第1章
※この作品は作家の秋助さんに「こんな物語が読みたい」と依頼して作成していただいた作品です。
作者の許可を得て公開しています。
遥か昔、この世界には『海』と呼ばれるものが存在したらしい。
青くて、冷たくて、塩辛くて、世界のほとんどを『海』と呼ばれる水で占めていた。
僕達は生まれたときから空の世界しか知らない。
浮遊物質の影響で雲の上に浮かぶ大陸、天空都市フラマリアの世界でしか生きたことがない。
『海』に憧れがないと言えば嘘になる。図書館の本で見つけた『サカナ』や『クジラ』と呼ばれる生物の絵には、どこか心がとてもわくわくした。水の中を泳ぐ。というのはどういった感覚なのだろうか。空気の中を泳ぐ、あの感覚と似ているのだろうか。
『地上』の世界があるということは文献にも残っているし、授業で誰しもが習うことだ。
空へと浮かばない『地上』に広がる『海』には、一体どんな景色が待ち構えているのだろう。
そのとき、ブブ、ブブブ、という大きな羽音で目を覚ます。
「ごめん、レイピア」
人間の五倍ほどのサイズがある大型ミツバチ、レイピアの首元にぶら下がった木製のカゴの中から空を眺める。雲の上には景色を遮るものなんてない。あるのはただ、ただ、どこまでも広がる空と、大小さまざまな形の浮遊大陸だけ。とても見晴らしが良かった。
防寒具をこすりながらギチギチと鳴くレイピアに急かされて本来の目的を思い出す。
飲料水や工業用水を確保するための水資源組織『ティアーズ』に所属している僕は、レイピアに乗って狭間の雲の表層で水を確保するのが任務だ。
雲よりも高い位置に浮いている天空都市と、雲よりも低い位置に浮いている空中都市。その間を隔てる雲の壁。それが狭間の雲と呼ばれている。表層、裏層、深層と分かれていて、雲の底へ沈めば沈むほど、雲の性質が人間には耐え難いものに変容していく。
表層に沈んで、雲の中を自由に泳いだ。
レイピアが背負っている採水ネットに水を貯めていく。顔に付着した水滴を指で掬って舐めてみると、わたあめを溶かしたようにほんのりと甘い味がする。ミツバチレース『イエローバレッド』の屋台で妻のエルマとハニートーストを食べたことを思い出す。
ミツバチに制御指令のできる蜂笛『カガリネ』を使って、雨雲の多い場所に誘導できるもの、僕とレイピアは行動を共にした時間が長いため、蜂笛を使わずとも自然と意思疎通を図ることができた。ミツバチにだってちゃんと感情があるのだ。
「……あ」
天空都市の暮らしは至って平穏だ。
誰かの物語になるような冒険もない。人類未踏の地なんてどこにもない。みんな言わないだけで、どこかに『海』や『地上』への憧れがあるはずだった。未知なる冒険がしたいという気持ちと、エルマと一緒に安穏な日々を過ごしたいという気持ちが混ざり合う。
風がやわらかで、目をスッと覚ましてくれるほどの冷たさが気持ち良い。
そのときだ。ギチギチ、ギチギチ、とレイピアが警戒音を発した。
「……レイピア?」
空を泳ぐことを一旦やめて、静かに辺りを見回す。
ひゅう、ひゅう、と風を切る音が強まった。
薄まっている雲の向こう、何者かの影がこちらに近付いていくのを捉える。
ふっ、と影が消えたのを確認して大きく息を吐いた。
「空害か?」
遥か昔から空の世界には空害と呼ばれる化け物が存在していた。
爆弾の卵を産むニワトリや、雲と見間違うほどふわふわなウサギなど、どうして空を飛べるのかわからない生命で溢れていた。普段は人間の住む天空世界にやってくることはないけれど、時々、狭間の雲が薄まる瞬間に進入を許してしまうときがある。
他にも、伝承の中だけの存在とされている『ドラゴン』がこの世界にはいたらしい。
この星の始まりと共に生まれて、『地上』に終わりをもたらした生命体。
僕は昔から、今だってそんなものはおとぎ話だと信じていなかった。みんなそうだろう。
『ティアーズ』では一応、やむをえず空害と遭遇してしまったときのために、ある程度の戦闘訓練は積んでいるけど、緊急事態外での交戦は原則禁止とされている。
戦わないで済むなら戦わないに越したことはない。
「さぁ、そろそろ帰ろうか」
蜂笛を鳴らそうとしたそのとき、ボーン、ボーン、と古時計のような音が鳴る。
そして――
「っ!」
強風と共に僕の五倍の大きさはありそうなカメレオンが姿を現す。
空の色に溶け込んでいたんだ。
体中が機械の寄せ集めでできたカメレオンが、電球の目をぎょろぎょろと蠢かせて僕達を捉える。砂時計、水時計、花時計などの数多くの種類の時計で構成された舌で、まるで品定めをするかのように伸ばした。どうする。ここで交戦するか、さっさと逃げてしまうか。
よくよく目を凝らしてみると体中の至る場所に歯車が組み込まれていた。
カチ、カチ、カチ、と歯車の回る速度が、やがてカチカチ、カチカチ、と速度を増していく。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ、
機械型カメレオンが僕達をぎょろりと睨み、電球の光が強まった。
「レイピア!」
僕の合図よりも早くレイピアが急上昇した。伸び切った時計舌からボーン、ボーン、と音が鳴って口の中に戻っていく。今のが攻撃範囲の限界値だろうか。
下手にあいつから逃げて、がら空きの背中を貫かれるのだけはごめんだ。
再び歯車がカチ、カチ、と鳴り響く。
カチカチ、カチカチ、カチカチカチ、カチカチカチカチ、
カチカチ、カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ、
電球の目が光る。
ガチャガチャと騒音を撒き散らしながら時計舌を勢いよく伸ばす。
攻撃はかわせる。けれど、
「それは、そうだよなぁ」
攻撃が当たらないことを察すると、機械型カメレオンが姿を隠した。
カチ、カチ、と歯車の回る音はしても、縦横無尽に開けている空ではどこから攻撃を放ってくるかわからない。戦闘に慣れていない僕はなおさらだ。ふと、頭上に影が生まれたと思ったらレイピアの脚が僕の頭を撫でる。傷付けないように優しい力加減だった。
「レイピア、君に任せてもいいかな?」
コクン、とレイピアが頷く。
僕には目視できなくても、昆虫の本能が何か感じ取れるのかもしれない。
今のところ時計舌で貫く以外の攻撃方法は見せていなかった。
あの時計舌さえ破壊してしまえば勝機はある。
防寒具から閃光筒を取り出して機械型カメレオンの様子を窺う。
カチ、カチカチ、カチカチカチカチ、カチカチカチカチカチカチカチカチ、
姿のない攻撃が襲う。
レイピアが不規則な動きで勢いよく前に進む。
羽音が一段と強まってはギギィ! と高らかに鳴き声を発する。
「――ここだ!」
ゴーグルを装着して、閃光筒を何もない空へと思いきり投げ放つ。
まばゆい光が僕達を包む。
カメレオンの視力はとても高い。聴力と嗅覚を失う代わりに高水準の視力を得たのだ。
それが今、敵にとっての仇となる。
ボーン! ボーン! ボーン! ボーン! ボーン! ボーン!
と、時計舌が一際大きく鳴り響く。
あまりの騒音に平衡感覚がおかしくなりそうだった。
時計の針がぐるぐる、ぐるぐるとでたらめに時を刻む。
姿を現した機械型カメレオンに向かって、小型荷電粒子蜂『ビーショット』を構える。簡単な戦闘訓練を積んでいるとは言え、実践は初めてに等しい。
こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。
手が震えた。
機械型カメレオンが赤、青、橙とぐちゃぐちゃな色に変化する。
今しかない。混乱している、今しか。
でも、一発しかない『ビーショット』を外したら……
ぎょろ、ぎょろと忙しなく動いていた電球の目が、やがて僕を捉える。
こわい。こわい。こわい。こわい。こわい!
でも――
エルマの顔が思い浮かんだ。おなかの子どもを思い浮かべた。
やるしかない。と、再び『ビーショット』を構える。
歯車が再びカチ、カチ、カチ、と回り出す。
カチ、カチカチ、カチカチカチカチ、カチカチカチカチカチカチカチカチ、
時計舌が僕達を狙って伸びてくる。
――今だ!
『ビーショット』を機械型カメレオンに向けて放つ。
閃光と時計舌の破壊で電球の目がバチバチと明滅を繰り返した。
今の内なら逃げ切れる。
「レイピア! すぐにフラマリアへ戻ろう!」
機械型カメレオンに背を向けて勢いよく立ち去ろうとする。
しかし、カチ、カチカチ、カチカチカチカチ、カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ、と。今までにない速さと音が背後から聞こえる。
「……え?」
体を覆っていたほとんどの機械が舌周辺に集められて、先ほどまでとは比較にならないほどの長い舌に作り替えられていた。戦いの中で、より対象者を殲滅するために進化を遂げる。それを考えるだけの知性がある。空害がこの先も進化していくと思うとゾッとした。
あ。と、思う瞬間よりも早く時計舌が僕の目の前に迫る。
終わった――
そのとき、僕の横を三角獣に乗った女性が駆け抜けた。
「すまない」
女性は一言だけ残して、涙を流しながら荷電粒子蜂『ビースティンガー』を撃ち放った。鮮やかに、針が音もなく空害を貫く。数秒の沈黙のあと、雷鳴のような衝撃音が空に炸裂した。
機械型カメレオンを構成していたガラクタが音を立てて崩れていくと、中から人間サイズの機械ではないカメレオンが顔を覗かせる。意識を失っているのか、そのまま地上へと落下する瞬間、女性が鉄製の網を投げ込んで捕縛する。
「機械型カメレオンは体に磁力を宿した空害だ。本体を叩かなければ意味がない」
女性が鉄製の檻を三角獣の角にぶら下げる。
「助かったよ、ガブリエル」
そう言った女性はガブリエルと呼ばれる三角獣の角を優しく撫でた。
軍服には鷹のシルエットが描かれていて、高性能な蜂型の武器を携える。
対空害組織『ナイトホークス』リーダー、ヴァイオレットさんだった。
「あ、あの……ありがとうございます……」
「『ティアーズ』の者か。いつもご苦労様。おかげでおいしい水が飲めてるよ」
話し方に嫌味がなく、心の底から感謝していることがわかって嬉しくなる。
危険度で考えればヴァイオレットさんの方が何十倍も大変な任務なのに頭が上がらない。
「君には守りたいものがあるかい?」
「守りたいもの……」
そんなの、決まっている。さっきだって、僕の心に現れて励ましてくれた。
いつだって、エルマが僕の大切な存在だった。
「未知の経験に立ち向かうときには思考を絶えず止めないことだ。行動を観察して、己の限界を見極め、環境を制する。全ての物事に意味を見出すんだ」
ヴァイオレットさんの話していることは難しい。
僕には到底理解できるものではなかったけど、なぜか揺り動かされるものがあった。
「それと、大切にしたいものをしっかりと心に刻め」
「はい。ありがとうございます!」
「礼には及ばないさ。行こう、ガブリエル」
蹄で空を何度か蹴ったあと、綺麗なたてがみをなびかせて去っていく。
「レイピアもありがとう」
ザラザラとした体を撫でると、ギチチと声を高くして鳴いた。
飲料水も充分に貯まった。空害に襲われたことも報告しに早く戻った方がいいだろう。
気付けば、日が暮れて世界を橙に染め上げていた。
ヴァイオレットさんの背中を追いかけるように、僕は天空都市へと踵を返した。
天空都市の中心部に位置する輸送蜂施設『フーディエ』にレイピアを返しに行く。人間を運ぶためのミツバチを『ナイトホークス』に手配したり、人間に懐くように養蜂したり、ミツバチ用の防寒具を作る施設で、天空都市にはなくてはならない存在だ。
遠くに先ほど助けてもらったヴァイオレットさんを見つける。機械型カメレオンの亡骸を台車で運びながら、空害研究組織『ラビリンス』の研究員と落ち合っていた。
遠くでよく聞き取れなかったものの、どうやらすでに機械型カメレオンは実験体が飽和しているらしく、もっと珍しい空害をよこせということらしい。ヴァイオレットさんは空害を目の前にして、両手を合わせて祈る。数秒の静けさのあと、研究員に亡骸を引き渡した。
『ナイトホークス』は空害をただ殺すのではなく、そこには厳格なルールがあり、礼節があり、敬意がある。己の信じる「正義」があれば善にも悪にもなる。
秩序のために、いくつかの浮遊大陸が犠牲になったとしても。
「空害に襲われたそうだな」
後ろから声を掛けられて振り向くと、天空都市から離れた孤島アウロラの長老がいた。
理由はわからないけれど、フラマリアで生きることを望まない人達が孤島で過ごしている。
エルマも元はアウロラ出身だという話を本人の口から聞いたことがあった。
あまり話したがらないからそれ以上は聞かなかったけど。
「今日はどうしたんですか?」
「最近、狭間の雲の様相がおかしくてな。空王と話をしに来たのだ」
天空管理局『リィンカーネーション』を治めるのが空王セントエルモ様だ。空王と長老は旧知の仲らしい。だからといって友好関係であるかは別の話で、空に異変があったときにだけ天空会談が開かれる。先ほども普段は出現しない狭間の雲に空害が現れた。
天空世界に異変が起きているのかもしれない。
「雲はお怒りなのだ。私達は空を飛べない。だというのにこうして空の支配者でいる」
その言葉にはどこかざらつきを覚えた。
支配者だと呼ぶのなら空害に怯える必要も恐れる心配もない。天候だって覆すことができる。
「だからこそ祈りを捧げなければならない。空の領域をお借りしているのを忘れてはならん」
元々、人間は『地上』で暮らしていたという文献が残っているそうだ。遙か昔、世界に大災害が起きて『地上』に住めなくなってしまった。住む場所を失った人間は何らかの方法でこの天空都市フラマリアに辿り着く。空の領域を借りて僕達は生きている。
長老は空の本当の支配者を『雲』だと考えている。それは、そうなのかもしれない。
雨も、雷も、雪も、全て雲から生み出される。
「一人で大丈夫ですか?」
「儂はフラマリアの住人なんぞ信用しない。例え、孫娘のエルマと結婚したお前でもな」
杖をつきながら右足を引き摺る長老の後ろ姿を見つめた。
心の底から僕を嫌悪していないことはなんとなくわかる。けれど、天空世界と空中世界を隔てる狭間の雲のように、フラマリアとアウロラの住人同士の間にも大きな隔たりがあった。
数度、深呼吸を繰り返す。冷たくて軽やかな空気が肺の奥まで染み込んでいく。
天空都市フラマリアで生まれ育ってから二十二年が経つ。
だから僕はこの世界以外のことは何も知らない。いや、知ろうとしなかっただけか。
フラマリアのことを考える。この国は農業や畜産業のほか、狩猟ライセンスを持つ一部の人達は、空害を狩って家畜の食料にしている。生きるための行為以外にも、無法者集団『アンビリーバーズ』のように、単なる快楽のためだけに空害を狩る違法行為を犯す人間も存在した。
天空では常に風が吹き続けるので、風力発電のための風車が至るところに建てられている。
ミツバチの移動制御も、浮遊大陸同士がぶつからないように行う島帆の変更も、風と共に生きる天空都市の住人にとっては必須能力だった。子どもからお年寄りまで、一度覚えてしまえば体から消え去ることはない感覚になっている。
浮遊物質採掘場に訪れると、指揮官のオリゼさんが笛を鳴らしていた。
スポーツマンを思わせる引き締まった筋肉に反して、体はとてもほっそりとしていた。汗が邪魔にならないようにまとめられたポニーテールが、爽やかさをより一層と際立たせている。
「オリゼさん、調子はどうですか?」
「まぁ、良くはないね」
ほれ、とオリゼさんがショルダーバッグから浮遊物質を取り出して僕に投げ渡す。左手でそっと握ると冷気を纏っているかのように冷たく、うっすら青白い発光を繰り返している。
「……綺麗だ」
この小さな石が、僕達を支えている浮遊大陸の礎になっている。これを細かく砕いて狭間の雲の雨水に混ぜると空油エネルギーを作り出し、人々の生活を大いに手助けしている。
「浮遊物質の量は足りてるんですか?」
「いいや。少なくともここの採掘場はもうすぐ枯渇するだろうね」
浮遊物質の光。それは光の加減が強ければ強いほど物質エネルギーが強く、弱ければ弱いほど物質エネルギーが少なくなっている目安となっている。採掘場を見回してみると、どの浮遊物質も光り方が弱い。生活するためのエネルギーに還元するには心許ないということだ。
浮遊物質のエネルギーを失う。
それはすなわち、天空都市が『地上』へと落ちる可能性があるということだ。
長老の言葉が頭の中を駆け巡る。
『雲はお怒りなのだ。私達は空を飛べない。だというのにこうして空の支配者でいる』
浮遊物質が枯渇しそうなのも、空の様子がおかしいのも、雲の怒りなのだろうか。
「あとこれ、エルマにお土産だよ」
そう言うとオリゼさんが何かを手渡してくれる……小さな石?
「浮遊物質を宝石に加工したのさ。まぁ、受け取っておくれ」
「ありがとうございます」
加工されているからなのか光を発することはなかったけれど、代わりに深みのある独特な青白さを纏っている。群青色よりも深い色のはずなのに、明るく鮮明な感じも受けた。
「その色はね、魂の色と言い伝えられているんだよ」
「魂の色……」
確かに、人魂をイメージするときはなぜか青白い火の玉を思い浮かべる。
光に透かしてみるとわずかに輝いた気がした。
「ちゃんとエルマに渡しておいてね」
「はい」
そのとき、遠くの方で作業員がオリゼさんを呼ぶ。
「それじゃあね。エルマにもよろしく」
再び歩みを強めていくと三階建ての黄色い建築物が見えた。
正六角形のタイルを隙間なく並べた独特な扉をくぐると、甘い蜜の匂いが鼻をくすぐった。一般販売している『フーディエ』特製のハチミツは住人達にも大人気だ。
「ただいま、リリン」
どこに呼びかけるでもなく声を出すと、二階からリリンが降りてきた。
「おかえり。レイピアに怪我させてない?」
「そんなことさせるわけないだろ」
僕の心配よりもまず先に、ミツバチのことを気にする女の子、リリンは僕の年下の幼なじみだ。昔から明朗快活で、屈託なく笑うその姿に何度も助けられている。僕とエルマを繋いだ立役者でもあるのだけど、そのことを本人が知らないのも面白い話だ。
「あ、でも途中で空害に襲われたよ」
「え、嘘? 最近多いよねー。空害が狭間の雲をすり抜けちゃうの」
リリンが「こわかったねー」とレイピアの頭を撫でる。
「アトラも気をつけなね。エルマと産まれてくる子どもが心配するよ」
「……うん」
そうだ。僕ももうじき父親になる。実感はまだ沸かないけれど、きっと毎日が素晴らしいものになるだろう。子どもと一緒に天空都市を散歩して、一緒にミツバチレースを観戦して。
「そうだ。子どもと言えばミツバチ達にも活きの良い子どもが産まれたの! ……見る?」
その言葉に目をぎょっとさせる。リリンの呼ぶ『子ども』とはミツバチの子ども、つまり幼虫のことだ。人間の何倍も大きいミツバチの幼虫である。当然、その幼虫も小さいとはいえ人間と同じサイズくらいだ。よほど興味のある人間しか見ないだろう。
「……いや、いいよ」
「そんなそんな、遠慮しなくていいから!」
僕の手をむりやり引っ張って飼育小屋に押し込まれる。
「ひゃ、っ!」
最初は一匹の巨大幼虫だと思ったら、よくよく目を凝らして見ると体がうねうねと細かく蠢いている。これは、数十匹の幼虫が一つに重なって大きな幼虫に見えているだけだった。
キュウ、キュウ。と金切り声で鳴くのが余計にゾッとさせる。
「これ、なにしてるの?」
「産まれてすぐに親元から離しちゃうから、きっと寂しいんだよねぇ」
かわいそうだねぇ。とリリンが幼虫達を撫でる。その度に幼虫達がキュウ! と鳴いた。
「特にカトレアは甘えんぼだからね。ほら、いつもより元気がないでしょ?」
「いや、……え?」
指差す幼虫をどれだけ観察しても、どの個体も同じにしか見えなかった。
「リリン、幼虫達の違いがわかるの?」
「えー、全然違うじゃん。この子はフランソワ。あの子はヴィクトリア。向こうの――」
「わかったわかった! もういい」
ミツバチに留まらず、リリンは昔から昆虫が好きだったなと思い出す。
両手いっぱいのテントウムシを頭に乗せられたときはさすがに大喧嘩になったけど。
「そういえば、今年のミツバチレース、リリンは参加するの?」
『フーディエ』は月ニ回、人々の娯楽やミツバチのストレス発散などを目的としたミツバチレースを開催している。そこで好成績を残した人達が、都市中の人達を巻き込んだ年一回の走りの祭典『イエローバレッド』に参加できる。
「どうだろう。まだまだ走りたいからなぁ」
リリンはすでに『イエローバレッド』を二連覇していて、今年も優勝すると殿堂入りになって参加できなくなる。前人未踏のその記録に挑んでほしい気持ちはあるけれど、僕とエルマはリリンの走りを見て繋がることができたから、ずっと見ていたい気持ちも充分にある。
「まぁ、子どもが産まれたら三人で観戦しに行くよ」
室内に飾られた優勝トロフィーを眺める。『あの日』のことを、少しだけ思い出していた。
レイピアを『フーディエ』に返してから、今度はエルマが入院している病院へと向かう。
空害に襲われて怪我をした人達は特別病棟に隔離される。人体にどのような影響があって、天空世界にどのような歪みをもたらすのか判明しない以上、他の人達に害を与える恐れがあるからだ。家族とも面会できない。一瞬でも外に出してもらえない。そこは閉鎖的な病室だった。
そういう隔たりがあると知った上で、僕は毎日エルマに会えるという幸せを噛み締める。
病室の前で息を吸って、淀みを吐く。
こうして週に一度、出産準備のために入院しているエルマの前に顔を出す。本当は毎日顔を出したいけど「毎日は疲れちゃうから、たまにでいいのよ」と気を遣ってくれる。僕としては毎日でも足りないくらいだ。もうすぐ子どもが産まれる。その瞬間に立ち会いたいのだ。
「やぁ、エルマ」
声をかけると窓の外を眺めていたエルマが振り返ってほほえむ。
僕を手招きするのを合図に中へ入る。壁際に立て掛けられたイスを手に取って座った。
「アトラ、いつもありがとう」
優しく、無意識にエルマの頭を撫でた。
「もう、子どもじゃないんだから恥ずかしいじゃない」
エルマが照れるのをよそに黙って続けた。
髪の間を僕の手のひらが伝う。こんなことするのはいつぶりだろう。雪のような白銀の髪は壊れてしまうほどに白くて、細い肌と相まって消えてしまいそうな錯覚に陥る。
病葉みたいだな。と、感じた。
秋の落葉期を待たずに変色してしまった葉のことだ。わくらば。いつか花は枯れてしまうとわかっていても、夢は覚めてしまうと知っていても、その儚い幻想に惹かれてしまう。
アウロラで産まれた人達はフラマリア出身の人達に比べて色素が薄い。
長老曰く『雲の御加護を受けている』からだそうだ。
「体の調子はどう?」
「うん、平気よ。私もおなかの子どもも、ね」
おなかを撫でるエルマの姿がとても繊細に思えた。
「最近よくリリンがお見舞いに来てくれるのよ」
「リリンが?」
本人が口にすることはなかったけど、いつも支えてくれているのだと嬉しくなる。
「『子どもの名前は決まってるの?』と聞かれたわ。そういえば、まだ考えてないわよね」
「名前、名前かぁ」
考えれば考えるほど悩んでしまう。いっそのことリリンに頼む手もあるかと思ったけど、リリンに頼むとミツバチの幼虫と同じ感覚で名前を付けてしまいそうだ。
「まぁ、生まれるまでに考えればいいか」
「そうね。時間はだけはたっぷりとあるもの」
急がなくても、名前を考えている時間だけで充分に幸せだ。
「最近、任務は忙しいの?」
「ううん。いつもと同じでのんびりやってるよ。この世界はとても平穏だ」
一瞬、空害のことが頭をかすったけど、いらない心配をさせる必要はなかった。
「食事するときに甘い水を飲むとね、アトラのことを思い出すのよ」
「どうして?」
「アトラが採取したお水を飲んでいるのかなって、なんだかそう思えるの」
そんなことないだろうけど、それはエルマ本人もわかっているだろう。わざわざ否定するのは無粋だった。それに、僕の役割が巡り巡って、エルマの生活に関わるのなら嬉しいことだ。
「僕も空を泳いでいるとエルマのことを思い出すよ」
「私を?」
「だって僕とエルマが出会ったのは『あの日』じゃないか」
言われて、少しだけエルマが考える。すぐに思い出してふふっと口角を上げた。
「リリンの勘違いした『あの日』ね」
「そうそう。今でも思い出して笑うときがあるよ。でも――」
だからこそエルマと一緒になることができた。
「毎日一緒にいれなくてごめん」
「ううん、いいのよ。任務だってあるんだからね」
任務もそうだけど、僕が心のどこかに刺さっている棘はエルマのことだ。
アウロラ出身の人間とフラマリア出身の人間が一緒にいると後ろ指を指されてしまう。結婚して子どもが産まれるとなるとなおさらだ。純血種に不純物が混ざってしまう、と。もちろん、そう考える人達は今となっては少数派だ。大勢の人が祝福してくれた。
けれど、エルマはみんなから祝福されて、みんなから認められたいと願っている。
「ちゃんとご飯は食べてる?」
「食べてるよ。この前なんてポップキノコーンのソテーを作ったし」
とは言いつつ、あとはほとんど空気を含ませるだけで調理できるレトルト食品だった。
「エルマこそちゃんと食べてるの?」
「うん。病院食はおいしいし、ここの人達はみんな優しいのよ」
「そっか。それは、本当によかった」
エルマが天空都市に来たばかりのころはとにかく迫害が酷かったから。
「そんなに心配しないで。それに、離れていてもアトラと一緒にいると思えるのよ」
「え?」
ほら。と、エルマが窓の外を指す。
「遠くに風車が見えるでしょ。そこでアトラが告白してくれたじゃない」
確かに告白はした。けれど、どんなに眺めても風車は見つからなかった。
「いや、見えないけど」
「おかしいな。ほら、夜日葵の花畑の辺り」
いくら目を凝らしても、風車は見えない。決して、エルマとは同じ景色は見えない。そう思ってしまったとき、僕はどうしようもないほどの激流に飲み込まれた気がしてしまう。
このまま離れてしまえば、そのまま消えてしまいそうな儚さがエルマにはあった。
求めるように手を繋ぐ。
「どうしたの?」
驚くエルマの声がいつも以上に優しくて泣きそうになる。
涙が出そうになるのを堪えていると頭の上にポン、と手のひらが置かれる。
ゆっくりと顔を上げるとエルマが悪戯そうにほほえんでいた。
「さっきのお返し」
そう言って僕の髪をぐしゃぐしゃと掻き分ける。
「大丈夫よ、アトラ。私はどこにも行かない。ずっと、あなたの側にいるわ」
「……うん。ありがとう」
ほんの一粒だけ、溢れた涙を掬って花瓶に落とす。
二人でもう一度、窓の外の夕陽を眺めた。
助産師さんから「今日、出産するかもしれません」と告げられる。
最近は雨雲が作られることも少なくて、リーダーからは「今日の任務は休んでもいいんだぞ」と気遣ってもらえたけど、なんだかそわそわしてしまい任務をしていた方が気が紛れるのだ。出産予定は午後からということもあり、それまでは任務に励むことにした。
さすがに出産前に一言もないのはまずいだろうとエルマの元へと向かう。
病室に向かうとリリンも横に座っていた。
「おはよう、エルマ」
「あら、今日は早いのね。アトラ」
「無事に子どもが生まれるか心配になってね」
あと数時間後には初の出産だというのに、エルマはいつものほほえみを絶やさなかった。
オリゼさんの出産体験談を聞いたことがあるけど、あの痛みは想像できないのにも関わらず僕の顔を真っ青にした。いや、想像ができないからこそ怯えているのかもしれない。
「だいじょーぶだいじょーぶ。レイピアだってたくさんの子どもを産んだんだから」
「人間とミツバチを一緒にするなよ」
というか、……え? レイピアってメスだったのか。長年、行動を共にしているけど性別を初めて知った。僕はもう少しパートナーのことを深く知った方がいいのだろう。
「そうだ。オリゼさんがエルマに手土産だって」
浮遊物質を宝石にしたものを手渡す。
「まぁ、綺麗。持っているとなんだか落ち着くわね」
エルマの白い手と相まって、宝石が神秘的な存在に思えた。
「私もアトラにプレゼントがあるの」
「僕に?」
そう言うとベッドの中から小さな包みを取り出して僕に手渡す。
ほんの少しふれた指は冷たかった。
「超形状記憶糸『アリアドネ』で作ったお守りと防寒具よ」
手のひらの中のお守りを見つめる。エルマとは長い付き合いだけどこういった贈り物とは無縁だった。いや、彼女は人にプレゼントを渡すのが好きだけど、僕が妙に照れてしまうのだ。
「『アリアドネ』の糸はどんなに切っても、どんなに形を変えても、最終的には元通りになるの。離れていても私達を結び付けるお守りになるようにね」
「ありがとう」
切っても、変わっても、離れても。僕達はきっとどこかで繋がっている。
お守りをぎゅっと握り締める。子どもの名前にアリアというのもいいかもしれない。
「アトラからもなんかないの?」
「僕? 僕は……」
返事に困って助けを求めるようにエルマの顔を見つめる。
「私の代わりにアトラが世界を回って、その話を教えてくれれば私は充分なのよ」
エルマは、というよりアウロラ出身の人達はみんな体が弱い。
空気圧だとか浮遊物質の影響だとか推測されているけど事実はわからなかった。
だからなのか、僕の冒険の話を聞くときのエルマは子どものように目を輝かせる。
「エルマはいっつもアトラに甘いんだから」
リリンの人差し指がエルマの頬をつっつく。
「それに、私がアトラに初めて会ったとき、もう充分過ぎるほどのプレゼントをもらったわ」
「初めて会ったとき?」
ミツバチレース『イエローバレッド』で会った日のことを思い返す。それでも、僕がエルマにあげたものなんて覚えていなかった。まさか、思い出とか記憶とかではないだろう。
ふと、壁時計を確認するともうすぐ任務の時間だった。
「ところでリリン、レイピアを借りたいんだけど」
「もう病院の裏手で待ってるよ」
「ありがとう、リリン」
僕がお礼を述べると、なぜかリリンの目が丸くなる。
「どうしたの?」
「いや、アトラが私にお礼を言うなんて珍しいなと思って」
「失礼だな」
とは言いつつ、確かに会えばいつも軽口を叩く仲だった。感謝の気持ちがないわけではない。ただ、それよりも心地良いのだ。妹のような存在であるリリンと関わるのは。
だから、
「本当にありがとうな。リリン」
「もーう! さっきからなんなのアトラは!」
ジタバタとするリリンをエルマと笑い合いながら、胸の内に温かいものを感じる。
「エルマ、もうすぐ僕達は親になる。そしたら三人でもっと冒険しよう」
「はい、よろしくお願いします」
白銀の髪を正して、丁寧に三つ指をベッドにつく。
「それじゃあ行ってくるよ」
二人に会釈をして椅子から立ち上がる。体がいつも以上に軽く感じた。
いってらっしゃいの挨拶の代わりに、エルマが優しくほほえむ。
病院の正面出口を抜けて裏手側に回る。
レイピアが僕を見つけるとギチチと声を高くして鳴いた。
僕が乗りやすいように頭を下げるレイピアのおなかを、いつもより優しく撫でる。
「なぁ、レイピア。僕達にも子どもが生まれるんだ」
言葉は伝わってないと思うけど、それでも一人で話を進める。
「お前も最近子どもが産まれたんだってな。そりゃ人間とミツバチは違うだろうけど、子どもを愛そうとする気持ちは変わらないと思う。お互い、しっかりと『親』になろう」
今ならあの幼虫達のことも愛せるかもしれない。そんなこと言ったらリリンが一晩中かけて幼虫達の名前と特徴を教えてくれそうだと苦笑する。
「これからもよろしくな。レイピア」
頭を下げると、僕の行動を真似たのかレイピアもギチチ! と鳴きながら頭を下げた。
カゴに乗り込み、空へと旋回を始める。
振り返ると病室の窓からエルマと目が合う。僕は少し照れたあと、軽く手を振った。
「今日もいっぱい水を汲んで、子どもにおいしいミルクを作ってあげるんだ」
冷たい風が僕の気持ちを透過する。
幸せも、正しさも、間違いでさえも、その全てが僕達の明るい未来に続いている気がした。
子どもが生まれたら、一緒に浮遊物質発掘体験に参加して、子どもが生まれたら、一緒にミツバチレースで競争して、子どもが生まれたら、子どもが生まれたら。次から次へと『やりたい』ことが溢れてはなぜか涙も溢れてくる。
天空都市を抜けると快晴が広がった。
野生の大型ミツバチが群れを成してシャボンアクアの花に寄り添う。ミツバチの針が花先に触れると、シャボンアクアからシャボン玉がぽんぽんと溢れた。風に吹かれてシャボン玉が空に舞うと、ぽちゃん、ぽちゃんと玉の中から水の音が聞こえてきて心地良い。
空と雲しかない天空世界にも新しい景色はたくさんあった。
天空都市は常に同じ場所にあるわけではない。風に流されて常に移動を続ける。
虹色の雲、ふわふわと漂う雪の結晶、ゼリーのようにぐにゃぐにゃとした空気の壁。
空域が変わるたびに空の様相が変わっていくのはとても面白い。
望遠ゴーグルを装着して雨雲をじっくりと観察する。最近は天気の良い日が続く。雨雲の数も減少していて、フラマリア付近の水の確保も難しくなった。このまま帰っても出産時間にはまだ早いし、なんだか気恥ずかしい思いもあった。
少し遠くの空域に向かうことにする。今なら風圧も天候も安定しているから大丈夫だろう。
ギュ、ギュイ? と顔をかしげて心配してくれるレイピアに「大丈夫だよ」と返す。
そのとき、チク、チク、と体中を刺すような痛みが走る。
……空気の性質が変わった?
嫌な雰囲気を感じつつもわずかに見つけた雨雲の中に突入する。
チク、チク、という痛みがやがてビリ、ビリ、と電撃を纏うような刺激へと変わっていく。
地響きとも勘違いしそうな空気の振動を体中に感じると、遠くの空で轟音が響いた。
つんざくような、雲が破裂するような、おぞましい『何か』の鳴き声が。
この前の機械型カメレオンか?
いや、それよりも遥かに巨大な『何か』が。
――ドラゴン。ふと、頭の中に文献でしか見たことのない生命がよぎる。
違う。違う、違う、違う、違う。
天空都市で生まれ育った人間なら感じ取れる、もっと本能的な脅威が。
目の前がふっ、と暗くなる。
突き刺す光の矢が頬をかすめたと思った次の瞬間、もう一度轟音が鳴り響いく。
最初は荷電粒子蜂『ビースティンガー』を誰かが撃ち放ったのかと思った。
けれど違う。なんてことはない、その正体は雷雲だ。
全体的に白みの多かった雲海はところどころが灰色に染まっていく。
まるで病葉のようだ。
「帰ろう、レイピア」
雲の様子がおかしい。予報では急激な空の変化は起こらないと言っていたはずなのに。
羽音を強めてフラマリアを目指そうとするも、レイピアの空度は下がるばかりだった。
よく見ると羽のいたるところに結露ができており、体全体からも霜柱が立っていた。
機械型カメレオンが生存戦略のために生態を変えるように、雲も常に進化しているのだろうか。辺りが暗闇に包まれる。バチ、バチチ、と帯電する音がそこら中から聞こえてきた。
気付いた瞬間には自分がどこにいるのかわからなくなる。
フラマリアの中心地に佇む灯台を探しても自分の手がぼんやりと映るくらいの視界だった。
雨と風が酷くなる。
天空世界を轟々と支配する暴風雨はレイピアの羽音も、僕の声さえも掻き消していく。
落雷がレイピアの体を貫くと勢いよく動いていた羽がぴたりと止まる。
「レイピア!」
激しい雨がカゴの中に溜まっていって身動きが取れなくなってしまう。
雨が、風が、雷が襲う。自然の前に人間はなんとも無力だった。
ふと、全ての音が飲み込まれる。
ザザン、ザザン、と篠突く雨もその場に留まって見えた。
シン、と――
色が消えていく。音が失われていく。声が隠れていく。
…………………………あ、
遠く、遠く、遠くの空から風の塊が迫る。風車の羽根や熟蜜樹が巻き込まれて僕を襲う。
ふわり。と、重力が開放されていく感覚に陥る。
雷が光る。
人間の世界から天空の世界へと反転した。
スローモーション。
浮かぶような速度で、空中遊泳をしているようだった。
空から落ちていく様を、ただ、ただ、他人事のように眺めている。
もうエルマとは会えない。子どもとは会えない。
誰もがみんな感動的な終わりを迎えられるわけではない。
『最期』は誰にだって等しく、そして不平等に物語が配られる。
僕の冒険は、ここで終わってしまうのだ。
四年前、ミツバチレース『イエローバレッド』を観戦した日のことを思い出していた。
その日は幼なじみのリリンが出場することもあってか、走者ではない僕すらも胸の高まりを抑えられなかった。月二回のミツバチレースで年間を通して、好成績を収めたものだけが『イエローバレッド』に参加できる。リリンの初優勝がかかった大事な試合であれば尚更だ。
朝から祭事を知らせる空砲が至るところで鳴り響く。
今年は残念なことに優勝候補のロクショウがいる。
空のギャング、無法者集団『アンビリーバーズ』のリーダー格だ。
気まぐれでミツバチレースに参加しては他を寄せ付けないスピードと威圧的な態度で優勝をかっさらう。大会に参加しているとわかった途端に出場を取りやめてしまう選手もいる。悔しいけれど、実力は本物である。
それでも、相手が速ければ速いほど燃えるとリリンのやる気は増していった。
子どものころから天真爛漫で、自分の十倍近い大きさのミツバチの羽を毟り取ろうとしたり、おなかでトランポリンを始めたりと、見ている僕の方が怯えていた。『フーディエ』に飼われているミツバチだからよかったものの、野性だったらどうなっていたことか。
あのときのミツバチの子孫がレイピアだと知った日には驚いた。『ティアーズ』の初任務でタッグを組んだのがレイピアだったからどこか運命めいたものを感じた。
会場へ向かうと人だかりができていた。屋台にはミツバチのきぐるみやお面が売られていて、普段なら買わないような代物なのに、祭りの熱に浮かされてきぐるみを被る人も多かった。
浮遊物質で焼いた爆竹茸や『フーディエ』特製ハニートーストの良い香りが漂ってくる。
人混みの流れとは反対方向に進む。こんなにも人だかりができていたらしっかりと観戦なんてできないだろう。まぁ、幼なじみの晴れ舞台で寝坊する僕が悪いのだけど。そのリリンから教えてもらった秘密の観戦場に向かう。昔、二人で忍び込んだ場所だ。
もうすぐレースが開催してしまう。歩みを強めたそのとき、
「わっ!」
僕と同い年くらいの女性とぶつかってしまう。そんなに強く衝突していないはずなのに、女性は思いきり吹き飛んで尻餅をついてしまう。白銀の髪から粒子がこぼれた気がした。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
左手を差し伸べると女性が左手を伸ばして、すぐに引っ込めてしまう。
その手はとても白くて、繊細そうな肌をしていた。アウロラの住人を示す特徴だ。
「あ、違うんです。こちらこそごめんなさい。感じ悪かったですよね?」
「……いえ」
今度は女性の方からおずおずと手を差し伸べる。僕も少しだけ迷ったあとに手を繋ぐ。
ひんやりと冷たい感触が手のひらの芯にまで深まる。
「……失礼します」
何かから逃げるように女性が踵を返す。だけど人混みに飲まれてうまく前に進めなかった。
後ろ姿からでも不安になっているのがわかる。
「あの!」
騒がしい会場に紛れて聞こえないと思い自然に声が大きくなる。想像以上に声が大きくなってしまったのか女性の肩がびくっと震えた。怯えながらも振り向いたその目が揺れていた。
「なん、ですか……?」
「いや、どうしたのかなって」
伏せた目からこぼれるまつげが綺麗だった。
「……私、ミツバチレースを観戦しに来たんですけど、こんなに人がいるとは思わなくて」
初めての観戦なのだろうか。僕もリリンと一緒に初めて観戦したときは、その熱狂ぶりに子どもながら興奮を抑えられなかった。天空世界では娯楽と呼ばれるものが少ないのも理由だろう。リリンは興奮のあまりそのまま走者を目指すようになったくらいだ。
「あの……良かったら僕と観戦しませんか?」
「え?」
下心があったわけではない。ただ、このまま放っておいて僕が生まれ育ったフラマリアを、僕が熱狂したミツバチレースを嫌いになってほしくなかった。
「ミツバチレース、秘密の観戦場所を知ってるんです」
「でも私、こんな見た目だと……」
白い肌を隠すように右手で左腕を押さえる。フラマリアの人から何か言われたのだろうか。アウロラ出身ということだけで差別する人間は多くない。けれど、これだけの数の人間がいたら必然的に悪意の数も多くなる。無意識の視線が彼女の歩き方を窮屈にさせた。
「大丈夫、僕と一緒に行きましょう」
何気なく彼女の右手を引く。綺麗な人だなとは思いつつ、そのときは特に意識してなかったから手を繋ぐことができた。今となっては恥ずかしくてそれすらもためらわれるけど。
人の波を掻き分けて屋台へと向かう。手のひらに冷たい熱量が伝わってくる。
屋台には大中小のミツバチきぐるみが売られており、彼女に似合いそうなきぐるみを選ぶ。
「僕からのプレゼントです。これを着てれば白い肌なんて目立たないと思います」
「え?」
目を丸くして驚いていた彼女からやがて、ころころとした笑みが溢れる。
人混みなんて気にせず、おかしいから笑う。ただそれだけのありふれた瞬間だった。
「これ、たぶんこっちの方が目立っちゃいますよ」
きぐるみを受け取りながら彼女がいたずらっぽく笑う。歳相応の女性に見えた。
言われて「確かに」と苦笑いする。それに、こんな人混みの中で着るのも恥ずかしいだろう。
それでも、彼女はおもむろにミツバチのきぐるみを被り始めた。
「いや、そんな、無理しないでください!」
よいしょ、と全身をミツバチのきぐるみで纏うと、小柄な体をすっぽりと覆ってしまう。
「どうですか、似合いますか?」
「……まぁ」
アウロラ出身の外見的特長が薄まって心に余裕ができたのか、頭の触覚をぷらぷらとさせながらその場でくるりと回る。その様子がなんともおかしくて、先ほどまでの不安に苛まれていた彼女を考えると心の底から安心して息が漏れる。
「あの……やっぱり、変ですよね?」
その様子を呆れていると勘違いしたのか、彼女の白い肌がみるみる内に赤く染まっていくのが面白いようにわかった。
「いや、とっても似合ってるよ」
虚飾でもお世辞でもない、高純度な気持ちが溢れて思わず敬語を忘れてしまう。
「ありがとう。嬉しいわ」
彼女が笑った。風が吹く。どこからか永遠が流れ着いた気がした。
恋だった。と、今さらになってあのときの気持ちに名前を付けることができる。
それからは自然と敬語が取っ払われた。
「そういえば、まだ名前を言ってなかったね。僕はアトラ。よろしく」
右手を差し出す。
「私はエルマよ。こちらこそよろしく」
同じく右手を差し出して握手を交わした。
そのとき、バン、バンと空砲が数発ほど鳴った。開催を告げる合図である。
「さぁ、今年もやって参りました『イエローバレッド』の季節!」
遠くの空を見上げると、ミツバチに乗った司会者の女性が拡声器で声を上げた。
「行こう。もうすぐレースが開始する」
「えぇ」
と、その前に屋台に寄ってハニートーストを一つ購入する。
「一緒に食べよう」
「あ、私、あまりお金持ってなくて……」
「いいよ。ここのハニートースト、量が多いし一人だと頼みにくかったから助かる」
「……ありがとう」
気遣いとかではなくこれは本当だ。店主から商品を受け取ると温かさが広がる。
「お、かわいいきぐるみだねぇ。彼女かい?」
店主のおじさんがにやにやとした表情と訊ねてくる。
「違います違います違います!」
エルマが必要以上に否定することになぜか心の淀みを覚えた。別に、本当のことなんだから気にする必要もないけど。違和感をごまかすように足取りを速める。
きぐるみだからか、エルマが歩きにくそうにしていて申し訳なく思う反面、ぴょこぴょことした歩き方がかわいいなと思ってしまった。思わずくっ、くっ、と笑みが漏れると、エルマが頬を膨らませて「アトラがプレゼントしてくれたんですけど」と拗ねてしまう。
「ごめんごめん」
エルマ「いーだ!」と舌を出したあとに、ふふっと笑った。
人混みから離れて少しばかり歩くと要塞のような建築物が出現する。
「これ、どこに向かってるの?」
「空害研究組織『ラビリンス』の敷地裏に高台があるんだ」
え? とエルマが戸惑う。
「やっぱり、ちゃんと見たいかな?」
「ううん、違うの。なんだか冒険みたいだなって」
「確かに。これは冒険だ」
何が何だかわからないガラクタの山を少し崩すと、有刺鉄線の切れた部分が覗く。
体を傷付けないように頭を屈めて慎重にくぐる。
「大丈夫? エルマ」
振り返って心配するときぐるみの触覚やお尻の針が有刺鉄線に引っかかってジタバタとしていた。着るように提案したのは僕だけど、そのあまりの滑稽ぶりに思わず笑ってしまった。
「あ、酷い。やっぱりフラマリマの人は優しくないのね」
その言葉にしまった。と、慌てふためく。今日会ったばかりの人に僕はなんて失礼だったのだろう。小さく消え入りように「ごめん」と謝ると、エルマは静かにと笑った。
「冗談よ。冗談だけど、そうね。私はアウロラ出身なの」
きぐるみに付いた土や葉っぱを払いながら打ち明ける。
「それは、まぁ、そうなんだろうなとは」
「聞かないのね。私がフラマリアに来た理由」
エルマの声を背中に受けながら獣道を登っていく。オボロギツネの親子が僕達を見ていた。
「別に言いたくないなら言わなくていいと思うよ。それなりの理由があるんだろうし」
知ったとしても、僕には抱えきれないだろう。
「それに――」
森を抜けると視界が一気に広がった。
「わぁ、綺麗……」
「それに、こんなにも素晴らしい景色を前にしたら理由とかはいらない気がするんだ」
これだけは、本当だった。
「座って。一緒に食べよう」
手を引いてエルマを座らせる。いつのまにか、気恥ずかしさなんてどこかに消えていた。
二つもらったスプーンでハニートーストを半分に切ると、中からとろっとした蜜が溢れてくる。もったいないと言わんばかりにエルマが口に含むと、みるみる表情も溶けていった。
「おいしい。アウロラの蜜とはだいぶ違うわ」
空砲がドン、ドドン、と空に打ち上がる。
拡声器を叩く音が響いたあとに司会者の女性が「あー、あー、あー」と声を整えた。
「では、出場者の準備が整いました! まずは一番手ロクショウ。パートナーミツバチはハイドラ! 黒い体から繰り出す超加速と小回りを兼ね備えた技巧派だぞ!」
選手紹介の声にも熱がこもる。二番、三番、四番手と続く中、リリンの姿を見つけた。
「五番手リリン。幼いころからミツバチレースを愛し、ミツバチレースに愛された女性! 相棒のウィンディと共に、加速したら止まらない疾走をしかと見届けろー!」
「今の子は僕の幼なじみなんだ」
「そう。それは私もしっかりと応援しないとね」
心臓が高鳴る。隣のエルマも目を輝かせていた。
「さぁ! 全員位置に着いて……三、二、一、バレッド!」
一呼吸ほど遅れて、僕とエルマも「バレッド!」と叫んだ。
エルマの白銀の髪から光の粒子が溢れる。
溢れた。気がした。
いつもの見慣れた空が、今日はどこか違う世界の空にも見える。
会場の喧騒とは離れた場所で、僕の鼓動が高まるのを確かに感じ取った。
目を覚ますと雲が遥か上空にあった。
暗くて、淀んでいて、陰鬱な雲が……上空に?
空中世界に落ちてしまったのかと考えていると、体がゆらゆらと揺れている感覚を覚える。
それに、冷たくて――
意識が鮮明になっていく。辺り一面には水しか広がっていなかった。
いや、……これが『海』と呼ばれるものなのか。
ギチ、ギチチとか細い声で鳴いたレイピアが『海』に浮かんでいた。
「……レイピア?」
そうか、僕を庇って……。
レイピアが最期の力を振り絞って陸まで進む。
初めて降り立つ『地上』の陸は、天空都市とは違って芯のある固さを伴っていた。
振り返ってレイピアの頭を何度も撫でる。
僕の元へと流れ着いた剥がれた針を掬って、それを強く握り締めた。
沈んでいくレイピアを見つめながら、両手を合わせて祈る。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
『海』を眺める。文献で見たあの透明感のある青さの面影はどこにもなく、ただ、ただ、鉛のような鈍色の液体が広がっているだけだった。
空を見上げると雨雲が浮かんでいる。あと数分もしない内に雨が降ってきてしまうだろう。
どんな危険が潜んでいるかわからない以上、ここにずっと留まるのは危険だ。
深呼吸して息を整えると、天空世界よりも空気が濃くてむせ返りそうになった。それに、日も出ていないのに気温がだいぶ暑く意識が飛びそうになる。そのとき、ポケットから何かが落ちる。……これは、『アリアドネ』の糸で編まれたお守りだ。
ぎゅっ、とお守りを握り締める。
事例は少ないけれど、天空都市から墜落した人間は年に何人かはいる。
僕のように運よく生き抜いて『地上』で暮らしている人間だっているかもしれない。
可能性は低いけど、今はそう信じるしかなかった。
暗くなる天候とは反して、故郷に戻るという気持ちは光を増していく。
「『アリアドネ』の糸はどんなに切っても、どんなに形を変えても、最終的には元通りになるの。離れていても私達を結び付けるお守りになるようにね」
エルマの言葉を思い返した。
切っても、変わっても、離れても。僕達はどこかで繋がっていると願った。