昇格
「有り得ない」
誰かがそう呟いた。上空の死神を見つめながら魔人族のゼルゼストも声には出さずに同意する。
あの死神はマナ戦闘が出来ていなかった。明らかに体の表面からマナの気配がしなかったのだ。
マナ戦闘が出来ればマナ装甲というものを纏える様になり、皮膚が岩の様に硬くなる。さらに身体能力も十倍以上に跳ね上がるのだ。
つまり、マナ戦闘が出来ない者はマナ戦闘が出来る者には敵わなくなるどころか、視認するのすら難しくなる。
しかも人間族は異人族に身体能力でも雲泥の差がある。
だが目の前の死神はそんな世界の理を無視し、五千六百人の異人族の命にいとも容易く鎌をかけた。
そして今まさに最後の一振りを行おうとしているのだ。
ゼルゼストが其処まで考えたときに遂に死神が動き出した。
上空へと舞い上がる前に土を握っていた左腕をゆっくりと頭上に掲げたのだ。そのまま間髪入れずに死神は左腕を閃かせた。
その瞬間、ゼルゼストの本能が喧しい程に警鐘を鳴らした。
「逃げろ」と叫ぶ本能に身を任せ、ゼルゼストは一気にその場から飛び諏佐る。
自身の持てる最大のマナを身体強化魔法へと変換し、唖然とする戦友達に警告するのすらも忘れ、無我夢中で戦場から離脱する。
ゼルゼストが戦場から離脱し始めてから0.01秒程経った時、後方で爆発音が立て続けに鳴った。
自分の判断は正しかったのだと思う一方、戦友達を見捨ててしまったことに内心で深く謝罪しながら逃走し続ける。未だ聞こえる爆発音と悲鳴を背に受けながら。
戦場から逃げ始めてから1秒程経った時、ふと後ろを振り返ったゼルゼストは凄まじい速度で全身に悪寒が走るのを感じた。
戦友達が悉く地に倒れ付していたからではない。では何故か?それはたった1メートル後ろにあの死神の姿を見つけたからである。
上空八十メートルから衣擦れの音も、虫一匹程の気配も感じさせずに獲物を自身の間合いに引き込んだのだ。
死神が一・八メートル程もある長剣を引き絞る。どうやら最後の獲物は突き殺すつもりのようだ。
程なくして、ゼルゼストに向かって長剣が迫って来た。
空気と共にゼルゼストの微かな希望を切り裂きながら、五千六百人の最後の命を刈り取ろうと長剣が唸りを上げる。
そこでようやく、ゼルゼストは死神が子供だということに気が付いた。
その瞬間、ゼルゼストの中に一つの感情が目覚めた。それは子供を戦場に放り込む人間族への怒りと、命を奪う事に何の躊躇いも無くした子供への憐れみ、そして其に何もしてやれない自身への嫌悪。それらをぐちゃぐちゃにかき混ぜたかの様な何とも形容し難い感情。
その感情を自覚した瞬間、ゼルゼストの中で何かが変化した。それが起爆剤になったかの様にマナが爆発的に増加し、肉体もよりしなやかにより強靭なものに変わっていく。
メキメキと音を立てながら急速に変化していく体を死神の長剣が貫く事は無かった。
長剣はまるで金属に弾き返されたかの様な音を鳴り響かせた。
流石の死神の顔にも驚愕の表情が浮ぶ。それと同時にその顔に何故か歓喜の表情が刻まれた。
深夜三時四十二分、獲物が死神の遊び相手に昇格した。