第六十三話 縁ある人
この件があってから、牡丹の君の男嫌いが悪化した……かと思いきや、意外なことに「まだ苦手意識は残っているけれど、以前ほどではないわ」と言うのである。
「私、気付いたんです。本当に疎むべきは、他人を思いやらず、自分勝手な気持ちを押し付けることだと。それを愛情表現だと言い張るなら、相手が誰であろうと不愉快なのです」
他人の尊厳を守れない者には、何を言っても無駄とは白鷺殿の弁。彼女の場合、最初に出会ったそれが男で、その男から直接酷い仕打ちを受けたために、男嫌いとなってしまったようだ。か弱い姫であれば、尚更だろう。力で抵抗出来ない分、警戒するのは仕方の無いことだ。
「五条の皆様には、本当に良くしていただきましたから、もう大丈夫。ああ、でも、体の大きな殿方は、まだ少し苦手です。優しい方だと分かっていても、何だか威圧されているようで」
「実は私もです。自分の体が小さいからでしょうね。こちらが見上げる程背丈に差があると、圧迫感があって、ひるんでしまいます」
なんて情けない話だろう。牡丹の君のような、深窓の姫でもあるまいし。けれど牡丹の君は「ええ、ええ。そうよね」と、こちらを嘲笑することは無い。
それから牡丹の君は、自身の過去を初めて語った。
「私は、名家の姫なんかじゃないんです。もっと、ずっと身分の低い家の娘でした。そんな家に、それなりに身分のある殿方が通うようになりました。相手は私の姉です。姉は数多いる恋人達の一人にすぎなかったけれど、彼は衣や調度品を恵んでくれましたから。私達家族はとても助かっていたんです。でも私、その人に姿を見られてしまって。まだ裳着を迎える前でしたから、私はあまり気にしなかったのだけれど、その日の内に、彼は私の寝所に入り込みました。私はどうにか塗籠に逃げ込み、家の者が気付くまで、そこに閉じこもりました」
「それは恐ろしい思いをしましたね」
小さな少女が、成人した男に襲われて、何が出来るだろう。即座に、塗籠に逃げ込むという判断が出来たのは、たまたま牡丹の君が聡明だっただけである。
「彼は、私に恥をかかされたと、我が家への援助を全て打ち切りました。もちろん、姉の所へも来ません。一度豊かな生活を知ってしまうと、元の生活に戻るのは難しいでしょう? だから私の家族は『お前が受け入れていれば、こんなことにならなかった』と私を責めました」
彼女の家族は、誰一人として、幼い少女の心に手を差し伸べず、件の男を再び家に招こうとしたそうだ。まだ男女のことなど知らない少女に関係を迫る方が、どうかしている。もっとも、これが牡丹の君でなかったら、結果は違ったかもしれないが。彼女が、すでに人目を引く容姿を備えていたであろうことは、簡単に想像がつく。
家庭内に味方のいなかった少女は、友人宛ての文に気持ちを吐露した。彼女の思いは、その文をきっかけに、巡り巡って左大臣家へと届き、養子として引き取られるに至ったのだという。
「今の父様と母様には、とても感謝しているわ。兄様と、姉様にも。父様と母様に子供が出来なかった、というのもあったでしょうね。自分が養子だってことも忘れてしまいそうなくらい、大事に大事に育ててもらったわ」
彼女が左大臣家に引き取られていなかったら、私達が出会うことも無く、玻璃は生まれていなかったかもしれない。これもまた運命とやらだろう。
「初めて貴女にお会いした時、あまり時雨殿と似ていないと感じましたが、血縁関係が無かったのですね。……あれ?ご夫妻にお子がいなかったということは、時雨殿も?」
「はい。ただ、兄様と姉様は実の兄妹です。二人のお父様が亡くなられた時、一緒に引き取られたとかで。私が左大臣家に迎えられるより、大分前のことだから、詳しくは知らないのですけど……。実のお父様は和泉守だったかしら」
「えっ……?」
私の中で、有り得ない仮説が立った。そう、こんなことは有り得ないのだ。それでも私は、確かめずにいられなかった。
「あの、麗景殿様は今、おいくつでらっしゃいましたっけ?」
「姉様なら、二十八歳よ」
二十八。私の、五歳上。頭をよぎった仮説が、確信へと変わった。
そうと分かると、全てに納得がいった。時雨殿が私に甘いのも、母が時雨殿を呼び捨てにしていたのも、父が時雨殿に嫌悪感を示したのも、全部。言われてみれば、あの二人はよく似ている。どうして気付かなかったのか、不思議なほどに。
「千咲さん? どうかなさいまして?」
いつの間にか、目から涙がこぼれ落ちていた。
「とても大切なことを知ったのです。皆は黙っていたので、知られたくなかったのかもしれませんが」
それでも、知って良かった。私は改めて、心の底から思う。私にとって、時雨殿は特別なのだと。




