第三十六話 尾根雪
私達は、廂の間に座して向かい合う。
「左大臣様から縁談のお話を頂いたというのは本当なの?」
ああ、本当に手遅れだった。私がいつまでもぐずぐずしている内に、尾根雪の耳に入ってしまった。自分の口で伝えるべきことだったのに。
「本当なのね?」
私はちいさくうなずいた。私には、彼女と向き合う義務がある。だというのに、彼女の顔をまともに見ることすら出来ない。
「誰に聞いたの?」
何とか心を落ち着けて、尾根雪に問う。
「桐宮様の文使いで来られた方よ。皆知っているのね。私だけ何も知らないで、馬鹿みたいだわ」
静かな声に反し、尾根雪の手は、単衣の袖口を力いっぱい握りしめていた。感情を押し殺す尾根雪の口から出た言葉は、こちらの予想通りのものだった。
「縁談の話が出たのは、左大臣邸で宴があった日だそうね。一ヶ月近く経つけれど、こんなに長く黙っていたのは、やっぱり貴方も末姫様がお好きだからなのかしら」
「違う、違うんだ。黙っていたのは、ただ言いにくかっただけで、牡丹の君に特別な感情は無い。断るつもりでいる。信じてくれ」
私は尾根雪の言葉を否定した。しかし「そんな言い訳がましいことを言って……。それとも、自分で自分の気持ちに気付いていないのかしら」と、尾根雪の疑念は晴れるどころか、深まってしまった。彼女はどうしても、私が牡丹の君に気があると思えてならないらしい。私は何度も「誤解だ」と主張したが、尾根雪は「本当に自覚が無いのね」と溜め息を吐くばかりだった。
尾根雪の誤解が解けぬまま、話は先へと進む。
「私は、結婚の反対している訳では無いのよ。貴方がなにも話してくれなかったことと、話さなかった理由を貴方の心が認めないことに怒っているだけで。末姫様との結婚が、どれだけ貴方の利になるか、それくらい私にだって分かるわ。あの子が元服した後のことを考えても、この縁談を断る理由は無いでしょう。
勿論、貴方が『出世のため』と割り切った思いでいないのは気になるけれど、そのために夫と子供の将来を潰すつもりは無いの。貴方のことだから、末姫様への気持ちがあっても無くても、結局、必要以上に左大臣様の目を気にして、断れないでしょうしね。どのみち断れないのなら、先延ばしにしないで、とっとと受けてしまったらどうかしら。この際、貴方の末姫様への気持ちには目をつぶるわ」
実に拍子抜けな言葉だった。私があれほど悩んでいた時間は何だったのだろう。
「左大臣殿から直々に頂いた話を断れないでいるのは、うん、その通りだ。私はこういう性格だし、身分のこともある。私は、最初から断りたいと思っていたけれど、どうしても言い出せなかった」
これについては、双方に申し訳なく思う。左大臣殿や牡丹の君には、その気も無いのに期待を持たせ、尾根雪には要らぬ心配をかけてしまった。
「今度こそ、ちゃんと断るよ」
「それが本当なら、とうに断っているはずよね」
「うっ……」
返す言葉も無い。
「さっきも言ったけど、貴方はこのお話を受けるべきだわ。左大臣家のお姫様に見初められるなんて、凄いことじゃない。確かに、夫が他の誰かの元へ通うという、多くの女達を悩ませてきた憎たらしい慣習を、我が身が経験しようとは思わなかったけれど、左大臣家の身内になるというのは、貴方にとっても映えのあること。これほどの良縁、もう二度と無いかもしれないのに、断ってどうするの」
「そんなこと言われても……」
簡単に気持ちが固められるなら苦労はしない。それより、尾根雪の方が縁談に肯定的というのは、有り難さより物悲しさを覚えるのだが。
決断を渋る私に、尾根雪はさらに言葉を重ねる。
「貴方は気にしていないようだけど、ここでお断りすると、末姫様が恥をかくかもしれないのよ? ただでさえ、女の方からこういった働きかけをするのは聞こえが悪いのに、身分下の相手が断ったとなれば、末姫様の評判にも関わるでしょう。高貴な姫が世間の笑い物になったら、お気の毒だわ」
この状況で相手の姫を気遣えるあたり、尾根雪は出来た妻である。私は自分のことで手一杯で、そこまで考えていなかった。
「そうだね。そうなったらお気の毒だ」
「でしょう?明日にでもお受けになった方が良いわ。私のことなら大丈夫よ。妻は一人とは限らない。それは分かっていたことだもの。貴方を独占して、じき七年経つわ。貴方との子供も出来て、十分、恵まれた結婚生活だったと思うのよ。だから、貴方を見初めた末姫様を恨むつもりも無いわ。それに……」
尾根雪は、一瞬だけ口ごもると「どうせ貴方は私を愛し続けてくれるのだから、心配するだけ無駄よね」と、照れながら笑った。
翌日、私は仕事の合間に太政官へと赴き、縁談を受け入れる旨を左大臣殿にお伝えした。時雨殿は、私が無理をしているのではと心配していらしたが、私の心は晴れやかだった。最初から、悩む必要なんて無かったのである。
どうせ私は、尾根雪を愛し続けるのだから。




