第五十三話 しわぶき
「三十、には見えませんね」
「そうね。兄様はご自分が思っているより、ずっと童顔でらっしゃるから」
私は牡丹の君と二人、時雨殿を話題に語らう。この数日前、日頃時雨殿の世話になっている者達が集まり、ささやかながら宴を開いたのである。
言ってみれば、これは三十の御賀だ。算賀と言えば普通、四十歳から十年置きに行う祝宴だが、時雨殿を慕う者は多く、常から思っている感謝の意を、この機会にお伝えしようということになった。しかし、宴は時雨殿の知人が住まう邸で行われたため、牡丹の君はその席に着くことが叶わなかった。
「内々の、思い付きで開いた宴でしたが、いつの間にか大勢集まって来て。時雨殿の人望の厚さには、改めて驚かされましたよ。宴が行われた邸の主人も、あまりの人数に慌てておられた」
四十や五十の御賀ではあるまいし、小規模な宴の方が、時雨殿も気疲れしなくて良いだろうという話だったからこそ、その邸の主人も「私の邸はどうですか。大納言殿の邸からも近いですし」と、快く申し出てくださったのだ。
だと言うのに、思惑は外れ、彼は時雨殿を祝うどころでは無くなってしまった。
「終いには『大納言殿を祝うつもりが、今は恨み言を言いたい気分です』なんておっしゃる有り様でした」
本人は大変だったのだろうが、私は彼の姿を思い出し、つい笑ってしまった。それにつられたのか、牡丹の君も扇で隠した口元から、小さく笑い声を漏らした。
「おや」
私は室内の、ある一カ所に目が止まった。
「屏風を新調されたのですか」
私の座る位置からは、几帳の陰になっていてよく見えず、気付かなかった。
「ええ、本当は母様の部屋に置くはずだったのを、譲って頂いたの」
牡丹の君は、女房に几帳をどけさせる。
「これは見事ですね」
「でしょう? まだ無名の絵師が描いたらしいのだけれど、ここに描かれている花は、今にも甘い香りが漂ってきそう」
彼女のおっしゃる通り、本物の花にも劣らない出来である。香りを想像出来てしまうほど緻密に描かれた、あらゆる季節の花。桜が舞い散る中で、萩が咲く。これは、絵だからこそ成立する光景だ。
目を引くのは、花ばかりでは無かった。日向でうたた寝する猫の毛並みも、花の周囲を飛び交う蝶の羽も、木陰で歌を読む男の衣装も、見事としか言いようが無い。
「私はこういった品に縁が無いので詳しくありませんが、この絵師は将来大成しそうですね」
「私もそう思うわ。有名になってからでは、小さな絵を手に入れることすら難しくなるでしょうし、今の内に目を付けておいた方が良いかしら」
努力や才能も勿論だが、左大臣家の姫に気に入られたことで、彼の成功はますます近付いたに違いない。
それにしても、これだけの一品を譲ることになった母君は、がっかりしたのではないか。少しくらい、未練が有りそうなものだ。が、そこは牡丹の君。
「こんなに綺麗な屏風なんだもの、若くて美しい私が一番似合うでしょう?」
などとおっしゃる。何と言うか、母君への同情を禁じ得ない。
「母君のご容貌は存じ上げませんが、美しい貴女には、華やかな調度品がよくお似合いですよ」
「まあ。容姿を褒められることには慣れているけれど、千咲さんに言われると、いつもよりずっと嬉しいわ」
まだ肌寒い二月のことであったが、私は月明かりの差し込むなかで、二人の時間を楽しんだ。
翌日、空が朝焼けに染まる頃、私は帰路についた。何故だか、足がとてつもなく重い。歩き慣れたいつもの道が、延々と続いているのかと思うほど、長いように感じた。頭がぼんやりとして、視界もはっきりしない。
「けほっ。ごほっ。咳の病でも患った……のか?」
何にせよ、邸に戻ればいくらでも休める。幸い、歩くことは出来たので、私はゆっくりと前に進んだ。
例によって、五条の面々は酷く心配した。移動の疲れで症状が悪化していたこともあり、私は寝込むことになってしまった。
「何か大病では無かろうな? 今日は私も参内を控えて……」
「大丈夫ですから、お仕事なさってください、お義父さん。呼んで頂いた医師も、じきに来られるでしょう」
心遣いは有り難いが、私一人のために迷惑をかけてしまうのは、気が引ける。
義父が出かけて間もなく、医師が見えた。やはり、咳の病だと言う。薬も頂いた。後はしっかり休むのが私の仕事である。体調が戻るまで三、四日ほどだろうか。それまでは、大人しく寝ているとしよう。
咳の病……風邪のこと。




