

 そういった不確かなものが、確かな魂となって娘に受け継がれる。

「どんなに遠く離れてもね、アルマと一緒なら魂でアトラと繋がっていると思えるのよ」

 実のところ、僕は少しだけ不安だったのだ。

 離れ離れになっていた四年の間に、僕に対するエルマの気持ちがどこか薄れてしまっているのではないかと。けれど、蓋を開けてみれば僕がエルマの気持ちを信じ切れなかっただけだ。

 エルマは、あの日と変わらず僕の側に寄り添ってくれたのに。

「僕だって、もう二度と君達から離れないよ」

 そのとき――

 ガチャン、と奥の部屋が開くとアルマが一枚の紙を持って飛び出してきた。

「これ、ぱぱにあげる」

 ふいに『ぱぱ』と呼ばれて僕とエルマで顔を見合わせた。

 どこかもどかしく、むずがゆい響きに戸惑いながらも、娘から初めて『ぱぱ』と呼ばれて嬉しさと実感が込み上げてくる。そうだ。僕は今、父親になったんだ。

 アルマから渡された紙には丸い体に丸い手足がついた人、らしきものが描かれていた。

「ぱぱをかいてたんだよ」

 無垢に笑うその顔がとても繊細で、どこまでも鮮明だった。

「側にいてやれなくてごめんな。これからはいっぱい、いっぱい遊ぼう」

 両手で抱き上げると軽いのに確かな重さを感じる。

 命の重さだ。

 初めてエンを持ち上げた日のことを思い出して、ボロボロと自然に涙がこぼれる。

「ぱぱ、よしよし、ぱぱ、げんきげんき」

 僕の頭を小さな手で撫でるアルマを強く抱きしめて、故郷に帰ってきたのだと深く実感した。



 天空都市フラマリアに帰還してから、エルマとアルマに再会してから一年が経った。

 僕と空王セントエルモ様との対談はいつのまにか記事にされて、『フーディエ』が発行する『日蜂ウェルビー』によって各家庭に広く知れ渡っていた。

 しばらくは僕の話を聞こうと任務中も休暇中も人だかりが耐えなかったけど、日常生活に支障が出ないようにリリンやヴァイオレットさんが追い払ってくれた。けれど僕の記事を書いたのもリリンなので何とも言えない気分になる。

 故郷に戻ってから世界は大きく変わろうとしていた。空害が生まれた経緯、天空世界および空中世界の成り立ち、浮遊物質に代わるエネルギー源の確保。空中世界と『地上』の調査をするため、ヴァイオレットさん率いる対空害組織『ナイトホークス』は新たな部隊を編成した。

 未開探索組織『イーグルセイバーズ』

 そのメンバーに何と無法者集団『アンビリーバーズ』のロクショウが選ばれた。

 『イエローバレッド』のレースを見ていたヴァイオレットさんは、やり方はどうであれ、彼の走りや傲慢さは未開の地を突き進むには必要な力だと声をかけたらしい。空中世界を生き抜いた僕にも声がかかったけれど、今は冒険よりも妻と子どもと一緒に暮らすことの方が楽しい。

 ヴァイオレットさんは少し残念そうにしていたけど僕の生き方を尊重してくれた。

 アウロラの住人からも積極的にメンバーを募り、任務だけではなく交流関係も賑やかになった気がする。互いの知識を共有して、互いの力を合わせて僕達の生きる空を守っていく。

 また今年も『イエローバレッド』の季節が訪れる。

 僕がいなくなった年に開催されたレースではリリンの殿堂入りが果たされることはなかった。

 『フーディエ』の新人飼育員スピカと、ミツバチのデネボラが彗星の如く優勝をかっさらったのだ。リリンは地団駄を踏みながら悔しがっていたけど、すぐに『あたしも新世代に負けるわけにはいかないから、これからは挑戦者として走り続けるよ』と元気を取り戻した。

 リリンが初参加した『イエローバレッド』を見てスピカは憧れたそうだ。

 それからリリンとスピカは勝った負けたを繰り返して実力は拮抗している。

 もうじき夕方から『イエローバレッド』が開催される。天空都市は今日も至って平穏だ。

 都市中がお祭り騒ぎで賑わっているのを嬉しく思う。レースの時間が近づいて人混みが溢れる前に僕とエルマ、そして五歳になったアルマを連れてある場所に向かう。

 夜日葵の花畑に建てられたエンとレイピアのお墓だ。

「ぱぱ、これだれのおはかー?」

 アルマが僕の小指と薬指を優しく掴みながら首をかしげる。

「エンとレイピア、僕の大切な仲間達のお墓だよ」

 種族も性別も年齢も超えた、一緒にいたいと心の底から思える仲間達だ。

 両手を合わせて、祈る。

 アルマも僕の真似をして両手を合わせた。

「えんさん、れいぴあさん、ぱぱをまもってくれてありがと」

 ただ、ただ、静かで、たおやかな時間が流れていく。

 壮絶だった四年間が嘘のような平穏を取り戻す。

「さぁ、お祭りに行こう。エルマ、アルマ」

「ええ、そうね」

 エンとレイピアのお墓に背を向けて前に進む。

 そのとき、どこからかエンとレイピアの鳴き声が聞こえたような気がした。

 驚いて振り向くと、そこにはいくつもの光が溢れている。

 漁火光柱だ。

 空害を集めるための光が、上空にある氷の結晶に反射して発生する光の柱。

 まるで、魂が浄化していくかのように神秘的な光を纏っている。

 エンの、レイピアの、僕を守って散った生命達の魂が空へと還っていく。

「ありがとう」

 今までで一番綺麗な、そして、どこまでも澄んでいる空が広がっていた。

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