第二話 五条の住人
「こちらの身分に気後れする者は珍しくないが、君は少し極端なようだ。全く、私は周りが思っているほど、大層な人間ではないよ」と、大納言殿は、少し困ったような顔で笑う。
返答に迷っていたところに、先程牛を追っていた若い男が、謝罪に来た。私は、大納言殿とのやり取りが途切れて、内心ほっとした。男の顔を見ると、私の実家に仕えている牛飼いであった。
「本当に申し訳ありません。よりにもよって、主家の御子息に怪我をさせてしまうなんて……。旦那様に顔向け出来ません」
そう言って、深々と頭を下げた。
「えっと、君にとっても想定外のことだったのだろうから、あまり気に病まないで。大体、あの父上が私なんかの心配をするわけがないでしょう? それより、早く車に戻った方が良い。父上をお待たせしては、それこそお叱りを受けてしまうだろうから」
私の言葉を聞いた牛飼いは、改めて頭を下げると、父の元に戻って行った。
「私とも普通にお喋りして欲しーなー」
大納言殿が、私の耳元で、子供のように呟く。
「あ、いえあの、彼と面識が……ですね。えーっと……」
おろおろと言い訳する私を、大納言殿は「分かっているよ」と面白がる。
「ところでお前さん、今日はどうやって帰るつもりだい?」
「あっ」
すっかり忘れていた。考え込む私に、大納言殿から「うちの車で送ろうか?もともと、そのつもりで声を掛けたのだが、話が反れてしまった」と有り難いお申し出があった。
しかし。
「あの……私、六位……ですよ?」
普通、牛車に乗れるのは五位より上の方である。
「そんなの見れば解る。徒歩で帰るのは大変だろう?私が同乗するのだから、問題無いよ。怪我人を運ぶだけだからね」
実際、そうなのだろう。大納言殿は、主上の信頼も厚く、宮筋のお身内も多い。大納言殿が、純粋に善意で決めたことなら、誰も咎めたりしない。だが、私は大納言殿の御車に乗るわけにはいかなかった。いや、大納言殿を、私が住まう五条までお連れするわけにはいかなかった
この頃、五条とその近辺では、流行り病で死者が多数出ていたのである。そんなところに大納言殿をお連れして、何かあっては大変なことになる。
かといって、自分が五条住まいだと伝えるのも嫌だった。病が、五条を中心とした、わずかな範囲でのみ確認されていることから、皆が「五条の者は呪われている」などと噂していたのである。
幸いと言うべきか、私は交友関係が狭く、住まいをあまり知られていなかったため、他の住人達のような、肩身の狭い思いはしていなかった。今後も、そうしていたかった。
俯く私の耳元に、再び大納言殿の唇が、そっと近付く。それを隠すように、大納言殿が扇を広げると、仄かな香りが漂う。大納言殿は、扇の影でうっすらと口を開き「君の邸は五条かい?」と、私にだけ聞こえるように囁いた。