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スカイ・エンド  作者: 秋助
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第2章

 『地上』の話を綴った『オリヴィエ冒険紀』が僕のバイブルだった。

 女性探検家のオリヴィエが天空都市から落ちてしまい、未知なる『地上』を旅するサバイバルアドベンチャー小説だ。僕が生まれる前から非常に多くのシリーズが刊行されていて、今年は記念すべき三十冊目『精霊鹿とレインディアの森』が発売予定だった。

 僕とリリンは幼いころから夢中になって読み漁っていた。切れて、擦れて、滲むくらいに。

 何度も、何度も、オリヴィエを僕と重ねては空想の中の冒険に旅立っていた。

 ふと、周囲を見回す。

 僕が憧れた『地上』が、今、憧れとは程遠い現実となって目の前に現れる。

 倒壊した建物。ところどころ腐敗した地面。そして、汚水された『海』が。

 やがて、雨雲からポツ、ポツ、と雨が降り始める。雨を見上げるなんていつぶりだろう。

 天空世界とは違って水が汚染されている可能性もあるから早く避難するべきだ。

 瓦礫の山を上って高いところから周囲の様子を窺うことにする。

 どこかに空害が潜んでいるかもしれない。どんな災害が待ち受けているかわからない。

 瓦礫が崩れないように、音を立てないように、身を屈めながらそっと顔を覗かせる。

 廃墟、蔦、何かの生き物の死骸。

 そして、……風車。僕以外の人の気配なんてどこにもなかった。

「だよなぁ」

 もしかしたら僕以外の人がいるかも。なんて考え方は甘かったのかもしれない。

 けれど、風車の構造が気になる。翼に布を用いた一昔前の、いや、数十年前に主流だったセイルウイング型だ。今ではプロペラ式風車が一般的になったから、セイルウイング型のものは大量破棄されたはずだ。もしも、あの風車が天空世界からの遺産だとしたら。

 この『地上』を生き抜く、まさに天からの贈り物がどこかにあるかもしれない。

「……あれ?」

 ふと、遠くの方に『何か』が動いた気がして望遠ゴーグルを装着する。

 一部分の地面がもぞもぞと蠢いていた。

 小さな、小さな物体が蠢き、こちらに接近していると気付いたときには遅く、光速とも思えるほどの速度で無数の群れのネズミが――僕を狙ってきた。

 このまま避難した方がいいのか。

 いや、ネズミがどんな性質を持つかわからない以上、下手な逃走は逆効果だ。

 ネズミを観察すると膨れ上がった赤い目が不気味だった。小さな体躯には似つかわない尖った前歯が腹部へ突き刺さる。どんな病原菌を持つか不明瞭な内に接近戦は好ましくない。

 空害との戦いでさえも不慣れなのに、『地上』の生き物なんてどう交戦すればいいのか。

 そのとき――

 ネズミ達が次々に瓦礫の隙間に潜り込んでバキバキ、バキバキ、と中から響いてくる。

「僕を山ごと崩す気か!」

 先手必勝。瓦礫の山を思いきり足で蹴ってガラクタを崩す。ガラガラと大きな音を立てて崩壊していく瓦礫が無数のネズミ達を押し潰す。ヂュヂュウ! という鳴き声と共にブチブチとネズミの潰れる音が弾けた。瓦礫が複雑に組み合っているのかネズミはなかなか抜け出せない。

 地面を見回して武器になりそうなものを探すと半透明な鉄パイプを見つける。

「ないよりはあった方がマシだろ」

 手に取ると冷気を纏っているかのような冷たさが広がる。……これは、浮遊物質と同じ感覚だ。天空世界の遺産なのか、それとも、元々『地上』に存在していたのか。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。ネズミ達の動向を捉えながら少しずつ後退する。

「ミツバチの幼虫はネズミが大好物だって知ってたか?」

 リリンに見せたら幼虫達のために果敢に捕物帖を繰り広げてくれるだろう。

 なかなか瓦礫の山を越えられないネズミ達は一つに固まり、蠢き、少しずつ人の形を成していく。人、と呼んでいいのかは悩むけど、形だけなら人そのものだ。膨れ上がった赤い目が風船ほどのサイズになる。

 蠢く。大きくなる。固まる。寄り添う。大きくなる。蠢く。僕の二倍はありそうな人型ネズミが何十体も出現した。機械型カメレオンといい人型ネズミといい、化け物達の進化には背すじが凍る。でも、大きくなったのなら速度も落ちるはずだ。

 今なら、

 そう思った瞬間、目の前に巨大な前歯が――

「っ!」

 とっさに鉄パイプで前歯を受け止めると閃光が走った。

 目の奥にズキン、とした痛みが走っては視界が暗闇に包まれる。早くしないと次の攻撃が始まってしまう。聴覚だけに集中して、人型ネズミの気配を捉えようとする。ズキン、ズキン、とした痛みが少しずつ引いていき、視界がぼんやりと戻っていく。

 ……と、人型ネズミ達も同じように目を押さえながら暴れ回っていた。

「そりゃ、ネズミだもん、な!」

 試しに鉄パイプを空中で弱めに振ると、不透明な管から淡い光が瞬間的に漏れ出る。どういった原理かは不明だけど、この光を使えば人型ネズミの行動を制することができる。駄目押しに力強くもう一振りして閃光を放つ。ヂュウ! と呻き声が響いた。

 今なら逃げることができる。

 けれど、光の届かなくなった場所まで離れてしまったら、人型ネズミの遠距離攻撃が待ち構えているかもしれない。人型ネズミを引き付けながら入り込める建物を探す。

 ……と、細長い建物を捉える。あそこなら僕は入れても巨躯な人型ネズミは入れないだろう。

 鉄パイプをしっかりと握って勢いよく駆け出す。

 瓦礫や何かの骨を踏み潰しながら急いで建物へと向かう。

 走る、走る、走る、走る、走る!

 天空世界と違って気温がやけに高く空気も濃い気がした。

 ヂュヂュウ! と背後から鳴き声が響いて振り向く。人型ネズミ達がすぐ側まで迫っている。振り下ろされる前歯に合わせて両目を閉じて、鉄パイプを前歯に叩き付ける。ヂュウウ! と鳴き声が呻き声に変わる。すぐに目を開けると前歯がぽっきりと折れていた。

「ご愁傷様!」

 朽ちた扉の隙間に体を捻じ込んで建物の中へと入り込む。

 呼吸を整えて別の出入り口がないか探す。シンナーのようなツンとする臭いが漂った。どこかひんやりとした空気が流れ込み、二階に上がるといくつかの部屋に分かれていた。

 一部屋に入るとホコリが宙を舞った。床は石畳で黒く変色している。ダイヤルが付いたモニターや小型の電気冷蔵庫、天井にはハネの取れた風車のようなもの、部屋の隅には針のない柱時計や動物の人形、アンティーク・ドールなど様々なものが散乱していた。

 遥か昔、人類が生きた証なのだろうか。

 そのとき、下の階から衝突音が繰り返し聞こえてきて窓から様子を窺う。

「は?」

 何匹もの人型ネズミが扉に向かって突進を繰り返す。

 ぶつかる度に人型ネズミの体から数匹のネズミがぼろぼろと剥がれ落ちる。しまった。と、そのことに気付いたのは僕とネズミのおそらく両方だろう。一旦ただのネズミに戻ってしまえばたやすく進入できてしまう。数で襲い掛かられたら僕に勝ち目はない。

 何度も、何度も鉄パイプを地面に叩き付けて光を放つ。しかし光に慣れたのかネズミ達は少し怯むだけですぐに僕を食い殺そうとする算段を立てる。体から分離した無数のネズミが扉の隙間を掻い潜る。蠢く。蠢く。蠢いて、やがてネズミ達は人型を取り戻す。

 赤い目が僕を睨む。

 折れた前歯が抜け落ちて、ぐぐ、ぐぐ、と鋭い歯に生え変わる。

 砕けば砕くほど強靭になっていく前歯に、終わった。と、心の中だけで呟く。

 じりじりと部屋の隅に追いやられて背中が壁にぶつかる。

 そのとき、何かがひらり、ひらりと空中を泳ぐ。

 これは……蝶?

 体全体が赤色に明滅を繰り返している。警告色。自分に害を及ぼす生物に対する警告だ。

 光の集合体で構成された、さしずめ発光蝶か。

 ゆっくり、ゆっくりと僕の横を通り過ぎて人型ネズミに群がっていく。

 止まった瞬間、バチ、と鈍い音と共にまばゆい光を放った。

「……え?」

 人型ネズミの体から血液が垂れていく様を見て、ただ、ただ、息を呑む。

 息苦しさがして、そこでやっと自分が呼吸を忘れていることに気付いた。

 本能的に危険だと感じたのか人型ネズミが個体のネズミに戻って逃げ惑う。

 発光蝶の羽ばたきは非常にゆっくりなはずなのに、ネズミとの距離がどんどん狭まってくる。

 やがて、ネズミ達が無数の発光蝶に取り囲まれた。

 バチ、バチ、という鈍い音と共に、光を放って肉が削げ落ちる。

「なんで……」

 あまりの生々しさに気持ち悪くなって口を押さえ込む。

 建物の至るところからバチ、バチ、と咀嚼音のようなものが流れ続ける。

 敵か、味方か。窓の外を眺めると電線は噛み千切られて、ガス菅は壊されて漏れ出して、空からは発光蝶の羽ばたく麟粉が雪のように降り注いでは『地上』を埋め尽くしていく。

 壁や地面で羽を休める発光蝶達からバチ、バチ、バチバチ、バチバチ、と音が鳴ると、コンクリートの壁や地面がいともたやすく抉り取られてしまう。

 発光する蝶に発光は有効打か? と、鉄パイプを見つめる……やるしかない、か。

 遠くで雷鳴が鳴った。

 控えめに降っていた雨は、やがて傲慢なまでに『地上』へと降り注ぐ。

 バチチ、バチ、バチバチ、ジジ、ジジジジ、ジジジ、バチ、

 人型ネズミを食い荒らした無数の発光蝶が、ふわり、と僕に迫ってくる。

 雷の光が、発光蝶の光が、鉄パイプの光が、重なり合う。

 そのときどこかで、メメェ~! という鳴き声と共に爆発音が鳴った。

「――っ!」

 建物の上に雷が落ちる。地響きが起きて床に亀裂が入った。

「……あ」

 追い討ちをかけるような落雷が地面に大穴を空けて、僕の体が奈落へと落ちていった。



 顔に水が当たって目が覚めると、視界には鍾乳洞と薄緑色の地底湖が広がっていた。

 ちょうど地底湖に落ちて運よく地面に流れ着いたからよかったものの、そのまま飲み込まれてしまったらどうなってしまったことか。底の見えない地底湖を覗いてはぞっとする。

「……今日はやけに高いところから落ちるな」

 体の節々が痛むのを堪えて立ち上がると、地面にはハッチが取り付けられていた。

 地底湖に漂っていた鉄パイプとレイピアの針を回収する。軽く振ってみると光は健在だった。

 正直、あまり気は進まない。扉の先が人型ネズミの巣窟の可能性だって充分にある。

 広さも長さも何もかもが不明な扉を開けて進むメリットが見当たらない。

 空を眺める。発光蝶が穴の空いた場所から蠢くのが見える。

 それに、この高さを上るのは不可能だろう。

 戻るも危険、進むも危険。同じ危険なら救いがあるかもしれない地下に賭ける。

「行くしかない、のか」

 錆び付いたハッチを開けるとひんやりとした風が吹いてきた。地下へと進む階段が脆くなっていないか確認しながら慎重に歩く。発光蝶や化け物達が入ってこないようにハッチを閉めると暗闇が広がった。何回も、何回も、発光パイプを振っては光を灯す。

 化け物達が侵入できない。それは逆に、僕もここから出られないということでもあるけど。

 踊り場のようなところで巨大な穴を見つける。おずおずと近付いて空洞の中を覗き込む。鉄骨が赤茶に錆びて、奈落の底の暗闇がよりおぞましく見えた。採掘現場に行くために地上から垂直に掘られた穴、竪坑だとオリゼさんに教えてもらったことがある。

 あの深淵に飲み込まれてしまったが最後、二度と戻って来られない気がしてぞっとした。

 遥か昔、ここで何かを採掘していたのだろうか。

 再び階段を降りる。一段、一段と地に足が着く感覚を確かめるように。

 降りた先には坑道が広がる。鉄骨や壁から剝き出しになったケーブルが邪魔をしてまともに歩くことが難しい。正方形に大きく切り取られた用途不明の穴には、藻で緑色に濁った水で満たされていて、もし間違って落ちてしまったらとこわくなる。

 坑道に等間隔で張り巡らされたライトをぼんやり眺めていると、この坑道を往来してきた人達の面影が見えてくるような気がした。そもそも『地上』に人がいたのかは定かではないけど。

 冷気が広がる。僕の目の前に扉が立ち塞がった。

 この扉の向こうに希望が、あるいは、底なしの絶望が待っている。

 息を吸って、淀みを吐く。

 獅子の装飾が施されたドアノブを引っ張ると砂がぱらぱらと落ちる。

 開く、開く。開く、開いた。

「……え?」

 地下の更に地下だというのに部屋の中はなぜか明るかった。

 思わず鉄パイプを床に落とすと、色褪せた絨毯が音を吸収する。

 太陽と月の絵が描かれた天井にぶら下がった大型の天象儀。女性の形を模した忠魂碑。

 そして、建物の壁や空間を全て埋めつくしてしまうほどの本棚が置かれていた。

 図書館だろうか。天空都市にあるそれとは規模が全く異なるけど。

 様々な大きさの本棚が壁際を取り囲んで、部屋中にもバラバラの向きで本棚が立ち並ぶ。

 本が入っていない本棚。骨董品が敷き詰められた本棚。同じ本だけが何百冊も取り揃えられた本棚など、少し眺めただけでもその中身は多種多様で、そして異様であった。

「すごいな」

 吹き抜けから覗くステンドグラスには浮遊大陸や『クジラ』と思われる模様が描かれており、届かないはずの光を受けて部屋中を七色に包み込んでいた。その繊細で、あまりにも静謐とした美しさに呆けて事の異常さに気付くのが少し遅れた。

 ……発光蝶だ。忠魂碑の周りを数匹の発光蝶が飛んでいた。

 先ほどの赤い警戒色ではなく、薄い青色で弱々しく光を放っている。

 手を差し伸べると、右手に一匹の発光蝶が止まった。悪意はないと思っていいのだろうか。

 発光蝶が手のひらをくるくると回ってやがて一台の本棚へと向かっていく。

 導かれるように後をついていくと、三段目にある一冊の本に止まった。

 別の本棚に掛けてあった梯子をスライドさせると小さな車輪がギシギシと軋む。

 はらはらと木片が剥がれ落ちて年代を感じさせた。

 ……上っている間に梯子が崩れてしまったらどうしようか。

 一段、一段、おずおずと踏みしめて発光蝶の示す本を手に取る。蜘蛛の糸が顔に引っかかって梯子から思わず落ちそうになった。ミシ、と軋む音を無視してゆっくりと降りる。

 本に被ったホコリを払い除けると表紙には発光蝶の絵が描かれていた。

「『オリヴィエ冒険紀』?」

 いや、装丁はとてもよく似ているけれど全くの別物だ。親指と人差し指を大きく開いたくらいの厚みがあった。ページ数にして……どれくらいだろうか。

 本を開くと古書のすえた臭いが鼻の奥を突き刺す。ザラついた紙質に指が切れそうになった。

 古ぼけていて断定はできないけれど、おそらく赤い鉄塔、赤いレンガ造りの駅舎、超大型の吊橋の絵や、先ほどの人型ネズミ、発光蝶の絵も事細かく描かれていた。

 文献には『人型ネズミのミュスカーの目が赤いのは血が溜まっているからだ。ミュスカー同士の争いでは鋭く尖った前歯で相手の目を貫いて殺す。その血は消毒剤になる』と書かれていたり、発光蝶のページには『フィラメント』と表記されていた。

 『発光する蝶、フィラメントは雑食も雑食だ。捕食方法はわからないが対象者の体に接触してバチ、バチ、という光と共に食い破る。人間や動物だけに留まらず、植物や建物でさえも関係ない。蝶の体をすり潰して粉末状にし、筒状の何かに詰め込むとトーチの代わりになる』

 そこまで読んで、理解できるかは別として鉄パイプが光を放つ原理に納得がいった。

 他にもちりん、ちりん、と音を流しながら空を泳ぐ風鈴型の海月、ロケットのように高速突撃してくるペンギン、体と鼻がバネになったゾウ、甲羅が鏡でできたカメ、影の集合体で構成された狼など、様々な生命体が描かれていた。

 『地上』を生き抜く上でこの生物図鑑は必需品となるだろう。撫でるようにページを捲る。

「……あ」

 ふと、その絵に惹かれて息を呑む。

 『地上』の建物や化け物、空に浮かぶ大陸や空害。そして……『ドラゴン』に乗った人間。

 他のページには詳細な生態、調理方法、撃退手段などが記載されているのに対して、このページには肝心なことが何一つ書いていなかった。ただの一枚絵と割り切るには描写がしっかりとしていた。もしかしたら、この『地上』のどこかに『ドラゴン』がいるのかもしれない。

 そいつに乗って天空世界に戻ることができれば。

「エルマ……」

 そろそろ。と言わんばかりに『フィラメント』が次なる場所に案内する。一台の本棚をふわりとすり抜けると、そのまま戻って来なくなる……壁の向こう?

 まさか、人間の僕も壁をすり抜けられると思っているのだろうか。逡巡して、一冊の本だけ明らかに光沢が違うことに気付く。本物の本じゃない。これは……鉄製でできた偽物だ。

 触ってみると痛くなるほどの冷たさが広がる。そのまま本棚の奥へと押し込むと、ガチャンという金属音が鈍く響いた。絨毯の一部に擦れた跡があるのを見つけて、試しに鉄製の本を引っ張ってみると本棚が扉のように開いた。

 『オリヴィエ冒険紀』第五巻『絡繰帝国の永遠』で読んだ仕掛けと似ていて胸が高鳴る。

 扉を開けると焦げた鉄の臭いが鼻を刺した。

 荷電粒子蜂のような銃、太鼓とシンバルが合わさったような楽器、カガリネに似た笛。

「ここは……武器庫?」

 なんとなく爪のついた手袋をはめてみると想像以上に馴染む。

 人型ネズミや『地上』の敵に対抗するには、僕にも武器の一つや二つは必要だろう。腰のベルトに爪のついた手袋を引っさげて、捨てられてあった麻袋にいくつかの武器を詰め込む。

 麻袋を背負うと確かな重さが伝わってくる。

 武器庫を出ると、女性の形を模した忠魂碑の裏側に文字が刻まれていることに気付く。

 『防龍シェルター【モルガナ】』

 この世界は『ドラゴン』の進攻から逃れるためにシェルターを造って、知識を蓄えて、武器を集めて、ここをレジスタンスの拠点にしていたのだろう。今も存在しているのかはわからないけれど、架空の生命体ではなかったのだ。

 ここには光があり、知識があり、武器があり、居場所がある。

 『モルガナ』を拠点にして旅をすれば、いつか、人を乗せる『ドラゴン』に会うことができる。

 必ず故郷に戻って、エルマともうじき生まれてくる子どもと再会するんだ。

 強く願って、僕はこの『地上』を生き抜く決意を固めた。



 曇天ばかりの『地上』にも光は射すものだと気付いたのは『モルガナ』を拠点にして二週間が経った日のことだった。武器庫で見つけた龍爪『ヘカトス』での戦闘訓練や、化け物の生態、自生するキノコや植物を図鑑で調べながら日々を過ごす。

 化け物達が襲ってくる様子はないけどいつここも襲撃されるかわからない。いや、その危険性はないのかもしれない。と、数匹の『フィラメント』を眺めながら思う。時折、警戒色を発しながら僕の来た道を進んでいく様子を見ると、化け物達を追い払っている可能性はある。

 僕を。というより、この『モルガナ』を守っているのかもしれない。

 『ティアーズ』の任務へと向かう前に携えていた干し肉が底を尽きかけて、そろそろ『地上』の様子も探らなければと考えていたころ、ステンドグラスの一部が妙に輝いていることに気付く。螺旋階段を上って四階に辿り着くとその装飾美に目が惹かれる。

 よく見るとガラスの一部が薄くなっていて取り外せるようになっている。そっとガラスを外すとどこかに繋がる階段が現れる。不安を覚えながらも上っていくとハッチが見えた。

 念のため『ヘカトス』を装着してからハッチを開けた。

 目の眩むような光と共に視界が広まる。扉を抜けるとまだ見ぬ『地上』が顔を覗かせた。

「……すごい」

 天空世界から『地上』に落ちて初めての晴天。空気もどこか澄んでいるように感じた。

 故郷から落ちた。エルマと離れ離れになった。化け物に襲われた。それでも、どこかに必ず安らぎはあるものだ。決して気の抜ける状況ではない。けれど、今だけはと深呼吸をした。



 朝方は化け物達の行動も鈍い。そのことに気付いてから数週間は活動時間を朝方に絞る。

 何度目かの朝を迎えたころ、望遠ゴーグルを装着すると遠くに赤い鉄塔が見えた。図鑑で見た赤い鉄塔だ。同じものかは定かではないけど、似たような建物が実存するという事実だけで大きな一歩だ。人間が『ドラゴン』に乗って空を飛び回る。そんな夢物語を期待できた。

 そのとき、耳をつんざくような爆発音と共に数匹の羊が爆風に乗って飛び出る。

「いつになったら安心できるんだ!」

 いや、『地上』にいる限りそんな時間はほとんどないに等しいだろうけど。

 メメェ~! と高らかに鳴くと顔と足を引っ込めてもふもふの球体に変化する。

 以前、建物の中で鳴り響いていた声と爆発音はこいつだったのか。

 ぼよん、ぼよん、と地面や建物に勢いよくぶつかる。速さの緩急、弾力の強弱を使い分けて僕を撹乱した。たまに顔を出してはメェメメ! と嘲笑う。やがて、一匹の羊が僕に狙いを定めて体を圧縮させる。それとほぼ同時に僕も『ヘカトス』を構えた。

 グッ、グッ、と素早く二回握り込むと龍爪内部に空気が圧縮される音がする。

 突進してくる羊に合わせて、体を横に一回転させながら『ヘカトス』を振り下ろす。

 十本の爪の先端から、鎌鼬のような高密度の風が発射される。

「龍爪術その一『漣』!」

 音もなく、形もない斬撃が羊達を切り刻む。

 メメメェ! と断末魔を上げた。

 羊毛が三倍ほどの大きさに膨らむと体が爆発して連鎖するように爆風が広がる。

 生物図鑑に記載されている爆弾羊『グニーシャ』だ。衝撃を受ければ受けるほど体内に爆発物質を溜め込み、限界に達するとこのように大爆発を起こす。生物図鑑で確認していなければ直接攻撃をしてしまっただろう。

 他にも『グニーシャ』の群れがいる可能性も考慮して、もう一度『ヘカトス』をグッ、グッ、と握る。浮遊物質を粉末状にして龍爪の内部に流し込む。どういった仕組みかはわからないけれど、『地上』の化け物に対抗するために武器も適用化されている。

「……さて、と」

 爆風で丸焦げとなった羊の肉は、調味料をまぶさなくてもそのままで充分においしい。爆弾羊達の前で片膝をつく。両手を合わせて「いただきます」と祈る。レイピアの針から生成した蜂刀で肉を小さく切り分ける。口に含むと甘い油とアクセントになる苦みが広がった。

 ヴァイオレットさんに倣って生命の死を悼む。空害ではないけれど、ただ無闇に殺すのではない。そこには厳格なルールがあり、礼節があり、敬意をもって接する。

 残りの肉をバター葉に包んでから麻袋に詰めると、遠くの方でチカチカと光る何かを捉えた。

 最近、赤い鉄塔の頂上付近がこうして明滅を繰り返す。

 その光は『フィラメント』の発光にも似ていた。まさか超大型が存在するのかもしれない。

 『地上図』に情報を書き込んでいく。地形、出現する化け物、自生するキノコや植物を足していくと、僕だけのマップが完成するようで胸が高鳴る。『モルガナ』から少し離れた場所ならだいぶ埋まってきたけど、その中心はぽっかりと穴が空いているように白紙だった。

 化け物が活発的になるにはまだ日が昇っていない。遠出をして赤い鉄塔付近を目指す。

「行くしかないか」

 フラマリアへ戻るための道筋があるとしたら、まだ冒険をしていないこの場所に可能性が秘められているだろう。……だけど、赤い鉄塔の周りを眺める。腐った湖だ。濁って、淀んで、異臭を放つ水に囲まれて鉄塔には辿り着けずにいた。小石を投げ込むとグヂュッと溶け出す。

 腐った湖を越えなければどうにもならない。

 ベルトに装着した小指ほどの筒を取り出して、力を込めると細長く伸びて釣竿になる。

 『グニーシャ』の肉を糸の先端に付けて湖に投げ込む。

 グイ、ググイ、と糸を引く感覚に合わせて釣竿を上下に揺らす。以前『ナイトホークス』のメンバーが隠れた空害をおびき寄せるために、巨大な釣竿の先端に浮遊物質を括り付けて空害を釣り上げていた。あれと同じ感覚だと思うと不謹慎にも少し楽しかった。

 強い振動を合図に釣竿を引き上げると水が釣れる。

「こんな汚い環境でも『サカナ』はたくましいな」

 肉を食む水はビチャビチャと音を立てながらやがて動かなくなる。

 緑の体色が徐々に黒ずんでいく。こんな形をしていても『サカナ』に分類されるらしい。

 残念ながら食用ではなく、図鑑には「水槽で飼う観賞用の生命体」だと記載されていた。

 もう一度、赤い鉄塔を眺める。あの場所へ行く方法なら一つだけあった。雲が形や性質を変えるように、『地上』の水も形や性質を変える。それはこの湖に虹が掛かったとき。腐った水は虹の光を嫌うかのように大小様々な泡となって湖から離れる。

 虹が生まれるから水に変化が起こるのか、水に変化が起こるから虹が生まれるのかはわからない。理屈は不明だけど、とにかく、そういうものはそういうものなんだと割り切る。

 『地上』で起こる全ての物事が、天空世界の常識で推し量れるなんて思ってもいなかった。



 赤い鉄塔の発見からおよそ二ヵ月近くが経った。

 以前、望遠ゴーグルで虹と泡水を発見してから、湖に駆けつけたときにはすでに虹が消えていた。遠くから発見しても間に合わない。赤い鉄塔に辿り着くには虹が生まれる瞬間にその場にいないと駄目なのだ。虹が架かる日。それはつまり雨が上がった日に多く見られる。

 天空世界の住人でよかったと心の底から思う。肌感覚で雨、雪、雷などの変化を感じ取れるからだ。虹は急激な雨から一気に晴れ間が広がるときに発生することが多い。加えて太陽の位置が低く、にわか雨の臭いと空気を感じている今日、条件は充分に整っているだろう。

 飲み水と『グニーシャ』の干し肉を麻袋に詰め込んで螺旋階段を上る。

 ステンドグラスの隠し扉から『地上』に出る際、一匹の『フィラメント』が僕に近寄った。

「しばらく『モルガナ』には帰れそうにもないから留守番を頼むよ」

 赤い鉄塔で何が待ち受けているのかわからない。

 最悪、戻ってこられない可能性だってあるのだ。戻ってこられない可能性というのは、つまり――その先を思い浮かべて、必死に沈める。

 防龍シェルター『モルガナ』にいればいつか助けが来るかもしれない。外にいるよりは比較にならないほど安全だ。けれど、ここには過去しかない。自分で掴んでこその未来だ。

 ハッチを開けて周囲の様子を窺う。未踏領域を前になるべくなら体力を消耗したくない。

 廃れた『地上』を見つめながら遥か昔を考える。この世界にも天空都市と同じような生活や日常があったのだろうか。人間は元々『地上』に住んでいて、何らかの理由によって空を目指したのか、それとも、空の人間が『地上』に移り住んだのか。

 それはきっと、たぶん僕にはわからないことなんだろうと割り切る。

 もう湖に何度訪れたかわからない。最初はだいぶ遠回りしてしまったけど、今では比較的安全なルートを探し出すことができる。湖の前まで辿り着いてあぐらを掻く。

 ぴりっとした雰囲気を感じて空気が重くなるのを感じる。

 やがて――

 ポタ、と頭に水滴が落ちた。頭を締め付けられる感覚に陥る。

「これはすごいのがくるぞ」

 麻袋から蓮傘を取り出して茎の部分を取っ手にする。最初こそは頭の一部分しか隠せなかった蓮傘に雫が落ちるたび、ぐんぐんと成長していき十人はゆうに入りそうな大きさになった。

 茎を地面に突き刺して湖を眺める。バシャバシャと水飛沫を上げるのは雨だけではなく、おそらく『サカナ』がビチビチと跳ね回っているのだろう。

 空に雷鳴が混じる。人類は無力だと感じるしかないほどの篠突く雨が『地上』に降り注ぐ。

 ただ、ただ、じっと耐えるしかない。雨、雨、雨、雨、雨の中をひたすら待つ。

 目を閉じて感覚を研ぎ澄ませると空気の質が変わったのを感じ取る。

 もうすぐだ。

 五、四、三、二、一……

 音と、流れと、時間が止まったかのような錯覚を覚える。

 豪雨がシン――と止んで晴れ間が覗くと、赤い鉄塔を跨ぐように虹が架かった。

「虹を見上げるのは久しぶりだな」

 その美しさに釣られるようにして、数匹の『フィラメント』が僕に寄ってくる。

「お前達、ついてきたのか?」

 一年にも満たない短い関係だけど、それでもなんとなく発光蝶達の区別はつく。

 ミツバチの幼虫達の名前を嬉々として呼んでいたリリンの気持ちが今ならわかる。無事にフラマリアへ戻ることができたら、一匹ずつ名前と特徴をリリンから教えてもらおう。

 ふと、湖の至る場所から波紋が広がると、ぽわん。と一粒の泡が湖から浮き上がる。

 腐りきった水とは反対に泡はとても透き通っていた。

 ぽわん、ぽわん、と次々にシャボン玉のように透明な泡を生み出す。その中のいくつかに『サカナ』が泳いでいて、まるで空を泳いでいるようだった。

 揺らめいて、煌いて、輝いて、無数の泡が虹と重なると七色の光を乱反射させる。

 空っぽになった湖を覗くと深さはおよそ十メートルほどだろうか。地面に龍爪を力強く食い込ませ、ワイヤーを少しずつ伸ばしながら底まで降りる。泡に巻き込まれなかった『サカナ』達がビチビチと痙攣してはやがてただの水に戻った。

 地層を見ると段階的に色が濃くなっていた。表層は薄茶色、中間は茶色、深層はこげ茶色といった具合に変化していき、まるで狭間の雲に似ているなと懐かしさすら感じる。

 降りるときは一瞬だった崖を目の前にしてため息を吐いた。

「……よし」

 龍爪にグッ、グッ、と力を込めて崖に突き刺して、少しずつ慎重に崖を上っていく。

 『フィラメント』達が次の一手を指し示すように案内してくれた。

「僕も無駄に体力が付いたよなぁ」

 崖には苔や藻が生えていて滑りそうになるのを『フィラメント』が発光して苔や藻を焼き払ってくれたり、岩を噛み砕いては上りやすい道に形成してくれる。敵意はないにしろ僕をここまで手助けしてくれるのは一体どうしてなのだろう。

 龍爪を深く刺して力を振り絞る。ごろんと転がりながら無事に辿り着けたことに安堵した。

 息を切らしながら空を見つめるとまた今にも雨が降り出しそうだった。

 赤い鉄塔を下から覗くと荘厳な雰囲気を受ける。電気系統が止まっているのか自動扉が反応しなかった。どうしようか迷っていると『フィラメント』達がバチ、バチ、と音を立ててガラスを破壊していく。「なんでもありか」と驚きながらも、割れたガラスに注意しながら進む。

 エントランスと思われる部屋には大量の骨が散らばっていた。人間とも動物とも区別がつかない形の骨は黒く錆びていて、天井を見上げると『モルガナ』と似たようなステンドグラスが僕を見守っていた……いや、見張っていた。の間違いかもしれないけど。

 高さ的におそらくあの場所が最上階ではないだろうけど、ひとまずの目標として据える。

 エレベーターのボタンを押しても反応はなく、六十階まで表示のある電光板を見てため息を吐く。どこまでも続くかのような階段を睨んでいると、『フィラメント』達が目の前で空を泳ぐ。お前は空を飛べるからいいよなと愚痴を漏らしつつ、気合を入れ直して階段を上る。

 部屋の中心には一本の大きな木が延びていた。

 木を伝うという手も考えたけれど、自分の体力と相談した上で却下することにする。

 不安定な幹な上で休むよりは地面に寝転がった方がいいだろう。それに、途中で化け物に襲われたら逃げる場所がない。僕の一挙一動がそのまま生死に繋がるのを意識して気合を入れた。

 剝き出しの鉄骨。キシ、キシ、と底の抜けそうな床を慎重に進む。

 塔の内部にはいくつもの部屋が存在したけれど、化け物と遭遇する可能性もあるし何が待ち受けているのかわからない。進めると思ったらどんどんと前に進んでいく。

 五階、六階、七階、八階、九階、十階。

 外の避難階段に繋がる扉を見つけて軽く押してみると、さらさらと砂になって風化した。

 実に三十メートルはあるだろうか。全てを制覇したと思っていてもまだまだ『地上』には未知の領域が多かった。避難階段から進んだ方が安全なのかもしれない。けれど、コツン、コツン、と数回足で蹴るだけで激しく揺れる。次の二十階まで辿り着けない不安が残った。

「地道に上るしかないか」

 内部に戻って上を目指す。木の根がコンクリートの地面や壁を突き抜けて行く手を阻む。

 十六階、十七階、十八階、十九階、二十階。

 麻袋から竹筒を取り出して数回降ると、中に入っている熱茸菌がちゃぷちゃぷと揺れる。階段を塞ぐ根っこに向けて吹きかけると、数秒も経たない内にポン、ポポンと熱茸が生えてくる。

 自身の熱ですぐさま発火して木を根絶やしにしていく。不思議なことに植物にしか熱を通さない菌類のようだ。手でそっと掬うと人間には逆にひやっとするくらい冷たかった。

 二十六階、二十七階、二十八階、二十九階、三十階。

 二、三時間かかってもまだ半分しか辿り着いていないことを考えると先が思いやられた。幸運なのは化け物達に出会っていないことだ。腐った湖が化け物達の進攻も阻んでいるのかもしれない。まぁ、エントランスにあった骨の山は気になるけど。

 考えたくはないけど、あれは『何か』に喰われたような骨だった。

 それでも空が近くなる度に、故郷が近くなる度に、エルマとの距離が縮まっていく気がして心と足に力が入る。ふと、部屋の隅っこに小型モニターが大量に落ちていることに気付く。何度かコン、コン、と叩いてみても映像がつくことはなかった。

 三十六階、三十七階、三十八階、三十九階、四十階。

 塔内部の一室を覗くと大聖堂のような部屋に辿り着く。螺旋状になった柱、幾何学模様の絨毯、『地上』での暮らしを描いたであろう壁画、大理石で形成された主祭壇など、錆びてしまってはいるけれどその荘厳さは重いほど伝わってくる。

 防龍シェルター『モルガナ』と同じ、女性の形を模した忠魂碑がいくつも存在していた。

 結婚式場を思わせる内装にエルマの顔が浮かぶ。そういえば費用もかかるし恥ずかしいからと式を挙げなかったことを今さら後悔する。故郷に戻ることができたら、エルマがどんなに嫌がったって必ず挙式しようと決意して足取りを強める。

 四十六階、四十七階、四十八階、四十九階、五十階。

「……あれ?」

 ふと、物音がして足を止める。

 よく耳を澄ましてみると階段の上から足音が聞こえてきた。

 息を潜め、その音の正体が人なのか、あるいは化け物なのか判断する。

 コツン、コツン、と二つの重なり合う音が響く。

「誰かいるんですか?」

 物柔らかそうな老婆の声にはっとする。続けて今度は「……人間?」とか細い少女の声が響く。幼いころ、いつもは物怖じしないリリンが、浮遊物質採掘場の発破作業の音に驚いてオリゼさんに泣きついた感覚を思い出して心がゆるむ。

 スゥ、と涙が頬を伝う。人間の声を聞くのなんて、いや、人間に会うこと自体が数ヶ月ぶりだ。自然と胸が高鳴る。息が弾む。ボロボロと涙が溢れそうになるのを堪えて胸を何回か叩く。

「気のせいかな?」

 少女の声が不安になる。今ここで感傷に浸っている場合ではない。

 急いで階段を上りきるとそこには――

「……は?」

 目の前にはゆうに三メートルを超す大型オウムが羽を広げていた。

「み、みみみ、みぃつけぇたぁあああああああああああああ、あ、あ、あ!」

 先ほどまでとは違う野性的な野太い声、血走った目、汚く垂れたよだれ。

 擬声オウム『エンブリオ』だ。

「あそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼ」

 見た目とは裏腹に無邪気な女の子の声で鳴き続ける。

「誰が遊んでやるかよ」

 龍爪『ヘカトス』を構えたものの、その先の行動を思い描けない。生物図鑑には『非常におとなしい性格。人間の声を真似るが好きで欺いてやろうという気持ちはなく、単にじゃれたいだけと推測される。子ども達と楽しく遊んでいる姿をよく見かける』と記載されていた。

 でも、それが今はどうだ。

 誰かの見つけた英知に頼り過ぎて、いつのまにか自分自身の思考を放棄していた。

 あの日、エルマを守ると決めたはずだろ。

「おーはようおはよーこんばんはこんにちはー」

 男性の裏声のような歪さを伴う。

 もう一度『ヘカトス』を突き出す。両手をいっぱいに広げて勢いよく胸の前で交差させる。

 十本の爪が『エンブリオ』に向かって飛んでいく。爪はワイヤーの糸で繋がれていて、操作することによってわずかな軌道修正をすることができる。全ての爪が絡み合い、交差して『エンブリオ』の体に突き刺さる。鈍い感触がワイヤー越しに伝わってきた。

「龍爪術その二『簪』」

「なぁんでぇええぇなあああ、あのおおぉおおおお」

 悲痛な女性の声が響く。一瞬、エルマの顔が頭に思い浮かんで追撃をためらう。

 けれど、

「そんな場合じゃないだろ!」

 拳を強く握り締めるとワイヤーが伸縮して龍爪が元に戻っていく。

 ジュク、ジュクという音と共に血と肉が飛び散る。

 声を真似るだけか? 他に攻撃手段があるのか? 絶えず距離を取ることに神経を注ぐ。

 閃光でも放ってその間に通り抜ける方法もある。けれど、抜けたその先にどんな事態が待っているのかもわからない。ここは天空世界じゃないんだ。朝、起きてもエルマの手作り料理は食べられない。いつもの『当たり前』と『安全な日々』は頭の中から捨てろ。

 そのとき、

「お、おいお、おおおおおおおおお、おいでおいでおいでええええええええええ」

 擬声オウムの目から黒い部分が消え失せて、代わりに白濁した目を覗かせる。

「おいでおい、おいででででいでででおで、……お…………いで………………お」

「え?」

 地面に佇んでいた黒い影が揺らめく。その中に、紺碧の目が揺れていた。

 ……目?

 『エンブリオ』の体から黒い影が滲み出てくる。やがてボト、ボト、と剥がれ落ちては影が地面でのたうち回る。『エンブリオ』が体を何度も痙攣させては横に倒れ込む。そのまま影の中にトプン、と沈んでいくと、ゴリ、グニィ、と肉や骨の削げる音が聞こえてくる。

 黒い影に向けて龍爪を構えた。

「……来る」

 影が揺れて波紋を生み出す。グニュグニュと蠢きそれは一つの形を成す。

 生命の影に寄生する化け物『影狼』だ。

 今、僕の目の前にいる姿は狼というより人そのものである。影の人とでも呼ぶべきか。

 『影狼』が右手を掲げると斧の形に変化していく。

 グッ、グッ、と素早く二回握り込み、龍爪内部に空気を圧縮した。

 両手を突き出して爪の先端を一つに集中する。

「龍爪術一の改『漣・凪』」

 一つに合わせた先端から、見えない弓矢を光速で放つ。

 閃光は『影狼』の体を射抜いたものの、飛び散って舞った影が穴を埋めていく。

「そりゃ、実体がないんだもんな」

 『影狼』の体がブルブルと震えて影から大量の骨を吐き出した。

 骨の山を思い返す。あれはこいつに喰われた化け物達の骨だったんだ。黒い影が音もなく近付いて斧を振り下ろす。とっさに『ヘカトス』で受け止めると至る箇所に亀裂が走った。

「影のくせになんでお前の攻撃は通るんだよ!」

 両手を胸の前でゆらゆらと揺らしながら僕を馬鹿にする。感情的になるのは良くないと思いつつ『ヘカトス』でいなすと、お前の攻撃なんて意味ないんだよと言わんばかりに後退した。

 絶えず走り回りながら『影狼』の様子を窺う。入り組んだ内部。影に潜伏する習性。立ち止まっていればすぐにでもどこからか奇襲してくるだろう。突如現れた影のノコギリがギャギャギャと不快音を撒き散らしながら柱を真っ二つに切り崩す。

 柱が地響きを鳴らしながら砂へと還っていく。土煙を巻き上げて視界を塞がれてしまう。

「……どこ行ったんだ」

 実体のない敵、影だけの生命体。生物図鑑には『とにかく光を当て続けるしかない。極限に弱っていたとしても影で少し休まれると体力が戻ってしまう。日の光が強い朝に遭遇した場合、迎撃せずにその場から離れることを推奨する』と記載されていた。

 あいにく、塔の内部は薄暗かった。影なのか暗闇なのかすぐに判別がつきにくい。逃げるにしてもすぐに追いつかれてしまうだろう。だとしたら、致死量の光を与えるしかない。

 龍爪の爪同士を何度も何度も叩き付ける。

 内部に塗してある『フィラメント』の粉末が龍爪を淡く発光させる。

「龍爪術その三『灯』!」

 金属音が高らかに鳴り響いては閃光を放つ。目をつむっていても意識が飛びそうなほどの明度だった。その一瞬の空白でさえもいつ攻撃されるかわからない。光に目が慣れるまで『ヘカトス』を無様に振り回す。と、

「――っ!」

 体が硬直する。ぼやけた視界で足下を見ると僕の影の中で紺碧の目が揺れていた。

 侵食するように『影狼』が少しずつ体を這いずり出す。

 痛みはないけど自分の体ではなくなっていくように奇妙な感覚に襲われる。『灯』で次の閃光を撃とうにも体の自由がきかない。

 意識が遠退きそうになって目がぐるんと上向きになる。

 ハッ、ハッ、ハッ、と呼吸が浅くなる。胸を裂かれて心臓を直接掴まれているようだ。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ! ここで、終わって、たまるか――

「『フィラメント』!」

 大きく叫ぶと、数匹の『フィラメント』が僕の体に纏わりつく。赤い警告色を発する。

「僕の体を喰らえ!」

 了解したと言わんばかりに発光が強まると、バチ、バチ、という音と共に痛みが突き刺す。

 先ほどと同じく僕の体から黒い影が滲み出てきては、ボト、ボト、と剥がれ落ちては影が地面でのたうち回る。実体がなくても寄生している間は痛みを伴う。影にも弱点はあった。

 かといって体に寄生させてから迎撃していたのでは僕が先に悲鳴を上げてしまう。

 度重なる疲弊によって体がうまく動かない。

 右足を引きずりながら階段を上る。血がポタポタと垂れ落ちて、僕の生きている証を少しずつ失わせていく。心臓の音がやけにうるさい。視界もぼやける。呼吸が燃えるような苦しさを伴う。最後の段差につまずいて地面に仰向けで寝転がった。

 天井には防龍シェルターと同じステンドグラスが僕を嘲笑っていた。

 『影狼』は迎撃できたのだろうか。探そうにも顔がどこにも動かない。

 どれほど塔の内部にいたのかはわからないけれど、ガラスから差し込む光が強まっていく。

 全ての色に橙が浸食する……夕暮れだ。雷の音が聞こえてくる。

 僕はここで死ぬのだろうか。故郷には戻れず、エルマには会えず。ただ、惨めに。

 ふと、黒い影が僕を覗き込む。

 『影狼』のないはずの口が僕をにたにたと嗤っているような錯覚を覚える。

 頭の影がドリルのように形を変えて高速回転を始めた。

「せめて……一矢報いて、やる……よ」

 ボロボロになった右腕を伸ばす。意図せず右手に力が入った爪の一部が発射する。

 影となって霧散するはずの体を、龍爪が――貫いた。

「……なん、で?」

 物理攻撃が効かないのなら、どうしてあのとき『影狼』は退いたのだろう。

 今までの行動を思い返す。適当に振り回した龍爪を避ける。相手の攻撃だけが僕に通じる。そして、物理無効なはずの体に龍爪が貫く。そうだ。こいつは無敵なんかじゃない。攻撃する瞬間だけ影に実体が伴う。考えてみれば単純なことだろう。

 だからといって、僕にどうにかできるほどの体力は残っていない。

 ……じゃあ、ここで諦めるのか。

 エルマの顔が浮かぶ。そんなこと、できるわけないだろ。

「僕に力を貸してくれるかい?」

 数匹の発光蝶が僕と『影狼』の周りを優雅に飛び回る。

 先ほどと同じことを繰り返すだけ。『影狼』が僕の体を乗っ取ったら、今度は致死量の光を与える。つまり、僕と『影狼』の我慢比べだ。僕の体がくたばるのが先か。敵の消滅が先か。

 『フィラメント』が牽制するように発光を繰り返す。

 寄生される前に僕の体に入り込むと傷や疲労が少しずつ癒えていく。なんとなく感覚でわかる。治癒能力ではない。これは、生命力の前借りだ。寿命を縮めて、むりやり回復している。

 この戦いを制したとしても、その先に何が待ち受けているのかは想像できない。

 けれど、『影狼』を倒さない限り『その先』すらも僕にはなかった。

「だったら、今、どうなってもいい」

 片膝をつきながらよろよろと立ち上がる。視界が澄んでいく。

 空からはゴゴ、ゴ、と雷の音が強まる。

 何度も攻撃を当てられて腹が立っているのか、黒い影が濃くなっている気がした。

 建物中の影が揺らめき、影飛沫を上げて、次第に『影狼』の体に取り込まれていく。

 太く、長く、鋭い。六つに分かれた羽と尖った牙。

 伝説上の生物とされている『ドラゴン』の姿だ。まさか、こいつが生物図鑑に載っている『ドラゴン』なのだろうか。……いや、影真似とはよく言ったもので、きっとこいつは実際に会ったことのある生物の姿にしかなれない。僕の希望がこんな奴であってたまるか。

 あんぐりと大きな口を開けた『影狼』が数発、影の弾を吐き出す。地面にトプン、と沈んだ影は僕と同じ大きさの人型になる。一匹であんなに苦労した敵を今度はまとめて相手にする。

「上等だ、この野郎!」

 グッ、と足を踏み込み、体を低くしながら『影狼』に飛び込む。『フィラメント』の光を纏った龍爪はダメージこそ与えられないものの、影が再形成される速度を大幅に遅らせた。

 一つずつ、常に対処を続ける。

『未知の経験に立ち向かうときには思考を絶えず止めないことだ。行動を観察して、己の限界を見極め、環境を制する。全ての物事に意味を見出すんだ』

 ヴァイオレットさんの言葉を思い出す。こんなときだからこそ、慎重に動く。

 そのとき、

 鉤爪状の尾が真横から頭を引き裂く――瞬間、体の力を抜いて間一髪のところで避ける。

 再び地面に倒れこんでは天井を見上げる。僕はそこに、希望を見つけた。

「『影狼』を討つにはあれしかない」

 地上を這う者と空を舞う『影狼』を同時に相手取るのは厳しい。

 両手を大きく広げて勢いよく胸の前で交差させる。

「龍爪術その二『簪』!」

 十本の光る爪が『影狼』の体を貫いて霧散する。

 無意味だと嘲笑うかのように口から黒い影を垂らした。

「お前じゃねーよ。ばーか!」

 龍爪が勢いよくステンドグラスを割って、幾重もの光が降り注ぐ。

 弓かと勘違いするほどの暴風雨が塔に浸食した。

 天空世界で生まれ育った人間だからこそ、なんとなく感覚で『そのこと』がわかる。

 三、二、一――

 空に閃光がほとばしる。一筋の雷が龍爪に落ちて、轟音が鳴り響いた。

 繋がれたワイヤーの糸を力の限り引き戻す。

「もう、ここで、終われぇえええええええええええええ!」

 全ての爪が絡み合い、交差して戻っていく雷を纏った龍爪が『影狼』の体に突き刺さる。

 『ヘカトス』の全ての爪がバキンと割れた。

 激流と電撃が混ざり合って強い光を放つと、バシャバシャと影を震わせて体を痙攣させる。

 プス、プス、とゴムが焦げたような臭いがする。影の焦げた臭いというものを初めて知った。

「龍爪術その四『轟』」

 『影狼』の巨躯がその場に横たわる。終わったのか、死んだふりなのか。これで仕留められなかったらもう僕に武器は残っていない。『フィラメント』の生命力活性もどれだけ持つか。頼む。終われ、終われ、終われ、終われ、終わってくれ。

 やがて――

 滲んだ黒い影が地面に飲み込まれていく。

「終わった……」

 そう思うと急に体中の力が抜け落ちた。

 尻餅をついて空を見上げた。割れた天井から恵みの雨が流れ込んでくる。

 口を開けて喉に流し込むと、狭間の雲の表層で採れる水とは違って苦みを感じた。

 見事に割れてしまった『ヘカトス』を眺める。

 この武器がなければ僕はここまで辿り着けなかっただろう。龍爪を外して地面に置く。両手を合わせて祈った。今までありがとう。と、心の中だけで呟いて麻袋に詰める。

「もういいよ。『フィラメント』」

 僕の体が淡く光ってから発光蝶が抜け出す。相応の痛みを覚悟していたけれど特に体に異変はなかった。『影狼』を倒した興奮と激闘で麻痺しているのかもしれない。これから先、生命力を前借りした反動があると思うとぞっとした。

「でも。まぁ、ここを乗り切らないとどっちみちだったしなぁ」

 ゆっくりと立ち上がってお尻のほこりを払う。

 息を整えて残りわずかな階段の先を見つめる。『フィラメント』の先導を頼りに最上階を目指す。エレベーターの表示を信じるのならあと十階上に光の正体が待っている。

 別個体の『影狼』か、それ以上の強敵が待ち構えているかもしれない。そのときはそのときだ。と、覚悟を決めて階段を上る。人間の世界から鳥達の領域へと変わる。

 五十六階、五十七階、五十八階、五十九階、

 そして――

「……着いた」

 鈍く、重く軋んだドアを力いっぱいに開くと凍てつく風が吹き込んでくる。

 最上階の部屋の中心には、僕の五倍はありそうな大きな黒い球体が佇んでいた。

 焼けるほどの夕陽が目の前に広がる。窓ガラスのほとんどが割れているから尚更だ。

 『フィラメント』の淡い光と重なって幻想的な風景を生み出す。

「なんだこれ」

 黒い球体を近くで観察すると、ところどころ小さな穴が無数に空いている。

 『モルガナ』にある天象儀が頭をよぎって、もしやと思い空を見上げるとドーム型の天井に映写幕が用いられていた。この黒い球体で天井に星を映し出す。止むことを知らない雪が音と光を静かに飲み込んでいく。夕陽の橙に群青が差し迫っていた。

 それを合図に『フィラメント』達が球体の中に入り込むと一斉に光り出す。

 再び天井を見上げるとそこには星座が映し出された。

 その中でも一際大きく輝く光を見つける。

 不動の星『アイリス』だ。

 いつだったか、エルマと一緒に向日葵の花畑で星を眺めたことを思い出す。

「そういえば、エルマにあの星のことを教えてもらったっけな」

 常に移動し続ける浮遊大陸から見ても『アイリス』の居場所を変わらない。

 いつもと同じ場所で、いつもと同じ明るさで自分達を見守ってくれる星。

 僕とエルマは昔、住む世界が違った。フラマリアとアウロラ。文明も人種も考え方も違うけれど、空に浮かぶ星々は僕達に分け隔てなく光を見せた。どんなに違う場所にいても、あの光だけはみんなが同じ光を見てた。僕も。きっと、エルマも。

 あの星を辿れば、いつかは故郷に戻れるかもしれない。

 いや、いつかじゃない。必ず戻れると信じて、信じ込む。

 だから――

「エルマ、もう少しだけ待っていてほしい」

 暗闇しかなかった空の道に、わずかな希望の光が見えた。

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