第二十一話 今は昔
都にある一軒の空き家。別に、空き家など何処にでもあるのだが、その一軒だけは、明らかに異質であった。あまりにも不気味な噂が多く、皆、その空き家近くの道を決して通らず、可能な限り迂回していた。空き家というのは、住処の無い者が勝手に住み着いたりするものだが、その空き家に住もうとした者は、一晩と経たぬ内に逃げ出してしまう。
そんな場所であっても、かつては主人がおり、彼等の大切な我が家だった。私も、気味の悪い噂を聞き、何度もその空き家を避けて通ったが、かつての住人のことなど考えたことは無かった。いいや違う。考えなかったからこそ、そのような行動が出来てしまったのだろう。私はこの日、自らの無情さを恥じた。
「蒸し暑い初夏のことだ。灯火が『息子達に何かあった』と、真夜中に邸を飛び出して行った。だが、もう手遅れだったよ。血の海と化した邸内で、灯火の息子は事切れる寸前だった。転がる骸に囲まれて、息子の妻だけが平然と立っていた」
灯火殿が目の当たりにした光景を、天狐殿は淡々と語る。
「幸い、白鷺は塗籠の中にいてね。難を逃れることが出来た。だが、一緒に寝ていた乳母は、様子を見に外へ出たところで殺されてしまった。白鷺が塗籠から出た時、灯火は息子の妻を取り押さえている最中だった。この頃、すでに白鷺は失明していてね。状況がよく分からなかったんだろう。『出てはならない』と、灯火が急いで制止した」
部屋には血の臭いが充満し、隣に居るべき乳母がいない。その場に居るはずの無い祖父の緊迫した声。目が見えないとはいえ、そこに、慣れ親しんだ日常が無いことくらいは、白鷺殿にも察せられたのだろう。
「白鷺は、灯火に同行していた式神と共に、塗籠の奥へと戻ったが、ずっと震えていたそうだ」
と、天狐殿は言う。白鷺殿の生家は、主人が七位であったとはいえ、宮家からの恩情があり、使用人なども居て、身分の割に豊かな生活だったらしく、それがかえって死者を増やす原因となった。
「で、事件の後は白鷺を灯火が引き取って……」
「待ってください」
まだ、肝心なことを聞いていない。
「どうして白鷺殿の母君は、そのようなことをしたのですか。自分の夫を殺し、幼い我が子に消えない傷を残す。こんなの普通じゃないでしょう」
「そのことなら、お前さん。よく似た話を知っているだろう?」
私は、夫殺しをした女の話など知らないし、血の海になった邸の話というのも覚えが無い。そもそも、私が知りたいのは、彼女が夫を殺した理由である。夫だけではない。息子の乳母まや使用人まで殺している。
特定の、誰か一人を殺したというなら、何か恨み事や揉め事があったのだろうと思うが、彼女は邸中の人間を片っ端から襲った。死体が転がる中で、ただ一人立っていたというのは、そういうことだろう。いくら考えても、彼女の行動には理由が見えない。
「あっ」
ここまできて、私はようやく気付く。人間は、自分の意思のみで動いているとは限らない。そして、自分を突き動かす何かが、人間とも限らない。
すなわち。
「七条の女……」
彼女の行動理由が分からないのも道理である。最初から、そんなものは無かったのだから。
「白鷺殿のの母君は鬼に憑かれていた、と?」「そうだよ。彼女は、鬼のせいで多くの命を奪ってしまった」
「その鬼は、灯火殿が倒したのですか」
灯火殿は、白鷺殿の祖父で、腕の良い陰陽師である。ならば、白鷺殿が七条の女にやったように、灯火殿も、目の前の悪鬼を倒し、白鷺殿の母君を救ったに違いない。
「残念だが、彼女の肉体から鬼を引き離すことは出来なかった」
引き離さずに、鬼だけを処分するのは不可能と言えよう。だが、人を殺めた鬼を放置するなど、もっと無理な話である。
「まさかとは思いますが、灯火殿は……」
「さすがに、殺してはおらんよ。どんな大儀があろうとも、息子が愛した女を殺すなど、灯火には出来ん。白鷺ならやったと思うがな。灯火は、彼女もろとも鬼を封じた。今も、封印の中で眠っているよ」
白鷺殿の母君は殺されずに済んだ。でも、それは生きているとは言えない。彼女の生には、何の歩みも無い。
「白鷺にしてみれば、父親と母親を同時に失ったことに変わりは無いからね。まだ幼かったこともあって、白鷺には詳しい話をしていなかったから、灯火に引き取られてからも、長い間、母親は故人だと思っていたみたいだよ。母親が鬼に憑かれていたことも、伝えられなかった」
その判断の是非はともかく、周囲の者は相当気を遣っただろうと察せられた。
「灯火は白鷺の世話しながら、占いや妖怪について教えた。白鷺には、灯火以上の才があった。そんな子供が妖怪に囲まれて育てば、まあ、あれだけの腕にもなるわな。白鷺の教育のために、灯火は早々と現役を退いた。
元服した白鷺は、当たり前のように陰陽寮に入ったんだが、灯火に反感を持っていた連中が白鷺に矛先を向けるようになってね。
自分の意見を曲げ無かったために孤立した祖父の背中を見て育った子だからさ、『自分はそうならないように』って気をつけていたんだ。でも、自己主張を止めたことで待っていたのは、無抵抗に痛めつけられるという、理不尽な結果だけだった」
「酷い……」
反感を持った相手でなく、孫を攻撃するなど、ただの八つ当たりである。いい大人がみっともない。
「あの子は容姿のこともあるから、余計に目を付けられてしまったんだろう。人間ってのは、とにかく自分達の集団から外れた奴が嫌いらしい。あれこれ理屈をこねて非難するが、結局のところ、ただの恐怖心だろう。自分の中の何かを否定される、そんな恐怖だ。
正しいと信じていた事が間違いだったり、見て見ぬ振りを許されなかったり。だから足元がぐらついてる奴ほど自分と他人の違いに敏感なのさ。自分ってものをしっかり持っていないくせに、自分を見失うのが怖い。そんなことだから、怖がる必要の無いものまで怖がるんだ。自分の存在を確立するうえで、他人の髪が黒いか白いかなんぞ、どうだって良いだろう?」
天狐殿の考えが、眼の力で得た情報によるものなのか、単に天狐殿の主観によるものなのかは分からないが、妖怪から見た人間像というのは興味深い。天狐殿の考え方には偏りを感じるが、思い当たる節があるのも事実である。何にせよ、攻撃を受ける側にとっては、たまったものではない。
「あの連中のせいで、白鷺は日に日に大人しくなってな。灯火達が死んじまってからは、口数も随分減った」
「それが何でああなるんでしょう」
私の知る白鷺殿に、当時の面影は全く無い。
「時雨と会ったからだよ。最初はね、白鷺の味方が増えて、私も喜んだんだ。ただ、ね。時雨がやたら過保護というか、散々甘やかしもんだからさ。いや、良いんだよ? あの子が元気になって、自分らしく生きられるようになったのは時雨のお陰だ。ただあそこまで奔放になると思ってなかっただけで」
「時雨殿が甘やかしていたのは、私だけじゃなかったんですねぇ……」
灯火殿の事、源邸での悲劇、白鷺殿の少年時代。思いがけず大変な話を聞いてしまった。本人の居ない所で、良かったのだろうか。
「気にすることは無い。今となっては昔のことだ」




