第六十四話 夕星の記憶
ここまで、私が出会った数々の事象を綴ってきたが、そのような体験をしたのは、私だけではなかった。しかしながら、私がそれを直に見聞きした訳ではなく、書き記すことが出来そうにない。故に、少しの間、私は娘の夕星に筆を譲ることにする。
何やら、父が無茶なことを言い出しましたが、さて、どうしましょう。いかんせん、当時の私は幼く、記憶も朧気ですから、上手く書けるかどうか。けれど、ええ。私は確かに、父の好奇心をくすぐるような、貴重な体験をしたのです。
あれは、私が五つ、兄が九つの頃。両親に連れられ、賀茂祭りの行列を見に行ったのです。勅使がどなただったかまでは覚えておりませんが、祭りの行列は大変華やかで、老いも若きも、私のような幼子も、そこから目を離せませんでした。
ところが、兄はそうでなかったようです。
「昨年と何が違うのさ。もう飽きてしまったよ」
などと口にして、そのお顔は本当につまらなそう。この兄は、家で父と篳篥を吹いている方が楽しいのだと言います。
行列など眼中に無い兄は、何か良い暇潰しは無いかと、右を見たり、左を見たり。行列に夢中だった私は、兄の方がよほどつまらないことをしていると思いました。だって、右にも左にも、行列を見に来た人の群れしか無いんだもの。
「夕星、なあ、なあ。あれ見ろって」
兄が、私の衣をつかみ、小声で言う。行列見物に水を差された私は、あからさまに不機嫌な調子で「なんでしょう、お兄様。このお行列より大事なご用でしょうか」と返しました。
けれど、兄が指差す方を見て、私の興味はすっかりそちらに移ってしまったのです。
築地の上に見えた小さな影。私達兄妹は人混みを抜け、その影に向かってまっしぐら。後を追います。しかし、途中で見失ってしまいました。
「あの小さい人、どこへ行ったかな」
「私の背丈ではよく見えませんわ。お兄様」
私達は小さな人影を探し、築地を見上げながら、走り回りました。そして、気付けば人々の歓声は遠ざかり、自分が今どこにいるのか、全く分からなくなってしまったのです。
都は、整備が行き届いていればいるほど、景色に変わり映えが無く、同じような道に、同じような築地が続いておりますから、簡単に元の道を見失ってしまいます。普段行かない場所なら、なおのこと。幼かった私は、永遠に五条の邸に帰れないのではないかと不安が募り、兄の手をずっと握っておりました。兄は、そんな私を見て「自分がしっかりしなければ」と思ったのでしょうね。
「大丈夫。大丈夫だよ。誰か大人の人がいたら、帰り道を教えてもらおう。ね」
と、なだめてくれました。
勿論、私もお利口でしたから「そもそもお兄様のせいで、こんなことになったのよ」なんてことは言いませんでしたよ?
兄は肝が据わっているのか、私よりずっと冷静でした。
「行列が見られるのは一条大路。その声が遠ざかったということは、南に向かって走って来たに違いない。道幅が広いから、ここは二条か三条あたりだろうね」
二条だとか三条だとか、具体的な通りの名前が出てくると、私の不安も随分やわらぎました。
手を握り合い、お互いを支えにする私達。その脇を小さな影が走り去るのを、兄は見逃しませんでした。
「あーっ。いたーっ!」
自分が迷子になっているこの状況で、よくそんな余裕があるものですね。兄は大きな声を上げ、その小さな人を指差します。
「ひああっ!?」
小さな人は足をすべらせ、地面に落ちてしまいました。小さな人は、中年の女性でした。
兄は慌てて、彼女に声をかけます。
「大丈夫ですか?驚かせてしまってごめんなさい。あっ……」
ちらりと見えた彼女の足は、怪我をしているようでした。
「ご、ごめんなさい。僕のせいで、こんな……」
動揺した兄に、彼女は優しい口調で「大した怪我じゃないわ。気にしないで。小人なんていたら、追いかけたくなるわよね。母の出仕先に行く予定だけど、もう目と鼻の先だもの。少し休めば大丈夫よ」と笑みを見せる。
「なら、僕がそこまで連れて行きます」
子供ながら、怪我をさせてしまった相手に責任を感じ、何かしなくてはと思ったようです。私も、兄の提案には賛成でした。
「それはとても助かるわ。あら? そういえば貴方達、大人の人は一緒じゃないの?」
兄は、賀茂祭り見物に来たものの、両親とはぐれて迷子になってしまったことを、彼女に説明しました。
「まあ大変。一条までの道は分かるけど、行列はもう終わっている頃だし、あちらも捜しているでしょうから、下手に動くとかえって見つからないかもしれないわね。ああ、ほら。見物を終えた人達が戻って来るわ」
大勢の人々に沢山の車。この中から両親を捜すのは、難しいと思われました。
「では、こうしましょうか。私は貴方達の厚意に甘えて、母のいる四条の邸に連れて行っていただくわ。それから邸の誰かに頼んで、貴方達のお邸や、一条方面に使いを出してもらいましょう。ここはもう三条。子供の足で一条に引き返すのは大変だもの。母のところで休んで、ご両親のお迎えを待つのが良いと思うわ」
四条であれば、それこそ自宅まで目と鼻の先だったのですが、五歳の女の子に、そんな体力は残っておりません。彼女の提案通り、私達は四条へと向かうのでありました。




