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居待ち月の夜に  作者: 峰丘 馨子
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第七十六話 永遠の音色


 鬼に憑かれた彼の爪は、人間のそれより遥かに鋭い。茜殿の爪より、いくらか小さい気もしたが、私を殺せる凶器という事実に、変わりは無かった。


 自分はもう、死ぬのだ。恐怖で閉じられた瞼の裏には、家族や友人達の顔が次々に現れる。明星が結婚して、近い内に孫を抱けると思っていた。夕星の裳儀も、玻璃の元服も、楽しみにしていた。


 ーー死にたくない。私はまだ、死にたくない。


 「……?」


 自分が目をつぶってから、随分経ったように思った。あの鋭利な爪は、どうなったのか。私には、届いていなかった。


 恐る恐る目を開けると、そこには光輝く壁があった。篳篥君が右手を前に出し、その壁を支えているようだった。篳篥君の横顔を見ると、真剣な眼差しで、歯を食いしばっている。玻璃細工のように透き通った壁は、夏の日差しを思わせるほど眩しい。


 阻まれた鬼が、邪魔な壁を壊そうと力を込める。


 「通しません。絶対に、通しません!」

 篳篥君は、か細い腕で、鬼の猛攻に耐え続ける。


 「壊れろ、壊れろ、壊れ……あ」

 鬼の動きが止まった。


 「おい、どうなってやがる。俺、の、腕が……。俺の腕えええええっ」

 壁に触れていた指先から、徐々に鬼の身体が崩れる。彼が気付いた時には、もう遅い。全身が朽ちるように崩れると、鬼は跡形も無く霧散した。


 篳篥君が右手を下ろすと、壁が消え去った。地面には、鬼に憑かれていた男が倒れている。頭の角は無くなり、爪も元に戻った。

 「息もあるようですね、良かった……」


 腰が抜け、身動きの取れなかった私に代わって、篳篥君が彼の安否を確認した。


 「さて、私の力は今ので最後です」

 「最後?」


 篳篥君は眉尻を下げながら、口元に笑みを浮かべる。


 「はい。私の、神霊としての力は今ので最後です。使いきっちゃいました。もっと沢山、貴方の役に立ちたかったのですが、仕方ありませんね。さようなら、千咲様。どうかこれからも、貴方の篳篥を『私』を、よろしくお願いします」


 そう言い残し、篳篥君は消えてしまった。


 「うっ……」倒れていた男が目を覚ます。


 「旦那、様? 私は一体? あっ……」


 彼には、鬼に憑かれている間の記憶が残っていた。


 「私は、何ということを。こ、殺してしまった」

 泣き叫ぶ彼に、私は何も出来ない。ただ「帰ろう」とだけ言った。


 私は、牛車の裏に隠れていたもう一人を呼び寄せる。彼は進んで、遺体を背負った。私達は、邸まで歩いて帰った。怪我をした牛や、牛車の残骸は、後で他の者に回収させれば良い。とにかく、帰りたかった。


 邸に戻り、私は懐の篳篥を取り出す。そこには、文が結びつけてあった。


 「あの子、いつの間に」

 文の差出人など、考えるまでも無い。私は篳篥から文を外し、開く。


 それは、私が篳篥君と出会う、ずっと先の未来でのことだった。私が篳篥を長年愛用し、大切に扱ったことで、篳篥が意思を持ち、守護神となった。それが、篳篥君である。しかし、守護神として目覚めた彼が見たのは、私の亡骸だった。私を守るために生まれてきたにも関わらず、私は彼の誕生を待たずに死んでしまったのだ。自分の使命を果たしたかった彼は、思い切った選択をした。


 篳篥君は、過去へと渡ったのである。私達が出会った、あの宴の日へ。だが、彼は時間を越える際、神霊としての力を激しく消耗した。まだ生まれて間もなかったこともあり、篳篥君の持つ力は、ほんの少ししか無かったのである。その、わずかに残った力で、彼は私を守ってくれていた。父が地方官になったのも、篳篥君がやったことだった。


 文に書かれていたのは、篳篥君の出自ばかりでは無い。読めば読むほど、篳篥君が、いかに私を慕ってくれていたのかが分かった。


 「こんなに想ってくれていたなんて」


 私は、しきりに篳篥の演奏を聞きたがった、彼の姿を思い出す。


 涙が止まらない。一体どこから湧き出るのか、流れる涙が頬をつたう。私は朝まで泣き続けた。泣きはらした目元が痛む。袖が重い。私は億劫に思いながら、体を起こした。すでに日が高くなっていたらしく、御簾の隙間から光が漏れる。


 よく、篳篥君が、御簾の外から顔を出し「今日は篳篥吹かないの?」と聞きに来ていた。私はその催促が嬉しくて、つい、遅くまで吹いてしまった。


 けれど、もう、そんな日が訪れることは無いのだ。

 私は、篳篥君と過ごした日々を思い出しながら、篳篥を吹く。


 ああ、そうか。あの子は、この篳篥なのだ。私が篳篥を持ち続ける限り、あの子はずっと、私と共にいる。泣くのはよそう。元より、そんな必要は無かったのだから。

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