第3章
赤い鉄塔の最上階で不動の星『アイリス』を見つけてから三年が経った。
新天地の踏破、新しい武器の開発、化け物の生態記録。謎だらけの『地上』にはまだまだやることが多かった。今だって防龍シェルター『モルガナ』から遠く離れた地に、簡易キャンプ場を設けては活動拠点を増やす。僕だって否が応なしに成長していくのだ。
例えば――
と、暗闇の影に混じって紺碧の目が揺れる。影の中から黒い手が這い出しては正体を現す。
僕を散々苦しめた『影狼』だ。両手でも数えられないほどに群れている。
「大丈夫。僕はもう、……一人じゃない」
新型龍爪『カイエン』を両手にはめ込んで迎え撃つ。
影から影へ、トプン、トプン、と消えては距離を詰めていく『影狼』を睨む。
全ての影が僕を侵食する、その瞬間、龍爪を地面の奥深くに突き刺した。
「新龍爪術その一『トリアイナ』」
空気の振動を送り込んで地響きを起こすと影がビチビチと地面から飛び出す。
そんな風に余裕ぶってるから足下を掬われるんだ。
「――お待たせ、エン!」
僕が空を見上げながら高らかに叫ぶと巨大な影が辺りを覆う。
『影狼』の領域が広まることなんて関係ない。むしろ、これは『影狼』に対するハンデだ。
空には『ドラゴン』のエンが両翼を広げてギャギャイ! と鳴いた。
真っ白な体。黄金の爪と角。鎧を纏ったかのような翠緑色の鱗。鋭い深紅の瞳が光る。
ガバァと大きな口を開けると火球が膨れ上がっていく。
致死量の光だ。影同士で意識を共有しているのか、それとも本能的に危険を察したのか『影狼』がただの影に戻って蜘蛛の子を散らすように逃げていく。鉄塔のときとは形勢逆転だ。
「撃て!」
了解の代わりにエンがギャイ! と鳴いたあと、火球を地面に向かって放つ。
光が『影狼』の全てを焼き尽くしていく。あんなにも苦労した戦いが今では一瞬だった。
「だから言ったろ。僕はもう一人じゃないって」
静かに翼を羽ばたかせてエンが降りてくる。
「ありがとう、エン」
頭を撫でると喉元からギュルルと音が鳴った。野生的な鋭い目付きをしていた瞳が、今ではうるうると嬉しそうに揺れている。喜ぶ姿がレイピアと重なって少しだけ感傷に浸る。いや、レイピアの献身があったからこそ僕は生きている。それを手放しで喜ぶべきなのだろう。
船輪のような茜色の尾を弱々しく振ると、瞳を閉じてその場で寝そべってしまった。
「疲れたよな。ちょっと休むか」
『地上』を探索している内に見つけた『ドラゴン』の卵に最初は驚きを隠せなかった。
僕の十倍以上の大きさはあるエンでもまだ生後三年だ。『ドラゴン』の成長速度は計り知れない。それでもまだまだ子どもであることには変わりなかった。僕を乗せて飛ぶ練習を何度もしているけれど、一気に天空都市まで辿り着くのは難しいだろう。
生え変わったエンの爪から生成した『カイエン』を取り外して麻袋にしまった。
気持ち良さそうな寝息を立てるエンをよそに、木々を集めて熱茸菌の混じったスプレーを吹きかける。ポン、ポポンと熱茸が生えると木々を燃やして焚き火を作った。麻袋から『海』で釣った『サカナ』の肉を取り出して炙る。塩気が染み込んだ肉からは油が滴り落ちた。
これまでのことを思い返す。エンの卵を見つけてから孵化するまでは『モルガナ』から外に出ることはなかった。それが『ドラゴン』の卵ではない可能性もあったからだ。外で産まれて、もし仮に化け物を対処できずに他の敵も集まってしまう危険があった。
図書館の本を何十冊、何百冊と読んでも『ドラゴン』や卵に関する文献は残っていなかった。それでも『フィラメント』達は武器庫に保管した卵に寄り添って温め続けた。来る日も、来る日も、そうして数週間が経ったころ、武器庫で物音がして目覚める。
おそるおそる扉を開けると、そこには卵の殻を被った小さな『ドラゴン』が僕を見ていた。
最初こそは威嚇していたけど『グニーシャ』の肉を与えると、おずおずと匂いを嗅いだあと確かめるように一口食べる。まだ生え揃ってない歯が指に食い込んで痛みが走る。肉の旨味に気付いたのか次第にバクバクと食べ始めた。
言葉の意味はわからないけど、ぎゃい! と嬉しそうに鳴き声を上げる。
優しく抱きしめると、げっぷの代わりに小さな火球を吐いた。
僕とエルマを、天空世界と『地上』を繋ぐ縁。そんな願いを込めてエンと名付けた。
驚くべき速度で育っていくエンに乗って『地上』を飛び回る。
『モルガナ』に入れなくなってしまったエンと一緒に、僕もほとんど『モルガナ』に戻ることはなくなった。武器の整備や知識を蓄えるために訪れることはあるけれど、各地に拠点を構えながら『地上』を探索する時間の方が長くなった。
一刻も早く天空都市に戻るために、何でもいいから情報がほしかったのだ。
その日の夜を『地上』で最後の日にしようと決めたのはなんとなくだった。
化け物退治と冒険の日々はそれなりに刺激があって、いつ死ぬかわからないという恐怖がありながらも天空都市では経験のできないことばかりで胸が高鳴る。不謹慎にもこのサバイバル生活にどこか充足感を覚えている自分がいる。けれど、それじゃ駄目なんだと。
僕には待っている人達がいる。大切な人達がいる。早く会いたい気持ちが強まっていったのはきっと、エンという温かな生命に触れ合っているからだろう。命の尊さを改めて感じた。まだ見ぬ我が子を力強く抱きしめたいという願いが日に日に増していく。
いつのまにか、僕は一人でいることにとてつもない恐怖を覚えるようになったのだ。
エンを外に待たせて『モルガナ』で最後の準備を済ませる。食料と飲み水と、武器といくつかの本を麻袋に詰めて最初にくぐった扉の前に背中を預ける。思えば『地上』に落ちてすぐここを見つけられなかったら、僕は今ごろどうなっていたのだろう。
武器は? 知識は? 拠点は? 考えるだけでぞっとした。そして、発光蝶との出会い。
今はどこかで寝ているのだろうか。でも逆にその方がいいだろう。お別れの前に少しでも接してしまえば、僕の心が簡単に揺らぐことなんて目に見えていた。あんなに助けてもらったのに黙って消える僕を、どうか、許さないでほしい。
ステンドグラスの光が僕を責め立てているように思えてそそくさと階段を上る。
エンが「もういいの?」と言わんばかりに首を傾げた。
「お待たせ、もう大丈夫だよ」
僕が乗りやすいようにエンが体を屈めてくれる。羽から背中に飛び乗ってベルトを締める。
まずは赤い鉄塔を目指して夜空を泳ぐ。『海』からザザン、ザザン、と波の音が聞こえた。
何時間もかかって制覇した鉄塔をあっという間に最上階まで辿り着く。
割れた窓ガラスから入って、黒い球体に火を灯してもらうと天井に星座を描き出す。
不動の星『アイリス』を見つけてその場所をしっかりと頭に刻み込む。
「行こう、エン」
今、ここから新しい地へと向かう。
翼を数度羽ばたかせて、やがてゆっくりと赤い鉄塔から飛び立った。
地面がぼぅっと光ったのを視界の隅に捉えて目を向けると、そこには無数の『フィラメント』が七色の光を発していた。何度も、何度も明滅を繰り返す。
夜の隙間を優しく埋めてくれるような輝きだった。
「ありがとう! 本当に、本当に助かったよ。ありがとうな!」
大きく手を振るとエンが一際高くギャイ! と咆哮した。
『地上』が遠くなるにつれて故郷が近付いていく。不動の星『アイリス』を目指して天を衝く。
ぐんぐん、ぐんぐんと空を上っていく。風になって、夜そのものになって、どこまでも、どこまでも進める気になった。少しずつ空気が冷たく、薄まっていくのを感じる。
「空害に出遭わなければいいんだけど」
普段『ティアーズ』の採水任務では大型ミツバチに乗ってもほとんどスピードを出さない。安心安全、丁寧、大量に水を確保する必要があるからだ。一回だけ思い出作りのためにミツバチレースに参加したことがあるけれど、体が吹き飛びそうになる感覚が肌に合わなかった。
それでも、エンの背中に乗って空を横断するのは気持ちがいい。
ふと、クァン、クァン、という音と共に体がびりびりと痛みのない刺激を受けた。
「攻撃されてる?」
空害に出遭わなければいいだなんて思うから現実になってしまうんだ。
けれど、警戒心の強いエンはのほほんと夜空を眺めていた。
敵ではないけれど、未知の生命体がどこかに潜んでいるのかもしれない。
雲の隙間に、夜の黒とは違ったまた別の暗さが覗く。
パチ、パチ、と青白く明滅を繰り返す様子はどこか『フィラメント』を思い起こさせる。
ギョロリと深淵が僕達を睨む……瞳?
エンと目配せをして空に火球を吐いてもらう。花火のように夜空を照らした。
「『クジラ』だ……」
伝承の中でしか知らなかった生物。『ドラゴン』が実在する以上、『クジラ』も実在することは不思議ではないけれど、さすがに初めての存在に驚く。充分に大きいエンを遥かに超える、五十メートルほどはある大きさの生物が空を泳いでいた。
「『海』の生き物じゃないのか?」
ぎゃうぅ! ぎゃぎゃ! とエンの羽ばたきが激しくなる。
翼をよく見ると至る場所が水滴で濡れていた。『地上』の暑さと空の寒さによって結露ができてしまったのだろう。それに加えて体躯の割にまだ翼もしっかりと成長し切っていない。エルマに会いたい気持ちばかりが専行してしまい、エンの体力を考えてやれなかった。
……いや、体力が万全であってもこれ以上高くは飛べないのだろう。
それは飛ぶのが必要以上に辛そうなエンを見ていれば明白だった。
「ごめん、一旦『地上』まで――」
ガガウ! と僕の言葉を遮ってまだ大丈夫だとアピールする。それでも、天空都市から『海』まで落ちてしまったレイピアの姿が頭をよぎった。ここで無茶をさせてエンまで不幸な目に合わせてしまうのがこわかった。ずっと誰かと繋がっていたかった。
僕はもう大切な存在を、エンを、二度と失いたくない。
そのとき、クァン、クァンという音がもう一度頭の中に響く。
『クジラ』の声だ。
少しずつ僕達に寄ってきて真下を泳いだ。背中に乗れ、ということなのだろうか。
「エン、少し休ませてもらおう」
限界を感じているのか、ぎゃうと小さく鳴いたあとに『クジラ』の背に降り立つ。
肌は岩場のようにゴツゴツとしていた。何かが噴射している音がして目を見やると、頭頂部には火山の噴気孔のような穴が空いており、そこに太い杭が突き刺さっていた。皮膚と杭の隙間からは血が滲んでいて、どうやら天空世界の廃棄物が刺さってしまったらしい。
「ちょっと痛いかもしれないけど、ごめんな」
僕が先端を、エンが口で杭の中心を咥え込むと力強く引き抜いた。噴気孔が開くと勢いよく水のシャワーを降らしたあとに噴気孔が閉じる。まるで呼吸をしているように感じた。
降り注ぐ水はとても甘く、天空世界の水と何ら遜色はなかった。雲の中の水分を栄養として取り込んでいるのだろうか。ふと、水と一緒に巨大な何かが噴気孔から飛び出した。空からガチャ、ガチャ、と機械音が鳴り響くのを合図に『カイエン』を構える。……と、
「機械型カメレオンだ」
すでに磁力を失っており生命活動は終わっているようだった。
「お、っわ!」
少しずつ視界と体が斜めになっていく。『クジラ』の体が――いや、口を大きく開けていた。
ふと、天空都市のことを思い出す。分厚いはずの狭間の雲を空害が通り抜けてしまうのは、この『クジラ』が雲を食べているからではないのか。そして、消化されずに噴気孔から飛び出た空害が天空世界に侵入しているのではないのか。
天空世界で起きている異変。その原因がこの『クジラ』なんだとしたら、長い目で見ればいずれ倒すべき障害になりえるのかもしれない。
「……かといってもなぁ」
この『クジラ』自体に僕を助ける意志はなく、単なる気まぐれな行動なのだとしても、こうして休ませてもらっているのは紛れもない事実だ。今ここで命を摘むことがためらわれる。無害そうだしそもそも倒せる算段がない。ここは素直に無抵抗を貫くことにする。
「もうちょっと高く飛べるか?」
お願いすると『クジラ』は合図代わりに噴気孔から勢いよく水を噴射した。
型の古い風車の羽根、『ミツバチレース』で使われる大型モニター、たぶん空害だったものの死骸。水に混じって様々なものが降り注いできた。
高度が上がるにつれて防寒具を着ているのに肌寒さを感じる。
寒さに震えているとエンが両翼でそっと包んでくれた。
「ありがとう。助かるよ」
上昇していく感覚に揺られながら考える。
今まで『クジラ』を天空世界で見たことがない。文献が残っているのだから遥か昔の誰かは見たことがあるのだとは思うけれど、少なくとも今、この世界に生きている人達から『クジラ』を見たという話は聞いたことがなかった。それにはいくつか理由があるだろう。
一つ、そもそも『クジラ』が天空世界に訪れるのを好まない。
二つ、仮に『クジラ』が訪れていたとしても、この広大な天空世界では見つからなかった。
三つ、これが本命であり、そしてもっとも不安を覚えている説だ。
クァン、クァン、クァン、と鳴き声が一際大きくなる。
「悪い予感ほど当たるのは何でなんだろうな」
ある程度の高度まで辿り着くと『クジラ』の動きが止まった。
そう。訪れないのではなく、見つからなかったのではなく、ただ、とても単純な話である。
天空世界の領域まで『辿り着けなかった』が正しいんだ。
けれど、『地上』に落ちて数日は生き残れるとさえ思っていなかった。
今はどうだ。命があり、武器があり、知識があり、食料があり、そして相棒がいる。
ここまで辿り着いたこと自体が奇跡と呼んでいいだろう。
「ありがとう。えぇと、名前はわからないけどここまで運んでくれて」
少し下方にいくつかの浮遊大陸が見受けられる。ここから滑空して天空都市を探した方が早いだろう。仮に見つからなかったとしても下方の浮遊大陸で一休みや情報収集ができる。
「エン、体はもう大丈夫か?」
僕の期待に答えるかのように夜空へ向かって火球を吐いた。
夜日葵の花畑でエルマと見た花火にも似ていて懐かしさが込み上げてくる。
背中に乗ってエンの翼が何度か羽ばたくと、心地良い風を体全体に感じた。
『クジラ』の背中からふわっと浮き上がり夜空へと飛び立つと、次第に高度が落ちていく。
やはりこれ以上エンは高く飛べないのだろう。
右手を頭の横に添えて敬礼を向ける。クァン、クァン、と心が休まる周波数が染み込んだ。
「……さて」
望遠ゴーグルを装着して夜の帳を眺める。
天空都市の夜とも『地上』の夜とも違った静謐な時間が訪れた。
夜は空害も寝ているのかエンが警戒する気配もない。
安心できる分、僕は天空都市探しに専念できる。専念できる分、少しだけ不安な面もあった。
僕が『地上』に落ちてからここまで来るのに四年近くが経っている。
『アイリス』を見つけたところで、星と対象物を結ぶ『何か』を見つけないと故郷には辿り着けない。本当は、鉄塔で星を見つけてからとっくに気付いていた。考えないようにしていた。
フラマリアへと帰ることは不可能なんじゃないかって。
「……あれ?」
遥か下にぼぅっと光るものを捉える。目を向けると、何度も、何度も明滅を繰り返して。
僕を見送ってくれた『フィラメント』だろうか。
ふと、一つの仮説が生まれる。仮説、というよりも僕の希望的観測に過ぎないけど。
浮遊大陸が風の影響で動くように、もしかしたら『地上』も一緒に動いているのではないだろうか。その速度は一定でないにしろ、そこまで大きな変動はないのかもしれない。
現にこうして『フィラメント』の位置を同間隔で捉えている。
僕がフラマリアから落ちた場所からそう遠く離れていないとすると――
遠くの空に黄金の光を見つける。あれは、夜日葵の花畑だ。夜にしか咲かない向日葵は日中に光をいっぱい溜め込み、夜の間に溜め込んだ光を空へと拡散させる。忘れるわけがない。見落とすわけがない。あの場所は、僕がエルマに告白した思い出の地だ。
ここからそんなに遠く離れているわけではないから、もう少しエンが成長したら故郷に戻れるかもしれない。成す術がなかった『地上』とは違い、目的地の輪郭を捉えることができた。
よくよく目を凝らして夜空を確認すると、一際大きい浮遊大陸を見つける。
「エン、空中世界で準備を整えよう」
ぎゃーぎゃい! と了解代わりに翼を大きく広げる。
ゆっくりと滑空しながら空中世界の土地に降り立つと、ふわりと浮いた気分になる。
天空都市より浮遊物質の量が多いのだろうか。まだ見ぬ空中世界の冒険に浮き足立つ部分もあったけど、気を引き締めて探索しなければならない。足を進めると滝の音が流れ込む。
未開の地で飲み水を確保するのはとても重要である。行く手を拒む巨大な葉や枝を『カイエン』で切り刻みながら音の出所を探す。どこからか風鈴の音も聞こえてきた。
開けた場所に出ると滝が目の前に現れた。……けれど、
「なんだこりゃ」
確かに水の流れる音はするのに滝からは水が流れていなかった。
水飛沫が肌に触れる感覚やひんやりとした温度は確かに感じるけど、どこをどう見てもただの岩場だった。滝壷だと思われる部分もただ地面が抉れただけの場所になっている。
しかしそんなことはお構いなしにエンが滝壷に飛び込むと、からっぽの空間からドプン、と水の弾ける音が響く。傍から見ると空中でぷかぷか浮いている不思議な光景だった。
ぎゃぎゃい! と僕を誘う声に急かされて滝壷のヘりに腰かける。
おそるおそる右手を伸ばしてみると、何もないはずの空間に水の抵抗と冷たさを感じた。
透明な水? いや、元から水は透明なんだけど。これではただの無だ。
なんとなく両手で見えない水を掬って口に含む。こくん、と喉元を通すと甘さが広がった。
「おいしい」
思わず漏れた混じり気のない本音だ。顔を滝壷に突っ込みながら直接水を飲む。天空世界の水とはまた違ったハチミツのような甘さだった。清涼感と喉の潤いで心が満たされていく。鋼石で作った水筒に透明な水を汲む。飲み水を確保できるだけで心の持ちようが変わってくる。
そのとき、ちりん、ちりりん、とまたしても風鈴の音が鳴り響く。
ぎゃ、ぎゃい! とエンが情けない鳴き声を上げながら頭を押さえる。
「どうしたの? わっ!」
ふいにねばねばとした雨水のようなものが頭に落ちた。
空に向かってグルルルと唸るエンに不安を覚えながらも、おそるおそる顔を上げる。
ふわふわとして、触手が幾重にも絡み合うゼリー状の生き物。鈴海月『エスタス』だ。
「いきなり空中世界の洗礼か」
鈴の音で人間の精神を極度のリラックス状態に陥れる。抵抗する気も失せて、ただただ見せかけの幸せに溺れさせてしまう。とにかく『エステス』の鈴の音を聞き続けるのは危険だ。
物理攻撃ではあの触手に武器を絡め取られてしまうかもしれないだろう。
麻袋から波太鼓『ドラミングバスター』を取り出す。
爆弾羊『グニーシャ』の毛皮を被せたバチで太鼓を叩くと爆風と音がこだまする。
だけどいくら衝撃波を与えても、ぶよぶよとした体に波紋が生じるだけでのんきに空を泳いでいた。
「音を吸収してるんだ……」
ボコ、ボコ、とまるで音を咀嚼しているかのように体がうねり始める。
チリン、チリリン、チリンチリンチリンチリンチリン、
意識がぐにゃあとまどろむ。
得体のしれない恐怖を感じた僕は目を開き、音の発生方向と反対に勢いよく駆け出すけれど、すぐさま『エスタス』は僕を追いかけてくる。いつのまにか夜日葵の花畑が広がっていた。暗がりで足元が見えず、両足がもつれて前のめりに倒れ込む。
思い切り顎を打ちつけて網膜に閃光が飛び散った。ミラーボールのようにチカチカと視界を横切る。朦朧とする意識の中、足下を見ると黄緑色に発光した触手が纏わりついていた。
逃げれば逃げるほど、触手に感情を絡め取られてしまう。海月の触手というより、蜘蛛の巣に近い雰囲気だと感じた。目を凝らして見ると、黄緑色の発光体は地面の至る箇所に点在していた。ズッ、ズッ、と音を立てて『エスタス』の触手が揺らめく。
無数のそれらが僕の体に纏わりつき、感情がグニャグニャになる。
やがて深海に沈むように喜怒哀楽が遠のいていく。そして、切ない気持ちが心を侵食する。
これは感傷だ。感傷そのものが具現化した姿なんだ。
感傷は少しずつ人の形を成していき、やがてエルマの姿へと変容する。外見だけは瓜二つの趣味の悪い偽者であった。しかしそれだけで、僕の感情を揺さぶるには充分過ぎる。
「ねぇ、もう故郷に戻るのなんてやめようよ」
感傷は彼女の声を真似た。水の中から声を聞くようにぼんやりと響いて僕を惑わす。
ふざけるな、お前はエルマじゃない。ただの感傷だ。取り込まれてたまるか。
そのとき、エンのつんざく鳴き声が響いた。はっとして目を覚ますと汗だくになっていた。
ザラザラとした舌で顔を舐められて意識を取り戻していく。
「ごめん。気を抜いてたよ」
ぶよぶよとした『エスタス』を睨む。
僕はもう一人じゃない。頼れる相棒がいる。一人じゃできないことを、今なら。
「行くぞ、エン」
エンに向けて波太鼓を撃つと、衝撃波をバグバグ食べて代わりに火球を吐き出す。
音と熱風の合わせ技『ドラミングフレア』だ。
鈴海月から水分が抜け落ち、鈴もぐじゅぐじゅに溶けていく。
僕達だからここまで来れた。そのことをしっかりと胸に刻み込む。
「今日はここで寝泊りするか」
ぶよぶよになった体をエンがおいしそうに食べ始める。僕に向かって「アトラも食べる?」という顔で見つめてきたけど、さすがに半透明の焦げ臭いゼリーを食べたいとは思えない。食事を終えたエンがクァ~と欠伸をすると、やがてその場で眠りこけた。
僕も釣られてエンのお腹に寄りかかるとトクン、トクン、と心臓の音が響く。熱のある体温がじんわりと背中に広がって心地良かった。確かな生命がここにあることを確かめる。
夜空を眺めると不動の星『アイリス』が燦然と輝いていた。
あの星をエルマも見ているのだろうか。そう信じて、願って、そっと目を閉じた。
エルマと出会ったその日の空はどこまでも澄んでいた。
『イエローバレッド』の開催と同時にリリンが頭一つ抜き出る。
質量の重い水が噴き上げる水山。ミツバチの平衡感覚を狂わせる森。暴風の吹き荒れる空域などを駆け抜けて優勝を目指す。けれど、一位が優勝できるほど単純なものではない。
各地点に設けられたポイントリングをくぐったり、大型モニターと連動している監視ミツバチに向かってアクロバティックな走行を披露したり、レース場に隠れた黄金ミツバチを見つけてゴールまで運ぶことでポイントが加算される。純粋なスピード勝負では駄目なのだ。
愛嬌と速さを兼ね備えているリリンは、ウィンディと共にモニターの前でぐるぐる回ったり、ほぼ全てのポイントリングをくぐったりと順調に得点を稼いでいた。あとは黄金ミツバチさえ捕獲できれば優勝は確実なものとなるだろう。もうすぐ僕達の目の前をリリンが走る。
「初優勝だ」
思わずまだ先の未来を口にする。隣に座るエルマがふふっとほほえむ。
「……あ。見て、アトラ」
ふわっ。と、僕達の背後から黄金ミツバチがすり抜ける。
エルマがその美しさに惹かれるように浮遊大陸の崖ギリギリまで体を乗り出す。
右手が、黄金ミツバチを、
「触っちゃ駄目だ!」
僕の言葉にビクっと肩を震わせて態勢を崩す。と、足がもつれてエルマが島の外に――
まずい、落ちる。
「捕まって!」
とっさに右手を差し伸べてエルマの右手を繋ぐ。
まるで重力を制したかのように体重を感じさせなかった。震える手をしっかりと握る。
「ぎ、ぐぐ、ううううう!」
いくら体重が軽いとはいえ、人を引っ張り上げられるほどの体力は僕になかった。
けれど、エルマの不安そうな顔を見つめる。
この手を、絶対に離してはいけない。
「アトラ! このままだと二人とも落ちちゃう。手を離して!」
「いや、っ、だ!」
ずる、ずる、と僕の体が奈落へと引っ張られる。
もう駄目だ。そう諦めかけた、瞬間――
僕達の横を勢いよく、天を衝くほどの速度でリリンとウィンディが駆け抜ける。
ウィンディの風圧でエルマの体がふわっ、と浮いて地面に戻っていく。
その手にはしっかりと黄金ミツバチを確保していた。
目が合う。合った気がした。
「ごめん。大丈夫だった?」
「ええ。……その、なんで黄金ミツバチに触ったらいけないの?」
リリンが息を整えて再び座り直す。
「走者やミツバチに触った瞬間、手助けしたとみなされた失格になってしまうんだ」
まぁ、エルマをこんな危険に晒すくらいなら失格の方が良かったのかもしれないけれど。
「アトラは幼なじみさんのことを想ってくれたのね」
「え?」
エルマは自分が危険に晒されたことよりも、リリンが失格にならずに済んだことを喜ばしいと思ってくれた。どこまでも優しい人なんだと、そして、僕の不用意な行動がどこまで浅はかだったのかと胸が痛くなる。エルマの方がよほど本質をわかっているじゃないか。
そのとき、背後からロクショウとハイドラが急激な追い上げを見せる。ポイントリングをくぐることなんて無視して、大型モニターにアピールすることなんてお構いなしに。ただ、リリンの持つ黄金ミツバチを奪いに行くという目的のためだけにスピードを速めた。
「あれって反則なんじゃないの?」
「いや、ゴールしたときに捕獲していれば相手から奪ってもいいんだ」
けれど、天空都市全域を巻き込んだ大イベントでそんな無粋なことをする人はいない。これまでのミツバチレースを勝ち抜いてきた『イエローバレッド』出場者なら尚更だ。イベントを盛り上げるために取った取られたを演出する走者なら今までもいる。
でも、ロクショウの目はただ、黄金ミツバチを奪って優勝するという敵意しかなかった。
今まで本気を出していなかったのか、他を寄せ付けない気迫とスピードで一気にリリンを追い抜いていく。だけどロクショウは今までポイントリングを数回しかくぐっていないし、アピールに至っては一回もしていない。まさに唯我独尊を体現した走りだった。
悔しいけど実力は本物である。
かといってこのままゴールしても結局二位に留まるだけなのに。
最下位になるよりは、という気持ちなのだろうか……いや、ロクショウのことはよくわからないけれど、きっと生半可な気持ちや中途半端な気持ちでは臨んでいない。やり方はどうであれ、参加するなら優勝を狙うはずだ。
ハイドラがスピードを緩めた。後方にいたリリンがぶつかりそうになって急旋回すると態勢を崩す。わざとだ。そうやって何度も、何度もスピードを緩めてはリリンの進行妨害を図る。参加者への攻撃ではないからルールには則っている。けれど、
「さすがに危険行為だろ……」
ぶつかるかぶつからないかギリギリのところまでハイドラが近付く。冷静さに欠けているのか、意地になっているのかリリンも違うルートを走ろうとしない。ふいにハイドラが急上昇を始めてリリンの前から姿を消す。諦めたのか? ……いや、
「なんだか嫌な予感がするわ」
僕もそうだ。そしてそれはきっと、予感ではない。
『あぁーっと! リリン選手、危ない!』
司会者の声に驚き上空に目を向けると、ウィンディがアーチ状になった樹木に思いきりぶつかった。その衝撃でリリンの手から黄金ミツバチが驚いて飛び出してしまう。
大型モニターには、いつも明るいリリンからは想像もできないほど鬼気迫る表情が浮かぶ。
声までは拾えなかったけれど「もう許さないんだから」と口元が動いた気がした。
リリンが安全ベルトを外してウィンディの針にしがみつく。先行するロクショウに向かって針を飛ばすと勢いよくリリンが駆け抜けていく。他走者への攻撃にはならないように目標を少しずらしている。針の勢いが弱まったころにリリンが飛んで黄金ミツバチを奪った。
「何やってんだあいつ!」
再び黄金ミツバチを確保したのはいいものの、落下していくリリンの姿に誰もが息をのんだ。
不安だらけな会場をよそに、ウィンディが主の元へと馳せ参ず。
リリンが見事に一回転しながらウィンディの背中に着地して両手を掲げる。
高らかな「ゴー!」という合図に会場中が地響きを起こすくらいに沸き上がった。
残りは障害物も何もない直線のコースのみだ。純粋な速さが求められる。
背後に構えるロクショウの目はまだ死んでいない。
バリ、バリ、と鳴き声を上げて黒い稲妻のようにハイドラが猛追を仕掛ける。
確実と思われていたはずの距離が少しずつ狭まってきた。
それだけ、ロクショウと黒いミツバチには地力があったということだ。
「駆け抜けろ、リリン」
僕が走っているわけではないのに額から汗が流れる。
胸が高鳴る。呼吸が――
そのとき、エルマが僕の右手をそっと掴んだ。
「大丈夫よ。彼女を信じましょう」
優しくほほえむ。吹けば飛んでいく綿毛のような白銀の髪から光の粒子を振り撒く。
撒いた、気がする。
なぜだか心臓が弾むのをごまかすように意味もない咳をした。
ロクショウの猛追でほぼ横並びになるものの、 リリンの表情に笑顔が戻った。
監視ミツバチを見つけると、息を吸い込んで「三、二、一……」とカウントダウンを始める。
観客も、司会者も、僕もエルマも、リリンの意図に気付いて大きく息を吸い込む。
「――バレッド!」
希望に重なった声が空に響いては歓声に変わる。
ゴールテープを切った瞬間、盛大な爆発音と共に紙吹雪や色とりどりな風船が空を埋めた。
「初参加で初優勝だ! やった! すごいぞリリン!」
思わずエルマを力強く抱きしめる。ひとしきり喜んだあとに事の重大さに気付く。
「……あ」
慌てて離れるとエルマの白い肌が嘘のように紅く染まっていた。
ミツバチのぬいぐるみを着ているとはいえ、女性の体に抱きついてしまったのは事実だ。
「ごめん……」
「ううん。別にいい、けど……」
互いの間に気まずい雰囲気が流れた。次の言葉が喉元でさまよっては空気になって消える。
僕のせいだ。僕から何か話をしなければ――
『ちょっと、リリン選手! 表彰式ですよー! 優勝ですよー!』
戸惑う司会者。ざわめく会場。僕達も何がなんだかで頭が混乱していた。
大型モニターを確認するとどこかに向かうリリンの後ろ姿が映る。
せっかくの初優勝を蹴ってまで何をしようというのか。
「恥ずかしがり屋さんなの?」
「いや、むしろ目立ちたがり屋だと思うんだけどな」
エルマと顔を合わせているとミツバチの羽音が聞こえてきた。
「ストーップ! ストーップ!」とリリンの慌てる声が響く。
「リリン! ……どうして?」
僕の疑問なんてお構いなしにリリンがエルマに抱き付く。
「あなた、アウロラの人だよね? せっかくフラマリアを訪れてくれたのに『イエローバレッド』つまらなかった? あたし達の走り、楽しくなかった? えっと、ごめんね!」
リリンが心配そうにエルマの手を握る。
「え、え、どういうこと、ですか?」
「だって、さっき大陸から飛び降りようとしてたでしょ? 何か悩んでたのかなぁって」
的外れな心配に僕とエルマは顔を合わせてぽかんと口を開けた。
次第に事のおかしさが溢れ出して僕達は笑い合った。どうして笑っているのか理解できないリリンが慌てふためいて余計に面白かったのを今でも覚えている。
エルマの着ているミツバチ着ぐるみの触覚が情けなく風に揺れていた。
結局、危険行為を犯したということでリリンもロクショウも失格になってしまったけれど。
その日から、僕とエルマの付き合いが始まった。
三年前、エンと出会った日から僕の人生が大きく変わった。
『モルガナ』で生まれたエンは数日間ずっと眠っていた。いびきや鼻ちょうちんを膨らませている様子から眠っているのはわかるけれど、さすがに眠りから二日が経った辺りから少し心配になってきた。けれど、そんな僕の不安なんて露知らず急に目覚める。
図書館を駆け回るエンの小さな翼が本棚に当たって本や骨董品がバラバラと落ちていく。
まだ翼の制御ができていないのか、思いきり天象儀へとぶつかって「ぎゃい!」と悲鳴を上げる。目を回しながら頭をぐわんぐわんと震わすエンがハッと意識を取り戻す。
鼻をスンスンとさせながら、麻袋を小さな鉤爪で引っ掻く。
ポトン、と落ちた麻袋をまさぐって中から龍爪『ヘカトス』を取り出した。
じゃれるように叩いたり、ガシ、ガシ、と少しだけ尖った牙で噛んでいる。お腹でも空いているのだろうか。次第には『フィラメント』を追いかけては食べようとするのを静止する。
「ちょっと待ってろ。今ご飯を作ってやるからな」
僕の言葉に目を輝かせたエンが頭の上に乗ってくる。いくら子どもとはいえ『ドラゴン』の体重はとても重く首が折れそうになった。調理室の扉を開けて鉄から削り出したフライパンを取り出す。かまどに熱茸菌で火をつける前にエンが火球を吐いて嬉しそうに鳴く。
「ありがとう、エン」
ポップキノコーンを蜂刀で細かく切って炒める。
キノコの芯にまで熱が通っていくと、ポン、ポポン、ポンと膨らんでは弾けるのが楽しい。フライパンから勢いよく飛び出たキノコをエンが器用に口の中に入れると、あまりの熱さにギャギャン! と吐き出す。
これよりも何十倍も熱いだろう火球を吐いているのにと苦笑する。虹鷹の卵を三個コツン、と割ってフライパンに落とすと白身と黄身が広がって虹を生み出す。メタモルパウダーを降りかけると、甘味、酸味、塩味、苦味、旨味と食べた者の舌に合う味を引き立たせた。
二つの皿にポップキノコーンを取り分けて机の上に並べる。ナイフとフォークを用意したけどエンはそのままガブガブと平らげた。ナイフで虹鷹の卵の目玉焼きを切ればとろり、とおいしそうな黄身が溢れてくる。キノコに絡めながら口に含むと塩味が心地良かった。
エンが成長する度に体を洗うのが難しくなった。『地上』の湧き水はフラマリアほどの透明さはないものの、ひんやりとした冷たさが朝の目覚めを清々しいものにしてくれる。デッキブラシでエンの肌を優しくこすると「くぁくわ~」と情けない声を出すのが面白い。
面積が広いだけに体の隅々まで綺麗にするのには労力がいる。特に翼の構造は入り組んでいて汚れが取りにくい。こんなにザラザラとしたブラシで肌が痛まないのか心配になるけれど、たまにここが痒いと言わんばかりに前足で場所を指してくる。
体を大きく震わすと水しぶきが洪水のように降り注ぐ。髪と顔を洗うだけで良かったのに僕をたやすく抱えては湧き水の中に落とす。『泳ぐ』ことが日常生活に溶け込んでいないから水を掻くことは苦手だ。慌てて水面に顔を出して「何すんだ!」と叱る。
ぎゃぎゃーう! と笑うエンを見ていると呆れながらも僕もほほえんでしまう。
子どもを持つというのはこういう感覚なのだろうか。
ある日、エンが人型ネズミ『ミュスカー』の死骸を口に咥えて僕に差し出したことがある。最初こそはぞっとしたものの、レイピアもよくカモメバチを咥えてきたことを思い出した。リリンから親愛の証だと聞いたことがある。親愛とはいえ、だよなぁ。
けれど、僕があんなにも苦労して倒した『ミュスカー』を、自分の力だけで退治してしまうエンの力強さに驚く。あいかわらず情けない鳴き声だけど僕の何倍も全長がある。立派な爪と牙がある。火球を吐ける。僕なんかよりも充分に頼りがいのある存在になっていた。
火球をいなす訓練や、空を高く飛ぶ練習を繰り返していく内に、僕達の関係はより固いものになっていった。初めは故郷に戻りたい一心で育てたエンだったけど、今では唯一無二のパートナーになっている。けれど、僕と一緒にいる意味もないエンにとって、僕は――
顔にべたべたとした感触を受けて起きると、目の前にエンの顔が広がった。
「おはよう、エン」
ぎゃぎゃう、と優しく頬ずりしてくると皮膚のザラつきが少し痛かった。
ゆっくり起き上がると体の節々から重さを感じた。急激な気圧の差に慣れていないのだろう。
透明な水で顔を洗って頭の不明瞭さを取り払う。
エンに乗って崖上まで上ると夜にはわからなかった空中世界の様相が見えてくる。
島の周囲をコンクリートに囲まれ、方々に森が生い茂り一つの山の形をしていた。コンクリートの周囲には機能しなくなった桟橋や船着き場がいくつか見受けられる。圧倒的で、悲しげで、重苦しく、荘厳な印象も受けた。昔、空中世界の土地は『地上』にあったのだろうか。
木々が生い茂っているだけかと思ったけれど、建造物が至る場所に密集している。遥か遠くにはこの崖よりもさらに高い土地が広がっていた。高度的にエンでも超えられるかどうか。
「少し周囲を探索してみるか」
水遊びに興じるエンを呼んで森の中に進む。こうして見ると天空都市とほとんど変わりのないように思える。懐かしい気持ちもあり、切ない気持ちにもなった。
崩壊した建物をいくつか眺めているとあることに気付く。
鉄筋コンクリートで固められた壁の至る箇所に貝殻が埋め込まれていた。
『海』に面していたころの名残なのかもしれない。
ふと、視界の隅に人影が見えた気がして、視線を向けると思わず息を飲む。
『モルガナ』と同じ女性の形を模した仏像が鎮座していたのだ。何百年と時間を刻んできたはずなのに劣化が見られず、まるで生身の女性を仏像にしたような感じですらある。
地面に青白く光るものを見つけたて確かめると何かの獣の人形であった。
淡く、生地から発光している光景は不思議な感覚である。空を見上げると、木々や建物に吊された人形のどれもが青白く光っていた。まるで『フィラメント』の一種のようだ。
急勾配に設置された長い階段を上りきり、振り返ると地面が遥か遠くに見えた。
建物の屋根や壁が倒壊して、剝き出しとなった地面には手術台があり、正面には重たい鉄格子がはめ込まれている。……病院だ。魂が存在するのなら、ここは魂で溢れているのだろう。
病院の裏手に回ると、赤茶色のレンガで建設された火葬炉が見えた。排煙口付近には夜日葵が咲いている。ふと、空を見上げると他の場所にも増して人形が吊されていた。それだけ供養されるべき魂がここにはあるのだ。
陽の光で細まった目をしっかり開くと、目の前には七階建ての巨大な建造物がそびえ立つ。
学校のようなものなのかもしれない。枯れ木や木造の破片が散らばってすぐには気づかなかったけれど、どうやら僕達が立っている場所は校庭のようだ。
地面にはブランコの鎖留めが落ちていて、遠くにはタイルで作られた観覧車の絵が見えた。
やがて正面玄関だと思われる入り口を見つけた。窓ガラスが全て割れているためエンでも入れるけれど、建物の中はそこまで広い構造ではなかったのでここで待ってもらうことにする。
「すぐ戻ってくるからな」
ぎゃい! と行儀よく鳴くエンとハイタッチを済ませて建物の中に入る。
放送室らしき部屋には錆びたスピーカーやマイク。実験室には中身のない試薬瓶や朽ちた人体模型が転がり異様さを発していた。陽が差し込む教室の一室に入ると、意外にも机が整えられている。割れた窓からは柔らかな風が吹いてきて快適さを感じることができた。
遠くにはタイルで作られた観覧車の絵を夢中で眺めるエンを見つけた。
「まるで赤ちゃんみたいだな」
ふと思う。卵から孵ったということはどこかに親がいるのだろうか。
教室を出てまた別の部屋を眺めていると、講堂なのだろうか。色あせたピアノが中央にぽつんと存在する。ステンドグラスに色付けされた七色の光が輝いて、その光景がとても幻想的なものに思えた。『モルガナ』や赤い鉄塔のステンドグラスを思い出す。
ピアノの前のイスに座る。軋む音がして足が今にも折れてしまいそうだった。ピアノを見ると鍵盤のいくつかが取れていて、試しに弾いてみてもやっぱり音は鳴らなかった。
そういえばエルマはピアノを弾くのが上手い。アウロラに住んでいたころは週に一回、聖堂でピアノ弾きを頼まれていたそうだ。夜日葵の花畑に置かれている半透明のピアノを弾きながら、僕達は不動の星『アイリス』をいつまでも眺めていた。
あの日、エルマが弾いていた曲の名前は一体何だったのだろうか。
コツン、コツン、と窓を叩く音に気付いて外を見ると、いつのまにかエンが部屋の様子を覗いていた。無理すれば入れないこともないけど、ガラス片で体を傷付けてしまうだろう。
役立つ情報は特に見当たらないので、エンの頭に飛び乗って外に出る。
「一昔前のフラマリアみたいだ」
僕が生きるよりずっと前の、文献に残る天空都市の歴史のように。
エンに乗りながら今度は反対方向に向かう。透明な滝壷を軸にしてまずは四方を確認する。
滝壷の崖上から続く河の流れに沿いながら進んでいると洞穴を見つけた。
降り立って確かめてみると、一直線にレールが敷かれていた。
「……線、路?」
荷物や人を運ぶ『列車』と呼ばれる、乗り物を走行させるための道と『オリヴィエ冒険紀』で描写されていた。架空の乗り物ではなく遥か昔には実際に走っていたのだろうか。
ふと、思う。小説の話だと思っていた『オリヴィエ冒険紀』は、現実を綴った史実なのだろうか。作者のタウィルは性別、年齢、出身、全てが不明の覆面作家だった。
「まぁ、あれだけ刊行してればどこかしらは似るよな」
トンネルの向こうの深淵を眺める。
この先を辿れば崖の上に行けるかもしれない。そこに何が待ち受けているかはわからないけれど、とにかく探索してみないことには前に進めない。線路に沿って歩みを強めた。
等間隔に並んだ橙色のランプが明滅する。
どこまでも、どこまでも続いていく暗闇に心を飲まれそうになった。
けれど、横を歩くエンが光源のための火球を吐きながら、嬉しそうにぎゃい! ぎゃい! と鳴いている。僕と似て冒険好きにでもなってしまったのだろうか。
ふと、背中を冷ややかな空気が撫でた。
「……風?」
こんな換気口も吹き抜けもない場所に風が流れ込んでくるなんて。
そのとき、車輪の回る音が響き渡る。
突き刺すほどの一条の光を纏って、『そいつ』は僕達の目の前に現れた。
浮遊物質を燃やして燃焼ガスを作る火室。火室で発生した熱エネルギーから高温高圧の蒸気を作るボイラー。蒸気の方向や量を制御する弁装置。そして、煙突から吐かれる煙。
『オリヴィエ冒険紀』十巻目『蒸気蛇の見る夢』に登場した蒸気機関車だ。
名前を借りるなら、蒸気蛇『フォトンバイパー』だろうか。
小説では人の手が加わることによって動いていたけれど、こいつは一体どうだろう。
ボシュン、ボッ、ボッ、ボッ、と蒸気を吐き出し、連結棒によって繋がれた車輪が少しずつ回り出す。数回、ライトが光ったあとに線路に沿いながらこちらに走り出した。
「おいおいおい、嘘だろ!」
誰か人がいるのか? いや、今はそんなことはどうでもいい。僕は横に飛び込めば逃れられるものの、体躯のあるエンでは挟まってしまうだろう。急いでエンに飛び乗って武器の準備をする。エンが火球を吐いてもその黒い装甲には傷一つ入らなかった。
「エン、僕に任せてお前は出口に向かって飛び続けてくれ!」
ギャギャウ! と返事をして翼の勢いを強める。吹き飛ばされないように精一杯だ。
遠くを走っていた『フォトンバイパー』がすぐそこまで迫っている。
狭所とはいえエンだって相当速いはずなのに、次第にその差が埋まってしまう。
『カイエン』で攻撃したところで龍爪が割れてしまうだろう。『ドラミングバスター』でトンネルを壊すか? いや、どこにどう亀裂が生まれるかわからない。最悪、僕達ごとつぶされてしまう可能性だってある。危険を考えると下手なことはできなかった。
麻袋から磁球『ソリタリオ』を取り出す。
片手いっぱいの大きさがある磁球を持ってエンと共に蒸気機関車に接近する。ありとあらゆる対象物とは異なる磁場を形成して、とてつもない反発力を生み出す。
ジジ、ジジ、と目に見えない壁があるみたいだ。
『フォトンバイパー』は一向に止まる気配を見せず、磁球に亀裂が入って思いきり吹き飛ばされる。細かく砕け散った『ソリタリオ』の破片が頬を掠めて痛みが走った。
「僕達が吹っ飛ばされるのかよ……」
でも、結果的に『フォトンバイパー』との距離はだいぶ離れた。
ボシュン、ボッ、ボボン、ゴトン、ゴトンと蒸気を撒き散らしながら迫る。
エンがギャウン? と弱々しく吠える。
「大丈夫だよ。エンはとにかく出口に向かってくれ」
その『出口』が本当にあるかは別として、後戻りなんかできなかった。
攻撃が通じない。速度も落ちない。逃げ道はどこにもない。
麻袋から次は小型木槌を取り出す。両手でしっかりと握り込んで空に振りかざす。
「二角槌『ガベルクラウン』」
柄の両側にハンマーが付いた武器をレールに向かって振り下ろした。小さく圧縮した木槌が『フォトンバイパー』の車体下に潜り込む。二角槌がググ、グ、グググ、と震えながら、やがて天を衝くようにハンマーが伸びる。先頭車両が僅かに浮かんだ隙に更なる追撃を行う。
泡笛を吹くとシャボン玉がポン、ポン、ポン、と生まれては車体をぐぐっ、と持ち上げた。
先頭車両が天井に擦られて痛々しい機械音を響き渡らせる。
ギャリギャリギャリと車体が削れて、閃光が、走った――
「いくら外装が堅いからって、レールから外れたら何の意味もないもんな!」
閃光と、蒸気と、機関車の燃料が混ざり合って爆発を起こす。
エンの翼に熱風を追い風にして加速する。
『フォトンバイパー』の二両目から、無機物のはずなのに煙突が生えてくる。
「……生き物なのか?」
磁球も二角槌も失って、蒸気蛇があと何両残っているのかもわからない。さすがに走り出しから最高速度は出せないみたいだ。それなら、と。物理的にも精神的にも前を向く。
僕達と『フォトンバイパー』の純粋な速さ比べだ。
「三、二、一……バレッド!」
望遠ゴーグルのダイヤルを回して暗視型に切り替える。翼の先端に両手を置いてエンを操縦するような姿勢を取った。『イエローバレッド』でのリリンの走りを思い出せ。
「きっと、リリンならもっと楽しそうに走るんだろうなぁ」
トンネルの左カーブに沿って左翼を押さえる左手にゆるやかな力を込める。たまに力が強すぎてエンに怒られながらも軌道修正をしてくれた。
エンが飛んで、僕が尖った岩場や鍾乳石を『カイエン』の爪先端から射出される衝撃波で切り刻んでいく。後ろを気にしながら、エンが飛ぶことに集中できるように微力な舵取りをして、障害物を壊す。並列作業が多くて不恰好になってしまう。
エンが火球を吐いて辺りを照らすと目の前に突然壁が立ちはだかる。
急旋回を始めると耳の奥に痛みを感じた。
線路が壁に沿って一直線に敷かれているのだ。理由はわからないけど、追跡の手から逃れられる。そう思った瞬間――ゴゥン、ゴゥン、と黒い蒸気を撒き散らしながら壁を上り始めた。
「なんでもありだな……」
一体どんな構造で『フォトンバイパー』は動いているんだ……と、『地上』に落ちてから今の今まで不思議で溢れていた。今さらそんなことに驚いてどうするんだ。
必死にエンの翼にしがみつく。
そのとき、遠くの方にぼんやりと射す一条の光が見えた。この距離ならなんとか逃げ切れる。最後の力を振り絞るように龍爪の送風点を一ヶ所に限定する。
圧縮された風を波太鼓『ドラミングバスター』に纏わせると力強くバチで叩いた。
耳をつんざくような衝撃音と共に人工的な追い風が発生してエンを加速させる。
蒸気蛇が僕達を追いかけるべくして、黒い蒸気を一際強く吐き出した。
『イエローバレッド』の最終コーナー、そこで見せたリリンとロクショウの走りを思い出す。
飛べ、飛べ、飛べ、飛べ、飛べ――
「ゴールだ!」
網膜を貫くほどの光が視界を遮る。
少しずつ細まった目を開いていくと、そこには天空都市と似た世界が広がっていた。
壊れた旧型風車、ミカンカボチャ畑、浮遊大陸の位置を確認するための灯台。
そして、隅に建てられた四本の柱と大理石が敷かれた床、その中心には石碑が佇む。
「エン、レール下の地面を抉ってくれ!」
ギャイ! と速度を強めてレールに接近する。飛びながら右足の爪を地面に食い込ませて土を掘り起こしていく。同時に『カイエン』をレールにあてがうと激しく火花を散らす。充分に耕したレールに向けて十本の爪を飛ばして突き刺した。
「新龍爪術その二『プロメテウス』!」
エンがやわらかくしてくれた土を、熱風が爆ぜる――
外れたレールから『フォトンバイパー』が空を飛ぶように地面から離れた。そのまま浮遊大陸の外側へと落ちていくのを確認すると僕達も地面に降り立った。
「一体何だったんだ……」
肩で息をしながら体中についた汚れを振り払って前を向く。
何の建物だったかわからない敷地の上に立つ。どこかひんやりとした空気感が漂っていた。
エンが石碑をペロ、ペロ、と舐める。
石碑には「『ティアマト』は海水と体液の浸透圧の差によって水分が少しずつ失って死んでしまう。そのため、雲に含まれる水分や敵の脂肪、糖類などが体内代謝によって燃焼したときにできる水を得て生存する」と。おそらく『クジラ』の生態が記されていた。
もし仮に故郷を見つけたとしてもそれからどうする。『クジラ』でさえも空中世界までの飛翔が限界だった。エンが大きくなったら今よりも高く飛べる保障なんてどこにもない。不確定な希望に何年も縋れるほど僕は馬鹿じゃ――いや、僕自身を信じることができなかった。
ふいに頬をベロっと舐められて驚く。
不安で淀む僕を励ますようにエンがぎゃぎゃーい! と鳴いた。
「そう、か。そうだよな」
僕とエンは友人であり、仲間であり、相棒であり、そして家族だ。
ギャイ! と高らかに鳴くのを合図に、僕達はどこまでも進めそうだと確信した。